幕間
秋も深まりつつある静かな夜半。
信濃のとある山中にひっそりと佇む小屋に一人の女がいた。囲炉裏の前に胡座を掻いている。年齢は不詳。その瞳は乙女のようにつぶらでありながら、万事を透徹する媼のようでもあった。身に着けているのは生気を感じさせぬ経帷子。しかしその内には瑞々しく豊満な肢体が秘されていた。
女は黙々と、酒を注いでは呷っている。薪をくべようと伸ばした手が止まった。
いつの間にか、小屋の戸が開かれていた。そこに靄と見紛うほど薄い人影が立っている。
これもまた女だった。静かな立ち姿。けれどその身の内には怒気が充ちている。
「……戻りました」
幽鬼の女は経帷子の女に向けて呟く。きらめきの一切ないその瞳には、憔悴と疑念の光が泥濘のように広がっている。
「御苦労」
とだけ言うと、経帷子の女は徳利から直に酒を呷った。
立つ女が纏う空気が一変する。秘めていた怒気が沸き立たんとした。
「それだけですか、お師匠」
必死に自制しつつ、言葉を発した。
言葉の通り、二人は師弟関係にあった。
問い詰める女は言わずもがな蔦針のミズキ。
経帷子の女はその師であり、蜈蚣十顎の一人でもあるササメ。
「おおそうだな、首尾はどうじゃったかな。雷翁は身に着いたか」
ササメのとぼけた返答は、ミズキの感情を逆撫でする。
「身に着いたか、ですと。何を仰っているのですか。じ、仁斎さまが――」
お亡くなりになられたのですよ。同じ十顎の訃報を聞き、ササメは眉をぴくりと上げる――だが、反応はそれだけだった。
「聞いておる。殺されたそうじゃな。惜しいことをした」
何の感興も湧かさぬ顔で言う。ミズキは怒りと悔しさに、ぐっと拳を固く握り込んだ。
「お師匠、お隠しになられていたことがおありでしょう」
険しい口調で問う。大恩ある師・ササメに対してこのような身の程を弁えぬ物言いをしたことは今までには皆無だった。
「このササメが、かわいい弟子のおまえに隠しごとをするわけがなかろう」
「……あたしが、何も知らないとお思いですか」
「ほう、何を知ったというのじゃ。言うてみい」
軽薄な態度に、ミズキは臍を噛む思いになる。
「……あたしを顎分けに赴かせた本当の理由です」
「本当の理由とな」
「とぼけるのもそこまでにしてください。お師匠は雷翁の――不破の里の秘奥をご存じだったのでしょう」
「さて、秘奥とは何じゃ」
「知らぬとは言わせません。人智を遙かに超えた異形――」
あの鎧霊のことを。その言葉が響いた刹那、ミズキの双眸は赤く燃え、対するササメの纏う空気は冷たく鋭くなった。
ミズキには問い糺したいことがあった。
「お師匠。あたしに黙っていたことがおありですね」
きっと見据えるが、ササメは冷徹な空気を従えつつ、泰然とした顔を崩さない。
「覚えがないのう」
「ではこちらから申し上げます。雷翁の顎分けとは単なる名目。お師匠があたしに身に着けさせたかったのは、不破の秘奥の封を解く術なのですね」
封を解くためには、熟練した雷翁の遣い手が二人揃う必要があった。本来なら雷翁の継承者とその配偶者のみが秘奥の存在を知り得、鎮め護る。もしくはその封を解く役目を担うはずだった。しかし当代の継承者である仁斎は妻を亡くし、後添いをもらうつもりもなかった。
「お師匠は、あたしと小源太を娶せようとお考えになったのでしょう」
十顎のうち三つの顎が失われ、権勢の維持が危ぶまれているというのが蜈蚣の現状である。ササメは失われた顎を補う力として、不破の秘奥に目を付けていたのではないだろうか。不破の里が黄昏に暮れる中、ミズキはそう考えた。
「何故そのように考える」
「仁斎さまには封を解くおつもりがないようでございました」
これもミズキの主観的な推察であるが、その裏付けとして、そのため実の娘である十萌に雷翁を伝えていなかったことが挙げられる。
自然に考えれば、十萌を継承者とし、めぼしい雷翁の遣い手を夫として迎えれば済む話である。しかし仁斎は十萌に素養なしと判じ、何のゆかりもなかった小源太を継承候補に据えた。素養がないという判断が偽りであったことは、秘奥の封を解いた事実が何よりの証拠であろう。
「お師匠は、ゆくゆくは秘奥の封を解かせようとお考えだったのでしょう。傾きつつある蜈蚣の権勢を維持するために」
だがその目論見は外れた。それはミズキがあまりにも蔦針の役目を大事と考えたためである。己に課せられた役目を頑なに守ろうとし、ミズキは最後の最後で小源太を拒絶したのである。
「ようもそこまでぺらぺらと口が回るのう。それも、憶測に憶測を重ねた都合の良い理屈を並べ立ておる」
「都合が良い、と……本当にそのようにお思いになるのですか」
ミズキは声を一層荒げた。
「見なし子のあたしを拾い、育て、のみならず御自身の後継として目をかけてくださったお師匠を、このように疑わねばならぬ苦しみがいかばかりのものか――」
「ならば黙って我に従っておればよい」
言葉尻を遮り、ササメはぴしゃりと言い放った。
「恩義を感じておるのなら、何も申さず我の意のままになっておれ」
「あ、あたしは、今まであなたの仰るとおりにしてきました」
「それはそうじゃ。腕もさることながら、従順さがおぬしの取り柄じゃからの」
その言葉を聞き、ミズキは絶句した。この人は、あたしを道具としてしか見ていないのだ。薄々感付いていたことではあったが、こうして面と向かって言われる衝撃は尋常ではない。
「派手な見てくれの割に、おぬしはちとうぶに過ぎるところがあるからな。雷翁の継承候補を籠絡せよ、などと聞いたら困惑するだろうと言わぬようにしたのだが――」
それは我の目算違いであったな。日頃、感情を表に出さない師の苦虫を噛み潰したような顔は、それが演技でないことを如実に示していた。
「……お師匠」
「何じゃ。まだ言い足りぬことがあるというのか」
「はい。しかし――これで最後にございます」
ミズキの総身からゆらりと発されるのは紛うことなき殺気である。
「お師匠――いや、蔦針のササメさま。このミズキ、本日限りでお暇乞いをさせていただきとうございます」
「それが如何なる意味が、わかっておるのか」
「十二分に」
「……面白い」
呟くササメから、静かな気迫が立ち昇った。
「いざ尋常に……」
冷たく、そして激しく、師弟の顎が交わった。
冬の明け方――信州上田の山中を、ミズキは独り歩いていた。足取りが重いのは、体の各所に受けた傷のみならず、一向に開けない行く末に暗澹たる気持ちとなっているからである。
ササメとの勝負は決着しなかった。技量はササメが上を行っていたが、ミズキには手ほどきを受けた雷翁の身のこなしがあった。どちらも決め手のないまま半日ほど仕合った末、経験の乏しさからの劣勢を悟ったミズキが逃げを打ったのである。
まだ死ぬわけにはいかない――その一念で遁走した元弟子を、ササメは追おうとしなかった。それが師としての思いやりなのか、それとも手間を惜しんだからなのかは判然としなかったが、ミズキはおそらくその両方だろうと思った。
代わりに別の追っ手がかかった。八岐の全支族と眷族からの追っ手が差し向かれる――それはつまり、ミズキが八岐から抜けた「はぐれ八岐」だと見なされたことを意味する。
以後数ヶ月、ミズキは逃亡を続け、合わせて五人の追っ手を返り討ちにした。どれも相当な手練れであったが、まがりなりに蔦針の顎の継承候補であり、雷翁も身に着けていた達人を仕留めるには至らなかった。
だが、その心身に負った傷は浅くはない。身の傷は頑強な八岐の肉体が癒したが、心の傷はそうはいかなかった。
「小源太……ごめん」
朦朧とする意識の中でミズキは呟いた。敬愛する師と意を違え、顎を交わさざるを得なくなった辛さを身を以て思い知ったのである。
何事もどうとでもなれ、と自暴自棄に思いつつ、誰かに縋りたくて仕方がなかった。虚無的でありながら、何よりも人のつながりに希望を抱きたいと願っていた。
「やっぱり、あたしはあなたのことをわかってやれていなかった……」
小源太も同じ思いを抱いていたのだろうと思うと、ミズキの胸は張り裂けんばかりに痛んだ。その小源太を、己は役目を優先して拒絶したのである。禁忌である秘奥に手を出したのも無理からぬ話だ、とミズキは思った。
己に絶望しながら当て所もなく歩いていると、川辺に出た。上流の方から吹き荒ぶ寒風にさらされ、ミズキの体は芯まで冷えた。
寒風に耐えようと膝を抱えたミズキは、絶望しながらも生きようとする己に思わず自嘲の笑みを漏らした。全てを失っても、己に愛想を尽かしても、人は生きようとするのだと。
そこでふと、汀に立つ者があるのに気付いた。
若い男のようだった。狩衣と袴を身に着け、頭には立烏帽子――神職の出で立ち。
「やっと来たか。少々待ちくたびれたぞ」
空のチョウゲンボウの番いを見ているが、言葉は間違いなくミズキにかけたものだった。
ミズキは動揺した。正体が掴めない。八岐の追っ手である可能性が最も高いが、男には一片の殺気も鬼気もないのである。
「ようやく会えたな、蔦針のミズキ」
男は名を呼び、振り返る。
「やはり、追っ手か」
ミズキがとっさに身構え、洞察眼を発揮しようとすると、
「おおっと待て待て」
男はそう言い、慌てたようすで両手を振る。
「わしは追っ手ではない。むしろその逆だ」
「逆……だと?」
「そう。わしはおぬしの味方だ」
念のため洞察眼により探るが、怪しいところはなかった。それだけ嘘を述べることに長けているか、もしくはそんなことを本心から口にする大馬鹿者か。
「信じられぬのも無理はないか。しかし、損はさせぬぞ」
鷹揚な男の笑顔に、ミズキは一瞬だけ心を動かされつつ問いを発する。
「……きさま、何者だ」
「わしは左――左甚五郎。ようく覚えておけ。これがおぬしを匿い、そして――新たな牙を与える者の名だ」
がはは、と大笑する。ミズキはなぜ心が動いたのかがわかった。その笑顔は不破の男たち――仁斎や源蔵、そして小源太のものとよく似通っていたからであった。




