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『……おねがい、たすけて……。』
リゼルクは、ふと何か聞こえた気がして立ち止まった。だが、耳を澄ましても夜中の城の広い通路には誰も居らず、リゼルクの片耳を飾る十字架がサラサラを音立てるだけだった。
(気のせいか……?)
その日は、いつもと変わらない夜だった。何か変化を挙げるならば、相棒のラグナスと城下町の見廻りをしていた際、酒に溺れ挙げ句暴れた男を捕縛したくらいか。そういえば外にいた自分たちが騒動に気付くくらい、飲み屋の娘の悲鳴が響き渡っていたっけか。
ふとリゼルクは、外に目を向けた。先程の声は騒動の残響だとして、妙に静かだと感じたのだ。夜の城下町の見廻りを終わらせ、城の屯所に戻ったので遅い時間ではあるが、城には夜勤の騎士や研究にのめり込んでいる魔術師、仕事が終わらなかった官僚が少しと王家の者がいるはずだ。ちょうど月に雲がかかっているからだろうか。廊下のすぐ側にある中庭は、城から漏れる微かな光がなければ様子がわからないほど、闇が濃い。いつも気にしないことがやけに目につくような……胸騒ぎがする、そう思った時、夜空に居座っていた大きな雲から月が抜け出し、顔を覗かせると同時に雨のような光の雫が城下町に降り注いだ。
「これは……。」
それは不思議な光だった。それ自体が青白い耀きを放つ。その煌めきは不安定に揺れながら、地面と接触すると水に変化し溶けていった。
リゼルクが手を伸ばそうとしたとき、屯所の扉が勢いよく開いた。
「だ~ッ!やっと報告書書き終わった~!なんっで、特殊部隊の俺が酔っぱらいの相手をしたあげく、報告書を書かにゃならんのだ!!お。やべ。報告書潰しちまったい
。」
出てきた男は、赤銅色の髪を振り乱し、ぐしゃぐしゃの紙を引き伸ばすことに集中しており、扉の近くにいたリゼルクに気付いていなかった。
「……ラグ、お前まだ終わってなかったのか。どうでもいいが、報告書益々ひどくなってるぞ。」
「どぉわ!!リゼ!驚かすなよ。ってか、何でお前いるんだよ。優秀でいらっしゃる俺の相棒様は、もっと前に終わって帰ってなかったか?」
一緒に帰ろうぜって言ったのに、さらりと無視してよ~…昔からお前はよ~…とぶつぶつ文句を言うことに懸命で、光の雨に気付かない騒々しいこの男--ラグナスは、リゼルクの幼馴染み、兼同僚である。成人をとうに迎えたにも関わらず、落ち着きを何処かに置いてきたような彼のそぶりに思わずためた息を吐く。そういえば、昔からラグナスは、ものを書くことも読むことも苦手だった。ついでに言えば、何かに集中しだすと周りが見えなくなるのだったと思い至る。
「……そのふっかぁいため息やめない?地味にダメージが……。って、何なんだよ。この光。」
やっと状況を掴んだラグナスに、お前が全てをかっさらっていったんだ、と抗議しようとした時、振り続く光の中でも一回り大きい光が城の中庭に落ちてきた。そして、驚く間もなく一節の詩<オト>が辺り一面を支配した。
--耳をすませ。
神経を研ぎ澄ますのだ。
そして、忍び寄る破滅の足音を捕らえよ--
その聲は、落ちてきた光が発しているようだった。リゼルクは、“光”そのものよりも内容に意識を奪われた。
「“破滅”……?」
唐突で現実味のない詩である。この国は、ここ100年程、安定した日々を送っている。それは一重に先王の、差別なく全ての種が政治に関わるべきであると、随所にエルフ、ドワーフ、獣人など他種族の長を配置した政策によるものだろう。多くの種族が交わる分、衝突も多くあったが、先王は一つ一つと向き合いまとめあげた。種族の特長を生かした政策と王の真摯な態度が功を成し、特に各種不満も持たず内乱もなくどの国よりも豊かになっている。現在、先王は現役を退き、20歳の人間の若き王が建っている。些か新王の年齢に不安が残るが、エルフの宰相、獣人の騎士隊長に支えられ、先王の意思を継ごうと努力している。破滅とは、現状を考えると縁がないが、無視するには余りにも物騒な言葉であった。
「すまんが、得体の知れない存在を城内にいさせることは、仕事上許されないんでね。」
ザンッ!
リゼルクの意識を呼び戻したのは、ラグナスの斬撃の音だった。リゼルクが思考の海を漂っている間に、腰に下げていた剣を抜き、中庭に落ちた光の塊にそのまま切っ先を下ろしたようだった。逃げることもなく一閃を受けた光は、四方に飛び水となり地面に溶けた。やがて降り続けていた光はただの水に変化し、大雨に移り変わっていった。
「……お前、力使った?ありゃ、直接頭に響く聲だった。しかも、ここら一帯に光の雨降らせてたのもやつだな。んなことできる芸当持ち合わせてんのは、魔術か使役された精霊か。」
「斬った後に聞くな。もし、俺が使役した精霊だったらどうしてたんだ、阿呆。」
「~もうっ!リゼルクちゃんったら、冷たい。私だって、ちゃんとリゼルクちゃんのオトモダチか判断できるわよぉ。一応確認し・た・だ・け」
「はいはい。私のおともだち把握しててくれて光栄だわ、ラグ子ちゃん。……あれは、水の精霊だな。しかも自分の意思にしろ、主の命令にしろ、聲を出せるってことは上位だ。」
「にしては、随分呆気なかった気がするな。…棒読みオネェ言葉がこえーよ。」
「黙れ。随分なことを言っていたが、あれにはそもそも敵意はなかったからだろう。警告のようだったが、あれの主の目的はなんだったんだ?」
リゼルクは、水が染み込んだ地面をじっと見つめた。
「俺にきくなよ。考えるのはお前の仕事だろーが。とりあえず、まだ宰相様は城内だろうから、酔っ払いのことも含めて報告してくるわ。」
「ッラグ、待て。」
剣に付着していた水滴を切ろうとあげられたラグナスの腕を、リゼルクに止めた。何だよ。と文句を言いつつ律儀に動かないラグナスをそのままに、腿に巻き付けていたホルダーから小瓶を取り出すと剣を渡すよう促した。
「先ほどの精霊の残滓が、残っている可能性があるだろ。主の手掛かりが見つかるかもしれない。」
取り零しのないよう慎重に小瓶に一滴垂らしたときだった。
『助けて……ッ!!』
悲痛な叫びが聴こえ、リゼルクは目の前が白く染まったことを自覚した。