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らいおう  作者: 久手野数馬
第一部 雷翁
6/13

第五章 残影すら莫く

 小源太(こげんた)十萌(ともえ)を連れて逃げたという報が入り、山狩りをすることになった。

「どうして山狩りなのですか。押さえるならばまず町への道では」

 ミズキが(たず)ねると、源蔵(げんぞう)は怒りの収まらぬようすで答えた。

「牢番と()()どのらが見たそうだ」

 治療に訪れた志の歩とともにやって来た()()に鼻の下を伸ばしていた牢番は、地下から響く志の歩の悲鳴を聞き、はじめて異常に気付いたのだという。慌てて持ち場に戻ると森の奥へと走り去る小源太と十萌の後ろ姿が見えた。牢番はすぐさま後を追って二人を捕捉した。いくら元継承候補とはいえ、両腕のない男と資質のない女を捕らえるなど造作(ぞうさ)もないと(たか)(くく)った牢番は、その直後に驚くべきものを目にした。

「十萌さまが、なんと雷翁(らいおう)を繰り出したというのだ」

 牢番が昏倒(こんとう)させられたところは、ちょうど追い着いた蠎蛇(もうだ)の姉妹も見ていた。

「雷翁かどうかはわからぬが、十萌さまが驚くべき身のこなしをやってのけたのだそうだ。おそらくは小源太の(おお)莫迦(ばか)(もの)が隠れて手ほどきをしていたのだろう」

 源蔵の声は震えていたが、ミズキにとっては予想の内のことだった。

「そろそろ出ませぬと日が落ちてしまいます」

 不破(ふわ)の一人に(うなが)され、源蔵は五人ずつに編成した山狩りの(しゅう)それぞれに指示を出した。

「源蔵どの。わたしも加えてください」

 ミズキの申し出を源蔵は断った。

「おぬしは連れて行かぬ」

「なぜですか」

「里長の命よ。ミズキどのはあくまで客人。危うい目には()わせられぬとな。安心せい。十萌さまは無事に連れ帰る。おぬしの大切な小源太も一緒にな」

 やや的外(まとはず)れなことを言い残し、源蔵は己の集を引き連れて山へと入っていった。

 一人取り残されたミズキは、憤然としつつ思案を巡らせた。気になるのはやはり、二人が山の奥へと逃げ込んだことだ。百に及ぶ成果(なれのはて)()むという場所ならば、迂闊(うかつ)に手は出せないと考えたか。それとも破滅的に心中を選んだのだろうか。

 そうじゃない。ミズキの心に引っかかるものがあった。二人は迷わず山の奥を目指した。それは、二人の希望となる何かがそこにあることを意味するのではないだろうか。

「……まさか」

 ミズキがとうとう思い当たったのは、小源太の想いを受け入れて間もない頃に他愛のない将来を語り合う中で出た話だった。

 小源太はミズキを不破の嫁に迎えることばかり口にしていた。そんなことが叶うわけがないと思いつつ、楽しげに話す小源太の顔があまりにも(まぶ)しく、その夢を破るようなことは一度たりとて口にしなかった。

「嫁に来るのがおまえなら里の者は誰も文句は言わない。人柄も知れているし、何より雷翁を扱える」

「嫁になるのと雷翁は関係ないじゃない」

「どっこい、あるんだよ。不破の里長と夫婦になるのにも雷翁を身に着ける必要があるんだ」

「夫婦揃って成果(なれのはて)と戦うとか、長が亡くなったときの代役とか、そういうことかしら」

「どっちも正しいけど、本当の理由は他にあるんだ」

「何よ、本当の理由って」

「そう簡単には教えられないな。これは里長にしか知らされない不破の里の秘奥(ひおう)なんだ」

「それをどうしてあなたが知っているのよ」

「そりゃあ継承者だからさ。つっても知ったのはつい最近だけどな。おまえが来る少し前だ」

「で、その秘奥って何なの」

「だから、言えないから秘奥なの」

「自分から言い出したくせに。いじわる」

「ごめんごめん。じゃあ、約束してくれたら、教えるよ」

「どんな約束よ」

「おれと夫婦になる、っていう約束だ。いつもおれが一方的に話すばかりでおまえは笑ってはぐらかすからさ」

 はい。という言葉が喉まで出かかったが、やはり明言はできなかった。その代わりに口づけをすると、小源太はやや納得いかない顔で、不破の秘奥が隠された場所のことだけをミズキに耳打ちしたのだった。

「きっと、そこだわ」

 それを思い出したミズキの胸に、(うず)くような痛みが生まれていた。

 結局、小源太の想いに(こた)えられずそれどころかひどい仕打ちを与えてしまった。自分などが彼のためにできることがあるのだろうか。

 深い懊悩(おうのう)を抱きながら、ミズキは心が突き動かすまま秘奥の眠る場所へと駆け出した。



 二人は山の深奥へ続く道をひっそりと進んでいた。

 小源太はまともに戦えず、十萌は雷翁を身に着けたとはいえ呪態(じゅたい)を持たない。成果(なれのはて)の一匹にでも出くわしたら命取りとなる。小源太は仁斎から教えられていた成果の出ない隠れ道を選んだ。その道は秘奥の存在と同じく里の者にも知らされていなかったが、代わりに大きく迂回する必要があり、二人が秘奥のある場所に着く頃には日がとっぷりと暮れていた。

 牢を破ってからの道すがらで十萌は小源太の考えを聞いた。

「このまま逃げても、すぐに捕まり連れ戻されてしまうことは明らかだ。逃げるには力が要る。おれはそれを手に入れようと思う」

 小源太は不破の秘奥の話を十萌に語った。不破の里には成果を外の世界に漏らさないことの他に、代々の里長にのみ伝えられる隠れた役目がある。それは成果以上に外に出してはならない禁忌の力を(しず)(まも)ることだという。

「それは、どのような力なのですか」

「詳しくはわからんが、この世ならぬ力なのだそうだ」

「そんな危険なものを……」

 小源太は心配げな十萌の瞳を見つめた。

「おれはおまえを守りたい。おまえをこの狭い里から連れ出し、あらゆるものから守り通したいんだ。そのためなら命を捨てても構わない」

 悲愴(ひそう)な言葉を吐く小源太を、十萌は強く抱き締める。

「悲しいのか、十萌」

「いいえ、嬉しいのです。あなたにそこまで言ってもらえる日が来るなんて夢にも思いませんでした。ですが、命を捨てるだなどとそんなことは言わないで。あなたとあたしはこれから一蓮托生(いちれんたくしょう)。禁忌の力も、あなた一人ではなく、あたしにも半分背負わせてください」

 そう言う十萌のか(ぼそ)い体を、小源太は力の限り抱き返した。


 二人がたどり着いたのは、岩壁に大きく口を開けた洞穴(どうけつ)だった。

「ここは、戦国時代の不破の者によって掘られたのだそうだ」

 言われてみると、風化による浸食がわずかにあったものの、自然の営みによってできたものではなく、人為的に掘られた痕跡が見られた。

 千年と言われる八岐(やちまた)の歴史の中で戦国の世は蜈蚣(ごしょう)が最も活躍した時代だった。蜈蚣の一族は穴掘りの百足(むかで)と呼ばれ、忍びの一派としていくつもの戦国大名に用いられていた。

「それ以前には不破の秘奥はなかったのですか」

 十萌の問いに小源太は頷いた。

「戦国より前には、成果の姿形も今とは異なっていたそうだ」

「どのような姿だったのですか」

「人に近しかったと聞く」

「では、この秘奥ができたことと成果が変わったことに何か関係があるということですか」

「そこまでは教えてもらえなかったが、おそらく無関係ではないのだろう」

 不破の秘奥とは一体いかなるものなのだろうか。十萌はこれから自分たちが為す行いに、一抹(いちまつ)ならぬ不安を抱きながら洞穴に足を踏み入れた。

 ひと筋の光明も差し込まない暗黒の中を、牢から持ち出した火種だけを頼りに二十分ほど進んだところで、小源太が立ち止まった。

「ここだ」

 小源太に言われるとおりに暗中を探って壁に設置された燭台(しょくだい)に十萌が火を灯すと、視界一杯に広がる大空洞が現れた。

 ところどころに石柱がそびえ立つ空洞の中心に大きな石舞台が備え付けられており、その奥に小さな(ほこら)が佇んでいた。

「ここに不破の秘奥が眠っているのですね」

「そうだ。さあ、その石舞台に上がるぞ」

 石舞台は直径五メートルほどあり、真円の形をしていた。

「ここで何をすればいいのですか」

「舞うのだ」

「舞うって、雷翁をですか」

「ああ。ここで、おれたち二人の雷翁を披露する」

 そう言うと、小源太は十萌と向かい合うように立った。

「構えてくれ」

 真意を図りきれないまま、十萌は雷翁の構えを取った。小源太も同様の構えを取るが、両腕の(ひじ)から先はない。

「おれの腕は()るものと思ってくれ」

 先に動いたのは小源太だった。緩やかな足取りで間合いを詰めると、優雅な動作で十萌に向けて突きを繰り出した。

 それはまるで本当に腕が在るかのような動きだった。十萌は反射的に存在しない突きを避け、それに合わせて拳を振るった。

 ぎこちなさはすぐに消え、絶えず(めぐ)る攻防が繰り広げられた。小源太の攻めを十萌がいなし、返す攻めを軽やかにかわす。そのやり取りが幾百度に(わた)り行われ、このひと月余りの間に二人が交わした数を超えた頃、二人の身の内からそれぞれ生じた気勢が螺旋(らせん)を描き出した。

 螺旋は小源太が仁斎と仕合ったときよりも緩やかに広がった。

 空洞を埋め尽くしたと思うや、螺旋は急速に石舞台へと向けて収束しはじめる。

 螺旋がその源である二人の元へ還った刹那、(おきな)(かみなり)を発した。

 はじめに電光石火の動きを見せたのは十萌であった。すり抜けるように小源太の懐に入り、脾腹(ひばら)を抜く勢いで貫手を放つ。

 小源太はかわす動きを最小限にし、皮一枚をかすらせて拍子(ひょうし)を合わせた拳撃を打ち込んだ。

 小源太の拳が十萌の胸を貫いた。

 気勢が掻き消え、大空洞が元の静寂(しじま)を取り戻す。

 微かにも動かず、二人はただ視線を交わした。

「おまえの心は、おれがもらった」

 これからずっと、まえはおれだけのものだ。小源太がそう言うと、十萌は破顔(はがん)して応えた。

「はい。あたしはずっと、あなただけのものです」


 そのようすを石柱の陰から(のぞ)く者があった。ミズキである。

 山狩りの者たちがそこかしこで成果(なれのはて)遭遇(そうぐう)し、交戦する中を掻いくぐるように進んだところ、ミズキは安全な迂回路(うかいろ)を取る小源太らに追い付くことができた。

 洞穴に入る二人に気取られぬよう後を()けたミズキは、小源太と十萌が雷翁を舞うのを見て、自分に与えられた(あぎと)()けの役目に疑念を覚えた。

 あたしに顎分けをさせたのは、雷翁を失伝させぬための保険であるだけでなく、目の前で小源太と舞う十萌の役割を果たさせるためだったのではないか。もしや、自分と小源太が()かれ合うことすら、(はかりごと)の内だったのかもしれない。

 (はか)ったのは仁斎(じんさい)だけではない。おそらくはミズキの師・ササメもそれを理解していたのだろう。ミズキは骨髄まで染み込んだ役目の重さに、これまで以上の恐怖を抱いた。

 ササメはたしかに厳しい人だった。仁斎のような大らかさは微塵もなく、幼子(おさなご)だったミズキに対しても容赦のない鍛錬を課し、それをこなせなければ冷水(れいすい)のような言葉を浴びせた。だが鍛錬を乗り越えたときには、笑みを浮かべはしないものの、口調を(かす)かに和らげてミズキを(ねぎら)った。ミズキの血の(にじ)むような努力は、その労いの言葉を与えてもらうためであったと言っても過言ではない。

 ミズキは母親のようにササメを(した)っていた。仁斎を父と思いたいと言ったのも口先だけではなく、事実雷翁を伝授されながらその父性に惹かれていた。たとえそれが、実の娘に対して向けられなかった愛情の代償行為だったとしても。

 その母と父に、裏切られていた。彼らにとってミズキは、蜈蚣(ごしょう)を存続させていくための道具の一つでしかなかったのだ。

 足下が崩れ落ちるような気分になるミズキの目前で、不破の秘奥がその姿を現した。

 大空洞の奥にある祠がごとごとと震えたかと思うと、その後ろの壁面がぼろぼろと()がれ落ちていく――そこに現れたのは、巨大な甲殻類(こうかくるい)の化石だった。

「これが、不破の秘奥……」

 カニに近い胴体にエビのような尾を生やした異形を見、十萌が呟く。

「ああ。これが四百年もの間、ここに封じられていた禁忌(きんき)の力――鎧霊(よろいだま)だ」

 小源太の声は、禁忌を目にしたとは思えないほど晴れやかだった。

 しかし、あれはどう見ても――ミズキには、その鎧霊の姿が成果にしか見えなかった。ミズキ自身が相対してきた成果のどれとも異なる形で何より遥かに巨大であるが、これが何かと訊ねられたら、思い付くのは成果(なれのはて)しかなかった。

 成果を討つ不破の者が成果の化石を守ってきたのは、いかなる理由があるのだろう。

「これで、おれは誰にも負けない力を手に入れることができる」

 十萌は不安げな視線を向けたが、小源太はそれを振り切るように鎧霊へと近付いていった。

「これで、おれは……」

 半ばで断たれた腕を祈るように掲げ、小源太は鎧霊に触れた。

 どくん。心臓が拍動するような音が空洞に響く。化石であるかと鎧霊の二つの眼が、赤い光を発していた。

 直には窺えないが、小源太が狂おしい笑みを浮かべているだろうことはわかった。

「いけない、小源太」

 それは危険よ。ミズキは石柱の陰から飛び出した。

「ミズキさん……」

 十萌が振り向く。

「今すぐ小源太を止めて」

 駆け寄ろうとするミズキの前に、十萌が両腕を広げて立ちはだかった。

「いやよ。あたしたちは二人で逃げるの。二人で幸せになるの」

 どくん、どくん。鎧霊の拍動が次第に速まり、赤光(しゃっこう)が鎧霊の全身を覆っていく。

「何言ってるの。あんなモノに頼って幸せになんてなれるわけないじゃない」

 強引に押し退けようとするミズキに、十萌は必死にしがみついた。

「ミズキさんに――あなたにあたしたちを邪魔する資格なんてない。あたしからあの人を奪ったくせに、あの人を裏切ったあなたなんかに」

 あたしたちを止める資格なんてないわ。十萌の叫びを聞き、ミズキは思わず言葉を失った。

 十萌の言うとおりだった。十萌にとって唯一の支えであった小源太に想いを寄せられたミズキは、表面ではそれを受け入れながら、深いところで拒絶し、蜈蚣の命である両腕を断ち切った。二人をこのような愚行に至らせた直接の原因は、自分にある。でも――。

 どく、どく、どく。速まる拍動と目障りな赤い光がミズキの感情を掻き乱す。

「あなたたちばかりが被害者だとでも言うの」

 あたしだって、あたしだって。抑圧(よくあつ)していた感情が(ほとばし)り、ミズキは声を荒げた。あたしだって、大切な人たちに裏切られたんだ。あたしだって雷翁の被害者なんだ。

 言い合う女たちを尻目に、小源太は鎧霊に触れたままだった。

 どく、どく、どくん。最後に一つ脈を打ち、鎧霊は静まった。

 十萌とミズキがそちらを見ると、鎧霊の光は()せ、元の化石に戻っていた。

「……ふう」

 小源太が気を吐き、顔だけを振り向かせた。

「なんだ、ミズキじゃないか。来てたのか」

 なあ、見てくれよ。拍子抜けするほど穏やかな口振りだった。顔だけでなく全身を向け直した小源太の姿を見て、ミズキと十萌は同時に息を呑んだ。

「こ、小源太、あなた……」

 ミズキが断ち切ったはずの小源太の両腕が、元の通り生えていた。

「これで……これでおれはまた、雷翁を舞うことができる」

 新生した手で、小源太は眼帯を引きちぎった。鎧霊の赤い光は消えていなかった。その光は狂気とともに小源太の両眼に宿っていたのだった。

「小源太、よかった」

 安堵(あんど)の色を浮かべ、十萌が走り寄る。

「さあ、早く二人で逃げましょう。誰もいない場所へ」

「逃げる……」

 ああそうか、そうだったな。小源太は(いま)(がた)に交わした約束すらうろ覚えのようすだった。

「そうです。さあ」

 外へ連れ出そうと十萌がその手を握ったとき、小源太の体がびくりと痙攣(けいれん)した。

「ぐああッ」

 苦悶のうめきを漏らし、小源太は十萌の手を払った。そのまま地面に倒れ、びくんびくんと痙攣する体を抑えようともんどり打った。

「こ、小源太……」

 青ざめつつ助け起こそうとした十萌の頬を小源太の振り上げた腕がかすめた。頬がぱくりと割れ、(あら)わになった白い肉から血が滲み出す。

 小源太の両腕は、呪態(じゅたい)顕現(けんげん)させていた。

 その着衣が内側から破れる。

 呪態と化したのは腕だけでなかった。

 腕と同じくところどころが鋭く(とが)る硬質の皮膚へと変じていた。

 硬質化はさらに進む。

 あらゆる体毛を抜き落としながら全身を覆っていった。

 皮膚は厚みを増して外殻となった。

 呪態の浸食は頭部にまで及び、小源太の面影を見る間に掻き消していく。

 その始終(しじゅう)を、十萌はなす術なくただ呆然と眺めるだけだった。

 小源太がのた打ち回るのをぴたりとやめ、ゆらりと立ち上がった。

「いや……いや……」

 それはすでに小源太ではなく、四肢を持って直立する以外は人ですらなかった。

「いやあぁっ」

 十萌の絶叫が空洞に谺する。

 そこで我を取り戻したミズキは、小源太――(いな)、甲殻人間が十萌に向けて身じろぎするのを見て取った。

「あぶない!」

 ミズキは体当たりをする勢いで十萌の胴を抱えると、足を止めずに駆け出した。

 甲殻人間から放たれた何かが、空洞の壁を破壊した。

 ミズキはそのさまを振り返ることなく、ひたすら全力で洞穴の外へと駆け抜けた。

 森へと逃げ込もうとするミズキの目に、洞穴の前に佇む一人の男の姿が映る。

 それは蜈蚣十顎(じゅうがく)が一人、雷翁の不破仁斎だった。

「おやじさま……」

 十萌は呟き、ミズキの腕から下りた。

 仁斎は何も応えなかったが、顔の(けわ)しさがほんの一瞬だけ安堵(あんど)に緩んだのを、ミズキは見逃さなかった。

「仁斎さま、お(しか)りは後でいくらでも受けます。今は一刻も早くこの場から離れましょう」

「ならぬ」

 仁斎の物言いは静かだったが、有無を言わさぬ意志を秘めていた。

「鎧霊に取り憑かれた者――蝓蠖(ゆご)を野放しにすることはできぬ」

 蝓蠖を封じ(しず)めることこそが不破の長たるおれの役目なのだ。仁斎の意志の正体は、頑ななまでの使命感だった。

 蝓蠖とは一体何なのか。どうして小源太があのような姿に変貌したのだろうか。ミズキが疑念を口にするより早く、十萌が反狂乱になって仁斎の腕に縋った。

「おやじさま、小源太をお助けください。あたしはどうなっても構いません。だから……」

 だからあの人を。十萌は涙を流し、幼子のように必死になって仁斎の手を引いた。無下(むげ)に払い()けられるのではないかというミズキの推察は、意外なことに裏切られた。

「安心せい。おれが何とかしてみせる。おまえも小源太も大切なおれの子たちだからな」

 仁斎は、泣きじゃくる十萌の頭に手を乗せると、あやすように優しく撫でた。

 驚き顔を上げる十萌が目にしたのは、久しく向けられなかった父の笑顔だった。

 何かを言おうと十萌が口を開こうとしたそのとき、洞穴の中から幽鬼(ゆうき)のような足取りで甲殻人間――蝓蠖と化した小源太が現れた。

「下がっていなさい」

 仁斎は再び十萌に微笑みかけると、顔に険しさを取り戻しながら蝓蠖を見やった。

 伝えなければ。十萌は焦燥に駆られながらそう思った。こんな機会はもう二度と訪れないかもしれない。ずっと()め込んできた思いを、今ここで口にしなければ。しかし、思いは溢れるばかりで何一つ言葉にすることができなかった。

「十萌さま」

 十萌の心情は痛いくらいに理解できたが、ミズキは心を鬼にしてその場から引き離した。

 ぎじゃぎじゃ。蝓蠖(ゆご)がムカデのような顎門(がくもん)を開く。月明かりに照らされるその姿は、さらなる異形となっていた。赤光を放つ両眼。カニとムカデが合わさった頭部。蜈蚣の命であった両腕はふた回り以上巨大化している。

「小源太よ、この期に及んで言い訳はすまい」

 仁斎が寂しげに語りかける。

「おまえが斯様(かよう)に魔道へと()ちたのは、全ておれの責任だ。おれは全身全霊を以て、おまえを止めてみせる」

 仁斎が雷翁の構えを取るのを見て、蝓蠖は怒りを剥き出しにした。

 まるで、最後までおれを否定するつもりかと叫んでいるようだった。

 ぎじゃっ。蝓蠖が腕を振り上げ、仁斎に飛びかかる。

 雷に匹敵する迅さだったが、仁斎は緩やかにかわし、蝓蠖の二の腕を掴んで放り投げる。

 蝓蠖は見かけによらぬ身のこなしで、空中で蜻蛉(とんぼ)を切ると軽やか着地し、すぐさま再度の攻撃に移った。

「むう」

 仁斎にわずかな動揺が走る。

 蝓蠖は、雷の俊敏さを以て連撃を放った。

 それは人の身には不可能な動作であった。

 連撃の三つまでは何とかかわしたものの、四撃目が仁斎の肩を(えぐ)った。

 鮮血が噴き出す。

「お、おやじさまッ」

「騒ぐでない」

 駆け寄ろうとする十萌を仁斎が一喝した。

「これは真の雷翁継承の儀。師弟以外が立ち入ること(まか)りならん」

 意志の力で出血を抑えると、仁斎は構えを取り直した。

 螺旋状に上がる気勢を見て記憶を取り戻したのか、蝓蠖も雷翁の構えを取る。

 立ち昇る二つの渦が激突した。

 蝓蠖は雷と翁を同時に行う攻めを打ち、仁斎は雷と翁を須臾(すゆ)の機で切り替えながらそれに応じる。

 攻防の果てに、やがて二つの渦が一つの大渦と化す。

 勝負を決しようと、蝓蠖が両腕を大きな(あぎと)の如く振るう。

 受けるもかわすも不可能な迅さと機だった。

 絶体絶命の仁斎は、あえて踏み込んだ。

 懐に入ると、合掌させた手を錐のように鋭く捻りながら、蝓蠖(ゆご)の胸を突いた。

 胸殻だけでなく内部の肉をも貫き、仁斎の手は蝓蠖の背から飛び出した。

 一瞬の静止の後、仁斎が腕を引き抜く。

 ごぼり。蝓蠖が赤黒い血を大量に吐いた。

 両眼の赤光が薄れ、体を支える力も失った。

 仁斎は蝓蠖の体を受け止めると、優しく地に横たえさせた。

 無言のまま、仁斎は動かなくなった蝓蠖を見つめた。

 その目に映るのは異形ではなく、手塩にかけて育てた愛弟子の姿だった。

 そしてその姿は、現実には二度と戻らない。

 逡巡の後、仁斎はその首を断とうと手刀を振り上げた。

 蝓蠖は不死であり、四肢と首を断ってから多重の呪で封じる必要があるからだ。

 断腸(だんちょう)の思いで首を落とそうとしたとき、何者かがその腕を止めた。

「いけませぬ、おやじさま」

 小源太どのを殺さないで。十萌が腕にしがみついていた。

「十萌……」

 仁斎が気を()らせた刹那、蝓蠖の眼に赤光がぎらりと灯る。

 それを見た十萌が声を上げる間もなく、仁斎の体がびくりと震えた。

 十萌が目を移すと、蝓蠖の腕が仁斎の腹を貫き返していた。

 蝓蠖がゆっくりと腕を引き抜いて立ち上がる。

 それと入れ代わりに、仁斎の体が地に倒れた。

「い、いやあッ」

 十萌の絶叫が夜気を切り裂いた。

 それを耳にした蝓蠖の赤光が揺らぎ、青へと移ろった。

「……ト……」

 トモエ……。顎門から漏れたのは、間違いなく小源太の声だった。

 意識を取り戻した小源太は、仁斎にしがみつく十萌を見た。

 仁斎の腹には大きな穴が開いている。

 異形として再生した腕は、血で濡れていた。

「マサ……カ……オレガ……」

 小源太は狼狽し、そして大きく慟哭した。

「こ……小源太……」

 息も絶え絶えの仁斎が口を開く。

「……己を……取り戻したのか……」

 さすがはおれの弟子……。その一言で、小源太は己への仁斎の思いを理解した。その態度と心中が裏腹なのは、十萌さまとの関係でよく知っていたはずなのにおれは復讐心に目を眩ませ、そのことを考えようとしなかった。おれは自分のことしか見えていなかった。

「ナゼ……」

 なぜ呪態を顕現させなかったですか。十顎である仁斎の呪態ならば、不死の蝓蠖ですら殺せるはずだった。しかし、仁斎は呪態ではなく生身の力と(わざ)蝓蠖(ゆご)と、いや小源太と対峙した。仁斎はあくまで師として小源太と向き合おうとしたのだった。

 異形の(まなこ)から溢れる涙は、赤い血の色をしていた。

「よいのだ……我が弟子よ」

 仁斎が震える手を持ち上げる。

 小源太がそれを握ろうとしたとき、周囲の茂みから声が上がる。

「いたぞ、いたぞぉッ」

 それは山狩りに出た源蔵たちだった。

「十萌さまはご無事だ。おお、ミズキどのまで」

 次々と現れる不破の者たちは、惨状に息を呑んだ。

「何だあの化け物は。成果(なれのはて)か」

「見ろ、仁斎さまが倒れてらっしゃる」

 不破の者たちには、異形の化け物が深手を負った仁斎にとどめを刺そうとしているようにしか見えなかった。

「ええい化け物、仁斎さまから離れろ」

 不破の男たちは有無を言わさず、小源太へと襲いかかった。

 小源太は弁解の余地なく跳び退いた。

「マ、マテ。オレハ……」

「その声色。さてはきさま、小源太だな」

「なに。人の身を捨ててまで恨みを晴らそうとするとは。見下げ果てた奴」

 五人もの不破の男が同時に放った雷が、小源太の体を痛めつける。

「や、やめて」

 声を上げる十萌を、源蔵が制止する。

「ウ……グ……ヤメテクレ」

 容赦のない攻撃にさらされた小源太の青い眼が揺らぎ、蝓蠖の赤へと戻る。

「危ないッ」

 それを見たミズキが飛び出そうとしたそのとき、蝓蠖の全身から夜色の光が放出された。

 攻め手の五人は、声を出す間もなく黒い閃光に呑み込まれる。

 黒い光が()せた後に残る者は、誰もいなかった。

 それが大空洞を崩落させたものだということに、ミズキは気付いた。

「グ、グオォ……」

 異形の両眼が明滅し、その度に赤から青へ、青から赤へと色が移ろう。

 それは蝓蠖(ゆご)の破壊衝動と小源太の意識が葛藤しているさまを如実(にょじつ)に現していた。

「小源太、小源太ッ」

 ミズキの呼びかけを聞き、最後に勝ったのは青だった。

 しかし、小源太は己がさらなる罪を重ねたことを知っていた。

 小源太の全身が黒い光に包まれる。

「オ……オレハ、モウ……」

 呟くと、小源太は夜の闇に掻き消えた。

 その後には、絶望しか残っていなかった。


「遅かったようね」

 もう、手遅れよ。小源太が消え失せた後に駆けつけた()()が首を横に振る。

「小源太……小源太はどこだ……」

 応えてくれ、もう目が見えぬ。仁斎の命はもはや風前の灯火(ともしび)。十萌は父の手を握ることしかできなかった。

「仁斎よ。小源太はすぐそこで眠っておるぞ」

 源蔵が痛々しいまでに優しい嘘をついた。

「……小源太の……姿は」

「おう。元の通り、生意気な小僧の(つら)に戻っておるわい」

 ふと、仁斎は安らいだ顔になった。

「おれは……もう助からん……」

「何を言う。おぬしが、雷翁の不破仁斎がこの程度の傷でくたばるものか」

「いいから聞け……源蔵」

「お、おう。何だ、仁斎よ」

「不破の里は……おぬしに任せる。おぬしが里をまとめ……次の里長を見出してくれ……」

「何だと」

「か、叶うならば……小源太か…………もえに……」

「何、今何と言った」

「…………」

「おい、仁斎。()くな。せめて――」

 せめて十萌さまにひと言残してやってくれ。源蔵の言葉はもはや仁斎の耳に届かなかった。

「さ……らば……」

 仁斎の目から光が消える。

「おやじさま……おやじさまぁっ」

 十萌が(すが)る父の体には、まだ温もりが残っていた。どうかこの温もりよ、消えないで。十萌の切なる願いを、天はやはり聞き入れなかった。

 父が冷たい亡骸になるまで、十萌は泣き続けた。

 払暁(ふつぎょう)を迎えた頃、ようやく泣き止んだのを見計らい、源蔵は十萌に声をかけた。

「さあ。里に戻って仁斎を弔ってやろう」

 自失したまま十萌は立ち上がる。ミズキがその肩を支えようとすると、源蔵が声を荒げた。

「何ですと。今何と仰った」

 その相手は志の歩だった。

「仁斎さまの御遺体はこちらでお預かりをすることになっている、と言いました」

蠎蛇(もうだ)にいかなる権限があってそのような無体(むたい)を仰られるのですか」

「権限などありません」

「ならば、聞き入れる必要はない」

「なりませぬ。これは仁斎さまの生前の遺言です」

「何、遺言だと」

 志の歩は懐から封筒を出し、源蔵に手渡した。

 中に書かれていたものを読み、源蔵の形相が怒りから驚きに変わった。

 ――万が一、我が死して後は、その亡骸(なきがら)を呪態研究所に預け、さらなる蜈蚣の繁栄の為の(いしずえ)とすること。源蔵はそう読み上げた。

(まさ)しくこれは源蔵の筆……」

「おわかりになられましたか」

 歯噛みしつつ、源蔵は無言で頷いた。

「ではさっそく。御遺体が痛むといけませんので」

 志の歩は不破の一人に仁斎を担がせ、来た道を戻って行った。

「死者の(とむら)いもさせぬとは、なんと横柄な。おれは志の歩どのを見損なったぞ」

 源蔵は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「仁斎も仁斎だ。何を考えていたのやら――」

「源蔵どの、いけません」

 ミズキに(いさ)められ、源蔵は十萌が(そば)に居たことを思い出した。

「す、すまぬ、十萌さま」

「……いいのです」

 十萌は虚ろな目でそう言うと、一人でふらふらと歩き出した。慌ててミズキはそれを追い、源蔵ら生き残った不破の者に護られながら不破屋敷へと戻った。

 十萌が(とこ)()くのを見届け、ミズキも自室に戻って横になった。


 ミズキが目覚めたとき、十萌の姿は不破の里から消えていた。

 おそらくは小源太を追って行ったのだろう。

 昨夜から続く絶望のせいで麻痺(まひ)したのか、ミズキの心は驚くほど静かだった。

 ミズキは独り、縁側から空を見上げた。

 心境とは裏腹に、澄み渡った碧空(へきくう)だった。

 あの空ですら、今にも崩れ落ちてくるではないだろうか。

 そんな思いを抱くほど、全てが壊れてしまった。

 小源太。十萌。仁斎。そして、ミズキ。

 誰一人として、他者を傷つけようとは思っていなかったはずだ。

 己だけでなく、己の大切な人にも幸せになってもらいたいと思っていたはずだ。

 なのに、どうしてこのような結果に行き着いてしまうのだろうか。

 ミズキの問いに答える者はなく、空はただどこまでも広がっていた。


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