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らいおう  作者: 久手野数馬
第二部 蝓蠖(ゆご)
12/13

第五章 深淵

 累々と横たわる成果の死骸の中を、足取り重く歩く女がいた。

 女は(うずたか)く積み上げられた成果の山に(もた)れる(にえ)文吾(ぶんご)の前に立つと、手首を返してその頬をぴしりとはたいた。

「う……む……」

 死んだかと思われた文吾が意識を取り戻す。

「起きたか、自己中(ジコチュー)御曹司(おんぞうし)

 開いた文吾の目に映ったのは、見知っているが見慣れない女だった。

「……おまえ、蔦針(つたばり)のミズキ……なのか」

 印象がまるで違う。こんなに朗らかな顔をする女だったろうか。

「えらい(ほう)けてるな。死に(ぞこ)なったからかしら」

 ミズキがからからと笑う。

「ふん。その死に損ないに何の用だ」

「あんたなんかに用はないさ。あたしは自分の物を回収しに来ただけ。しっかし、十萌(ともえ)ちゃんたら」

 借りた物を放っぽらかしてどういうつもりかと思ったら粋なことするじゃないか。ミズキは文吾の肩を指差した。

「これは……」

 文吾は驚いた。刃となって肩に突き立てられた緋々(ひひきば)が、形状を変えて血止めをしていたのだ。八岐(やちまた)の生命力と鎧霊(よろいだま)の再生力により、文吾の出血は収まり、傷も(ふさ)がりかけている。

「あんたの完敗ね」

 ミズキが笑うと、文吾もつられたように頬を緩めた。

「そうだな、わたしの負けだ」

 それを見て、ミズキは大袈裟に感心した。

「へえ、何だかえらく素直じゃない。文字通り生まれ変わったってやつかしら」

「変わったのはお互いさまだろう」

 苦笑する文吾の顔には、吹っ切れた(いさぎよ)さがあった。

「あんた、ひと皮剥けたね。きっと良い里長になるよ」

「この六本腕を里の者たちが受け入れてくれたら、だがな。おまえこそこれからどうするつもりだ」

「あたしは――」

 ミズキの言葉を(さえぎ)るように影が落ちる。二人が見上げると、呪態研の屋上から八本脚のトカゲの成果(なれのはて)が飛び立つところだった。

「あれも鎧霊の……蠎蛇(もうだ)を取り逃がしたか」

「いいえ、十萌ちゃんは目的の女と一緒に中に居るわ」

 緋々牙は呪態研の中から発せられる()()呪波(じゅは)と地下に眠る深淵の力を感知していた。

「となると、あれは……」

 残る()()()()。ミズキと文吾に気付いたのか、ヘリは機体をわずかに揺らしたが、すぐに何処(いずこ)かへと飛び去ってしまった。

 緋々牙がおかしなものを感知した。

「何これ……」

 地下に眠っていた深淵の力が大きくなる。

「不破仁斎だ」

 ミズキの緋々牙が共振したのだろう、文吾にもそれが伝わっていた。

 深淵の力――仁斎が志の歩の呪波を呑み込むのがわかった。

「食らった……いや、違う。まさかこれは」

 纏装(てんそう)した。志の歩が、仁斎を。

 続けてもう一つの深淵の力――小源太が姿を現す。

 呪態研の建物がぐらぐらと揺れはじめる。

 振動はしばらく続き、そして幾条もの黒い閃光が呪態研の内側から発せられた。

 十萌の発する閃光より幾分細い。おそらく志の歩の攻撃なのだろう。

 細い閃光は何度も走り、わずかな静寂(しじま)が訪れた後――。

 呪態研を震わせながら、黒い(いかずち)が地から天へと立ち昇った。


 纏装した志の歩が、十萌に向けて黒い球体を撃ち出す。

 小源太が虚空から姿を現し、それを防いだ。

 防ぎながら背部の外殻を開いて纏装を促すが、十萌は未だ自失から立ち直っていなかった。

 志の歩は攻め手を強めた。十を越える黒球が次々と浴びせられる。黒球は小源太のそれとほぼ同じものだが、射出口(しゃしゅつこう)の場所が異なっていた。小源太のそれは左右の掌底に一つずつであるのに対し、仁斎の射出口は両手の指先全てにあった。ゆえに球体はひと回り小さく威力も劣ってはいたが、一度に多くの数を撃ち出すことができた。

 十萌を(かば)うため、小源太は避けることができなかった。また、纏装せねば大きな力は発揮できない。小源太は自由になる微かな深淵の力を腕部に集中させ、間断なく襲い来る黒球をひたすら受けた。凌ぎ切れずぼろぼろになった右腕がちぎれ飛んだ。

 ぼとり。小源太の腕が目前に落ちるのを見て、ようやく十萌は正気に戻った。

 志の歩は黒球を撃つのを止めた。黒い閃光を放つ気なのだろう、右手指に力を集中させた。

「……くッ」

 間に合うか。十萌は小源太の背中へと飛び込む。

 外殻に覆われた柔らかい肉が十萌を包み込み、あらゆる感覚を連結させる。

 十萌が意識を向けると、ちぎれた腕は即座に再生し、全身の傷も跡形もなく塞がった。

「ふふふ、腕一本が一瞬で生え変わるその再生力。素晴らしいわ。ついさっき八つ裂きにされた体が元通りになっているのは、無限の深淵に浸ったからかしら」

 深淵から切り離された纏装状態では、制御核が()ぎ木の役目を果たしているのね。志の歩が狂おしく呟く。

 志の歩が黒い閃光を放つ。指五本分を束ねたとはいえ、十萌の閃光の半分にも満たない太さだ。しかし、防御もせずに耐えられるような代物ではない。

 黒い閃光は十萌に迫るが、その寸前で何かに阻まれ、四方八方に分散した。

 閃光が消えた後、十萌の前の空間に黒い(もや)が漂う。

「……反撥(はんぱつ)作用か」

 志の歩が興味深げに呟く。

 十萌は深淵の力を球状や閃光ではなくガス状にして放出していた。志の歩が看破したように深淵の力同士は反撥する作用があった。靄に触れた閃光は軌道を変えられ、拡散させられた。十萌はそのことを知っていたわけではなく、制御核の導くまま無意識の内に成していた。

「その力が、深淵の力を自在に引き出すその制御核があれば母の老いはきっと止められる」

 志の歩は回り込むように移動しながら黒い閃光を何度も放った。

 一度に発生させられる靄の量はそう多くなく、狙撃点が動いてしまうと弾き切ることはできなかった。その場に止まるのは不利だと判じた十萌は、志の歩に合わせて動きながら、相手の力の源を探った。志の歩が今言ったように、深淵から切り離された状態ではその力は有限であるはず。そもそも志の歩はいかにして纏装し、深淵の力を駆使しているのだろうか。

 小源太の感知器官が、仁斎の体の各所に奇妙な反応があるのを捉えた。それは、呪波の流れであった。志の歩は己の呪波を信号に変えて仁斎を操り、そして呪波そのものを変換させて深淵の力を生み出している。いわば、志の歩は己を生きた制御核としているのだった。

「志の歩さん、やめて」

 十萌が叫ぶのは、己の身を守るためではない。志の歩は見事に蝓蠖(ゆご)と深淵の力を操っているようだが、しかしそれは諸刃の剣だった。呪波で蝓蠖を操るということは、それが尽きたときに制御が効かなくなることを意味する。制御を失った蝓蠖は、志の歩を異物として認識する。排出するくらいならいいが、おそらくはそのまま食らわれてしまうだろう。

「わたしの心配をするなんて、随分と余裕があるのね」

 志の歩は己の身を(かえり)みず、呪の力を深淵の力へと変えた。その体が宙に浮く。

「面白いものを思い付いたわ」

 志の歩が浮きながら十指を(かざ)し、無数の黒い球体を生み出した。黒球は推力をほとんど持たず、十萌の周囲をふわふわと漂う。見る間に十萌は黒球に囲まれた。

「あなた自身の体は、蝓蠖(ゆご)のようにすぐに再生するのかしら」

 身動きの取れなくなった十萌は、志の歩がさらに力を凝集させるのを見た。

「まさか……」

 狙いに気付くも、時すでに遅し。十本の黒い閃光が放たれる。

 放射状に走る閃光は、漂う黒球に触れて軌道を変え、あらゆる角度から十萌を襲う。

 小源太は出せる限りの黒い靄を放出し、十萌と制御核だけを守った。

 閃光と球体が消えた後には、四肢と頭部を失い体幹のみになった蝓蠖だけだった。

 制御核への直撃は避けたものの、十萌の右手先と左足の膝から下が消失していた。

 意識を失った十萌の胸で、制御核が青から赤へと(うつ)ろう。

 ずちゅずちゅ。すぐさま四肢と頭部が復元し、小源太は立ち上がった。

 十萌の意識は戻らない。失った手足も再生しかけているが、蝓蠖に比べると鈍かった。

「制御核さえあれば、纏装者自身の損傷も復元されるようね」

 そう言う志の歩の疲労も著しい。志の歩は気力を振り絞り、最後の深淵の力を引き出した。

 再び無数の黒球に囲まれながら、小源太は微動だにしなかった。

 その両眼と制御核だけがぎらぎらと赤く光る。

 志の歩が閃光の力を指先に蓄えるのと同時に、小源太は両腕を胸の前で合掌させた。

 合わせた掌を離すと、その間に黒い雷が行き来する。

 その異常を見た志の歩が、先手を打とうと黒い閃光を放つ。

 小源太は黒雷の走る両手を掲げると、さらに深淵の力を込め、志の歩へと解き放った。

 巨大な黒雷は千々に枝分かれし、閃光と球体を呑み込みながら志の歩ごと天井を貫いた。


 呪態研の大半が崩壊し、粉塵が朦々(もうもう)と立ち込めている。崩れ落ちた瓦礫の一部が持ち上がり、下から大きな人影が現れた。蝓蠖を纏った十萌だった。

 その両眼と制御核はまだ赤光を帯びているが憤怒(ふんぬ)の赤ではなく、それは命の輝きであった。

「……もえ…………と……もえ……」

 十萌――。名を呼ばれ、十萌はようやく意識を取り戻した。

「起きたか……十萌……」

 呼ぶのは、紛れもなく愛しい男の声だった。

「小源太、なの」

「ああ、おれだ」

 その声にたどたどしさはなく、人として在った頃の小源太のものと寸分違わなかった。

 纏装者となって以来、制御核を媒介にして意志の疎通はできていたが、このように明瞭な言葉を交わすのはこれが初めてだった。

「これは、あなたが」

 どうやって。十萌は瓦礫の山を見渡した。どうすればこのような破壊を起こせるのだろうか。黒い閃光ですらここまでの威力はないだろう。

「よくわからない。無我夢中だった」

 意識を失った十萌を守ろうと考えた小源太は、制御核が示すとおりに深淵の力を引き出した。それがもたらした結果に、二人は深淵の力の恐ろしさを改めて認識した。

「志の歩さんとおやじさまは……」

 これほどの破壊を引き起こす力を受けて、無事で居られるとは思えない。周囲を探知しても、仁斎らしき深淵の力は感じられなかった。跡形もなく消滅してしまったのだろうか。

 舞い上がる粉塵の中を、近付いてくる気配が二つあった。ともによく知る者だった。

「十萌ちゃん!」

 ミズキが駆け寄り、蝓蠖の手を取る。

「無事だったか、ミズキ」

 その声を聞き、ミズキは驚いた。

「小源太、あんた普通に喋れるの」

「ああ。随分と迷惑をかけたな」

 小源太はもう一人を見やった。

「……贄文吾か」

 反目し合っていた二人の男の視線が交錯する。

「始末を付けたのか」

「いや、まだわからない」

「ふん、相変わらず詰めが甘いな」

 傍に居る十萌とミズキに緊張が走った。

「きさまこそ、口が悪いのは変わらないな」

「お互い、一度となく死んで生まれ変わったというのに」

「おれときさまは、永劫(えいごう)にわかり合えぬ運命なのだろうさ」

 女の心配を余所(よそ)に、男たちは声を上げて笑い出した。

「本当に、そう思うか」

 ふと、小源太が訊ねる。文吾はわずかに逡巡する素振りを見せ、そして口を開いた。

「……いや。考えてみれば下らぬ(いさか)いだった」

 文字通り命を懸け、血で血を洗ってきた二人の(わだかま)りは乱麻(らんま)を断つが如く解けていた。二人に残るのはただただ清々(すがすが)しい思いのみ。

「しかし、おれたちは多くのものを犠牲にした」

「そうだな。取り返しのつかないことをしてしまった」

 小源太は人の姿と師をはじめとする不破の里の者たちを。

 文吾は愛しい二人の弟と十顎(じゅうがく)としての輝かしい未来を。

「お互い、けじめを着けねばな」

 小源太の言葉に、文吾が頷く。

「ああ」

 そして、粉塵の晴れた空を見やった。

「そら、おまえのけじめが出てきたぞ」

 そこには、蒼い蝓蠖(ゆご)の姿があった。

「……おやじさま」

 黒雷により体表のほとんどが焦げており、両腕の先と膝の下がちぎれかけていた。意識を失ったか死んだのか、志の歩の呪波は感知できない。しかしどうやってか、蒼い蝓蠖は体の各所で呪波を深淵の力に変換し、傷ついた体の再生を行った。

「呪波の受信器官を解いているようだ」

 小源太の見立てによると、仁斎を蝓蠖とする際に志の歩は呪を用いて本来はない器官を生成させていた。その器官は、頭部から陰部に至る体幹に七つと四肢それぞれに、合わせて十一あった。蒼い蝓蠖は己の意志で器官を解き、そこから発生した呪波を深淵の力へと変えているのだった。

「己の意志って、まさか……」

 十萌の問いに、小源太は答えなかった。

 再生を終えた仁斎は、蝓蠖の眼で小源太たちを見下ろした。

「必要なら加勢するわよ」

 ミズキの申し出に、小源太は首を振るった。

「けじめはおれと十萌が着ける。それに――」

 どうやら、ここでやる気はなさそうだ。再び見上げると仁斎は地上の小源太たちから目を外し、明後日(あさって)の方向へと飛び去ってしまった。

「逃げた……いや、あの方向は、まさか」

 ミズキが気付いたとおり、仁斎が向かった先には不破の秘奥が眠っていた洞穴があった。

「全てを終わらせるのにはうってつけの場所だ」

 小源太の言葉に、十萌は疑問を感じた。

「そうなのかしら。あたしには、おやじさまにはそれ以外の考えがあるように思えるわ」

 それが具体的に何なのかはわからないが、十萌は自分の直感を信じた。

「とにかく、行ってみよう」

 そして、おれたちの犯した過ちに終止符を打とう。心身を一つにして飛翔しようとする小源太と十萌に、ミズキが声をかけた。

「待って。あたしも連れて行って。最後まで見届けたいの」

 小源太は考え込んだが、十萌に促されて手を差し出した。

 それを取ろうとしたミズキが文吾を振り返る。

「あんたはどうする」

「おれは……」

 辞去しようとする文吾の内で、わずかに移植された鎧霊の深淵の力が(うず)く。二人の弟――兵吾(ひょうご)冬吾(とうご)が、ともに行けと言っているようだった。

「……そうだな、おれにもその義務があるか」

 呟く文吾の肩をミズキが叩く。

「そんなに難しく考えないでさ。行きたいと思ったら行けばいいのさ」

 言うなり、ミズキは小源太の手を取った。

 そして、小源太がもう一本の手を文吾に伸ばす。

「そうだな」

 文吾は微笑み、その手を掴んだ。


 大空洞にたどり着いた一同は、石舞台の上に立って鎧霊の封じられていた壁と向かい合う(あお)蝓蠖(ゆご)を見つけた。鎧霊(よろいだま)を取り除かれた空洞の壁には大きな穴が開いており、それを塞ぐように数十体もの呪態の成果(なれのはて)(ひし)めき合っていた。

 その目的は、不破の里を滅したというヒトモドキ――妖物(ようぶつ)の侵入を防ぐことだった。

「あの成果たち、まだ生きてる」

 (うごめ)く異形を目にし、十萌が声を上げる。おそらく成果は蒼い蝓蠖の意思に操られているのだろう。

「ああまでして防がねばならぬのか。あの妖物どもは一体何なんだ」

 蒼い蝓蠖が一同を振り返る。

「来たか」

 その声は、呪態研の地下で十萌が耳にした赤子同然の男ではなく、紛れもなく不破仁斎のものだった。

「おやじさまっ」

 十萌の呼び掛けに、仁斎は応じようとはしなかった。

「余計な者たちまで連れて来たようだな」

 仁斎はミズキと文吾を一瞥して言った。

「一騎打ちに水を差すつもりはありません。あたしたちはこの立ち合いの見届け人としてここに来ました」

「立ち合いを見届けるだと。事態が危急であることをまだ理解しておらんようだな。しかし、まあよい。命が惜しくないのなら好きにしろ」

「ありがとうございます」

 ミズキと文吾が石柱の陰に身を隠すと、緑灰(りょっかい)蝓蠖(ゆご)は円形の石舞台に上がり、蒼い蝓蠖と対峙した。

「志の歩どのは」

 十萌が問い掛ける。

「……しっかり死んだか……どうかを、確かめたいのかしら……」

 か細くではあるが、蒼い蝓蠖の内から志の歩の声が出た。

「残念さま、まだ……生きてるわ……と言いたいところだけど……ふふ、もうだめね」

 あたしは、もうすぐ死ぬわ。切れ切れの志の歩の言葉を聞き、一同は複雑な心境になった。自分たちの運命を(もてあそ)んだ女とはいえ、その命が失われていくのを見るのは忍びなかった。

「母の老いを、この手で……止められなかったのは、心残りだけど……きっと、あの子が……真つ里が何とかしてくれる。あたしは、ここまで」

「志の歩さん」

 堪らず、十萌が呼びかける。

「やめて。同情なんて……しないで。あなたたちは……あたしを、いつまでも、恨んでいて。それを背負って、あちらに逝くわ。それに……本当の地獄は、これから、なのだから。ふふ」


 ……いよ……らでぃむ……。


 そう言い残し、志の歩は永久(とこしえ)の沈黙に包まれた。

「いよらでぃむ……」

 志の歩の残した不可解な言葉を聞き、一同はそれを知るだろう蒼い蝓蠖――不破(ふわ)仁斎(じんさい)へと目を向けた。

 しかし、仁斎はそれに答えようとはしなかった。

「見たとおり、元凶たる蠎蛇の志の歩は死んだ」

 仁斎は腰を落とし、緑灰の蝓蠖へと構えを取った。

「これ以上は語るまい」

 仁斎が見せたのは、雷翁(らいおう)の構えだった。

 動力源たる志の歩の命脈が尽きた今、仁斎が選択し得る唯一にして最強の手だが、いかな雷翁の(わざ)とて、人知を凌駕(りょうが)した深淵の力の前には風前(ふうぜん)灯火(ともしび)に同じだった。

 しかし、小源太と十萌は深淵の力の行使を禁じ、仁斎に応じるように雷翁の構えを取った。

 それを目にし、仁斎の異相が笑みを浮かべたように見えた。

「いざ」

 仁斎が翁の動きで間合いを詰め、流れる水のように攻め手を繰り出す。

 小源太と十萌は風にそよぐ柳のようにそれを受け、いなし、かわした。

 攻守を幾度も入れ替えながら、二つの蝓蠖(ゆご)は石舞台の上を舞い踊った。


     ○     ○     ○


 おやじさまとこうして雷翁を舞えるなんて。生死を分かつ死闘の最中(さなか)にありながら、十萌は夢を見ているようだった。子煩悩(こぼんのう)だった父が、人が変わったように酷薄になったのはいつからだろうか。継承に足る資質がないと判じたとき――いや、その少し前に兆しがあった。

(あなた……この子には…………に……)

 交わす(あぎと)を通じ、十萌の中に流れ込んでくる思いがあった。

 これは、おやじさまの……違う、おやじさまだけじゃない。伝わってくるもう一つの思いは、暖かい愛情を与えてくれた母・朔夜(さくや)のものだった。

 両親の思いは娘に幻視を引き起こした。

 若い頃の仁斎が、朔夜を妻に迎えたときのこと。

 なかなか子が宿らず、夫婦で悩んだ数年間のこと。

 苦労の末、身籠もった朔夜を(ねぎら)う仁斎の姿。

 そして、産声を上げる赤子を抱き、歓喜の涙にむせぶ二人。

 ――あれが、あたし。十萌は、自分がこれほどまでに待ち望まれ、愛を注がれていたことを知らなかった。

 幻視の流れる速度が緩やかになる。

 一歳になる前の十萌が自分で立ったのを見た仁斎は、親莫迦(ばか)にもほどがあるくらいに褒めちぎった。

(朔夜、見たか。こんなに早くに立っちができるとは、十萌の身体能力は天稟(てんぴん)の才だな。やはりおれたちの子だ)

 朔夜が微笑んだのに一層気を良くし、仁斎は十萌の将来について大袈裟に語り出した。

(十萌はきっと真綿が水を吸うように雷翁を身に着け、立派な十顎となり、この不破の里をまとめ上げていくだろう)

 そこで、朔夜の顔がふと(かげ)った。

(この子もあの成果(なれのはて)に立ち向かい、そして鎧霊を(しず)(まも)らねばならぬ宿命(さだめ)なのですね)

 あまりにも予想外のことを口にする朔夜に、仁斎は狼狽した。

(お、おお。この里の子ならば当然ではないか。まして里長であるおれの娘だ)

(しかし、聞くところによると、(あぎと)の継承は嫡子に限らないそうではありませんか)

(何を言い出すのだ。里長の娘が役目に就かぬなど、里の者に面目が立たんではないか)

 急にそのようなことを言い出すなど、全体どうしたというのだ。声を震わせる仁斎に、朔夜は寂しげに微笑みかけた。

(あなたを困らせるつもりはないのです。ただ、わたしはただ十萌に――)

 わたしたちの娘に、役目に縛られぬ自由を。人並みの幸せを与えてあげたいのです。仁斎は妻の言葉に応えることができなかった。以心伝心だと思っていた妻が、そのようなことを考えていたとは。十萌の自由。はじめは思慮の外だったが、仁斎も次第にそのことを考えるようになっていった。

 朔夜がそれを再び口にしたのは、重い病を得てとうとう死の床に伏せったときだった。

(朔夜、()くな)

(あなた……あのときに話したことを覚えてらっしゃいますか)

 その場に控える里の主立った者たちに悟られないよう、朔夜は仁斎の耳を寄せ、(ささや)いた。

(ああ、覚えておるとも)

 十萌は必ず幸せにする。だから、逝くな。仁斎の願いも空しく、朔夜は静かに息を引き取った。幼い十萌が嗚咽を漏らしながらその遺体に縋りつく。

 それは、十萌が十を迎え、雷翁の資質を試される直前のことだった。

 ――そうか、だからおやじさまは。十萌は全てを悟った。父が十萌に資質がないと偽り、酷薄な態度を取り続けたのは、いまわの際の母の願いを不器用なまでに(かたく)なに叶えようとしたからなのだ。

 あたしは、あたしの幸せは。万感胸に迫らせながら、十萌は仁斎の拳をいなし、反撃をした。たしかに娘を案じる両親の思いはありがたかった。しかし、あたしの幸せはあたしが決める。

 今、十萌は(まさ)しく幸福の絶頂に居た。愛しい男とともに、敬愛してやまない父と雷翁を舞っていることこそが、十萌が求めていた至上の幸福であり、自由であった。


     ○     ○     ○


 同じく小源太も、仁斎の師としての思いを感じ取っていた。

 贄の里で小源太の舞鎌を見た仁斎は、感嘆の声を漏らさずにいられなかった。後から贄の里の者に、小源太は下働きとして扱われており、舞鎌の修得を禁じられていると聞き、さらに驚いた。

 独学であそこまでの(わざ)の冴えを見せるとは。仁斎は小源太の父と面識があった。十顎(じゅうがく)である贄柔吾(じゅうご)に劣らぬ力を持っていた父の才を、小源太は見事に受け継いでいたのだ。

 このまま腐らせるのはあまりにも惜しい。仁斎が小源太の身元を引き受けたいと言い出したとき、贄の者の反応も尋常ではなかったが、誰より驚いていたのは当の小源太だった。

 仁斎が手を差し伸べると、小源太は獣のような瞳でしっかりと見つめながらその手を取った。小源太はそのときに感じた温もりを忘れなかった。

 そして、それは仁斎も同じだった。

 小源太は仁斎に救いと生き甲斐を求め、仁斎は小源太に希望を見出した。

 小源太は、仁斎の行動とは裏腹の十萌への思いに気付いていた。

 仁斎は、小源太が贄の里、特に贄文吾への敵愾心(てきがいしん)を知っていた。

 お互いを理解していながら、両者は思いを(たが)え、そしてともに異形の姿へと変貌した。

 今こうして立ち合う二人に迷いはなかった。

 ただ純粋に、師弟は雷翁の(わざ)を交わした。


     ○     ○     ○


 十萌と父・仁斎。

 小源太と師・仁斎。

 そして、十萌と小源太。

 三者の心が一つに重なり、雷翁は最大の気勢を発した。

 そして、深淵へ至る蓋が開かれる。


     ○     ○     ○


 十萌と小源太の心が仁斎と重なるさまは、ミズキと贄文吾にも感じ取れた。二人が身に着ける緋々牙が、三者の交感を伝えたのだ。

 同時に、緋々牙はその場に迫る異常も知らせた。三者の気勢が高まるにつれ、その奥で深淵への穴を塞ぐ呪態の成果(なれのはて)が活性化していた。

「あれは……」

「雷翁が引き寄せているのよ」

 深淵の向こうに巣食う妖物をね。蠢く成果に構わず、二体の蝓蠖(ゆご)は雷翁を舞い続ける。

 みしみし、ぎちぎち。ムカデやダンゴムシの外殻が軋み、サンショウウオやカエルの表皮が歪む。

 雷翁の気勢がこれまでにないほど高まったそのとき、成果どもの体を貫き、数十本の触手が飛び出した。

 槍のように鋭く尖った触手の群れは、迷わず二体の蝓蠖へと向かう。

 小源太の手刀をいなした仁斎が、その勢いのまま迫る蝓蠖(ゆご)へと両手を翳した。

 十指から黒球が連続して放たれ、触手の大半を消滅させた。

 残る触手の全てを、小源太が翁の動きでかわし、雷の攻めを以て斬り裂いた。

「やったのか」

「いや、まだよ」

 触手はなくなったが、穴を塞ぐ成果(なれのはて)たちの巨体が向こう側から押し出され、ぼろぼろと落ちた。

 成果を押し退けて現れたモノ、それは巨大な(つぼみ)だった。

 蕾のところどころで、赤い(こぶ)が不気味に脈を打っている。

「よ、妖物……」

 蕾は、妖物が群体のように寄り集まり、その形を成していた。

 その身が(ほころ)ぶ。

 開いたのは醜悪な花弁(はなびら)だった。

 中心には、雌蕊(めしべ)雄蕊(おしべ)の代わりに、妖物の源である赤い瘤が幾百も凝り固まっている。

 赤い球を持った大きな(てのひら)にも見える妖花(ようか)は、花弁のような触手の先端をさらに伸ばし、大空洞の壁面を覆い出した。

此岸(こちら)に根を張ろうとしている……」

 ミズキが声を震わせた。

「させるか」

 小源太の放つ黒球が指のような触手の一本を断ち切る。

 切り離された先端部は集合を解き、数十体の妖物に姿を変えた。

 妖物の群れへと向かおうとする小源太へ、ミズキは声をかけた。

「こいつらは任せて」

 ミズキと文吾は分散した妖物へと飛びかかり、次々と始末していった。

「親玉を叩く」

 小源太と十萌は両腕を掲げ、深淵の力を手先に充填した。

 妖物の群体は花弁を閉じて防ごうとする。

 そこへ、仁斎の黒い閃光が走り、花弁を断ち切った。

 力尽き、仁斎は膝を着く。

「おやじさま」

「気を()らしている場合か」

 仁斎の言葉を受け、小源太と十萌は剥き出しとなった大きな赤い球へと閃光を放つ。

 閃光が寄り集まる妖物を掻き消した。

 妖花は負けじと再び妖物を寄り集めたが、とうとう深淵へと押し返された。

「やったわ」

 こぼれた妖物にとどめを刺しながら、ミズキが言う。

「いや、まだだ」

 仁斎は死にかけの成果(なれのはて)の一体に這い寄ると、その体内へ腕を突き入れた。成果の呪が仁斎へと流れ込む。呪だけではなく、その異形の体すら蒼い蝓蠖(ゆご)と同化していく。

「おやじさま、何をなさるおつもりですか」

「やつを……寄羅泥无(いよらでぃむ)をこのまま封じる」

 志の歩が言い残した不可解な言葉を口にしつつ、ひと回り大きくなった蒼い蝓蠖は、両手の指を伸長させて他の成果をも吸収した。

「いよらでぃむ――それがあの妖物どもの名前なのですか」

 仁斎を核としてぶくぶくと膨らんだ異形の塊は、そのままずるずると深淵に至る穴へと移動しはじめた。

「まさか、仁斎さまは鎧霊に成るおつもりなのでは」

 小源太の懸念は当たっていた。

「深淵に巣食い、神をも凌駕(りょうが)する力を得た存在(モノ)――寄羅泥无を此岸(しがん)へと入り込ませぬこと」

 それこそが、不破の使命なのだ。仁斎は異形と化した今でも己に与えられた役目を果たそうとしていた。

「待って」

 小源太と十萌が仁斎の行く手に立ちはだかった。

「邪魔をする気か」

 くぐもった声で仁斎が問う。その目が、深淵から小源太たちの背後に迫る寄羅泥无の触手を捉えた。

「くッ」

 仁斎が挙動を取るより早く、小源太たちは振り向きざまに黒球を撃ち出し、触手を蒸発させた。

「邪魔など致しません。深淵の蓋を閉ざす不破の役目、大いに結構」

「ならば、なぜおれの前に立つ」

 緑灰の蝓蠖は顔だけを仁斎へ向き直した。

「不破の者はおやじさまだけではありません」

「おれたちも不破の端くれ。仁斎さまお一人では逝かせませぬ」

 仁斎は愛する娘と弟子の真意を理解した。

「おまえたち、まさか……」

 十萌と小源太はこくりと頷いた。

「我らが深淵に入り、寄羅泥无を撃滅します」

「そんなことができると」

「やってみせます。そのための蝓蠖(ゆご)なのでしょう」

 それを聞き、仁斎は二人の決意は揺るがすことができないことを悟った。

寄羅泥无(いよらでぃむ)を滅する滅せざるに関わらず、深淵は閉ざさねばならぬ」

「承知しております。我らが彼岸(ひがん)へ踏み入った後、即座に(ふた)をすればよいこと」

 仁斎を犠牲にして得た安息に何の意味があろうか。そもそも、異形と化した自分たちには、此岸での安息など許されはしない。二人は痛いくらいにそのことを弁えていた。

「そこまで腹を決めているか。ならば何も言うまい。好きにしろ」

 全く、その頑迷(がんめい)さは一体誰に似たのやら。仁斎は呆れたように苦笑を漏らした。

「決まっています。あなたですよ」

 微笑みを残し、二人は深淵へと飛翔した。

 深淵に入るなり怒濤の如く押し寄せる寄羅泥无を、後方の此岸から発せられた十条の黒い閃光が薙ぎ払った。

雑魚(ざこ)には構わうな」

 直進せよ、不破の者たち。仁斎の(げき)を背に受け、十萌と小源太はその身の一本の矢と化した。

 振り切られた寄羅泥无はそれを追おうとはせず、もう一度寄り集まって此岸を目指した。

 その後ろ姿を見送りながら、仁斎はミズキと文吾に声をかけた。

「御二方、一体も取り逃してはならんぞ」

委細(いさい)承知」

 ミズキと文吾は応じるや、迫り来る妖物の群れに向けて身構えた。


 深淵には色が存在しなかった。

 黒白とその(あわい)が揺らめく奇妙で広大無辺な空間に、寄羅泥无はその触腕を網目の如く張り巡らせていた。遠近感が全く掴めないほど途方もなく巨大な威容である。触腕のところどころを瞬間的な光が走るそのさまは、まるで神経細胞が活動しているようだった。

 触腕をたどってその先を見やると、不破の空洞に現れたのと同じ妖花の蕾を無数に膨らませていた。蕾のさらに先端で空間が歪んでいるのは、他にも此岸への(かよ)()を開こうとしているのだろう。それぞれの此岸に寄羅泥无に対抗しようとしている者が少なからず居ることも感じ取れた。

 自分たちだけじゃない。小源太と十萌は、より一層心を奮い立たせた。

 目的のものは遙か彼方にあった。触腕が根塊(こんかい)のように寄り集まっている箇所――それこそが寄羅泥无の中枢だった。

 そこまでは宇宙的な(へだ)たりがあったが、一体となった二人にはその距離ですら何ほどのものでもなかった。

 無限に漂う深淵を取り込み(べき)乗の加速度で進む二人へ、触腕が次々と襲いかかる。

 緑灰(りょっかい)蝓蠖(ゆご)は加速の中で合掌した。

 合わせた手を離すと、その間を黒い雷が行き来する。

 此岸では到底生み出せないほどの深淵の力を込めた黒雷が、無数の触腕へと解き放たれた。

 放射状に放たれた黒雷は触腕を蹴散らすのみならず、その勢いをいや増した。

 黒雷は放たれた後も周囲の深淵を吸収し、自己生成を続ける。

 枝分かれした黒雷が、神経細胞のように張り巡らされた寄羅泥无(いよらでぃむ)の触腕を千々に裂き、中枢を覆う根塊すら引き剥がした。

 露わになったのは、淡い光を湛える小惑星大の玉。

 規模こそ大きく違えど、それは蝓蠖の制御核と同一の存在だった。

 那由他(なゆた)(メートル)をひと息に飛び、十萌と小源太は寄羅泥无の中枢へと迫る。

 ぎぃやぎぃや。身の危険を感じた寄羅泥无は無数の赤い瘤を生み出し、生成させた妖物を以て蝓蠖を(はば)まんとする。

 新たに生み出された妖物は、触腕の形を取らずにひたすら蝓蠖と中枢の直線状に集まった。

 星雲の如く渦を巻く妖物の中に、蝓蠖はそのまま飛び込んだ。

 人知を遙かに超えた相対速度の中にありながら、犇めく妖物どもの間を擦り抜ける。

 そのさまは、まるで翁が舞うようであり、かつひと筋の雷が迅るようであった。

 雷翁は一つ身にて成さず。二人はその口伝を体現していた。

 雷翁の呼吸に合わせ、両腕にありったけの力を集める。

 妖物の星雲を抜けた蝓蠖は、左拳を寄羅泥无の中枢に打ち込んだ。

 寄羅泥无が揺らぐが、惑星規模の巨球には針を刺したほどの痛手でしかない。

 蝓蠖はさらに右の貫手を差し込んだ。

 左右の両点の間に亀裂が生じる。

 一拍置き、亀裂は水平方向に向けて長大に伸びていく。

 しかし、それでも寄羅泥无を破壊するには至らなかった。

 やり過ごした妖物の群れが槍と変じ、蝓蠖の背面を貫いた。

 ごぼり。小源太と十萌は吐血しながら、最後の力を振り絞った。

 中枢に打ち込まれた両手の間に、深淵の力が凝集する。

 二つの命を一つに織り成し、蝓蠖はそれを掲げ上げる。

 そして――黒い閃光が寄羅泥无の中枢を貫いた。


     ○     ○     ○


 遙けき此岸で、仁斎はその光を見た。

「やったか」

 潮が引くように、妖物はその勢いを減じさせていた。

 残る妖物にとどめを刺しながら、ミズキは案じる声を発する。

「二人は、十萌と小源太は」

 仁斎からの(いら)えはなかった。

「玉砕か」

 最後の一体を仕留め、文吾が言う。

憶測(おくそく)で物を言わないで」

 (いさ)めつつ、ミズキは仁斎に詰め寄る。

「教えてください。二人はどうなったのですか」

 仁斎は重い口を開いた。

「寄羅泥无の撃滅は成した。それだけはたしかだ」

「それだけって、そんな」

 ミズキは口元を押さえ、嗚咽(おえつ)が漏れるのを(こら)えた。

「そう()くな。おそらく、あやつらは死んではいない」

「では、こちらへ帰って来ているのですね」

 一転して喜色を浮かべるミズキだったが、仁斎の面持ちは決して明るくはなかった。

「いや、帰っては来ない。少なくとも、すぐにはな」

「どういうことですか。生きているのならここへ――あたしたちの元へ戻って来るはず」

 しかし、仁斎は首を横に振った。

「あやつらは、全身全霊を昇華させてしまったのだ」

 仁斎の硬質の眼には、時間と空間を超越した虚空で深い眠りに落ちた二人の姿が映っていた。

「じゃあ、こちらから迎えに行くことは」

「不可能だろう。蝓蠖の力を持つおれですらたどり着けるかどうかもわからぬ。まして人の身では」

 仁斎が絶望の言葉を発した。

「もう二度と……会うことはできないのですか」

「そうだ」

 そう断言すると、仁斎は成果を取り込んだ巨体を深淵に至る穴へ向けた。

「な、何をなさるおつもりですか」

「言うまでもない」

 おやめください。ミズキは必死に追い縋った。

「閉ざすというのですか。二人が戻ってくる場所を」

「おれはおれの役目を果たすまで」

 仁斎はミズキを払い退け、穴にその身を重ねた。

「させません」

 緋々(ひひきば)の刃を閃かせようとするミズキを、文吾が止めた。

「離してよ」

 ミズキは身をよじらせるが、文吾は決して離そうとしなかった。

「そのくらいにしておけ。辛いのはおまえだけではない」

 はっ、とミズキが見上げると、壁と同化しつつある仁斎の顔が目に入った。

 それは、断腸の痛みに耐える男の顔だった。

「血を分けた娘と手塩にかけた弟子とのつながりを、己が身で隔てるのだ。並大抵の覚悟ではない」

「じ、仁斎さま……でも、でも……」

 泣き崩れるミズキに、その身のほとんどを石と化した仁斎が語りかける。

「おれはあやつらを見捨てる気はない。おれはここで待つのだ」

 永い時をかけて、愛しい娘と息子が帰ってくるのを。そう言い残し、仁斎はあらゆる生命活動を停めた。

 しかし、その身が微かな波動を放ち続けているのを、緋々牙が伝えた。

 暗黒を照らす灯台のような光――それは、何よりも暖かい人の思いだった。


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