第四章 喪失
ミズキは一人分の夕餉を盆に乗せ、仁斎の居室に向かっていた。
小源太が贄文吾に敗れてから三日が経っていた。小源太は全身に受けた切り傷のため高熱を発したものの、蜈蚣としての頑健さゆえ命に別状はなかった。ただし左目だけは別だった。治療に訪れた蠎蛇の真つ里は、失明は免れたが視力はほとんど戻らないとの診断を下した。
その小源太を寝ずに介抱したのはミズキではなく十萌だった。十萌は文字通り三日三晩寝ずに付き添い、熱が下がり落ち着くのを見届けるのと同時に気絶するように眠ってしまった。
十萌の献身を前にして、ミズキは小源太への気持ちに迷いを抱きはじめていた。
小源太に強く惹かれていることはたしかだった。今まで抑え込んでいた女としての自分を、生まれてはじめてさらけ出してもいい、小源太が強く求めるのならば貞操を捧げてもいいとすら、ミズキは思うようになっていた。
しかし、小源太が文吾に敗れたあのとき、ミズキは十萌のように声を上げることも駆け寄ることもせず、ただひたすらその姿を見つめるばかりだった。
そうさせたのは、骨の髄まで叩き込まれた役目だった。どれだけ親しい者が目の前で傷つき、命を失ったとしても、感情を乱してはいけない。それが役目にどのような影響を与えるかを考え、その上で最善の行動を取らねばならない。ミズキに与えられたのは雷翁を預かり無事に師の元へ戻るという役目。恋にうつつを抜かすことではなかった。
傷つく小源太を見たとき、葛藤するまでもなくあっさりと役目が感情を抑制した。ミズキは無意識に洞察眼で雷翁と舞鎌の遣い手の値踏みをし、蔦針の遣い手としてどう立ち振る舞えばいいのかを思考してしまっていた。そこまで役目に支配されていたとは露ほども思っていなかったミズキは、そのことを恐れるとともに自分は小源太を想い彼のために何かをする資格はないのではないのかと今も自問自答を続けている。
「仁斎さま、食事をお持ちしました」
「ああ、すまんな」
この三日、ほとんど自室にこもって思案をし続けていた仁斎は目に見えてやつれていた。
「小源太のようすはどうだ」
「穏やかに眠っています」
「そうか。それはよかった」
仁斎は十萌のことは触れない。それが薄情ゆえの態度ではないことにミズキは気付いていた。十萌を押さえた贄の弟たちに向けた言葉は紛れもなく娘を思う父のものだったからだ。
「十萌さまも安心してお休みになりましたよ」
「……そうか」
仁斎はそれまでに見せたことのない複雑な表情をした。
ミズキには、仁斎の秘めたる思いとは別にもう一つ気付いたことがあった。贄の二人に押さえられた十萌が取ろうとした挙動である。ミズキの洞察眼はあのときの十萌の腰の落とし方と微かな足運びをはっきりと捉えていた。
雷翁だ。あれは間違いなく雷翁の構えだった。小指の先ほどの資質もないはずの十萌が取った雷翁の構えは、少なくともミズキと同じ程度の顎の練りを持っていた。思い返してみると、会ったときは普通の少女だった十萌の日常の所作も最近は武術の心得のある者のそれに近しくなっていた。驚くほど明るくなったこととも関係しているのだろうか。
十萌は隠れて誰かに雷翁を習っている。ミズキはそう判断した。あのときの仁斎のようすから、その誰かは彼ではない。里の者でもないだろう。最も親しい源蔵でさえ、十萌の前では雷翁の話題を口にすることすら避けていた。
――だとしたら。残る可能性は一つだった。
十萌に雷翁を教えているのは小源太だ。ミズキと二人で過ごすとき、小源太はよく雷翁の継承後は仁斎と十萌の面倒を見ると話していた。決まって口にする、ゆくゆくはミズキと所帯を持ちたいという言葉に気を取られていたため聞き流していたが、あらためて考えるといささか無理のある話だ。
十顎でなくなれば、元の里長であろうとただの蜈蚣に戻る。年長者として敬われはするが、形式的な権力はなくなり、特別な扱いも受けなくなる。仁斎は新たな十顎の元で役目を果たす者となり、十萌は里長の娘ではなく、役目を持たないただの里の女になる。これは決して覆されることのない蜈蚣の不文律のはずだった。
小源太は、自分を拾って育ててくれた仁斎への恩返しとして十萌に雷翁を教えたのではないか。ミズキはそう思おうとした。
いや、違う。明言はしないまでも、仁斎がそれを望んでいないのは里の者すら察する周知の事実だった。そのようなことをしても恩を返すことにはならない。十萌が雷翁に近付くことを仁斎は望んでいない。それこそ資質がないと偽って継承者から外すほどに。ミズキは己の得た情報をつなぎ合わせ、そう推察した。では小源太はなぜ十萌に雷翁を教えていたのか。その答えを求めようとすればするほど、ミズキの心は泥濘に沈んでいった。
「馳走になった」
仁斎は食事にほとんど手をつけなかった。ミズキはそれを台所に下げると、粥を拵えて今度は小源太の部屋を訪れた。眠っているのだろうと無言で障子を開けると、横になって休んでいるはずの小源太が立ち上がっていた。
「何してるの……」
「おお、ミズキ」
顔の左半分を包帯で覆われながら、小源太は異様なまでに朗らかに笑った。
「安静にしてなきゃだめじゃない。やっと容態が落ち着いたばかりなのよ」
粥を乗せた盆を傍らに置くと、ミズキは小源太を床に戻そうとした。
「いや、平気だ。びっくりするくらい調子がいいんだ」
これのお陰かな。小源太が摘んだ小袋は、治療を終えた真つ里が置いていった薬だった。
「すごい効き目だ。志の歩のがおれのために処方してくれたらしい」
ミズキの目にも、小源太の全身に以前にも増す活力が溢れているのがわかった。一体どんな薬だったのだろうか。ミズキの心に浮かんだのは、安心よりも疑念の方が大きかった。
「もう大丈夫だ。次は負けない」
一つ残った目に、暗い光が灯った。小源太は贄文吾への意趣返しを考えている。己が雷翁の継承を終えた際の十顎行脚をその機とするのだろう。
ミズキの顔が曇るのを認めた小源太は、気遣いの言葉をかけた。
「おまえにも心配をかけた。すまなかった」
小源太は腕を広げ、ミズキを抱き締めた。その力強さは、自信に溢れているようでありながら、触れれば崩れる危うい脆さに支えられていた。
小源太が重ねてきた唇は、微かに震えていた。
このひとは、自信を裏付けてもらいたがっている。ミズキはそう理解した。自分の力を、いや存在そのものを認めてもらいたがっている。その相手は誰でもいいというわけではない。
小源太の求める裏付けは言葉ではなかった。小源太は己の全てを、ミズキに受け入れてもらいたいと思っているのだった。
今まで生きてきて、誰かにこれほど必要とされたことはあっただろうか。ミズキの中の女が歓喜に揺れるが、やはり役目が脳裏を過ぎってそれを留めてしまった。
「だ、だめ……」
突き放そうとするミズキを、小源太は無理矢理押し倒した。
「いやっ」
小源太は嫌がるミズキの乳房を掴み、強引に唇を貪った。
脱がそうと上着に手がかかった瞬間、ミズキは小源太の頬を強くはたいた。
「本当に……やめて……」
小源太は呆然とし、そして叱られた子どものように顔相を崩した。
「どうしてだ……どうしてだよ。言ったじゃないか」
おまえはおれのことが好きなんだろ、おれのことが大切なんだろ。言葉が重ねられる度、ミズキの心は小源太から遠ざかっていった。
「……ごめん。あたしは、あなたの願うようにはしてあげられない」
堪らない気持ちになり、ミズキは小源太から目を背けた。
肩を掴む手に力がこもり、そして緩んだ。
小源太はミズキに覆い被さるのをやめ、身を起こした。
裸足のまま庭に下り、垣根を飛び越えて屋敷の外へと駆け出していった。
その背を、ミズキはただ見ていることしかできなかった。
夜の帳が下りた森の奥にはおびただしい数の成果が蠢いている。そのため屈強な不破の者たちですらそこには近付こうことはしない。しかし小源太は目を血走らせながらその深奥へと独り入り込んでいた。
ミズキとよく戯れた川の上流で、びしゃびしゃという音とともに巨影が現れた。四足と太い尾を持ち、ひしゃげた円形の頭部。サンショウウオによく似た成果だった。
ふしゅふしゅふしゅ。サンショウウオは目の代わりに生やした触角の襞を震わせ、小源太の位置を捉えるや巨体を躍らせた。
どうしておれを認めない。小源太は隻眼をぎらぎらと輝かせながら、翁の足取りで緩やかにそれをいなすと、舞鎌の刃を走らせた。
ふしゅっふしゅっ。右前足を断ち切られバランスを崩したサンショウウオは、上体を這いずらせながら向き直り、小源太へと大きな舌を伸ばした。
小源太は迫る舌を舞鎌で切り刻みつつ、サンショウウオの本体へと詰め、そのまま電光石火の一撃を頭部の中心に叩き込む。
めきょりと頭蓋を砕き、拳が脳に食い込んだ。
小源太は腕をさらに深く押し込み、脳髄を断つ。
サンショウウオは数分間びたびたともんどり打った末、動くのをやめた。
おれは強い。こうやって独りで成果を仕留めることだってできる。なのに、どうして誰もおれを認めようとしないのだ。小源太は慟哭した。
背後からもう一つの気配。振り向くと、そこには棘だらけのカエルの成果が今にも飛びかからんとしていた。
ぐきょぐきょ。カエルが大きく跳躍する。
小源太はとっさに身を翻してそれをかわすが、棘の一本が右の肩口をかすめた。
小源太は傷の具合を確かめながら距離を取った。
傷は深くはないが、あの棘は厄介だ。生身で打ち込むのは上手くない。そう判じると、小源太は速やかに呪言を発して呪態を顕現させた。
間を置かず、硬質化した両腕で顎を放った。
舞鎌が数十ある棘の半分を根元から切り落とす。
露わになった部分へ、雷を打ち込んだ。
ぐきょきょっ。切り落とした棘の痕から青黒い液が噴き出す。
小源太は開いた傷口にもう一本の腕を滑り込ませ、カエルの体を真っ二つに引き裂いた。
「おおおおぉッ」
深い森に、哀切な雄叫びが谺する。
小源太はそのまま森を駆け、さらに二体の成果を始末した。
そこで動きが途端に鈍り、体が重くなる。呪態の反動とカエルの成果の毒液の効果だった。
このような異形を生み出す妖物とは一体何なのだろうか。覚束なく歩きながら小源太は考えた。成果は妖物に寄生された生き物の変わり果てた姿と聞くが、小源太はその妖物を見たことがなかった。小源太ばかりでなく、里の者の全てが妖物の姿形の一切を知らない。
唯一人、仁斎だけは妖物についての知見を持っている節があったが、一度たりとてそれを口にすることはなく、里の者も訊ねようとはしなかった。不破の役目は成果を外に出さぬことであり、妖物の正体を暴いてそれを滅することではなかったからだ。妖物を滅ぼし、成果が現れなくなったそのとき。それはつまり不破の役目が終わりを迎えるときである。たとえ命を懸けた暮らしであっても不破の者たちはそれを生きる目的として在り続けてきた。己の存在意義を失わせるような愚挙を犯す者は誰一人としていなかったのである。
小源太は異形の腕を戻すことなく、近くのヒノキに体を凭れかけた。
おれはこのまま死ぬのだろうか――嫌だ。まだ何も手に入れていない。成し遂げていない。
雷翁は身に着けたが、十顎にも不破の里長にもなっていない。憎い贄文吾への意趣返しも果たしていない。仁斎さまへの恩返しも、ミズキをおれの女にすることも、まだ……。
己を拒絶するミズキの顔を浮かべ、鋭い心の痛みが鈍い体を駆け抜ける。どうして、どうして。おまえだけはおれの全てを認めて、受け入れてくれると思ったのに。
悲嘆と絶望に暮れる小源太の心に最後に浮かんだのは十萌の姿だった。
文吾から受けた傷が高熱を発したとき、朦朧とする意識の中で小源太は十萌が命を削るように手当てをしてくれたことに気付いていた。それは兄への親愛の情ではなく、愛する男への思慕の結晶だということにも。己に対する十萌の気持ちには、前から気付いていた。気付いていて見ないようにしていた。後ろめたさがあっただけではない。後ろめたいのならば、十萌を娶ることが最善の選択だった。それは里長でなくなった後の父娘の立場を守ることにつながるからである。小源太が十萌の想いに応えようとしなかったのは、何より仁斎がそれを望んでいなかったように感じたからだ。情に篤い仁斎が十萌にだけ厳しい態度を取る理由は、顎を継承する資質がないからではないことに小源太はうすうす感付いていた。
むしろ逆に、仁斎さまは十萌さまを雷翁から……いや、不破の役目や蜈蚣そのものから遠ざけようとしてらっしゃる。それは五年もの間、里の誰よりも父娘を見てきた小源太だからこそ気付いたことだった。大恩ある師の思いを知っていながら、小源太は十萌に雷翁を教えた。ミズキとの仲を知り、それまで溜めていた感情に押し潰されそうな十萌を目にし、小源太はひどく悩んだ。十萌の想いに応えることはできない。仁斎への気遣いは別としても、小源太の気持ちははっきりとミズキに向いていた。里長となり、ゆくゆくはミズキを妻に迎えようとすら考えていた。しかし、長くともに過ごした十萌を見捨てることはできなかった。
懊悩の末、小源太が行き着いた結論は、十萌に雷翁を教えるというものだった。もちろんそれを選択するかどうかは十萌次第である。十萌が雷翁修得を望んでいなかったら、小源太への想いゆえ申し出を断ったら、きっぱりと諦めようと思っていた。
できる限りの誠実さを以てぶつかった結果、十萌はそれに頷いてくれた。小源太が想いに応えないことを理解した上で、十萌は申し出を受け入れたのだった。
以後ひと月、小源太は時間を見つけては十萌に雷翁の手ほどきをした。仁斎はもちろん、里の者の誰にも悟られぬよう細心の心がけをし、ミズキとの逢瀬の時間を削ってまで十萌に顎を伝えた。意外にも十萌の覚えは良かった。資質がないどころか、ひとかどの遣い手になり得るほどだと小源太は驚いた。と同時に、やはり師は故意に十萌を雷翁から遠ざけているのだという確信を得たのだった。十萌に資質があったとはいえ短い時間で伝えられることは多くなかった。十萌に教えられたのは、基礎である翁の歩法と身のこなしの初歩のみだった。
おれがここで斃れたら、十萌さまは宙に浮いたまま過ごすことになってしまう。下手に希望を与えてしまった分、それを失ったときには今まで以上の絶望に打ちひしがれてしまうかもしれない。おれには、十萌さまに責任がある。最後まで雷翁を伝えるという責任が。
重い体を起こそうとしたが、ぴくりとも動けなかった。意志があってもそれを支えられぬほど、小源太の心の根元は折れてしまっていたのだった。
「おれは、もうだめだ……」
全身の痛みが、心地よい倦怠感に変わっていく。
このまま静かに消えていこう。諦念に包まれた小源太の目に人影が映る。
「捜したわよ。こんなところまで来ていたのね」
月明かりが照らすのは、理知的な女の顔だった。
「存在する理由を見失ってしまったのね。かわいそうに」
女は小源太の顔を抱き締めた。
「安心なさい、坊や。わたしが付いているから」
小源太は、縋るように女に全てを預けた。
夜明け前の彼誰時、小源太と十萌は森に入り、雷翁の修行を行っていた。
間断ない小源太の攻めを、十萌はひらりひらりとかわし続ける。いかに手加減を加えているとはいえ、その動きは見事なものだった。
小源太が攻め手を止め、間合いを取った。十萌はわずかに戸惑ったが、それは攻守の交代を意味しているのだと悟り、攻め手に回った。
十萌は全力で小源太を攻めた。もちろんかすりもせず、守りに比べて精彩に欠けていたものの、攻めの基本は着実に固まりつつあった。
十萌の拳をかわしざま、小源太が不意の反撃を繰り出す。喉笛へと迫る手刀を認めた十萌は、とっさに足を運んで紙一重で避け、のみならず小源太の脇へとしたたかな一撃を加えた。全て無意識下の動きだった。
我に返った十萌が慌てて構えを解く。
「ご、ごめんなさい」
謝る十萌に、小源太は微笑みかけた。
「お見事です、十萌さま」
鍛えておりますゆえ、お気遣いなく。柔らかく笑む顔の左目には眼帯が着けられていた。
「いつぞや、おれもここではじめて仁斎さまの体に触れることができたのを思い出しました」
それを聞き、十萌は踊り出したくなるほど嬉しくなった。
「朝餉までまだしばらくありますね。少し話をしましょうか」
二人は腰を下ろした。小源太は仁斎の顎の切れや雷翁における電光石火の動きのコツ、呪態顕現時の戦い方などを十萌に語って聞かせた。話の内容よりも、その活き活きとした話しぶりを見られることが、十萌の何よりの喜びだった。
贄文吾に受けた傷による高熱が引いた後、小源太は十日ほど姿を消していた。
看病疲れで丸一日の眠りから目覚めた十萌は体の傷以上に心に負った痛手が深いため、呪態研にて治療が施されているのだと聞かされた。
気が気でない日々を送った十萌だったが、戻ってきた小源太の健やかなようすを見て胸を撫で下ろした。それからの小源太は、以前にも増して雷翁の修練に打ち込み、成果の討伐に精を出した。鬼気迫るその姿を心配するとともに、雷翁の手ほどきをする時間は取ってもらえるのだろうかと不安を抱いたが、それは杞憂だった。
小源太はなぜかミズキと疎遠になっていた。一つ屋根の下に暮らし、ともに食卓を囲み、世間話はするのだが、二人きりで逢うようなことはなくなっていた。ミズキと逢っていた時間が、そのまま十萌に費やされるようになったのである。
十萌はそれを素直に喜んだ。よくよく考えてみれば、ミズキは顎分けのために不破の里に赴いているのであり、それが済めば元の役目に戻る。おそらくは蔦針を継承し、十顎となるのだろう。十顎同士の婚姻は認められていない。つまり、二人は超えられない蜈蚣の定めを思い知り、一時の気の迷いと気持ちに区切りをつけたのだろう、と。
「最後の儀はいつ頃になるのですか」
十萌が訊ねる。雷翁の継承が成されるときは目前に迫っていた。
「程なくではないかと。今夕に会合がありますので、そのときに詳細がわかると思います」
「楽しみですね。小源太どのならきっと、おやじさまに負けぬ立派な里長となるでしょう」
十萌の心からの笑顔を、小源太ははにかみながら受け止めた。
それは十萌のそれまでの人生で最も幸福な瞬間だった。
しかし、それは全てを崩壊させる嵐を前にした短い凪でしかなかった。
「なぜだ、なぜですか」
小源太が激昂し、仁斎に詰め寄る。
「答えてください、仁斎さま。今になって雷翁の継承を取りやめるなどと、どうして」
不破の役目に就く者が一同に介する会合の席で、仁斎は開口一番に小源太が十顎として不適格であると言い放った。
「一同さまも、納得済みなのですか」
何の前触れもない言葉に小源太は激しく動揺したが、事前に通達がされていたのだろう、小源太を除く里の者は誰一人として反駁の声を上げなかった。
「おれは雷翁のために全てを捧げてきました。おれを見出してくださった仁斎さまに少しでも近付き、ご恩返しをしようと努力してきました。なのに、どうして」
悲痛なまでの訴えに、仁斎はあくまで沈黙を通す。
「仁斎はおまえの心根に難があると判断したのだ」
見かねた源蔵が口を開いた。
「どういう意味ですか」
「先に贄文吾さまが来訪された折、手合わせという名目で私怨を払そうとしたそうだな」
「それは……」
小源太の反論を遮り、源蔵は続けた。
「己が雷翁を継承した後の行脚において、意趣返しをしようと画策しておるのではないか」
図星を突かれ、小源太は言葉を失った。
「たしかに文吾さまは人品が卑しいかもしれん。だが、人としては劣っていても十顎として認められたことには変わりがない」
「源蔵どのは、あのような下劣な輩が十顎であっても構わないと言うのですか」
「構うも構わないもない。それはおれ如きが、いや、蜈蚣の誰であっても異を唱えてはならぬ決まりごとなのだ」
「それはおかしい。我ら蜈蚣は古えから伝えられた役目を、手に手を携えてこなしてきた。あいつはいつかその結束を綻ばせるでしょう」
「まだわかっておらんようだな」
源蔵は深く嘆息した。
「今の己を省みてみろ。分を弁えずに十顎の一人に私怨を抱き、あまつさえそれを行動に移そうとしているのだぞ。文吾さまよりも今のおまえの方がよほど危険な存在ではないか」
小源太の頭に、かっと血が昇る。
「おれを危険だと仰るのか。これまでともにこの里で暮らし、ともに成果を討ち果たしてきたこのおれを、信じられないと仰るのか」
あまりの剣幕に、源蔵は口ごもった。
「そ、そうは言っておらん」
「ならば、なぜ。源蔵どのだけではない。この場にいる誰よりも、おれはこの里のために努力をしてきた。雷翁だとて、おれが一番上手く扱えるのですぞ。このおれが――」
「見苦しいぞ!」
仁斎が一喝し、場はしんと静まり返った。
「黙って聞いておれば、小僧の分際で図に乗りおって」
日頃は温厚な仁斎が言葉に怒気を込めるのを、居合わせた全ての者が息を呑んで注視した。
「誰よりも努力してきただと。雷翁を誰よりも上手く扱えるだと。思い上がりも甚だしいぞ。きさまのその心根が不適格だと申したのだ」
仁斎は立ち上がり、力任せに障子を引き開けた。
「不服ならば、稚拙な言でなく腕を以て示すがよかろう。庭に出ろ、相手をしてやる」
源蔵が狼狽しながら押し留めようとする。
「いや、待て仁斎。それは――」
「黙れ源蔵。いかなおぬしとて里長に、十顎であるこの不破仁斎に異議を申すことは許さん」
仁斎が立場を振りかざして周りを黙らせるなど、数十年来の付き合いのある源蔵ですらはじめて見る姿だった。
庭に下りた仁斎が、小源太を睨みつける。
「自惚れた小僧めが。そんなに十顎の座が欲しいのならばこのおれを殺して手に入れてみろ」
歯噛みしつつ小源太が立ち上がる。
「いかん、小源太。それだけはいかんぞ」
「止めないでください、源蔵どの。これは継承の儀なのです」
小源太も庭に下り、仁斎の眼を睨み返した。
「よかろう。聞け、みなの者。これより雷翁継承の儀を執り行う。何人たりとも手口を出すこと能わず。この儀がいかな結末を迎えたとて、異議なくそれに従うことを約束せよ。それができぬ者は、即座にこの里から立ち去れ」
一同は動揺しつつも、仁斎の言葉を聞き入れざるを得なかった。仁斎さまは本当に小源太を殺すおつもりなのか。いやもしや、わざと小源太の手にかかろうとなさっているのかもしれない。各々さまざまに思案を巡らせながら、事態の趨勢を見守った。
「……参ります」
小源太が緩やかに間合いを詰め、そして攻めた。翁の動作の中でありながら、ともすれば並の遣い手の雷に匹敵するほどの威力である。
仁斎はそれを難なくかわすと反撃に移った。先手に勝る鮮やかな動きであったが、小源太もその全てをかわした。
攻守がたちどころに入れ替わるそのさまは、まるで見事な舞を眺めるようであった。
雷翁は一つ身にて成さず――一同の頭にその口伝が浮かんだ。ほとんどの者がそれは成果に対して複数人にて立ち向かうことを指しているものだと思っていたのだが、師弟の攻防を目の前にして真の意味を理解した。双つ身が一対となる、それが雷翁の真髄であった。
それを裏付けるかのように、小源太と仁斎の気勢は螺旋を描くようにいや増していく。
螺旋が天を衝き抜けたそのとき、雷が迸った。
放ったのは小源太である。
小源太が最高の一撃だと思った電光石火を、仁斎は諸手を合掌させて止めた。
「きさまの拳なぞ、おれには届かぬ」
仁斎が溜め込んだ意気を解き放つ。
小源太は腕ごと全身を捻られ、宙に放り出された。
いつぞやとは異なり、指一本すら動かせなかった。
隙だらけの胸元を、仁斎の雷が突き上げる。
声を上げることもできず、小源太は無様に地に落ちた。
身を起こそうとした小源太の口から多量の血がこぼれた。
「この程度か」
四つん這いになったままの小源太を一瞥し、仁斎は背を向けようとした。
「……お、お待ちください」
小源太がよろよろと立ち上がり、構えを取った。
「すでに結果は出たというに。潔くはないが、執念だけは買ってやる」
仁斎は受けるように構えた。
小源太は初手と同じく距離を詰め、攻めた。
「莫迦の一つ覚えか」
手早く勝負を決めようと仁斎が意気を拳に込めたそのとき、小源太の体が掻き消えた。
舞鎌の身のこなしである。
幾条もの見えない刃が仁斎を襲う。
「ふ、底が知れたな」
仁斎は翁の動作で刃の全てをあっさりいなすと、今一度小源太に雷を叩き込んだ。
小源太は再び地に倒れた。
「贄の若僧に通じたからと、得意になったか。浅はかにもほどがある」
一つの顎も極められぬ者が他に手を出すなど笑止千万。仁斎は冷たく言い放つ。
「贄の里にて舞鎌の真似事をするきさまを見、その資質を見込んで取り立ててやったが、おれの見込み違いだったようだな。拾い損だった」
きさまなぞ要らぬわ。その一言が、小源太の全てを否定した。
ぶつぶつと譫言を口にしはじめた小源太に構わず、座敷に戻ろうとする仁斎の背に殺気が届いた。
「やめろ、小源太ッ」
源蔵が叫ぶ。
小源太は呪態を顕現させていた。
異形の両腕が、正しく顎のように仁斎を捉える。
その刹那、横から閃いた刃が小源太の両腕の肘から先を両断した。
小源太は呆然としたまま、己を拒絶した師の背にぶつかり、すぐさま不破の者たちに取り押さえられた。
「余計な手出しは無用と言ったはず」
仁斎が言う相手は、右腕を異形の刃に変えたミズキだった。
「わたしは不破の者ではありませぬゆえ」
呪態を解いたミズキの腕から、小源太の血がしたたり落ちる。
「そうであったな」
言いながら居室に戻ろうとする仁斎の目は、深い哀しみを湛えていた。
切り落とした小源太の腕を拾い上げようと、ミズキは手を伸ばす。
しかし、それを忌避するかのように腕は形を崩し、瞬く間に塵へと帰してしまうのだった。
そのとき十萌は一人で雷翁の鍛錬を行っていた。里長の娘として会合に出席することはできたが、あえて屋敷から離れた場所で小源太の洋々たる前途を祈念しようと思ったからである。すぐに小源太が色良い知らせを携えてやって来る。二人でその喜びを分かち合うのだ。十萌はそんな空想に耽りながら待ち続けていた。
しかし小源太は来なかった。日が落ちた頃にとぼとぼと帰宅した十萌が耳にしたのは、最悪の知らせだった。雷翁継承の儀の日取りがわかるはずの会合で、なぜか小源太は仁斎と立ち会うことになり、そして無惨に敗れて両腕を失った。腕を断ったのはミズキだという。
どうしてそんなことに。十萌が訊ねても、仁斎はもちろんのことミズキはおろか源蔵さえ口を堅く閉ざした。唯一つ、小源太が里外れの岩牢に入れられたとだけ知らされた。牢番以外は顔を見ることも許されず、仁斎直々の命を受けたその牢番を懐柔することは不可能だった。十萌は小源太に会うために五日を費やしたが、何をしても全てが徒労に終わった。
思案した末、十萌は蠎蛇を頼ることにした。蠎蛇の姉妹だけは治療を行うため小源太に直接会うことを許されていたのだった。
十萌はまず、真つ里の施呪室に赴いた。真つ里とは歳が近く、呪態研が建てられたばかりのときに何度か遊んだことがあった。真つ里の仕事が忙しくなってからは疎遠になってしまったが、十萌にとっては数少ない親しみを覚える友人の一人だった。
「他ならぬ十萌ちゃんの頼みだから、叶えてあげたいところなんだけど」
ごめんね。真つ里は済まなさそうに言った。
「どうして。真つ里ちゃんなら何とかなるでしょう」
十萌は食い下がったが、真つ里の返事は変わらなかった。
「わっちじゃ無理なんだよ。小源ちゃんの治療をしているのはちーネエなんだ。ちーネエは自分の仕事を邪魔されるのを何よりも嫌がるんだよ」
「なら、志の歩どのに頼めばいいのね」
十萌は真つ里以外の蠎蛇姉妹が苦手だった。近頃姿を見せない長姉の於ぼ路は絶えず色気を振り撒いていたし、ちーネエこと志の歩は冷酷な感じがして取っつきにくかった。
「むーり無理無理、絶対無理。そんなことちーネエに言った途端、無下に断られた上に実験体にされちゃうよ。だからやめなよ、ね」
必死に止めようとする真つ里を振りほどき、十萌は施呪室を出ようとした。
がちゃりとドアを開けると、そこには当の志の歩が立っていた。
「ちちちちーネエッ」
はわわ。真つ里は狼狽するあまり、施呪用の寝台に飛び込み、カーテンを閉めた。
十萌はごくりと唾を飲み、志の歩に話を持ちかけようとした。
「あの、志の歩さま。お頼みしたいことが――」
「いいわよ」
十萌の話をみなまで聞かず、志の歩は即答した。
「そんなこと言わずに、お願いしま……って、今なんて」
「同じことを何度も言わせないで。小源太さんのところに連れて行って欲しいのでしょう」
いいわよ。志の歩は静かにそう言った。
「あ、ありがとうございます」
「ただし、見つかった場合はあなたが全ての責任を取ること。これだけ約束して」
「はい、もちろんです」
十萌は泣き出しそうなくらい喜んだ。
「ち、ちーネエってば、どういう風の吹き回しなのさ」
真つ里はカーテンの隙間から顔を覗かせた。
「真つ里、あなたにも手伝ってもらうわよ」
それとも実験体の方がいいかしら。冷たい瞳に射抜かれ、真つ里は総毛立つ。
「は、はひはひ。何でも手伝わさせていただきまふ」
「よろしい。では十萌さま、さっそく今から向かいましょう」
志の歩はそう言うと、空を切るように白衣を翻した。
岩屋のように組まれた巨石の前に牢番の若い男が退屈そうに立っている。
十萌と真つ里はひとまず身を隠し、志の歩だけが岩牢に向かった。
「ご苦労さま」
「いえいえ、志の歩どのこそ」
緊張に背筋を伸ばしながら牢番が答える。
「小源太さんのようすはどう」
「昨日とほとんど変わりません。牢の中でじっとしています」
「食事は摂っているのかしら」
「いえ。志の歩どのがお持ちになる薬と一緒に水を飲むくらいです」
「そう、それは心配ね。入ってもいいかしら」
牢番は慌てて道を開ける。
志の歩が地下牢へ下りたのを見計らい、真つ里が牢番のところへ歩いていった。
「よーよー、がむばってるねえ」
「あれ、真つ里ちゃんじゃないか。どうしたんだい」
日頃から呪を施されているためか、牢番の口調は一転して親しげになった。
「へへー、今日はちーネエのお供なのさっ」
「偉いもんだ。普段の仕事も忙しいだろうに」
「それはお互いさまってもんだ。わっちはがむばっている若者が好きだよ」
「そ、そうかい」
牢番はだらしなく顔を弛緩させた。
「ようし、ご褒美にわっちがきみの具合を診てしんぜよう。ささ、上着を脱いで脱いで」
「え、今ここで」
「何だ何だ、この恥ずかしがり屋めえ。しょうがない」
じゃあ、あそこの茂みに行こうか。真つ里に手を引かれ、牢番はまんまとその場から離れてしまった。
十萌は真つ里に感謝しつつ、小走りで地下牢に入っていった。
小源太の他に、牢につながれている者はいなかった。仁斎が里長になってからの十数年、罪を犯す者など現れなかったからだ。
小源太は三つ並ぶ内の一番奥にある牢に入れられていた。
十萌がそこへ歩いていくと、鉄格子の中から志の歩が出てきた。
「小源太どのの容態は」
十萌が小声で問いかけると、志の歩は冷静に頷いた。
「少し弱っているけど、命に関わるほどの衰弱はしていないわ。話も普通に――」
志の歩の言葉を最後まで聞かず、十萌は牢に駆け込んだ。
巨岩をくり貫いた牢の中に、小源太は胡座を掻いていた。
「小源太どのっ」
昂ぶる気持ちの促すまま、十萌は小源太の首に抱きついた。
「と、十萌さま。どうして」
「志の歩どのと真つ里ちゃんが力を貸してくれたの」
戸惑う小源太のようすがたまらなく愛おしい。そのまま唇を押しつけてしまいたかった。
十萌の目に、半ばで断たれた両腕が映る。喜びが一転、深い悲しみがせり上がる。
「どうしてこんなことに……」
十萌は大粒の涙をこぼした。
「おれにもわかりません」
小源太の声は苦く、重かった。
「源蔵どのが言うには、おれが贄文吾に私怨を抱いていることが理由だと」
「そんな、そんな理由で……。小源太どのは今までこの里のために尽くしてきたのに」
十萌の言葉に、小源太は力なく笑った。
「いえ、言われたことにも一理あるのです。たしかにおれは文吾を恨み、復讐を考えていた」
「でも、それは不破の里にいらっしゃる前からのことではありませんか。この五年の間に一度も問題にしなかったのに、今になってそんなことを言い出すなんておかしいです」
「ええ、そうですね」
ですが、もう全て終わってしまったのです。小源太が自嘲するように呟くのを耳にし、十萌はそれ以上何も言えなかった。
「この五年、いい夢を見させてもらいました。生き地獄のような毎日から抜け出し、家族の暖かみも知ることができた。のみならず、雷翁の継承という生きる目的も与えていただいた」
おれのような野良犬には、過ぎたくらいの夢でした。言葉の最後がか細くなり、そして小源太は嗚咽を漏らして哭いた。
「そんなこと、仰らないで」
十萌は、小源太を優しく抱き締めた。
「あたしは、あなたにお会いできて嬉しかった。この里で誰にも必要とされなかったあたしに、あなたはいつも笑顔を見せてくれた。あなたはいつも、あたしの心を救ってくれていたのです」
だから、夢だなんて仰らないでください。小源太は、己にとっての雷翁がそうだったように、十萌には己が唯一の希望だったということを知った。
「ありがとう、十萌」
名を呼び捨てにされて驚く十萌に、小源太は唇を重ねた。
はじめて、二人の気持ちが一つに重なった。
刹那と永遠の間を揺蕩う二人の耳に、こんこんと壁を叩く音が聞こえた。おそらく足止めが限界だという志の歩からの知らせだろう。
それを聞き、小源太が眦を決する。
「十萌、おれと一緒に逃げよう」
わずかに逡巡するが、十萌も意を決し、大きく頷いた。




