無音の世界
ない
ない
出ない
出せない
聞けない
聞こえない
何がなくなったかという質問も、もう聞くことはできない。
その質問に答える術も、文字しか残されていない。
音がなくなった。まったくの、無音。
それは大きな大きな事件。
いきなり世界中で音が出せなくなる。出なくなる。
原因はわからない。大きな文字でそれがニュースに取り上げられたときは絶望した。たぶん、それは世界中の誰もが同じだった。
なのに事件があってから少しもしないうちからお偉い学者達が宇宙の電波説や地球乗っ取り説なんかの馬鹿らしい仮説を真剣に文字で討論し合っているのだから人間ってタフだ。
そんな事件があっても時間は止まらない。もう、五年も経ってしまったのが嘘のように思える。頭のよさそうな学者達が五年経ってもまだ馬鹿みたいな仮説しか立てられていないのも嘘のようだ。
この五年間で生まれた説は数え切れないほどだった。人間への神様の天罰、もっと大きな何かの予兆、地球の最後…様々な説が飛び交い、消えて、それからまた新しい説が生まれた。いくら繰り返したって本当の答えには辿りつけなかった。いや、もしかしたら生まれては消えていった数多の説の中に一つぐらい確信をついたものがあったかもしれない。けれど、それは知りようのないことだ。そう考えると長年に渡って議論していること自体が馬鹿のように思えてならない。
五年も経つと自然に無音にも慣れた。時間はかかったが、もう音を取り戻すことを諦めた、そういう人間からこの状況に慣れていった。暫く粘った記憶はあるが、この耳ももう何も聞こえないことに慣れてしまった。もちろん、諦めない人間もいる。どこかでは音を取り戻すという怪しげな宗教なんかが戯言を言って金を巻き上げているらしい。
音というものはそれまでは改めて意識するものではなかったが、なくなってみるといままでの生活にどれだけ深く関わっていたかがわかった。それから、音がなくなったことは思いもしなかったような様々な場面で問題になった。
世界には音が失われたことで意味をなさなくなったものもあったが、それに代わって文字を使ったものが増えていった。電話はなくなり、音楽はなくなり、文字が今まで以上に必要になり、視覚的娯楽を取り扱ったものが増えた。
もちろんこの五年の月日の中で生まれた子供も育った子供もいるに関わらず子供達は無邪気に携帯用のパネルを突付き文字を使い会話をしている。そんな小さな子供が打ち込んでいると思うとパネルに浮き上がる文字も舌足らずに思えてしまうから不思議だ。まあ、この辺はただの先入観なのだけれども。正直、そんなことは無理だろうと思っていたからこれがニュースで報じられた時は信じられなかったものだ。その様子を目の前で見た時は初めて生命の神秘というものを感じたけれど、今思うと少し違うな。
たまに、もしこの世界になくなった時と同じように不意に音が戻ったら、と考える。そして音がなくなってから生まれた子供達は「あ」をなんて読んでいるかわかったもんじゃない一人一人が好き勝手な発音をしているのを想像すると自然とくすぐったい笑いが込み上げるのだがその後に子供達には音と言う概念すらないことに気づく。音がなくなってから、絶望するのはそんなときだ。音がなくなるまで知らなかった絶望が今はもう少し身近に感じられる。嫌な気分だ。
子供達には、与えられていないのだ、知るはずがない。親も説明するだろうし、子供もそれを見て頷くだろう。だけれども、文字だけの説明でわかるものではないのだ。
テレビが音もなくつけられる。母親が内線でメッセージを送ってきたからだ。音がなくなった今電話というものは意味をなくし代わりに生活の必需品とも言えるテレビに文字の似たような機能がついたのだ。音が消えても、テレビはしっかり生活の必需品として留まっている。見ていると暇つぶしになるし、音が消える前からテレビ画面には字幕が飛び交っていたから完全字幕でもあまり違和感がない。テレビは、視覚的娯楽に富んでいる。だから、テレビにそんな機能がついたのだろうけど。母親からの怒っているのかそれとも機嫌がいいのかわからない文字だけのメッセージをを読む。文字だけでは冗談も冗談として通じないことを知っていたので音がなくなってからはテレビ電話みたいなものが普及するかと思えばそんなことはなかった。何故だろうと考えてみると音があるからこその電話であって互いにパネルを打ち合う映像を見ていてもなにも面白くないことに気がついた。それに、音があった時も電話をするだけでいちいち身嗜みを気をつけなければいけないのは面倒などの理由であまり普及しなかったのだ。音が消えたとしても、その辺の理由は変わらないのだろう。
母親からのメッセージも読み終わっていつまでもその画面にしておくも馬鹿らしかったからチャンネルを変え、なにか面白そうな番組はやっていないかとさらに画面を変え続ける。
そうするとアニメが目に付いた。このアニメの元になった漫画を持っていたから見てみようと思ったのだ。画面には漫画さながらにふきだしが飛び交っている。音がなくなったことでアニメでしかできなかった漫画のコマからコマへと移動するモーションはほとんどなくなり今のアニメはただの動く漫画のようだ。それは、ふきだしを出すとそれを消すタイミングも必要になるからだろうな。それに、漫画とアニメの最大の違いだった音が失われてしまった為、漫画をわざわざアニメで見る意味も薄れてしまった気がする。もしかしたらアニメ存続の危機かもしれないと思ったが音を知らない子供はこれで楽しんでいるのだ。そういった子供はこれからもっと増えるだろうし、音を知っている者にとってはつまらないアニメはこれからも続くのだろうと思う。一度出したふきだしが消えて次のふきだしが出てくる画面を見つめながらため息をついた。この五年間で最も歳をとったと感じてしまうときは前のアニメの方が面白かったと思ってしまうことだ。つい、父親のそう言う声を思い出す。
そう、あと変わったと言えば、なんだろうな。
ああ、そうそう。ついに、というべきかついに、としか言い様がないのか、この前分厚い辞書から音という項目が消えた。音が消えてからその項目は需要のないものになってしまったらしい。需要のないものを辞書に載せていても仕方がないのだろう。そもそも、辞書から消えたからって音が戻ってくる可能性が消えたわけじゃない。けれどそれに対する人々の反応はその可能性を失ったかのようだった。人とはそういった意味もない最後の砦を意味もなく持っているものなんだろう。
それも知らずに無邪気に笑っている音を知らない子供達。
これでこれから先、もし音が戻ってきたとしても音の存在証明がまた一つ消えてしまったことになる。
これから先すべての音の存在証明が存在価値が消えるのはそう遠くないことだろう。
終わりの部分をまたいつかというものから修正させていただきました。
ウルトラマンなどの単語が広辞苑に追加されるというニュースを思い出し、必要のなくなった単語は消えるのではないのだろうかと思って書いてみました。まあ広辞苑には一度登録した単語は削除しないという方針があるそうですが…
ここまで読んでいただいてありがとうございました。 平成二十年四月六日 秋原