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らいおう  作者: 久手野数馬
第二部 蝓蠖(ゆご)
9/13

第二章 雷媼

小源太(こげんた)……」

 ミズキは呆然(ぼうぜん)と呟く。ありとあらゆる事態を考え、その全てを受け入れる覚悟をしていた。だが、まさかこのような形で再会するとは思っていなかった。

 考えようによっては、良かったのかもしれない。

 八岐の追っ手に捕らえられ、一寸刻みにされたより。

 蝓蠖(ゆご)に食われ、衝動の(おもむ)くままに破壊の限りを尽くす化け物となるより。

 例え姿は異形(いぎょう)のままであっても、こうして人の心を(もっ)て決断し、静かに眠る小源太に出会えたのだから。

 しかし、ミズキはどうしても納得できなかった。

「こんな……こんなことって、ない」

 それは、未だに小源太への想いを引きずっているからではない。ミズキと小源太の恋は二年前に終わっていた。訣別(けつべつ)し、気持ちの整理を着けたはずだった。なのに、なぜかミズキの気持ちは混沌(こんとん)の渦にさらされていた。

「あたしは……あたしはあんたに……」

 全身から力が抜け、膝からへたり込んだ。そこでようやく、ミズキは自分が二人の行方を追おうと思った本心に気付いた。

「あんたに……ごめんって……」

 ただそれだけを伝えたかった。気持ちに応えられなくってごめん。辛いときに支えてあげられなくってごめん。大切なものを奪ってごめん。ミズキは声を上げて泣いた。

「ミズキさん」

 泣きじゃくるミズキを、十萌(ともえ)が横から包み込むように抱き締めた。

「大丈夫。あの人はあなたの気持ちをわかっていた」

 あなたを許していたわ。十萌の言葉に偽りはなかった。穏やかな日々の中で交わした会話の中で、小源太はミズキのことも口にしていた。それは復讐や怨嗟(えんさ)のような煮凝(にこ)ごった感情ではなく、独り()がりな想いを押し付けようとした自分自身に対する深い後悔の発露だった。

「あの人も、あなたに許してもらいたがっていたもの」

 それを聞き、ミズキはさらに大きく嗚咽(おえつ)を漏らした。

「……あ、あたしはあんなにひどいことをしたのに……あなたにも……」

 雷翁(らいおう)(わざ)を奪い、父の愛情を奪い、心の拠り所だった小源太を奪った。許されることではない。いかに誰かの企みに(おど)らされての行為だったとしても、ミズキは己を許すことはできなかった。許してはいけないと思い込んでいた。

「いいのよ、ミズキさん。あたしもわかっているから。あたしはこうなったことに後悔なんてしていない。むしろ、幸せなのよ」

 だから、自分を責めないで。十萌の顔は、まるで菩薩(ぼさつ)のような笑みを(たた)えていた。

「ありがとう、十萌ちゃん」

 ありがとう、小源太。ミズキの心のしこりは、ここでようやく浄化されたのだった。

 気持ちを落ち着かせ、ミズキは涙を(ぬぐ)った。

「あたし、あなたの力になりたい。あたしに何かできることはないかしら」

 ミズキの申し出を聞き、十萌は微笑む。それは(はかな)い笑みだった。

 ミズキは、十萌は命を賭けて小源太を守り通そうとしていることに気付いた。

 あたしも一緒に……。喉まで出かかったが口にはできなかった。自分にその資格はない。いくら二人に許されたといっても、二人の絆にミズキの入り込む余地はなかった。

 しかし、何かをせずにはいられなかった。

 真摯(しんし)な瞳で見つめられ、十萌は頷いた。

「じゃあ、一つだけ。ここでわたしと――」

 雷翁を舞っていただけますか。十萌の願い、それが何を意味するのか、ミズキは痛いほど理解していた。さらなる不幸を生み出すかもしれない。けれど――。

「……いいわ」

 きっ、と(まなじり)を決し、ミズキは立ち上がった。

「本当に、よろしいのですか」

 遠慮がちに十萌が(たず)ねる。

「いいって言ったらいいのよ。さあ、さっそくはじめましょう」

 女ふたりで、最高の舞いを見せてやりましょう。ミズキの差し出す手を取り、十萌も立ち上がる。

 十萌とミズキは小源太によく見えるように向かい合い、構えを取った。


 雷翁ではなく、「雷媼(らいおう)」とでも呼ぶべきか。

 女のふたり舞いは、小源太と仁斎(じんさい)が見せた質実剛健さはないが、より流麗でたおやかなものだった。

 鳥の羽ばたきのような。

 草木の芽吹くような。

 花の(ほころ)ぶような。

 あらゆる生命の営みを肯定し、包み込むような舞いであった。

 いや増す気勢のさまも異なっていた。

 螺旋(らせん)は生じたが、立ち昇らずにそれぞれの胎内(たいない)にて留まった。

 見かけの変化はないが、まるで受胎をしたように育まれていく。

 十月(とつき)十日(とおか)()て、臨月を迎える。

 雷媼の(いかずち)は、(すなわ)ち出産であった。

 十萌が産み落とした新たな命にミズキが。

 ミズキが産み落とした新たな命に十萌が、それぞれ祝福を与える。

 そして、二つの命は物言わぬ異形に(そそ)がれた。


 舞いが終わり、時の流れが戻る。

 十萌とミズキはお互いに(もた)れ合うようにその場に崩れた。

 荒い息は、まるで現実に命を産み落としたかのようだった。

 二人はともに、小源太を見やる。

 命はたしかに小源太へと注がれた。

 二人は岩壁と同化した小源太が動き出すのを待った。

 しかし、いつまで待っても小源太が還って来ることはなかった。


 日が暮れるまで、二人は小源太と向き合った。

「……おなか、()きましたね」

 十萌はそう呟くと、おもむろに身を起こした。

「今日は泊まっていってくださいね、ミズキさん。腕によりをかけた御馳走(ごちそう)作りますから」

 着衣の(ほこり)を払い、力こぶを作る仕草をする。

 ミズキは力ない笑みを浮かべて立ち上がった。

「……ええ、そうね。楽しみだわ」

 二人は岩壁の小源太に背を向け、寄り添い合うようにしてその場を離れた。

 二人とも(から)元気を振り絞り、努めて他愛のない話をしながら歩いていると、行く手から何やら不穏な空気が伝わってきた。

「誰かが、来る」

 嫌な予感がミズキの胸を締め付ける。緋々(ひひきば)を用いると呪波(じゅは)が感知された。一つ二つではない。大きい反応一つと、それよりひと回り小さいものとふた回り小さいものが二つずつ。

「五人も……」

 八岐のはぐれ狩りだろうか。いや、それも違う。ミズキは小源太の所在を探った際に感知した、こちらへ向かってくる呪波の塊があったことを思い出した。おそらくは(にえ)の里の者。それも、ミズキたちがよく知っている連中だろう。

「これは驚いた」

 神経を逆撫でするような声とともに、五人の男が姿を現した。

不破(ふわ)の里の十萌さまではありませぬか」

 わざとらしく大仰に言うのは、二人が忘れもしない男だった。ひと際大きい呪波を放っていたのは、間違いなくこの男――。

「贄……文吾(ぶんご)……」

 歯噛みするミズキを、贄文吾は一瞥(いちべつ)した。

「おお、蔦針(つたばり)のミズキどのまで……いや、待てよ」

 なあお前たち、ミズキどのといえばたしか――。文吾は背後に控える者たちに問いかけた。

「師である蔦針のササメさまに刃を向け」

「返り討ちに遭って出奔し、はぐれと見なされたはず」

 応えたのは文吾の弟、兵吾(ひょうご)冬吾(とうご)だった。

「そうだったそうだった。わたしもそう聞いたよ。消息が知れなくなったともな。そのミズキどのが目の前に居る――され、どうしたものか」

 大袈裟(おおげさ)な身振りと口調で弟に訊ねる。

「この場で狩るか、捕縛するか」

「前者ならば手間がかかりませぬな」

 それを聞き、文吾はにんまりと(ゆが)んだ笑みを浮かべた。

「うむ、そうだな。これまでの恩を忘れ、大八岐(おおやちまた)に牙を()かんとしておるのだものな」

 それは――許せんな。ぼそりと呟くのに合わせ、弟たちは飛び出そうとする。

「待て待て、そう焦るな。話はもうひと方にもあるのだ」

 文吾が制止すると、弟たちはぴたりと挙動を止めた。

「不破……いや、そう呼ばれる資格はすでにないのでしたな。ただの十萌どの、あなたにお訊ねしたいことがありまして」

 十萌は何の反応もしなかった。

「そんな顔をなさらずに聞いてください。ひと月あまり前に、奥羽(おうう)鬼女(きじょ)捜索の役目を受けたわたしの手下(てか)三人がこの辺りに来たはずなのですが、御存知ありませんか」

「知りません」

「そうですか。なら良いのです」

 文吾は意外なほどあっさりと引き下がった――かのように見えた。

「ふむ。あなたは単刀直入な方がお好みのようですね。では、質問を変えましょう。この先ですな。蝓蠖(ゆご)と化したあの男が身を潜めているのは」

 それを聞き、十萌は目に見えて動揺した。小源太の存在を指摘されたからだけではない。それはここで十萌を見つけたことで半ば裏付けられたはずだからだ。十萌の動揺は、文吾が蝓蠖(ゆご)の名を知っていたことへの驚きによるものだった。

「なぜ、蝓蠖のことを……」

 十萌は訊ねた。(いや)な汗が(てのひら)(にじ)む。

「明らかにされたのですよ。不破の秘奥(ひおう)鎧霊(よろいだま)の存在についても、あの男が蝓蠖という化け物に変わったということも」

「一体誰が……」

 源蔵らも目撃した蝓蠖のことはともかく、鎧霊のことすら知っているのはなぜか。それを知るのは小源太、十萌、ミズキの三人と、死んだ仁斎のみだった。事後、唯一人不破の里に残ったミズキは、どれだけ詰問されても知らぬ存ぜぬを通した。不破の里の者も空洞の奥の鎧霊をその目にしただろうが、それが何なのかは知り得るはずがない。

「それに答える必要も義理もありませんが、あなた方とは因縁浅からぬ身。特別に教えて差し上げよう。鎧霊のことを明らかにしたのは――」

 呪態研(じゅたいけん)()()どのです。文吾はにたりと口の(はし)を吊り上げた。

 十萌もミズキも絶句した。志の歩がどうして、里の者も知らされていない鎧霊の存在を知っているのだろうか。二人には皆目検討もつかなかった。

「お二人にはまだお聞きしたいことがあります。是非、贄の里に起こしいただいて、ゆっくり、じっくりとお話を伺いたいのですが、いかがでしょう」

「断る」

 十萌とミズキが同時にそう言うのを聞き、文吾の目が狂気の色に揺れる。

「くく、そう言うと思っていたぞ」

 反抗してくれなければ、今まで待った甲斐がないからな。文吾の口調から慇懃(いんぎん)さが消えた。

「とうとう本性を見せたわね」

 ミズキが不敵に笑う。

「かかれ」

 文吾が言い放つとともに、贄兵吾と冬吾、そして手下二人が十萌とミズキを取り囲む。

「女二人相手に男四人がかりとは。大袈裟ですね、ミズキさん」

 十萌が言うのを聞き、ミズキは笑った。

「あなたも言うようになったわね」

 贄の四人は一斉に動いた。四方から迫る舞鎌(まいがま)の連携は一糸乱れぬ見事なものだった。余念なく集団戦法の修練を行ってきたのだろう。文吾らしい周到さだった。

 しかし、迎え撃つ二人も負けてはいない。舞うように舞鎌の刃を交わし、反撃した。雷媼を経た所為(せい)か、十萌とミズキの呼吸は贄の者に引けを取らないほど和合していた。

 せめぎ合うような攻防が続く。

「く、呪態もないはぐれ女ども相手に情けない。二人を分断しろ」

 一進一退のようすに煮えを切らした文吾が指示を出す。贄の者はそれに従い態勢を変えようとした機を、ミズキの洞察眼は見逃さなかった。

 ミズキは贄の男の間を()うように飛び出し、緋々牙を刃へと変じさせながら文吾に迫る。

 慌てて構えようとする文吾の顔へと刃を突き出した。

 よろけながらもかわした文吾だったが、その頬は深く斬り裂かれていた。

 ぼたぼたと血がこぼれ出す。

「紹介が遅れたわね。これが呪態に代わるあたしの新たな牙よ」

「きさまぁッ」

 文吾が舞鎌を振るうが、ミズキはすでに間合いの外に退いていた。

「わたしの、わたしの顔に触れたな」

 文吾はかつて小源太と仕合ったときと同じように激昂する。

「大した(つら)でもないくせに」

 鼻で笑うミズキを文吾の舞鎌が襲う。手下よりは数段鋭いが、この二年、はぐれとしての歴戦をくぐり抜けてきたミズキにかわせないものではなかった。

 軽やかに避けながら、しかしミズキは警戒を(おこた)らない。小源太の左目を奪った秘技――文吾は必ずあれを出す。ミズキは洞察眼を働かし、その機を(うかが)った。

 (たね)さえ割れれば、間合いが伸びるというだけでそれほど恐ろしいものではない。間合いを見切り、伸びきったときが文吾の最期だ。

 文吾の右人差し指に気勢が集まり、渾身(こんしん)の舞鎌が放たれた。

 ミズキは可能な限りその間合いに留まり、秘技が出るのを待ち受けた。

 左の手刀をわざとすんででかわしたところに、文吾が右貫手(ぬきて)の構えを取る。

 今だ。ミズキは貫手が放たれるのと同じ(はや)さで後ろへ退く。

 洞察眼が示す間合いの外へ。

 だが、その洞察眼が揺らいだ。

 小源太のときとは、違う。

 それに気付いたときには遅かった。

 文吾の貫手は空気を巻き込むように回転し、(きり)のように伸びた。

 ミズキの予測した間合いよりも遙かに長く。

 とっさに身をよじるが、錐の先端――人差し指がミズキの右胸を貫いた。

「ぐああッ」

 悶絶するミズキの鳩尾(みぞおち)を、文吾は続けざまに蹴り上げた。

 ミズキの体は跳び、地面に仰向(あおむ)けに打ちつけられた。

 貫かれた胸から鮮血が溢れる。

「くくく。この二年で腕を上げたのが自分だけだと思うたか」

 のた打ち回るミズキを眺め、文吾はその嗜虐(しぎゃく)性と冷徹さの全てを(あら)わにした。

「このままとどめを刺してもよいが、それよりも先にせねばならぬことがある」

 文吾は立ち(すく)む十萌を見やった。

「この先だな」

 あの男が居るのは――。言うなり、文吾は駆け出した。十萌たちが来た道の先、小源太の眠る岩壁へと。

「行かせない」

 一拍遅れて追おうとする十萌の前に、兵吾と冬吾が立ちはだかった。

「兄者の悲願のため」

「行かせるわけにはいかん」

 踊りかかる二つの舞鎌は、十萌に届く前に打ち落とされた。

「……そっちこそ、邪魔はさせない」

 割って入ったのはミズキだった。傷を負った右胸を緋色の金属が覆い、出血を止めている。

「さあ、行って」

 ミズキの目配(めくば)せを受け、十萌は走り出す。

 止めようとする贄の兄弟にミズキは刃を向けた。

「邪魔はさせぬと言った」

 手負いの獣のような気迫に兄弟は戦慄(せんりつ)した。

「くッ」

「きさまらが追え」

 呆然としていた手下二人が慌てて十萌を追う。

 ミズキはそちらには構わず、幽鬼(ゆうき)の如き形相(ぎょうそう)でじっと兄弟を見据えた。

 その心中に浮かぶのは二年前の不破屋敷の庭。傷つき倒れる小源太と二人に押さえつけられながら慟哭する十萌。そして何もできずにそれをただ見つめるしかなかった己の姿だった。

「今なら……できる」

 あの日の愚かな己を断ち切るように、ミズキは刃を閃かせた。


 ようやく――ようやくきさまを殺すことができる。贄文吾は溢れる狂気に浸っていた。

 歳が十二の頃、父である里長・贄柔吾(じゅうご)が小源太を引き取ると言ったときのことを、文吾は今でも忘れない。

 小源太の親はともに舞鎌の(つか)い手で、父親は柔吾と(しのぎ)を削るほどの腕前だったという。彼は小源太を身籠(みご)もる妻を置き、大きな役目を果たすために命を落とした。

 寡婦(かふ)となった妻は、夫の死の責任は役目を与えた柔吾にあると思い込んだ。里の者の助けを固辞(こじ)し、当時贄に在駐していた蠎蛇(もうだ)の施呪者・浄那(じょうな)の元で小源太を産み落とし、そして産褥熱(さんじょくねつ)で帰らぬ人となったという。浄那はそれをきっかけに隠遁し、奥羽の鬼女と呼ばれながら小源太を育てた。

 文吾が産まれたのもその年だった。文吾は次なる舞鎌の継承者として厳しく育てられた。物心つく前から基礎を叩き込まれ、手先を(やいば)のように強靱に、かつ真綿(まわた)のように柔軟にする訓練に耐え抜いた。血の滲むような日々の中、後から産まれた二人の弟が父母や里の者に優しく育まれている姿を恨めしく眺めるばかりだった文吾は、ある人間に興味を覚えていた。

 小源太である。奥羽の鬼女が養う自分と同じ年の子とは、いかなる者なのだろうか。その経緯を耳にしていた文吾は、小源太がどのような心境でいるのかを知りたいと思った。

 親もあり里もあり、大きな役目を担う将来もあるが、地獄のような日々を送る文吾。

 親も里もなく、しかし自由に山野を駆け巡ることのできる小源太。

 そのいずれが幸せなのだろうか。

 文吾はいつか小源太に会うその日を心待ちにし、それを夢想することで厳しい鍛錬を乗り越えてきた。

 そんな文吾である。父・柔吾が小源太を引き取る(むね)を口にしたときは飛び上がらんばかりに喜んだ。

 彼ならば、ぼくのことをわかってくれるはずだ。これまで口に出せず抑え込んできた鬱屈(うっくつ)とした己の思いを、辛い境遇にある小源太ならば理解し、共感を示してくれる。そしてぼくは、彼のことをわかってやれる。苦しかった()し方に耳を傾け、希望の言葉をかけてやることができる。文吾は会ったこともない小源太を、違う人生を歩んできた己であるとさえ思い込んでいた。

 しかし、その夢想はあえなく打ち砕かれた。

 柔吾に連れられ、贄の重鎮(じゅうちん)が居並ぶ会合の席にやって来た小源太は、文吾の考えていたとおりの精悍(せいかん)な顔立ちをしていた。

 文吾の胸は喜びに沸き立った。すぐに駆け寄りたい気持ちをぐっと堪えていると小源太と目が合った。柔吾がそれに気付き、文吾を紹介したその直後、小源太はその場の誰もが想像しなかった行動に出た。

 小源太は文吾へと飛びかかり、狂犬のように唸りながらその顔を何度も殴りつけた。小源太が文吾に抱いていた思いは、文吾とは鏡映しの如く相反するものだったのだ。

 どうして。文吾は困惑した。どうしてきみがぼくを殴るの。ぼくは誰よりもきみのことを考えてきた。ぼくは誰よりもきみのことをわかってあげられる。そんな風に拳を握らなくてもいいんだよ。きみの言葉を聞かせてよ。ぼくの話を聞いてよ。ねえ。ねえ、そんな目をしないでさ。

 飢狼(きろう)のようにぎらぎらと光る小源太の目に殺意が宿っているのを察知した文吾の体は、意に反して(あぎと)を剥いた。

 正気に戻った文吾が見たものは、騒然とする会合の場の中で血みどろになって倒れる小源太だった。もう一人の己の血で両手を染め、呆然となる文吾の中で、ふっつりと音を立てて何かが切れた。

 継承者である我が子に殴りかかった小源太を、柔吾は(いさ)めつつも屋敷に置いた。しかし重鎮からの具申(ぐしん)もあり、(あぎと)を遣う資格のない単なる里の者として使用人のように扱われることになった。

 それまで大人しかった文吾は、人が変わったような嗜虐性を発現させるようになった。こと小源太に対しては(いちじる)しく、ことあるごとに難癖(なんくせ)をつけていたぶった。その内、さしたる理由がなくとも、身に着けた(わざ)を試す木偶(でく)として人以下の扱いをするようになった。それまでは一つ屋根の下に居ながら疎遠(そえん)だった二人の弟も加え、ゆくゆくは己の片腕となる弟たちの訓練相手を務めさせたりもした。

 小源太は一切反撃せず、されるがままだった。泣き叫びもせず、許しを懇願することもなく、ただひたすら暴力に耐え抜いた。その目から飢狼の光が消えないことに気付く度、文吾の(わざ)は一層鋭くなった。

 そのような日々が三年間続いた。幾百度も痛めつけ、幾千の傷を負わせた文吾は、少しずつ小源太が変化していることを肌で感じた。飢狼の目が、それまで見ていなかった何かを見ようとしている。それが何かはわからないが少なくとも文吾ではなかった。

 そして七年前、不破仁斎が贄の里を訪れた。仁斎のひとかどならぬ人格と雷翁の(わざ)は、蜈蚣(ごしょう)以外の八岐にすら知られるほどだった。また、一人娘に(あぎと)を引き継ぐ資質がなく、その娘の替わりに継承者となり得る者を捜して行脚(あんぎゃ)しているという噂が各地の蜈蚣を賑わせていた。

 舞鎌の継承者であるため雷翁の継承権はなかったが、文吾は己の(わざ)を父以外の十顎に認めてもらうのに絶好の機会だと判じた。父が設けた席で文吾と弟二人は舞鎌を披露し、それを見た仁斎は手放しの賞賛をくれた。そこで得た自信を揺るがしたのは、やはり小源太だった。

 贄の里を経つ前日、裏山での散策から戻った仁斎は、唐突に小源太を譲って欲しいと柔吾に求めた。仁斎は理由を(つまび)らかにはしなかったが、その場に居合わせた文吾は、それが小源太が雷翁の継承候補となるのを意味するということに否応(いやおう)なく気付かされた。

 痛めつけられる中、小源太が見続けていた何か――それは文吾ではなく、舞鎌の(わざ)だった。

 何代にも(わた)って研ぎ澄まされた(あぎと)を、いくら努力しようとも見様見真似で修得できるはずがない。だが、仁斎は(まが)い物の舞鎌を見て小源太の資質を認めたのだ。己に向けられた賛辞が空しいものだと思い知らされた文吾は、贄から離れていく小源太へ敵愾心(てきがいしん)を芽生えさせた。

 それは、二年前の不破の里での手合わせで勝利を納めても晴れなかった。十顎(じゅうがく)を巡った後に里に戻った文吾は、柔吾から厳しく叱責(しっせき)された。舞鎌と雷翁の純粋な勝負では劣勢となり、小源太が付け焼き刃の舞鎌を放ったことで頭に血が昇り、奥の手を使ってしまったからだ。

 結局、文吾が十顎となる機会は見送られた。文吾自身の失態だけでなく、八岐全体に向かい風が吹いているという時勢もあってのことだ。

 (いにしえ)に八岐と対峙した武士団が、その末裔を中心として再び行動を始めたのである。全面的な戦には至っていないものの局地的な争いは数十度を数え、八岐のそのほとんどに敗北を喫していた。

 中でも蜈蚣の(こうむ)った痛手は甚大だった。まずは(あぎと)鬼鍬(おにくわ)茂呂(もろ)兄弟が里を挙げての決戦に敗れ、兄弟をはじめとする主立った者が捕らえられた。(あぎと)旋風(つむじ)野火(のび)は戦いの末、はぐれとなったという。死んだ不破仁斎を加えると、現存する七つの(あぎと)のうち三つを失ったことになる。

 これは蜈蚣の存亡に関わる危急の事態である。年若い文吾を十顎に(いただ)くことは見送るべしと考えたのは、贄柔吾ならずとも無理からぬことだった。

 文吾は(はらわた)が煮えくり返るような思いに駆られた。現状を維持することに腐心する父や贄の重鎮を老害であると陰で(ののし)りながら、文吾は生来の冷静さを以てひとまず力を蓄えることにした。

 文吾はまず(おの)が率いる(しゅう)の練度の底上げを考えた。遣い手個人の力が重視されてきた舞鎌の性質を根本的に捉え直し、突出した個人の力より、均質的な集団の連携にこそ真の価値が見出せると判じた文吾は、それを実証するために己の集の連携行動を徹底的に鍛え上げたのだった。結果、文吾は己を頭部、成員を体節とする一匹の巨大な蜈蚣(むかで)に仕上げることに成功した。

 次に己の(わざ)を研ぎ澄ませた。舞鎌の腕ならば父・柔吾にも劣らぬほどだと自負していたが、文吾の脳裏には小源太が見せた雷翁と舞鎌の合わせ技の残影が絶えず刻まれていた。舞鎌だけでは足りない。さらなる力を。新たな(あぎと)を身に着けることこそ、贄の里――いや、向かい風にさらされた蜈蚣(ごしょう)が生き残る唯一の(すべ)であると文吾は確信した。

 文吾が求めた(あぎと)は、因縁のある雷翁でも洞察眼を必要とする蔦針でもなかった。舞鎌との相性を(かんが)みて文吾が選んだのは、踏み込んだ力を身の回転により一点に集束させる旋風(つむじ)(わざ)だった。

 集の練度を計るために()いたはぐれ狩りの役目の中で、文吾は旋風の遣い手を捕らえた。十顎であった野火とは比ぶべくもないただの蜈蚣だったが背に腹は変えられぬと、見逃すことを条件に旋風の手ほどきをさせた。

 予想していたとおり、同じく踏み込みを重視する舞鎌と旋風の相性は良かった。約束をあっさりと覆し、捕らえたはぐれを殺すことでその威力のほどを見定めた文吾は、機が熟すのをひたすら待った。

 そして訪れた好機は、他ならぬ小源太の討伐だった。文吾は手下三人を失ったことすら惜しまないほど狂おしく喜び、くすぶる敵愾心を思うままに燃え上がらせた。

 しかし文吾は、その炎の火種が幼い頃に抱いた小源太への思いだということに未だ気付こうとしていなかった。

 岩壁に同化して眠る異形の姿を目にし、文吾はようやくそれを悟るのだった。


「ようやく会えたな」

 文吾はもう一人の己と向き合った。

 人であったときの面影はまるでなく、生きているようにもとても見えない。

 死した者を、さらに殺すことはできない。文吾の内から燃え上がる殺意と狂気が急速に薄れていった。

「ここまで道を(たが)えるとは思わなかったな」

 冷静になった文吾は、自嘲するように呟いた。

 何もかも持っていたがゆえに縛られていた文吾と、何も持っていないがゆえに自由だった小源太。

 小源太を希求した文吾と、文吾を拒絶した小源太。

 小源太が贄の里を離れ、はじめて同じ十顎継承者の立場となった二人だったが、不破屋敷での手合わせにてやはり相入れない者同士だということを思い知らされた。

 そして文吾は心を異形と化し、小源太はその身を異形へと変じさせた。

 たしかに道は違えたが、求めたものは同じだったのではないか。

「わたしもおまえも誰かを必要とし、そして何より誰かに必要とされたかったのかも知れぬな」

 このような末路をたどったもう一人の己を、さらに踏みにじってよいのだろうか。文吾の躊躇(ちゅうちょ)は小さからず、小源太と十萌を見逃してもいいとさえ思うほどだった。

 迷う文吾の耳朶(じだ)を、小さな鼓動が震わせる。

 それは、岩と同化した異形から発されていた。

「まさか、そのような姿になっても、まだ……」

 小源太の中に宿る新たな命を感じ取り、文吾の心中にまず湧いたのは喜びだった。しかし、次に噴き出した感情が一瞬でそれを押し流す。

 おまえが死んでいてくれたらよかったのに。文吾は複雑な表情で舞鎌の構えを取った。

 迷いを振り払い、動き出そうとする文吾の前に影が躍り出る――十萌だった。

「この人は、やらせない」

 十萌は決死の覚悟で文吾に向かっていく。

 追い(すが)る餓鬼のような攻めに文吾は戸惑い、そしてった。

 己ともう一人の己の間に入る異物を、文吾は許さなかった。

「この期に及んで邪魔立てするか。よかろう」

 文吾の舞鎌はそれまで以上の冴えを見せた。その気迫は決死の十萌を圧倒するほどだった。

「それほど添い遂げたいか。ならばこうしてくれる」

 十萌の雷を難なくかわし、文吾は舞鎌と旋風の合わせ(わざ)を放つ。

 錐の如く旋回する腕が十萌の胸を貫き、そして小源太の腹部へと突き刺さった。

「これが本望なのだろう」

 くくく。哄笑(こうしょう)を漏らしながら、文吾は腕を引き抜く。


「こ、小源太……」

 十萌は激しく吐血しながら、無言の小源太に縋った。

 とくん、とくん。伝わってくる小さな拍動は死に際の錯覚だろうか。

 錯覚でも構わない。

 あなたとともに居られるのなら、たとえ地獄に堕ちても希望を捨てない。

 最後の力を振り絞って伸ばした十萌の手を、小源太が掴んだ。


 手下二人が駆けつけたとき、文吾は大きく亀裂の走った岩壁の近くで呆然と佇んでいた。

「文吾さまッ」

 慌ててその場から引き離すのと、岩壁がどうと崩落するのは同時だった。

「何だ……あれは……」

 放心する文吾が呟きを漏らす。

「文吾さま、いかがなされた」

蝓蠖(ゆご)は、不破十萌は何処(いずこ)に」

 がくがくと震える文吾が指し示したのは、崩落した岩壁だった。

「あの下に。ということは二人とも」

「始末をつけたのですね。これは大手柄だ」

 文吾の恐れようにも気付かず、手下二人は喜び勇んだ。

「検分は我らが。文吾さまはここでお待ちください」

「……い、いかん」

 二人は文吾の制止を聞かず、岩壁に向かった。朦々と立ち上る土埃に二人の姿が見えなくなったそのとき、黒い閃光が(ほとばし)った。

「ぎゃああッ」

 悲鳴を聞き、文吾はようやく我を取り戻した。

「どうした。返事をしろ」

 しかし、近付くことは容易ではない。そこから発せられる気勢は文吾が感じたことのない異質なものだった。立ち(すく)む文吾の目に、手下の一人が土埃から()い出てくるのが映る。

「何事か」

 声は出たが、やはり足は前に出ない。

「文吾さま……お助けを……」

 ずるずると這う手下には、腹から下がなかった。

 土埃を揺らめかせ、大きな影が現れる。

 緑灰色(しょっかいしょく)の外殻に覆われたその足が、手下の頭を踏み潰した。

「き、きさまは……」

 露わになった全身は、足と同様堅固な外殻に覆われていた。

「それが……蝓蠖か」

 そう言いながら、文吾は違和感を覚えた。先ほど見た異形に比べてひと回り小さく、形状が少し異なっている。

 特に頭部が違う。カニとムカデが合わさったような異相が、より人に近しくなっていた。

「小源太なのか」

 いや、そうではない。小源太だけではない。これは、まさか……。

 愕然とする文吾に向けて、蝓蠖が手を翳した。

 文吾が反射的に身を(ひるがえ)すと、立っていた場所を黒い球体が通過した。

 地に着いた球体は、破裂音とも擦過音とも異なる耳障りな音を立てて消失する。直径一メートルほどの大地が半球状に抉られていた。

 何だ、あれは……。強靱な肉体を基礎とし、想像を絶する鍛錬と呪によって振るう八岐の異能(いのう)の力とは、根本的に違う。蝓蠖の力は、文吾が今まで見たことのないものだった。

 ただの(わざ)では到底敵わない。そう判断した文吾は、すぐさま呪言(じゅごん)を唱えた。

大八岐(おおやちまた)にゆつ(いわ)むらの如く(さや)()

 八岐比古(やちまたひこ)御名(みな)をば(もう)して

 称辞竟(たたえごとを)(たてまつ)らくは

 一種(ひとくさ)蜈蚣(ごしょう)(かど)を開き

 四方(よも)四角(よすみ)より(うと)(すさ)()

 (あま)禍津日(まがつひ)の名を問ひ知らし(たま)ふ事無く

 (あい)まじこり

 相口会わせ賜ふ事を

 (かしこ)み恐み白す!」

 顕現させた文吾の呪態(じゅたい)は両腕が鎌のような刃となるものだった。舞鎌と旋風を組み合わせるような精密さは犠牲となるが、その刃は鋼鉄(こうてつ)を紙のように裂くほど鋭利だった。

「う、うおおッ」

 蝓蠖(ゆご)に力を放つ隙を与えないよう、文吾は間断なく刃を迅らせた。蝓蠖の硬質の外殻に幾条もの裂傷が生じる。

 通じるぞ。我が刃が通じている。棒立ちのままの蝓蠖を斬りつけながら、文吾は心に余裕を取り戻した。このまま押し切る。文吾は両腕を開いて飛び上がり、(はさみ)のように左右から刃を振るった。

()っ首、いただく」

 蝓蠖は迫る刃を両手で防ごうとした。

 腕ごと断ち切ってやる。文吾は刃を交差させた。

 しかし、空を掻いたように何の手応えもない。

 ぱきり。高い音が遅れて耳に響く。

 文吾の目に、蝓蠖の左右の手にそれぞれ刃が握られているのが見えた。

 己の腕に目をやると、刃は根元から折られていた。

「何だと……」

 驚きに目を剥く文吾の腕を蝓蠖が掴み、軽々と持ち上げた。

 めきめき。呪態となった腕が枯れ木のようにへし折れ、文吾はあまりの痛みに絶叫を上げた。

 何なのだ、これは。文吾は思う。怪力だとか、膂力(りょりょく)が強いとかいう話ではない。

 ぎらり、と蝓蠖の眼が赤光(しゃっこう)を放つ。

 文吾が死を覚悟したそのとき、蝓蠖の頭部が何者かに横殴りにされた。

「あんたたち、早くッ」

 それはミズキだった。

 掴む力が緩んだ隙に、さらに現れた二人が文吾の体を蝓蠖から引き離す。

「御無事ですか、兄者」

「ここはひとまず退()きましょう」

 文吾の両脇を支えるのは、兵吾と冬吾だった。二人は断崖に向けて駆けている。

 ミズキと相対しながらも、蝓蠖の標的は文吾のままだった。

 蝓蠖は離れる文吾を見据えつつ、その場で両腕を掲げ上げた。

 左右の(てのひら)の間に黒い光の塊が凝集(ぎょうしゅう)する。

「いかん。おまえたち、おれを捨てて逃げろ」

 それを聞いた二人の弟は、ふと笑った。

「たとえ兄者のお言葉とはいえ」

「それだけは聞けませぬな」

 兵吾と冬吾は文吾を抱えたまま、断崖から身を躍らせる。

 その三兄弟を、黒い閃光が無情に()ぎ払った。


 閃光を放った蝓蠖(ゆご)は、何の感情も見せずにミズキに向き直った。

「くッ」

 逃げるどころか、ミズキは真っ向から蝓蠖と対峙した。こうなった責任はあたしにある。十萌が小源太に向けて雷翁を舞おうと口にしたときから、こうなることは予想できていた。ミズキはそれを知りながら、十萌の思いを汲んだのだった。

「命を()けてでも、あたしが止める」

 捨て身の構えを取るミズキに対して蝓蠖が右手を翳し――そしてそのまま動きを止めた。

 赤い眼が青へと移ろう。

「……ミ……ズキ……」

 それはたしかに小源太の声だった。

 翳した右手が静かに下り、蝓蠖の上体が前屈(かが)みになった。

 背面の外殻が開き、その中から脱皮するように一人の少女が排出される。

「と、十萌ちゃん……」

 ミズキは倒れたままの十萌を抱え起こし、その安否を確かめた。

 息も脈も正常だった。ほっと胸をなで下ろすミズキの腕の中で、十萌が意識を取り戻した。

「ミズキさん。あたし……」

 あの人とようやく一つに……。十萌が微笑む。

「一体、何があったの」

 問いかけるミズキの視界の端で、蝓蠖が黒い光に包まれた。

 十萌を排出した背がさらに開き、身を()くように腹の方へと裏返っていく。

 蝓蠖の体は畳むように小さくなり、そして黒い光とともに虚空へと消えた。

 二年前のように姿を(くら)ましたのだろうか。ミズキの考えを察し、十萌は首を振った。

「いいえ。あの人はどこにも行っていません。いつでも、あたしの(そば)に居てくれると約束してくれましたから」

 これがその証拠です。十萌は文吾に貫かれたはずの胸部をさらした。

 しかしそこには傷はなく、青く輝く玉が埋め込まれていた。


 ミズキと十萌はひとまず浄那(じょうな)の小屋に戻った。傷の手当てをし、軽く腹拵(はらごしら)えをして、ようやく人心地(ひとごこち)がついた。

 何から訊ねていいのかわからずにいるミズキに、十萌がことの子細(しさい)を語り出した。

(にえ)文吾(ぶんご)の腕に貫かれたとき、あたしは小源太に新たな命が宿っているのに気付きました。あたしたちの舞は、あの人に伝わっていたのです」

 命を与えていたのです。せめて最期にと伸ばした十萌の手を、小源太がしっかと掴んだ。岩壁に無数の亀裂が走り、中から現れた異形は十萌を飲み込んだ。

 十萌、十萌。小源太は瀕死の十萌を包み、その蘇生を試みた。

「そしてあの人は、その命の結晶というべきものをあたしに分け与えてくれました」

「それが、その玉……」

「ええ。これは制御核(せいぎょかく)というものだそうです。蝓蠖(ゆご)の命であり、それを鎧として扱う纏装者(てんそうしゃ)に与えられるものだと」

「蝓蠖が鎧……纏装者って、どういうこと」

 ミズキが矢継ぎ(ばや)にする質問に、十萌は深く頷いてから答えはじめた。

 小源太に取り込まれた十萌は、おぼろげな意識の中で目まぐるしい情報に触れた。そのほとんどは理解できなかったが、蝓蠖がどういうものかは知ることができた。

 蝓蠖とは(なにがし)かの思念が()り固まった生きる鎧。その思念は呪に近いが、少し異なるものだった。

深淵(しんえん)の力――とでも呼ぶべきでしょうか」

 十萌は、蝓蠖の中で人間が(のぞ)くことのできない事象の深淵を垣間見たという。その最奥(さいおう)に沈む、あらゆる存在の根源の力の欠片(かけら)――それが蝓蠖だった。

「蝓蠖はその深淵の力を引き出し、行使することができるのです」

 途方もない話に、ミズキは困惑した。

「そんなものがなぜ、不破の里に」

 その問いに、十萌は的確な答えを返せない。

「八岐の用いる呪と関係があるのかも知れません」

 呪は人の(わざ)でありながら、深淵の力に近しい性質を持つらしいと、十萌は告げた。

「鎧霊の前で雷翁を舞うのは熟練の蜈蚣二人であるとされたのも、そのためのようです」

 つまり、(あぎと)の修練を通じた強靱な精神を持ち、かつ呪を施された者でなければ、蝓蠖にも、その纏装者にもなれないということだ。

「じゃあ、小源太が蝓蠖になったのは呪を施されていたからなの」

「それはわかりません。単に最初に鎧霊に触れたのがあの人だからかも知れません。ただ、それがあたしだったら、蝓蠖にすら成れずに食い殺されてしまっていたことでしょう」

 二人の雷翁遣(づか)いの内、一人が蝓蠖(ゆご)となり、もう一人がその纏装者とならねばならなかった。だが、小源太にも十萌にもその知識はなかった。もしあの場に仁斎(じんさい)が居たらば、惨劇は起きなかったのかもしれない。そう考えるとミズキはいたたまれない気持ちになった。

「呪を施されていないあなたが纏装者に選ばれたのはなぜ」

「これも憶測でしかありませんが、おそらくあたしたちが舞ったことが蝓蠖に変化をもたらしたのだと思います」

 そして、十萌は制御核を得た。

「小源太は、何処(どこ)に行ったの」

「あの人は今、深淵を揺蕩(たゆた)っています。あたしが求めれば、あの人はいつでも姿を現すでしょう」

 でも――。十萌の顔が(くも)る。

 ミズキはその気持ちを汲み取った。十萌は蝓蠖の力を恐れている。恐れながら、愛しい男に逢いたいと(こいねが)ってもいる。背反する思いに苦悩する十萌を目前にしながら、ミズキはかける言葉を見つけられなかった。

「……わかったことは、他にもあるんです」

 (うつむ)きながら、十萌が呟く。

「他って、何」

「父のことです。父は……」

 不破仁斎はまだ生きています。十萌がそう告げるのを耳にし、ミズキは驚愕した。

「仁斎さまが生きているって、どういうこと」

 あのとき、息を引き取ったのをたしかにこの目で見た。それは十萌も同じはず。死んだ仁斎が生きているとはいかなることか。

「蝓蠖の制御核には、深淵の力を探知する機能が備わっています」

「同じような力を持つ者が他にも居ると」

 ……まさか、それが。愕然とするミズキに、十萌は頷き返した。

「どうやってかはわかりませんが、父は深淵の力を手に入れ、生き延びているようなのです」

「仁斎さまの所在は」

「不破の里……おそらく呪態研に、父は居ます」

 ミズキは仁斎の遺体が呪態研に収容されたことを思い出した。

「まさか、志の歩どのが……」

 浮かんだのは、蠎蛇(もうだ)次姉(じし)の理知的な顔。贄文吾らに蝓蠖や鎧霊の情報を流したのも、何らかのを企みがあってのことだったのだろうか。

「ミズキさん、差し出がましいお願いをしてもいいでしょうか」

 あたしと一緒に、不破の里に行って欲しいのです。ミズキには、十萌の本心がよく理解できた。十萌が同行を願うのは、助力を求めているのではない。十萌は己の心身が蝓蠖に食い尽くされたとき、それを止める者としてミズキを選んだのだ。

「いいわ。でも、一つだけ言っておく。あたしは、どんなことがあってもあたしの大切な人を傷つけたりはしない」

 これだけはわかっておいて。ミズキがからりと笑いかけると、十萌もつられて頬を緩ませた。


 夜も深まった頃、山をのそのそと歩く者があった。大柄な男である。

 男は(うつ)ろに(にご)った目で辺りを窺いながら歩を進めている。何かを捜しているようだ。

「むう」

 男が足を止め、近くの茂みを掻き分けると、そこには一人の男が倒れていた。両腕が無惨(むざん)に潰れ、気を失ってはいるがまだ息はあった。

「そんなところに居たのね」

 大柄な男の陰から女が姿を現す。

「あれとやり合って、よく命を落とさなかったものだわ」

 さすがは十顎(じゅうがく)(うつわ)。女は文吾を(かつ)ぐよう男に指示を出した。

「これは、どうします」

 文吾の着衣を、四つのモノが握り締めていた。

「一緒に連れて行ってあげましょう。それだけの残念、きっと役に立つわ」

 さあ、不破に戻りましょう、源蔵(げんぞう)どの。夜の闇を切るように女は白衣を(ひるがえ)した。


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