寺の声
寺の声
雪が降ると時折思い出すことがある。
小学生の頃、僕はお気に入りの服や洒落た服を学校に着て行ったことはほとんどない。2年生のとき、早朝の耐寒訓練(運動場を走り回ったり体操をするというもの)で鉄棒に吊るしておいたお気に入りの毛織のベスト(トナカイの模様が白と黒で織られていた)を盗られたからだ。
その日はなぜだか、子供のくせに誂えてもらったコートを着ていた。
12月も半ばで珍しく大阪でも朝から雪が降っていたのだ。そして、僕は学校が引けると、学習塾へ行くためそのまま電車に飛び乗った。
その頃の僕は電車に乗ると決まって先頭車両の運転席の見える小窓にへばりついた。運転手の様子と前方方向に進む景色が同時に見られるから。まあ、背の高さからギリギリの楽しみだったのだが。
しばらくすると、腕がつつかれ横から奇妙な声が聞こえてきた。
「あ。あ。あ。あ」
補聴器をつけた少年だった。僕に必死でなにかを伝えようとしていた。
しばしの間の、件の少年の悪戦苦闘の末、分かったことは一言。
「電車、楽しいね」
だった。
僕には曖昧に頷くのが精一杯だった。聾唖の人に話しかけられたことがそれまで一度もなくドギマギしてしまったから。
でも、彼はニコニコしていた。彼も僕と同じ習慣を持っていたのだ。目的の駅に着くまで僕は彼と一緒に小窓にへばりついた。
次に補聴器の彼を見かけたのは、大晦日の晩。近所にある知恵の高僧で有名な寺の境内でだった。人の波に押されながら彼は黒いコートを着たお父さんらしき人に手を繋がれて本堂の賽銭箱の前にいた。
彼を遠くから見たその時の僕には非常に気にかかったことがあった。子供らしくもなく、彼が何を願ったのかではなく、何が聞こえているのかが非常に気になった。
何も聞こえないならこの日来る意味がないように思えたから。
もちろん今ではそれが余計な心配だったことが分かっているつもりだ。
彼に賽銭の落ちる音やひとの賑やかな声など聞こえなくても、ましてや風物詩であるその日の寺の声が聞こえなくても、彼には心の声が聞こえていたのだ。十分すぎる。
あの日、僕は電車の中でたしかに思っていたのだ。
「電車、楽しいね」と。