第一章 不破の里
その里は、木曽山脈の深いところにあった。
ヒノキやブナを中心とした樹林の緑のところどころにさまざまな植生帯が入り交じり、圏谷に足を伸ばせば色とりどりの高山植物が目を楽しませてくれる。
豊かな自然環境に囲まれながら、不破の里は長く密やかに在り続けていた。
不破の里から山裾の町へと続く山道を、一人の少女が歩いている。
少女の名は不破十萌という。
里の客人を迎えに出る途上の十萌の顔は、生い茂る夏の緑の中を進みながらも俯きがちで、その足取りは重かった。十萌は、生まれ育ったこの里山が好きではなかった。自然は嫌いではない。むしろ好ましい。吹き抜ける風に全身を撫でられると心優しくなれた。木立の下で目を閉じ、鳥のさえずりや動物が立てる物音に耳を傾けるだけで小さな自分が大きなものの一部であることを実感できた。しかしそこで自然の豊かさと広大さを確かめれば確かめるほど、里に戻ったときに感じる己が身の卑小さを如実となってしまうのだった。
不破の里はある役目を背負っていた。現代社会における常識とは大きくかけ離れた役目である。不破の山奥に潜む、人ならぬ化け物を外の世界に漏らさぬようにする、それが不破の里に与えられた使命だった。
その名の示すとおり、不破十萌は里長である不破仁斎の一人娘だった。里長の娘だからといって役目に就かねばならぬ定めはなかったが、自身の意志でそれを選択することはできなかった。役目に就く就かないという以前に、十萌にはその資質がなかったのである。
里長はじめ不破の里の者の大半は、小さな傷ならばすぐに塞がる強壮な肉体に加え、化け物に対抗するための戦闘技術――顎を身に着けていた。仁斎は役目に就く者が身に着ける顎「雷翁」の初歩である身のこなしと歩法を十萌が十歳のときにたった一度教授したきりだった。そこで十萌に雷翁継承の資質なしと判じた仁斎は、以後十萌に見向きもしなくなった。雷翁や役目に関することだけでなく、娘への愛情そのものを失ってしまったかのようだった。
それからの十萌は、役目に就かぬ者の一人として里の諸々の雑事を手伝い、そして男やもめである父の身の回りの世話をすることで自分の居場所を確保してきたのだった。
母さまが生きていてくれたらおやじさまも変わらなかったかもしれない――そう考えずにはいられない。十萌の母・朔夜は四年前に病を得てこの世から去っていた。命を懸ける苛烈な役目に就きながらも絶えず深い優しさの輪を広げる女で、その柔らかな輪の中には十萌はもちろん夫の仁斎も含まれていた。愛妻を亡くして失意の内にあった仁斎が、娘に後を継ぐ資質がないと知ったときの落胆は、十萌にも容易に推察できた。
うつうつと歩を進めていると、町が遠目に見えてきた。
「いけないいけない。お客さまを迎えるんだから」
ぴしゃりと頬をはたいて気を引き締め、背筋をしゃんと伸ばした。
気分を一新して歩き出そうとすると、町に続く道の先に人があるのを見つけた。
「もしかして、あの方は」
やって来るのは女だった。栗色の長い髪を後ろで束ねた二十歳くらいの女。十萌が聞かされていた客人の特徴と合致する。女も十萌に気付き、近寄ってきた。
「あ、あのっ」
十萌はしどろもどろになった。昨日の晩にどう声をかけるかをさんざん思案したのだが、用意した台詞は全て緊張で吹き飛んでしまった。
「あなたが不破十萌さんね。聞いていたとおり、かわいらしい子」
女が差し出す手を、十萌は握った。血が通っていないのかと思うくらいひやりとした手だった。そして、役目に就いている者の持つ鋭さを秘めた手……。この人はあたしとは違う。反射的に、引き剥がすようにして手を離した。
「ミ、ミズキさんですね。蔦針の……」
誤魔化すように喋り出す十萌の口を、目にも留まらぬ早さでミズキの手が塞ぐ。
「しっ、だめよ。いくら周りに誰もいないからって、外でそれを口にしては」
鋭くなった目に十萌は気圧され、口を塞がれたまま何度も頷いた。
「素直でよろしい」
ミズキは手を離し、優しげに微笑む。十萌はその笑顔に魅力を感じるとともに、役目に就く者への劣等感をあらためて感じざるを得なかった。
不破の里に向かう道すがら、ミズキは気さくな様子で身の上話を語る。
ミズキは十萌と同じ「ごしょう」という一族の人間だが、里を持たぬ師に連れられて各地を転々とする幼少期を送っていたという。それを聞き、十萌は素直に羨ましいと思った。里に縛られ、思うようにならぬまま暮らしているよりもずっと気楽だろう、と。
「十萌ちゃんって、いくつ?」
「え……えっと、十五になりました」
唐突な問いかけに戸惑いつつ答える。
「色んなことが楽しい頃でしょう?」
そう言って、ミズキは微笑む。端正な笑みに、十萌は不意の反発心を覚えた。
「た……楽しいことなんて何にもありません」
伏し目がちに小声で言う少女を見て、ミズキはふうんと鼻を鳴らす。
「……それでいいのかな」
その呟きび真意を計ろうと、十萌は顔を上げる。
「それって、何だか寂しいね。若い女の子が何も楽しめてないなんてさ」
「寂しい……ですか」
再び俯き黙ってしまった十萌を見て、ミズキは慌てて失言を取り繕おうとした。
「あー違う違う。憐れんだり責めたりしてるんじゃなくって。ほら、あたしは根無し草みたいな生活してたからさ。何だか勿体ないなあって――」
そこまで口に出して、ミズキはさらなる失言に気が付いた。
「……それって、役目があったからやりたいことができなかった、ってことですよね」
十萌は声を一層ぼそぼそとさせる。
ミズキは心中で嘆息する。不破仁斎の一人娘については不破への訪いを命じた師より聞かされていた。取り柄のない無能者――不破以外のごしょうにもその噂は知れ渡っていたのだった。ミズキは己の粗忽を自戒する。出会ってから数十分も経たないが、この子はずっと自信なさげにおどおどとしていたじゃないか。平時のミズキならば意識せずともそのくらいの洞察はできていたはずだが、殺伐とした役目から離れた開放感で目が曇ってしまっていた。ミズキは下手に慰めるのは逆効果だと判断して余計なことを口にしないようにした。
二人は無言のまま、不破の里への道を歩く。
夕暮れに差しかかり、里まであと少しといったところで、ミズキはふと顔を上げた。
もやり――と、森の奥から大きな何かがやってくる気配が感じられた。
禍々(まがまが)しい大きな何かが木々を押し分けてこちらに向かっている。
「ミズキさん、気を付けて!」
十萌の語調は、さっきまでとは打って変わった強いものだった。
「これって、まさか……」
ミズキが身構えるよりわずかに早く、森の中から大きな何かが転がり出た。
黒光りする巨大な球――それが鞠のように跳ねてミズキに迫る。
「危ない!」
激突する寸前、十萌が体当たりをするようにしてミズキを押し倒す。巨球は二人が立っていた場所に落下して動きをぴたりと止めた。
直径にして四メートル。道にめり込んだ具合から、ゾウほどの目方があることが察せられた。真球ではなく数十の体節を持つ殻に覆われている。
球はぐるりと半転すると、体節を蠢かせながらその形を変えた。開いた殻の中から無数の短い歩脚がうじゃうじゃと現れる。それは――信じがたいほど巨大なダンゴムシだった。
最後に先端から一対の触角が顔を出し、十萌とミズキへと伸びた。
冷静さを取り戻したミズキが触角の一本を掴む。細腕に隆々とした筋肉が盛り上がり、そのまま触角を引きちぎる。
もろもろと名状しがたい叫びを上げながら、ダンゴムシは苦しみに身をよじらせた。
ミズキは十萌を抱き起こし、もんどり打つダンゴムシから距離を取る。
「ミズキさん、すごい」
「感心するのは後よ。このお化けダンゴムシが、不破の里がこの地に封じているモノなのね」
「ええ、『成果』と呼ばれている化け物です」
「なれのはて……ね」
ダンゴムシが体勢を整え、ミズキへと向き直った。
「どうやらあたしを害敵とみなしたようね。いいわ、かかってきなさい」
言い放つなり意識の大半を視覚に集中させた。ごしょうとその眷族の中でも一部の者のみが持つ卓越した洞察の眼――ミズキはこれを駆使して相手の弱みを見出し、そこを突く顎「蔦針」の遣い手だった。しかし、堅固な外殻には弱い部分が全く見つからない。
「ならば、引っくり返してやるだけのこと!」
接近するより早く、ダンゴムシは再び球状を取る。ミズキは構わず何度も殴りつけるも、鍛え上げられた腕ですらことごとく弾かれ、逆に攻めた拳が傷つくこととなった。
「ちっ、なんて堅さなの……」
拳に滲んだ血を払いつつ今一度距離を取ろうとするミズキを、ダンゴムシのおもむろな回転が襲った。ミズキは意を決して身構えるが、重量差は歴然。いかな膂力を以てしても、人が抗えるものではなかった。
「ミズキさん!」
十萌の悲痛な叫びが響く。破壊球は止まらない。
ミズキが押し潰されんとしたそのとき――何者かが茂みから飛び出し、球の側面へと強烈な一撃を食らわせた。
もろもろもろ。ダンゴムシは耳障りな鳴き声を発しながら体節を縮めて球形を解く。
「大丈夫ですか、お客人」
影がミズキに声をかける。ミズキと同じ年頃の溌剌とした青年だった。
「小源太どの!」
十萌が青年に駆け寄る。
「おおう、十萌さまもご無事でしたか」
よかったよかった。小源太と呼ばれた青年は十萌の頭を撫でた。
「こっ、子ども扱いしないでください!」
その手をはたき、十萌はぷうとむくれた。
小源太が飛び出した茂みから、さらに四人の男が現れた。
「見つけたか小源太。おお、十萌さままで」
小源太より年長の男たちの中で、ひと際大柄な一人が言う。
「源蔵どの、成果はあちらに」
小源太の促す方では、ダンゴムシが青紫色の体液を吐きながら起き上がるところだった。
丸まろうとするが外殻がひしゃげており、いくらもがいても体液がこぼれるばかりだった。
「仕留めるぞ、小源太」
「委細承知」
源蔵の号令一下、四人の不破の男はダンゴムシに飛びかかる。
もーろもろもろ。最後のあがきとばかりに巨体を無闇やたらと暴れさせた。
さしもの不破の男衆もこれには手を焼き、ひしゃげた殻を狙おうにも上手くいかなかった。
「まったく口ばっかりね。脚を潰すの、脚を!」
「なにぃ、女だてらに我らに指図するとは」
源蔵が顔を顰めるがそれも一瞬のこと。源蔵は真っ先に指示に従い、歩脚の一本を抱えて引きちぎる。小源太らもそれに続くと、無数にあった歩脚は瞬く間に数を減らしていった。
「ようし、持ち上げるぞ」
不破の男たちは動けなくなったダンゴムシの片縁を持ち、よいしょと引っくり返す。
「とどめはおれが」
小源太が威勢良く言うが、それより早く動き出した者がいた――ミズキである。
洞察眼がダンゴムシの体を見透かす。狙うべきは体軸だった。
「大八岐にゆつ磐むらの如く塞り坐す
八岐比古の御名をば白して
称辞竟へ奉らくは……」
唱え言をするとともに、ミズキの右腕の指先が一体化して鋭く尖った。
槍のような貫手がダンゴムシの頭部に突き刺さる。
「一種蜈蚣の門を開き
四方四角より疎び荒び来む
天の禍津日の名を問ひ知らし賜ふ事無く」
不気味な音を立てながらミズキの右腕がさらに硬質化していく。
「相まじこり
相口会わせ賜ふ事を
恐み恐み白す!」
唱え終わるや、ミズキは異形の右腕をダンゴムシの体軸に沿って滑らせる。一拍遅れ、両断された巨体から青紫の体液が噴き出した。
体液まみれで佇むミズキの姿を小源太は目を縫い付けられたかのように見つめていた。




