第四章 元凶
黄昏の中を、不破十萌は単身駆けていた。
ともにあるはずのミズキの姿は影もない。
緋々牙の片割れを形見のように左腕に着け、十萌はひた走る。
不破の里を抜けて呪態研に続く道に入った途端、異臭が鼻を突いた。何度も嗅いだことのある臭い――それは、呪態の成果が死ぬときに発する腐臭だった。
その臭いに混じり奇妙な気配が伝わってくる。制御核の反応を待つまでもない。間違えようがない。
十萌が歩を進めると、さまざまな姿形の成果の死骸と枯死した妖物たちが累々と転がっていた。
呪態研の門前に、巨大な成果の骸が堆く積み上げられている。
黄昏に照らされた骸の塔の上に、一人の男が腰をかけていた。
「遅かったじゃないか」
迷う道ではあるまいに。男の薄影が、十萌の足下にまで長く伸びる。
「贄文吾……」
「あまりにも遅いので、腕馴らしでもして待とうと思ったのだが」
少々殺し過ぎてしまったよ。文吾は氷のような冷たい笑みを浮かべた。
奥羽の山中で自分を殺し、そして小源太と一体になった自分が殺したはずの男。それがどうしてこの不破の里に。十萌は怪訝そうな顔で文吾を見た。
「わたしがここに居るのが解せないようだな」
くくく。文吾は含み笑いを漏らした。
「足も影もあるってことは、残念のあまり迷い出た亡霊ではないようね」
「亡霊か。言いようによってはそうかもしれぬな。今のわたしにとっては、十顎も贄の里もどうでもよい」
わたしに在るのは、おまえたちを微塵もなく切り刻むという願いのみ。ゆらり。文吾は積み重なった成果から、音もなく地に下り立った。
「それは奇遇ね。あたしもあなたに借りを返したいと思ってたのよ」
深淵の力でなく、この手でね。十萌が静かに雷翁の構えを取った。
「自惚れるにもほどがある。おまえだけでは足りぬ。蝓蠖を――小源太を纏え」
文吾が揺らめかせる鬼気に、十萌は総毛立つ思いに駆られた。
以前も実力に裏打ちされた自信に満ち溢れていたが、それとはまた違う異質なものを文吾は秘めていた。そして虚ろに濁った目。
十萌の胸で制御核が危険を告げる。
「まさか、あなたも――」
「御託はいい」
文吾の姿が掻き消える。
舞鎌が来る。しかし、ただの舞鎌ならば応じられないことはない。
生身のまま迎撃しようとする十萌の胸で制御核が青く輝き、空間を歪ませた。
舞鎌の刃が届く寸前、虚空から現れた蝓蠖が十萌を包み込んでいた。
蝓蠖はすぐさま、首を断ち切ろうとする文吾の両手を押さえた。
奥羽の山のときと同じ体勢であったが、呪態を顕現させていない文吾の両手は折れることも潰れることもなく、蝓蠖と力を拮抗させた。
「浅はかな女を守ったか、小源太よ。だが――」
それすらも浅慮だ。文吾の背後から四つの影が鋭く伸びる。
四本の鎌のような刃だった。
二本が蝓蠖の上腕を、もう二本が大腿を貫いた。
ぎしゃあっ。蝓蠖の眼が赤くなり、両手それぞれに黒い光が集中する。
「おっと。さすがにそれは怖い」
深淵の力を察知するや、文吾は四本の鎌を引き抜いて跳び退いた。
それを追うように放出された二つの黒球を、文吾は鎌を振るっていとも容易く断ち切った。
両断された黒球が蒸散する。
文吾の刃は欠けることなく、鏡のような滑らかさを保っていた。
その刃は、わずかながら深淵の力を発していた。
そのまま暴走するかと思われた蝓蠖は、しかし赤光を薄らげて青い眼を取り戻す。
「ほう、自制が効くようになったか」
感心する文吾の前で、蝓蠖の四肢の傷が見る間に塞がっていく。
「そ、その腕は……」
蝓蠖から十萌の呟きが漏れる。
「これか。これはきさまらに殺された弟たちの腕だ」
文吾が意のままに動かす四本の鎌は、その背から生えていた。
「わたしも手に入れたのだよ。きさまと同じ鎧霊の力を」
めきめきと耳障りな音を立てて文吾が変形していく。
細身の体の全てを外殻が覆い、そして両腕はひと回り大きな鎌となった。
文吾を救い、力を与えた者。それは――。
「蠎蛇の志の歩からな」
やはり、あの人が黒幕なのか。十萌は確信すると同時に戸惑いの念も強めた。
たしかに志の歩は人を寄せ付けない空気を持った人で、他者をもののように見るところもあった。だが、ここまで人の運命を狂わせるような人ではなかったはず。岩牢に幽閉された小源太に会うための尽力もしてくれた――いや、もしやあれも謀略の内だったのか。
志の歩がこのような行動に出たのは、解放された鎧霊の力を知ったからではなく、その前から周到な計画を立てていたのではないだろうか。十萌の中でさまざまな情報が結び付いていく。
志の歩は里長専属の施呪者だった。呪態研ができてから仁斎の施呪を一人で担っていた志の歩は、鎧霊のことを耳にする機会があったのかもしれない。もしかすると、鎧霊のことを知るために、不破の里に来たのではないか。
疑う余地はまだある。雷翁の継承が間近となった小源太に呪を施していたのも志の歩だ。小源太の乱心は文吾への意趣返しが原因とばかり考えられていたが、これにも志の歩が何がしかの関わりを持っているのではなかろうか。十萌は制御核を通して身を覆う蝓蠖に問いかけるが、小源太は何も答えようとしなかった。
「悠長に思案している暇があるのか」
贄文吾が六本の鎌を構えた。それはまるで阿修羅の如き六臂の姿だった。
文吾は間合いを詰めると、舞鎌の動作で六臂を振るう。
源蔵と同様、異形になりながらも顎の冴えは変わらない。
竜巻のように荒れ狂う刃の渦が十萌を呑み込む。
目にも留まらぬ攻防が繰り広げられ、そして両者は共に距離を取った。
「どういうことだ」
そう呟くのは無傷のままの文吾だった。
対する蝓蠖は、外殻に幾つもの裂傷が見られるもののその全てが皮一枚で止められていた。
十萌は荒い息を静め、構えを取った。
蝓蠖を纏装した十萌が取ったのは、雷翁の構えだった。
「そうか、きさまも」
きさまもその姿で顎を。刃の渦をかわしきったのは、翁の守りだった。文吾が鎧霊の力を得たのと同じく、十萌も蝓蠖のまま顎を扱うことができるようになっていた。
「あなたに二人の弟が居るように」
あたしにも、小源太とミズキさんが居る。再び迫る刃の渦に十萌は身を投じた。
猛り狂う蝓蠖を制したミズキは、力を恐れる十萌に制御の手段を提示した。異形となった源蔵が雷翁を繰り出したように纏装状態のままで顎を操ることが蝓蠖の制御につながるとミズキは確信し、その身を擲った。
そして、十萌は真の意味で蝓蠖と一つになることができたのだった。
阿修羅の刃を雷翁がくぐり抜ける。刃の鋭さは文吾の呪態を遙かに凌いでおり、それを振るう迅さも精密さも十顎のものである。しかし、蝓蠖に傷を負わすこともできない。徐々にではあるが、かすりもしなくなってきた。
「なぜだッ」
同じ鎧霊の力を得たはず。呪態を超える力と、弟二人の腕と、舞鎌の顎を合わせたわたしの刃が、なぜ届かないのだ。焦った文吾は、懐に入ろうとする十萌に全ての腕を振るった。
いかな翁の動きであろうと、逃げ場がなければかわしようがない。
三対の顎が蝓蠖を輪切りにした。
「手応えあり」
寸断された蝓蠖の体の断片がぼとぼとと地に落ちる。
しかし、そこには十萌らしき肉片は見当たらない。
「何ッ」
見回そうとする文吾の首筋に、緋い刃が突き刺さる。
金蝉殻を脱し、生身となった十萌であった。
十萌は緋々牙をさらに奥へと刺し入れた。
「ぐああッ」
赤黒い血を迸らせながら、文吾は鎌を振り上げる。
だが、十萌はすでに跳び退いた後だった。
首筋に突き立ったままの緋々牙を抜こうにも、鎌の腕では能わない。
十萌は分断された蝓蠖の腕を拾い上げると、制御核を用いてそれに貫手を作らせ、そのまま文吾の腹へと投げつけた。
七本目の腕を背から生やした文吾は、よたよたと後退り、成果の塔に身を凭れかけたところで動きを止めた。
ばらばらになった蝓蠖の欠片が雲霞のように虚空へ消える。
動かなくなった文吾を貫く腕も同様だった。
刺さった緋々牙を引き抜こうと十萌が手をかけたそのとき、制御核が呪態研の屋上に大きな深淵の力が生まれるのを感じ取る。
十萌は文吾に目を戻すと、何を考えたか緋々牙をそのままにし、呪態研へと足を向けた。
逃がしてなるものか。十萌は静まり返る呪態研の階段を駆け上がった。
ようやくここまで来たのだ。己の運命を、己の大切な者たちの運命を捻じ曲げたものの正体をこの目で確かめ、この手で打ち砕く。十萌の心はその思いで沸き上がっていた。
五階建ての研究所の屋上に出ると、まず目に入ったのは巨大な成果。トカゲ型だが十萌が知っているものよりもふた回りは大きく、脚は倍の八本生えていた。先ほど感じた深淵の力はこのトカゲから発されている。文吾と同じく鎧霊の一部を移植したに違いない。
トカゲの成果は戸板を背負子のように担いでおり、二人の女がそこに人を括ろうとしていた。白衣を着た長髪の女と、ピンクのナース服を着た小柄な女――志の歩と真つ里だった。
「待ちなさい」
十萌が発すると、二人は振り向いた。
狼狽しかける真つ里を宥めて成果の背へ上るように促すと、志の歩は十萌へと歩き出す。
背負子に括られているのは白髪の老婆――見覚えがない人間だった。あれも鎧霊の実験体なのだろうか。だとしたら――。
「行かせない」
駆け寄ろうとする十萌を志の歩が阻む。
「わたしは残るから、あの人たちは見逃して。お願い」
普段感情を表に出さない志の歩の哀切な声に、十萌は思わず口を噤んだ。
「あなたの会いたい人は、まだここに居る」
仁斎さまは、この研究所に居るのよ。父の名を出され、十萌は躊躇した。父と逃れようとする蠎蛇をかけた天秤は、己の大切な者の方に重きを置いた。
「わかったわ。案内して」
「ええ」
トカゲの成果は助走をつけて屋上から跳躍する。空中で八本の脚を大きく開くと、脚の間に皮膜が張り、大気を掴むようにして滑空する。
見る間に遠ざかっていく中、真つ里が一瞬だけ振り返ったような気がした。
志の歩に誘われるまま、十萌は研究所の中に戻った。
「もう気付いているわよね。不破の里を操り、鎧霊を解放させたのは呪態研――いや、このあたしだということに」
階段を下りながら、志の歩が淡々と語り出す。
「どうしてこんなことを……」
十萌は掴みかかりたい衝動を抑えながら訊ねた。
「理由は大小二つ。大きい理由は、鎧霊の力が蠎蛇の大望成就のためになると思ったから」
「呪法以外に大した力を持っていないから、ということですか」
蠎蛇の持つ呪法は絶大だが、支族としての武力は下から数えた方が早い。
「そんな単純な話じゃないわ。蠎蛇は八岐を超え、呪の『その先』へとたどり着こうとしているのよ」
「『その先』とは、一体何なの」
十萌の問いに、志の歩は微笑を返した。
「愚問ね。あなたはすでに知っているじゃない。その身を以て」
十萌は得心した。それは鎧霊がもたらしたもの――蝓蠖の鎧。顎を操る異形。源蔵と贄文吾が見せた同化能力。全てがそれまでの八岐を遙かに超えた力である。
「予定は少し狂ってしまったけど、わたしは鎧霊の力をこの手にしたわ」
成功を噛み締めるような志の歩の口調に憤るとともに、十萌は違和感を覚えた。今の言葉はまるで志の歩自身が鎧霊の力を宿したようだった。たしかに源蔵と贄文吾は自我を失うことなく深淵の力を発揮させた。おそらくは父も――。しかし、十萌の制御核は志の歩から深淵の力を感知していない。志の歩はただの蠎蛇の女だった。
「もう一つの、小さい理由とは」
違和感を拭い切れぬまま、十萌は話を続けた。
「蠎蛇の求める『その先』にも色々あってね。その一つに不老不死があるの」
蠎蛇の中には、呪によって他の支族よりも長く若さを保つ者がおり、志の歩の血脈もその一つだという。
「わたしは幾つくらいに見えるかしら」
おもむろに問い返され、十萌は戸惑った。
「二十代の、後半くらい」
「嬉しいわ。わたし、もうすぐ還暦なのよ」
十萌は我が耳を疑った。艶やかな黒髪にきめ細かく張りのある肌。見た目に倍する年齢だなどと、冗談にもほどがある。
「信じていないわね。ついでに言うと、真つ里は三十路よ」
このことを人に言うと、あの子凄い剣幕で怒るけど。志の歩は心底おかしそうに微笑んだ。もちろん十萌は笑うどころではない。
「信じられない。だとしたら、あなたと真つ里ちゃんは二十以上も歳が離れていることになる」
姉妹で……そんなことがあるのだろうか。志の歩は幾分か真面目な面持ちで答えた。
「わたしたちは姉妹ではないわ。あの子はわたしがこの胎を痛めて産んだ子――」
わたしたちは母娘なのよ。十萌はさらに愕然とした。思いつきの嘘で煙に巻くような腹積もりは感じられなかった。
「あなたたちが母娘ですって。じゃあ、於ぼ路さんは……」
十萌は長く姿を見せていない蠎蛇の長姉の名を出した。
わずかに逡巡し、志の歩は答えた。
「於ぼ路は、わたしの母よ」
つまり、わたしたちは三姉妹ではなく、三代に亘る母娘なのよ。それを聞く十萌の脳裏に、先ほど屋上で見た光景が過ぎる。
「さっき運ばれていたのは、もしかして」
「そう。あれはわたしの母、於ぼ路」
十萌は言葉を失った。あの老婆が於ぼ路だとは。数えるほどしかないが、十萌は於ぼ路と会ったことがある。その姿は魅惑的な肉感に溢れ、まるで地母神のようだった。
「母は、百を越えているの。今までは呪で若さを保ってきたけれど、それも限界を迎えたわ」
「それで、姿を現さなくなったのね」
思い返すと、ミズキがこの里を訪れる頃には――いや、小源太が雷翁の継承者となる少し前から、於ぼ路はその姿を見せなくなった。研究に没頭していると伝えられたが、実はそうでなく、老衰が著しく進んだためだったのだ。
「緩やかな老いの兆候が最初に見られたのは七年前だったわ。八方手を尽くしたけれど、母の老化は止められなかった」
志の歩は藁にも縋るような思いで、蠎蛇の古老から聞いたことのある不破の秘奥を頼った。
「ここを設立したのもわたし。計画を通すまでは苦労したけれど、その後は順調だったわ」
志の歩たちが研究員兼施呪者として不破の里に入り込んだのは五年前、ちょうど不破仁斎が娘に雷翁の資質なしと判断した直後だった。
「施呪の名目でお父上からその真意を聞き出したわたしは、全ての算段を立てた」
「おやじさまの真意ですって」
十萌の問いにはあえて答えず、志の歩は話を続けた。
仁斎。十萌。小源太。ミズキ。源蔵。贄文吾とその弟たち。あらゆる人間が駒だった。
「と言っても、一から十まで計算して手を下したわけではないのよ。わたしは充分な仕込みをして、後は機が訪れるのを待っただけ」
仁斎が十萌に資質がないと偽り、代わりに小源太を連れて来たこと。
その小源太が贄の里への報復を考えていたこと。
父の愛に餓えた十萌が小源太に恋慕すること。
顎分けでミズキが不破の里に招かれたこと。
小源太とミズキが惹かれ合い、そして破局すること。
小源太が十萌に雷翁を教え、仁斎の偽りに気付くこと。
そして――十萌と小源太が鎧霊の封を解いたこと。
「全てはあなたたちが考え、選択した行為の結果よ。あたしは機を見つけてほんの少し後押しをしただけ」
事実、志の歩が手を加えたのは数えるほどだった。
仁斎と小源太を使うという当初の目算は、同性同士では鎧霊の封は解けないという壁にぶつかり頓挫した。いかに蠎蛇といえども人心を意のままにすることはできない。仁斎の後添いを迎えないという固い決意を変えることも、十萌に雷翁の手ほどきをさせることも、役目に就く里の女を強引に操ることもできなかった。鎧霊に耐える特殊な呪を仁斎に施しながら、志の歩は機が訪れるのをひたすら待った。
そして二年前。小源太への継承を決めた仁斎は、心境をどう変化させたのか顎分けを決め、ミズキを里に招いた。待望の好機と判じた志の歩は、継承に向けてという名目で小源太への施呪を行い、その心の綻びを引き出した。志の歩は次に、それを利用して小源太とミズキに封を解かせようと考えながら、保険として仁斎に小源太への不信を植え付けておいた。
結果として、その保険は効果を発揮した。贄文吾に敗れ、心の救いを求める小源太を、ミズキは役目を優先させて拒絶した。失意の底にある小源太を絡め取った志の歩は、仁斎と同様の鎧霊用の施呪や投薬をし、力を渇望させ、また十萌に雷翁を教えるようにし向けた。並行して仁斎の不信を強め、そして小源太は継承者の資格を奪われた。
最後の難関は、いかに十萌と小源太を鎧霊の元へ赴かせるかであったが、正に飛んで火に入る夏の虫、都合良く十萌の方から囚われの小源太に逢わせて欲しいと懇願してきた。志の歩はそれを聞き入れ、少しだけ手を貸した。
「そして、あなたたち二人は鎧霊を解き放った」
十萌は絶句した。自分はその時々に正しいと思うことを選択してきたつもりだった。それは十萌に限らず、小源太もミズキも、仁斎でさえもそうだったはず。しかし、それがある邪念の小さな働きかけだけで、ここまでの不幸を招いてしまった。今こうして父に会おうとすることすら、さらなる不幸を招き入れる誤った選択なのではないだろうか。
「お父上が亡くなり、あなたたち二人が姿を消したのも誤算といえば誤算だけれど、修正が効かないというほどでもなかった……さあ着いたわ」
いつの間にか二人は研究所の地下にある大きな扉の前にたどり着いていた。
「仁斎さまは、この先にいらっしゃるわ」
志の歩が操作板に指を走らせると、扉は音もなく開いた。
扉の先は、鎧霊の大空洞ほどもある広い研究室だった。その奥まったところにある大きな筒状の水槽に、数え切れないほどの管につながれた仁斎が浮かんでいた。
「おやじさまッ」
十萌は駆け寄り、透明な水槽越しに父を見上げた。意識はないが、呼吸はしているようだ。
傍らにある操作板を志の歩が操ると、仁斎が浸かる液体が排出された。空になった水槽の蓋が開き、ぶちぶちと管が外れる。支えを失い倒れる仁斎の体を、十萌が受け止めた。
「……よかった、生きてる」
十萌は死に別れたはずの父がこうして生きていることに安堵した。
「う……うう……」
仁斎がうめきを漏らす。
「おやじさま、気が付かれましたか」
晴れやかに覗き込んだ十萌が見たのは、虚ろな双眸だった。正気を失った源蔵や文吾の姿が重なる。
「お、おやじさま……」
呆然とする十萌の腕から身を起こすと、仁斎は周囲を見渡して何かを探す素振りをした。その目には、やはり十萌は映っていなかった。
「う、あ……しのぶ……」
仁斎は志の歩の存在を認めると、そちらへ向かって覚束ない足取りで歩き出した。
「いい子ね」
志の歩が手を取って誉めると、仁斎は幼子のように喜んだ。十萌は自失しながらそのさまを眺めた。
「何をしたの……」
おやじさまに何をしたの。呟く十萌に、志の歩は冷ややかな視線を向けた。
「何って、わかってるでしょう。その制御核が教えてくれているはずだわ」
それを聞き、十萌は激昂した。
「あたしはおまえに聞いている!」
「そんな怖い顔をしないでちょうだい。わたしはただ、この人の命を救っただけ。そう――」
あなたたちが殺したこの人に、新しい命を与えてあげたのよ。まるで感謝を求めるかのように志の歩は言った。志の歩の気を引こうと、仁斎がその体に纏わりつく。
目を潰してしまいたくなるような光景を前にし、混乱の窮みに達した十萌は泣き崩れた。
「おやじさまを返して。鎧霊の研究は済んだのでしょう。だったら、ねえ」
お願い、おやじさまをあたしに返して。十萌は志の歩にひれ伏し、額を何度も床に叩きつけた。お願い、お願いだから。
「返すも何も、元々あなたのものではないでしょう」
志の歩は呆れた顔で十萌を見下ろした。
「それに……研究はまだ終わっていないわ。むしろはじまったばかり」
だって、わたしはまだそれを手に入れてないのだもの。十萌がはっと顔を上げと、志の歩の眼が蛇のように光っているのが目に入った。蛇の眼が求めるものは、十萌の胸にあった。
「……制御核が欲しいのね。いいわ、あげる」
だから、おやじさまを。言いかけて、十萌ははっと思い至った。制御核を渡すということは、己の命を差し出すのと同じだということに。いや、自分の命なら幾らでも捨てることができる。しかし、これは渡せない。これは最も愛しい人とのつながりの結晶なのだから。
「父よりも、男を選ぶのね。聞いたかしら、仁斎」
あなたの娘は随分と薄情ね。そのやり取りに構わず、仁斎は志の歩にじゃれつき、背後から胸元に手を差し込んだ。
「だめよ、仁斎」
その手をつねり上げ、志の歩は艶っぽく笑った。お預けを食らった仁斎は、顔を情けなく顰めさせた。
「折角楽しむのなら、二人だけじゃなくて娘さんたちも混ぜてあげましょう」
仁斎の顔に喜色が浮かぶ。
「……どういうこと。何よ、それ……」
言いながら、十萌はそれがいかなる意味かを直感していた。
「小源太に殺されたとき、仁斎が呪態を顕現させていなくて良かったわ。弟子への師の思いやりとは美しいものね。だって、わたしにも最大の好機を与えてくれたのだもの」
呪を施された蜈蚣でなければ、成れぬモノ。それは――。
「十屯あった鎧霊の骸から抽出できた細胞は、たった五十瓩。そのほとんどをお父上に使わせてもらったわ。ちなみに源蔵どのたちに与えた細胞は、培養できたものを加えて数瓩ずつといった程度よ」
この違いがどういうことか、わかるかしら。冷笑しながら、志の歩は仁斎の胸に触れた。
「変形なさい」
胸の制御核が発する警戒の信号が強まる中、仁斎の体は見る間に形を変えていく。
「それは、まさか……」
十萌が目を瞠る。
源蔵とも文吾とも異なる姿、それは――。
「そう、蝓蠖よ」
志の歩が自慢げに言う。変形した仁斎と蝓蠖の違いは、体色が蒼いことと制御核を持たないということくらいだった。
「この形状がどういうことかも、想像できるわよね」
仁斎の胸部と腹部の殻が開き、内側の肉が露わとなる。
「一つになりましょう、仁斎」
纏装――。その声に応じるように仁斎は志の歩を包み込み、黒い光を放った。




