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らいおう  作者: 久手野数馬
第一部 雷翁
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第三章 相思相克

 じゅらじゅらじゅら。光る川面(かわも)から巨大なナメクジが飛び出した。粘液に包まれたその身のところどころに裂傷が走っている。

「そっちに行ったぞ、ミズキ!」

 ナメクジを追うように小源太(こげんた)が姿を現した。両腕はすでに呪態(じゅたい)顕現(けんげん)させている。

「わかったわ」

 ミズキが洞察眼を発揮してナメクジを見透かす。前に倒したダンゴムシとは逆に、軟体だからこそ弱点が少ない。洞察眼が示したのは、水中で小源太がつけた傷だった。(すみ)やかに呪態を顕現させたミズキは、最も大きく深い傷に異形の腕から全身ごと突っ込んだ。

 じゅらじゅらじゅ。異物に入り込まれ、ナメクジは身もだえした。

「暴れるんじゃねえ。ミズキが潰れっちまうだろうが」

 小源太は雷翁(らいおう)独特の歩法でのたうち回るナメクジに近寄り、その頭部に電光石火の一撃を放った。(おきな)のように舞い(いかづち)のように貫く。これが雷翁の名の所以(ゆえん)だった。

 ナメクジの体内で小源太の手が何かに触れる。呪態化していない方のミズキの腕だった。小源太はそれを掴むとひと息に引っ張る。ミズキは刃と化した腕を立てながら小源太の力に身を任せた。

 じゅらじゅう。内側から斬り裂かれ、ナメクジの成果(なれのはて)は絶命した。


「うひゃあ、べっとべと。気持ち悪い」

 上着を()ごうとするミズキが、小源太の視線に気付いて手を止めた。

「こら、すけべ」

「失敬だな。おまえが勝手に脱ぎ出したんだろ。大体、おまえの裸なんぞ見たって嬉しくも何ともねえや」

「そういうことは、見てから言ってよね」

 ミズキはぱっと着衣を脱ぎ払う。その(いさぎよ)さに、小源太は思わず目を背けてしまった。

「あら、あまりの美しさに目が潰れてしまったのかしら」

「う、うるせえ。ハンペンブスの裸なんて見たら目が(けが)れちまうからだよ」

「何ですって。どの口がそんなことを言うか」

 この口かあ。ミズキは小源太の頬をつねり上げる。

「ひ、ひてぇ。はにふんはほほやほー」

 手を剥がそうと小源太がもがく。

 すると――つるり、ざぶん。二人は足を滑らせ、頭から川に落ちてしまった。

 川面から小源太が慌てた顔を出すが、続いて出て来たミズキが再び川に沈めてしまう。

 小源太は水中でミズキの足を抱え、引きずり込む。

 じゃばじゃばとしばらくそうやって(たわむ)れた二人は、同時に顔を出した。

「ぶはあ。おまっ、おまえ、途中から本気になってたろ。死ぬかと思ったぞ」

「あんたこそ、どさくさに紛れてあたしの体触ったじゃない」

「何だと」

「何よ」

 二人はにらみ合い、そして額をごつんとぶつけて笑った。

 ふと笑いが収まり、視線が柔らかく絡む。

 盛夏の陽射しとセミの鳴き声が二人の意識から遠ざかっていく。

 世界で二人きりとなった男女は体を寄せ、そして唇を合わせた。


 がさり。


 茂みが揺れる物音。二人は現実に引き戻された。

「もしかして、まだ成果(なれのはて)が……」

「イノシシかなんかだろ。おかしな気配がなくなったから戻ってきたんだよ」

 川から上がった二人は、服の汚れを洗い落とし、乾くのを待つ間にもう一度唇を重ねた。

 小源太の手が乳房(ちぶさ)に触れる。そのまま下腹へ向かおうとする手をミズキは押し留めた。

「だめ」

「どうしてだよ。こないだだってそう言ったじゃないか」

 小源太はおあずけを食った犬のような情けない顔をした。

「だって、まだ早いよ」

 ミズキが不破の里にやって来てひと月が経とうとしていた。各地を転々としていただけあってミズキの順応性は高く、あっという間に里の一員として認められ、こうして成果の討伐にも加えられるようになっていた。。蔦針(つたばり)の基礎があるため雷翁(らいおう)の伝授も順調で、その呑み込みの早さは仁斎(じんさい)が舌を巻くほどだった。

 同じ不破屋敷に寝泊まりしていることもあり、小源太との距離も程なく近付いた。小源太が想いを伝え、ミズキがそれを受け入れたのは十日前のことである。

「ちぇ」

 小源太はぶすったれてそっぽを向く。

 ミズキは無数の傷が刻まれたその背に頬を寄せた。

「あなた、変わったわ」

 (にえ)の里でつけられたという傷痕を指先でなぞりながら、ミズキは呟いた。

「どういう意味だよ」

「怒らないでよ。いい意味なんだから」

 ミズキの言うとおり、小源太は変わっていた。ミズキがはじめに抱いた小源太の印象は聡明(そうめい)過ぎるというものだった。気付かなくていいことに気付き、見なくてもいいものが見えてしまう。他者に思いやりをかける反面、自らの弱みは決して見せない。ゆえに多くの感情を抑圧(よくあつ)し、それがいつ爆発してもおかしくない(あや)うさを小源太は持っていた。

「あなたが変わった理由は何かしら」

 ミズキが訊ねる。期待する答えは一つだった。

「何だろうな」

 それに気付いていながら、小源太はとぼける。

「志の歩どのに色々聞いてもらうようになったから、そのお陰かもな」

 ミズキはむっと眉根に皺を寄せ、小源太の背中にびんたを張った。

「あででっ。おま、あにすんだよ」

 もだえる小源太に構わず、今度はミズキがそっぽを向く。

「知らないっ」

 気まずく頭を掻きながら、小源太はミズキの(なめ)らかな背中を見て美しいと思った。この上なく愛おしいと思った。そのまま腕を伸ばし、肩越しにミズキを抱き締める。

「おれが変わったのは、おまえに()えたからだ」

 耳元で(ささや)かれ、ミズキの心臓は一瞬止まり、そしてはち切れんばかりに激しく脈を打った。

「あたしも、あなたに逢えてよかったよ」

 ミズキはそっと、抱き締める小源太の腕に手を重ねた。


 小源太とミズキの逢瀬(おうせ)と同じとき、十萌(ともえ)は森の中を走っていた。目に涙を()めながらそれをこぼすまいと必死に駆けていた。歩き慣れた森だが、張り裂けそうなほど乱れた心が足元を覚束(おぼたば)なくさせる。とうとう樹の根に足を取られ、十萌は無様に顔から転んだ。すぐに起き上がろうとしたが、できなかった。転んだ拍子にこぼれた涙がとめどなく(あふ)れてくる。流れるのは涙だけではなくぽたぽたと鼻血もしたたった。きっと顔も泥だらけなのだろう。十萌は今の己が世界で最もみじめな生き物なのだと思った。

 十萌は、川で小源太とミズキが唇を重ねたのを見ていた。二人の仲が良いことはわかっていた。けれどそれは雷翁を修得する者同士の、仲間としての信頼関係だと思っていた。思おうとしていた。しかし、現実はそれほど優しくない。同じ年頃の男女が仲良くするということは、つまりそういうことなのだ。

 (きざ)しはミズキがやって来たときからあった。成果(なれのはて)を切り裂き(たたず)むミズキを見た小源太の目。あのときから小源太の心はミズキに奪われて――いや、違う。奪われたのではない。はじめから十萌には向いていなかったのだ。向くはずがなかったのだ。

 小源太はいつも兄として十萌に接していた。たしかに十萌のことを(こころよ)く思ってくれていた部分もあるのだろう。しかし、その奥にはいつも(あわ)れみと後ろめたさがあった。

 里長の娘であるにも関わらず、長く受け継がれてきた(わざ)を扱うことができないあたしを、あの人はいつも憐れんでいた。

 役立たずのあたしの代わりになることに、あの人はいつも後ろめたさを感じていた。

 はじめからわかっていた。

 いつでもわかっていた。

 でも、気持ちを抑えることはできなかった。

 差し伸べられる優しい手を掴まずにはいられなかった。

 妹として扱われることに反抗をせずにはいられなかった。

 もし、あたしが雷翁を継承できていたら。

 あの人に出会うことはなく、こんな気持ちになることもなかったのに。

 十萌はこみ上げる感情を抑えることなく、声を張り上げて独り泣いた。

 流せるだけの涙を流した十萌は、里の者に見つからないよう屋敷に戻り、濡れた手ぬぐいで涙と血と泥で汚れた顔を()いた。

 大きく深呼吸をすると、幾分か気持ちが落ち着いた。

 気持ちが落ち着くと、今度は体の疲れがどっと出た。

 鉛のような体を引きずって夕餉の下拵(したごしら)えを済ますと、自室に戻って横になった。

 障子越しの夕明かりの中、声を殺し、もう一度泣いている内に十萌はいつしか浅い眠りに沈んでいた。


 はっと目を覚ますと、夜の(とばり)はすでに落ちていた。

 慌てて身を起こして自室を出ると、夕餉の香りが鼻腔(びこう)を突いた。

 おやじさまに叱られる。十萌は足早に居間へ向かうが、その手前で足を止めた。

 居間から()れ聞こえるのは、(なご)やかな会話。

「そうか、今日の夕餉の支度はミズキどのがしてくださったのか」

「仁斎さま、おれも手伝ったのですよ」

「おまえは黙って食べていろ。おれはミズキどのと話をしているのだ」

「そんな、ひでえや」

 三人の笑い声――こんな(おだ)やかな食卓は母が亡くなって以来一度もなかった。

 母の代わりを務めようと、十萌なりに努力をしてきた。

 五年間、炊事も家事も一人でこなしてきた。

 それもこれも全て、母が健在だったころの父の幸せそうな顔を取り戻したいがため。

 しかし、どうやっても取り戻せなかった。

 その理由が今そこにある。

 取り戻せなかったのは、あたしがいたからだ。

 あたしがいたから、おやじさまは幸せになれなかったのだ。

 呆然と立ち尽くす十萌の耳朶(じだ)を、ミズキの声が揺らす。

「わたしは十萌さまが準備なさっていたものに手を加えただけ。お()めの言葉は十萌さまに仰ってあげてください」

「いやいや、そう謙遜(けんそん)するものではない。この()しめの味など、いつも口にしているものとたしかに違う。おれの舌によく合うぞ」

「ありがとうございます。でも……」

「どうした、ミズキどの」

「……もう少し十萌さまに優しいお言葉をかけて差し上げた方がよいのではないかと」

「そうですよ。仁斎さまはもっと十萌さまの日頃の努力を(ねぎら)うべきです」

 小源太がそう言うと、しばしの沈黙が訪れた。

「あれのことはいいのだ。おまえたちが口を挟むことではない」

 そしてまた沈黙。重々しい空気が十萌にも伝わり、さらなる絶望の淵へ引きずり込んだ。

「……そうだ。おれ、十萌さまのようすを見てきます。腹ぁ()かせてるかもしれないから、握り飯でも持って行こうかな」

 小源太が立ち上がる音を聞いて十萌は我を取り戻し、慌てて自室に戻って布団を被った。

 しばらくもせず、障子の向こうに小源太がやってきた。

「十萌さま。起きてらっしゃいますか」

 十萌は返事をしなかった。

「起きてらっしゃいますね」

 どうしてわかるの。十萌は不思議に思ったが、返事はしなかった。

「どうしてかとお思いでしょう。ふふ、ご自覚なさってないでしょうが、十萌さまはよくお休みのときにはいびきと歯ぎしりがひどいのです」

 な、なんですって。十萌は飛び起きかけたが、わずかに身じろぎしただけで自制した。

「ああそうだ。以前にもこうして声をかけたことがありましてね。そのとき十萌さまはなんと尻で返事をなさったのです。ぷう、と」

「あたしはそんなことしてません!」

 とうとう我慢の限界で、十萌は布団をはねのけ枕をむんずと掴むと勢いよく障子を開いた。

「おはようございます、十萌さま」

 (ひそ)やかに光る月を背に、小源太は深々とお辞儀(じぎ)をした。

「おはようじゃない。どうしてそう根も葉もないことを言うの!」

「根も葉もござ――ぶっ」

 十萌は小源太が顔を上げる機を読み、枕で思い切りはたいた。

「ないです! そうやっていつもあたしをからかって。いつもいつも妹扱いをしてっ」

 ばふ、ばふ、ばふ。十萌は何度も小源太をはたいた。

「とっ、十萌さま。殿中(でんちゅう)に、殿中にござばふっ」

 振り子の一撃に下顎を突き上げられ、小源太はひっくり返った。

「――はあ、すっきりした」

 十萌は部屋に入って後ろ手で障子をぴしゃりと閉めると、そのまま立ち尽くした。

「悩んでらっしゃるのですね、十萌さま」

 小源太が優しく呼びかける。

「おれにだってそれくらいわかります。何に悩まれているのかはよくわかりませんが、原因ははっきりとわかります。原因は――」

 おれですね。小源太が呟く声に、十萌は胸を締め付けられた。

「……そうです」

 障子越しに、背中越しに、小源太が寂しげな顔をするのがわかった。

「おれは、十萌さまの悩みを取り払いたい」

「なら、今すぐこの里からいなくなってください」

 傷口に塩を塗るような言葉をかけた。かけずにはいられなかった。

「そうですね。それが一番手っ取り早い。でも、おれはいなくなるわけにはいかない」

「役目がありますからね。それとも、別の理由もあるのかしら」

 感情の突き上げるまま言うと、小源太は沈黙した。

「……全てご存じなのですね」

 小源太がミズキとの関係を認めた。十萌の目の前が揺らぐ。

「小源太どのがいなくならないのならば、あたしがいなくなるしかありませんね。役立たずの無能者が消えれば、里のみなも喜ぶことでしょう」

「そんなことはありません!」

 そこで小源太が声を荒げたのは、己の境遇と重ね合わせたからだろうか。

「十萌さまが役立たずだなどと、誰にも言わせない」

「言わなくても……きっとそう思っています」

「たとえみなが思っていたとしても、おれだけは違います。おれは、十萌さまにこの里にずっといていただきたいのです」

 おれは、十萌さまごとこの里を守っていきたい。里と一緒にされたのは悲しいが、その態度が小源太の精一杯の誠実さだということは十二分に伝わった。

「……一つだけ、お願いがあります」

 搾り出すように十萌は言った。

「何なりと」

「あたしが、この里にいてもいいという証をください」

「いいでしょう。ただし――」

 おれがあなたにして差し上げられることは一つしかありません。

 その後に小源太が口にした証は、十萌が期待した体のつながりではなかった。

 しかし、それは後に二人を何よりも固く結びつけるものとなるのだった。


 玄関先で草むしりをしている源蔵(げんぞう)の元に、軽やかに走る足音が近付いてきた。

「源蔵どの、こんにちはっ」

「おお、誰かと思ったら十萌ちゃんかい」

 源蔵は立ち上がり、首に巻いた手ぬぐいで汗を()いた。

「奥さまはいらっしゃいますか」

「町へ買い出しに行っちまったよ」

「そうですか。またお料理を教えていただこうと思ったんですが」

 仁斎に(なら)い、十萌と距離を置くようになった里の者の中で、源蔵とその妻だけは幼いときと変わらず優しく接してくれていた。子種を授からなかった夫婦は十萌を実の娘のようにかわいがっていたのだった。

甲斐甲斐(かいがい)しいねえ。仁斎の奴は舌が莫迦(ばか)だから何食わせても変わらねえだろうに」

「だからこそ、がんばってあたしの料理を認めさせてやろうと思って」

 腕まくりの素振りをする十萌を見て、源蔵は驚いた。

「どうしたんだい。いつになく機嫌がいいじゃないか」

「ふふ、最近ちょっと良いことがあって」

「そうかい。十萌ちゃんの元気な姿は久しぶりだなあ。今日はわしにも良いことがあったな。よし、あとひと息がんばるぞっと」

 源蔵は草むしりを再開しようと腰を下ろした。

「手伝いますよ、源蔵どの」

「いやいや、そいつはいけねえ。長の娘御にそんなことさせたら(かか)ぁにどやされちまう」

「やめてくださいよ。あたしはただの不破の女です。奥さまと同じ、ね」

 驚くあまり、源蔵はぽかんと口を開けた。

「十萌ちゃん、本当にどうしちまったんだい。今日はやけに()い女に見えるぜ」

「またまたー。あたしに惚れたら火傷(やけど)しますよ、なんちゃって」

 朗らかにやりとりしながら手を動かすと、あっという間に作業が終わった。

「あんがとさん」

「いえいえ。奥さまによろしくお伝えください。では」

 十萌は来たときと同じように軽やかな足取りで去っていった。

 源蔵がそれを見送っていると、道向こうの四つ(つじ)で十萌が足を止め、おかしな動きを取った。何かの練習をしているようだ。

「あの足運び……いや、まさかな」

 そんなことがあるわけない。源蔵は頭を振るって思い付きを打ち消した。


 十萌が帰ると、屋敷中が物々しい気配で覆われていた。

「ただいま帰りました」

 戸を開くと、玄関には見知らぬ履物が三足揃えてあった。

「お客さまかしら。そんな話聞いてなかったけど」

 居間に続く廊下を進んでいると、台所から茶を乗せた盆を運ぶミズキが出てきた。

「あら、十萌さま。お帰りなさい」

「ただいま、ミズキさん。どなたかがいらしたのですか」

 途端にミズキが険しい表情を作った。

「ええ、(にえ)の里の方々が……」

 十萌はおおまかな事情を理解した。贄は小源太の生まれ育ったところ。彼がそこで受けた仕打ちは十萌も知っている。ということは、この物々しさの出所はおそらく……。

「それ、あたしが持ちます」

 ミズキから盆を受け取り、一緒に居間に向かった。居間に近付くにつれて物々しさは増していく。まるで成果(なれのはて)を目の前にしたときのような張り詰めた空気だった。

「おやじさま、ただいま帰りました」

「入れ」

 (ふすま)を開けると見たことのない若い男が三人、仁斎と向かい合って座っていた。仁斎の後ろには、苦々しい顔の小源太が控えている。

「はじめてお目にかかります。不破仁斎の娘、十萌です」

 十萌が会釈(えしゃく)をすると、三人の内の一人が得心したように手を打った。

「ああ、あなたが噂の」

 どのような噂かは聞かずともわかる。十萌は(かげ)る心を表に出さないようにした。代わりに小源太がぎらりと殺気に近いものを発するのを感じ取り、十萌の翳りは嬉しさで払拭(ふっしょく)された。

「わたしは贄文吾(ぶんご)と申します。こちらが弟の兵吾(ひょうご)冬吾(とうご)。以後お見知り置きを」

 贄文吾は華奢(きゃしゃ)といえるほど線が細く、形ばかりの笑みの裏に鋭さを秘めた男だった。双子なのだろう、弟二人は瓜二つの容貌をしている。ともに文吾よりひと回りほど大柄で、兄には劣るがそれぞれ並ではない迫力を(かも)していた。

「文吾どのは舞鎌(まいがま)継承を終えたばかりでな。報告のため各地の十顎(じゅうがく)を訪っているそうだ」

 いつもならば小源太が言うはずのことを仁斎が口にした。理由があるとはいえ仁斎から十萌に話しかけるのは珍しいことだった。

「ここに来る前には、そちらのミズキどのの師・ササメさまを訪ねました。蔦針(つたばり)の継承も早くせねば、と嘆息(たんそく)しておられましたよ」

 文吾は言うことがいちいち気に障る男だった。この場は自分がまとめるしかないと判じた十萌は、嫌悪感を押し留めながら話を続けた。

「おやじさま、贄の方々の今宵の宿は」

「おおそうか。それはまだ聞いていなかった。もし決まっていないのなら、この屋敷に(とこ)の用意をさせるが」

 このときばかりは仁斎も十萌に調子を合わせた。

「お心遣い痛み入りますが、遠慮させていただきます」

 寝首をかかれたら堪りませんのでな。文吾の嫌みに弟たちがお追従の笑いを上げる。

「用向きが済みましたら、すぐにお(いとま)させていただきます。お茶も結構」

 本当にいけ好かない奴だ。言うとおりすぐに出ていってもらおう、と十萌は思った。

「用向きとは」

「継承の()の締め括りでしてね。わたしの舞鎌の腕前を十顎である仁斎さまに直接お見せし、認めてもらわねばならぬのです」

 よろしいですかな。求められ、首肯しようとする仁斎に小源太が膝をにじり寄らせた。

「文吾どののお相手、おれに任せてください」

 小源太は両の拳を血の気が失せるほど握り込んでいた。

「差し出がましいぞ」

「継承の儀を何と心得る」

 贄の弟二人が口々に声を上げる。

 小源太が血走った目を剥くと、文吾が鷹揚に手を挙げ、弟たちを(なだ)めた。

「よいよい。聞けば小源太どのも雷翁の継承を間近に控えているそうだ。次代の十顎を担う者同士、手技を交わして絆を深めるのもよいかもしれぬ。仁斎さま。この手合わせ、わたしからも是非お願いしたいのですが」

 仁斎は少し黙り、そして頷いた。

「喜べ小源太どの、お許しが出たぞ。ではさっそく」

 贄文吾が身を起こすや、十萌の横を疾風(しっぷう)が吹き過ぎた。

 文吾の姿はすでに居間になく、屋敷の庭にあった。

 はらり。十萌の髪のひと房が落ちた。文吾の仕業であろう。

 それを見た小源太の怒りは頂点に達し、獣のように庭へと飛び出した。

 二人の若い蜈蚣(ごしょう)が対峙する。

 たぎる小源太を、文吾は冷ややかに見据えた。

「一日千秋、といったところかな」

「前置きは不要だ。参るぞ」

 動き出したと見るや、小源太は文吾の懐へ飛び込む。正に電光石火、雷の如き一撃が(はし)る。

 だが、文吾の姿は再び掻き消えた。

「わたしの(あぎと)照覧(しょうらん)する場だというのに、随分と剣呑(けんのん)ですな」

 文吾はすり抜けたように小源太の背後へと移動していた。

「くッ」

 小源太はすぐさま振り返る。

「――と言っても、すでにお見せましたがな」

 構え直そうとした小源太の肩口や胸元、腕のところどころにぱっくりと裂傷が口を開き、一瞬の後に鮮血が噴き出す。

「小源太どのッ」

 血相を変えて庭に下りようとする十萌を、贄の弟たちが左右から取り押さえた。

「手合わせはまだ終わっておらぬ」

「無能者が出る幕はない」

 きっ、とにらみ付け、振りほどこうとするがびくともしなかった。無能者かどうか、見せてやる。十萌が今までにない挙動を取ろうとした。それに気付いた仁斎がわずかに目を(みは)る。

「……手出し無用です、十萌さま」

 血をしたたらせながら、小源太が呟く。

「まだはじまったばかり。そうですな、贄文吾どの」

 文吾の眉がぴくりと動く。

「なに、少々撫でられたという程度。余分な血の気が抜けてちょうどよい具合になりました」

 小源太の凄惨(せいさん)な笑みに、十萌は体に込めた力を抜いた。

「さすがは雷翁の継承者。手加減した無礼をお詫びします」

「お気になさらぬよう」

 小源太の言葉尻を(さえぎ)るように、今度は文吾が仕掛けた。

 十萌には(かすみ)のようにしか映らぬ動きだが、小源太はようやく馴れた目で追うことができた。

 踏み込みで生まれた力を意のままに全身に送り、流れるような曲線的動作を取って相手の目を(くら)ませ、力が収束する手先を鋭利にして斬り刻む――それが舞鎌の(わざ)だった。

 不可視の乱刃のことごとくを、小源太はゆったりと軽やかにかわしていく。

 それはまるで風の中を翁が舞い踊るようであった。

 予想外の顎の冴えに驚く文吾の隙を突き、小源太が雷の一撃を放つ。

 今度はあやまたず、文吾の顔を捉えた。

 とっさにかわし、距離を取る文吾の頬に一条の傷が走った。

 翁の如く守り、雷の如く攻める。それが雷翁の基本であり、そして真骨頂だった。

 ともに歩法と身のこなしに重きを置く(あぎと)でありながら、舞鎌は相手を攻め落とすことを、雷翁は攻防一体を主眼とするように分化したのだった。

「きさま、またわたしに触れたな」

 文吾の表情が一変する。それまでの余裕は微塵もなく消え去り、残虐さが浮かび上がる。

 再びの攻防。

 文吾の攻めは苛烈さをいや増したが、小源太にはかすり傷ほどしか負わせられない。

 小源太の攻めの機を読んだ文吾は、直線的な攻撃に応じる構えを取る。

 しかし、文吾を襲ったのは雷ではなく、風であった。

 文吾の腕に幾筋もの裂傷が走る。

 小源太が繰り出したのは、贄の里にて見様見真似で覚えた舞鎌だった。

 (わざ)そのものの切れでは文吾のそれに及ぶべくもないが、体より沽券(こけん)の方が深く傷つけられ、文吾の心は怒りに彩られる。文吾の怒りは冷たい氷の色をしていた。

 三度(みたび)、文吾は踊りかかった。

 しかし、小源太はかわし続ける。

 文吾の動きがわずかに(にぶ)っていることを感じ取った小源太は、好機とばかりに渾身の一撃を放とうとした。

 今度こそ、正真正銘の雷である。

 刹那、文吾の殺気が小源太の背筋を凍りつかせた。

 総毛立った小源太は攻める手を止め、上段から振り下ろされた手刀を受け上げた。

「目一つ、いただく」

 文吾の顔が嗜虐(しぎゃく)的な笑みで歪む。

 しっかと止めたはずの手刀におかしな力がこもったのに気付くのと同時に、小源太の視界の左半分が白く染まった。

「ぐああッ」

 顔の左半分が灼熱感に包まれ、小源太は堪らず顔面を押さえた。

 残る右目が見たのは、三倍に伸びた文吾の人差し指だった。

「これがわたしの秘技だ。きさま如き野良犬に使うことになるとは思わなかったぞ」

 指が元の長さに戻る。文吾は一指に力を収束させ、関節を外して間合いを伸ばしたのだった。

「……それまで」

 仁斎が仕合いの終わりを告げた。

 うずくまる小源太に文吾が歩み寄り、耳打ちした。

「十萌という娘、今はまだ(つぼみ)だがいずれよい花を咲かせそうだな。この里に居場所がないというのなら、わたしの(めかけ)にしてやろうか。いかな無能者だとて、子ぐらいは産めるだろう」

「この外道(げどう)が」

 顔を血に(まみ)れさせながら、小源太は文吾に襲いかかった。

「ふん、狂犬め」

 舞鎌は容赦なく左の死角を突く。

 左半身を切り刻まれ、小源太はどうと倒れ伏した。

「小源太どのッ」

 十萌が悲痛な叫び声を上げるが、体は押さえられたままだった。

「おれの娘に、いつまで触れているつもりだ」

 十萌を押さえる兵吾と冬吾に戦慄が走り、二人は思わず手を離した。

 (ばく)から解かれた十萌が小源太に駆け寄る。

「くそ……くそ…………」

 譫言(うわごと)のような呟きに呼応したのか、前触れのない雨がぽつぽつと降り出した。


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