第三章 帰郷
二年振りの郷里は驚くほど荒れ果てていた。周囲の山々は色褪せた冬の装いに移り変わっていたが、来るべき春に向けて力を蓄える多様な命を包み込んでいる。
その中で唯一、不破の里だけが命の精彩を失っていた。
「これは……何が起こったっていうの」
十萌とミズキは呆然となりながら里に入った。
家々は傾ぎ、焼失したものも多かった。人通りも全くない。いかなる災禍がこの里を襲ったのだろうか。
不破屋敷に向かう途中の四つ辻に差しかかると、三方からわらわらと人影が現れた。
「里の人たちかしら」
人影に駆け寄ろうとする十萌をミズキが留めた。いけない。あれは違う」
ミズキの洞察眼に、それは人として映らなかった。姿形は人を模しているが、その動きはまるで死人の行進だった。
「あれは……何……」
目を凝らしてそれを見た十萌が絶句する。全身が鮮やかな緑色をした無貌のヒトモドキが十数人、よたよたとこちらへ向かって来る。ヒトモドキが呪波に近い力を持っていることを、十萌の胸の制御核が感知した。
「気を付けて。何かしてきます」
最前列を歩く数体が両手を上げ、十指を二人へ向ける。
びゅるびゅる。数十本の指が伸び、矢のように鋭く空を切りながら二人へと迫った。
戸惑いながらも、十萌とミズキは翁の動作でそれをかわした。そのまま距離を詰め、ヒトモドキの集団の中に入り込む。
ヒトモドキの動きは緩慢で、相手取るのはたやすいように思えた。しかしどれだけ打撃を加えても、刃を振るって四肢を斬り落としても、ヒトモドキは何の痛痒も感じぬように動き続け、次々と群がってくる。
「これも、呪態研の仕業だっていうの」
ミズキは洞察眼を活用して弱点を探るが目ぼしい急所はない。ようやく見つけたのは一つだけだった。
「首の後ろよ。そこを狙って」
十萌はすぐさまヒトモドキの背後に回り込み、盆の窪の辺りに張り付く赤い瘤を叩き潰した。
ヒトモドキは無言のまま全身を枯れ木のように変色させて動きを止める。
二人は一気呵成に攻め、ヒトモドキの集団を沈黙させた。
累々(るいるい)と転がるヒトモドキを見て、十萌が何かに気付いた素振りを見せた。
「まさか……これが、本当の成果なのでは」
二年前に小源太から聞いた、鎧霊を封じる以前の人に近しい姿をしているという成果なのではないか。十萌はそう推察した。
「これが出てきたのは、もしかして……」
いや、そんな。新たな罪が暴かれたような気になり、十萌はとっさに頭を振るった。
「十萌ちゃん、ここまで来てあれこれ考えるのはよそう」
ミズキに諭され、十萌は己の生まれ育った不破屋敷へと足を向けた。
荒廃した里の中で不破屋敷だけは元の姿を保っていた。中からは人の気配すら感じられる。待ち構えるのは死んだはずの不破仁斎か。それともヒトモドキだろうか。二人は警戒しつつ、屋敷へと足を踏み入れた。
気配がある広間に進むと、そこには五人の男が居住まいを正して座っていた。ヒトモドキではない。みな二人がよく知る不破の重鎮たちだった。
「久しぶりですな。十萌さま、ミズキどの」
上座に座る大柄な男が声を発する。
「源蔵どの……ですか」
それは正しく源蔵だった。仁斎の遺言に従い里長の代理を務めてきたのだろう。その所為か、以前の朗らかさや迂闊さはほとんど消え失せ、疲労と倦怠に包まれており、その目は虚ろに濁っていた。列席する不破の者たちも同様であった。
「気楽にしてくれ。積もる話もある」
十萌とミズキは警戒を緩めぬまま座った。
「里はどうなったのですか。里の者たちは……奥方さまは何処に」
訊ねる十萌から目を逸らし、源蔵はふと笑った。
「ご覧のとおり、不破の里は滅びたのだ。ここに居る者以外はみな死んだ。わしの妻もな」
そして、源蔵は里を襲った災禍についてぽつぽつと語り出した。
仁斎が死に、小源太と十萌が姿を消し、ミズキが去った後、源蔵たちは里の建て直しに腐心した。どういうわけか成果の数が著しく減るという追い風が吹き、元の活気を取り戻すのも時間の問題と思われた。
しかし、今年になってさらなる脅威が現れた。先ほど二人が交戦したヒトモドキである。
おびただしい数のヒトモドキが山中から溢れているとの報を受けた源蔵は、直ちに集を組み上げて迎撃を試みた。ヒトモドキ単体での力は微々たるものだったが、際限なく現れる大群に不破の者たちは次第に圧され、一人二人と斃れていった。
じりじりと後退させた戦線を、とうとうヒトモドキが突破して里に入り込んだ。目算で千体を超えるヒトモドキの群れは逃げ惑う里の者たちの全てを惨殺した。源蔵も、妻の亡骸を抱えながら死を覚悟した。
そのとき、予期せぬ出来事が起きた。
数を減らしたという成果の群れが里へと押し寄せてきたのだ。弱り目に祟り目を通り越し、どうとでもなれと自暴自棄になった源蔵の目前で、成果たちは驚く行動を取った。数十の成果は、生き残った里の者には目もくれず、ヒトモドキのみを襲ったのだ。
「どういうことだ」
困惑する源蔵の前に、成果の一体を騎馬のように乗りこなす者が現れた。
「第七騎兵隊、参上! 源ちゃん、助けにきたぞぉ」
それは蠎蛇の真つ里だった。事態を呑み込めぬまま、源蔵は真つ里とともにヒトモドキを撃退した。
ヒトモドキの発生源は鎧霊の封じられた洞穴だった。真つ里が成果を操って洞穴を塞ぐと、ヒトモドキの発生はぴたりと止み、それ以後は取りこぼした数十体が散発的にやって来るというほどに抑えられた。
「あのヒトモドキは……本当の成果ですね」
話の腰を折るように、十萌が口を開いた。
「知っていたか。そのとおりだ」
事態が収束した後、源蔵が志の歩から聞いた話によると、ヒトモドキは鎧霊が封じられる以前にこの地に巣食っていたモノ――正体が知れなかった妖物なのだという。元来成果とはあのヒトモドキを指していた。つまり、不破の里の起源もヒトモドキ――妖物に対する蜈蚣の集団だったということになる。
「鎧霊の封が解かれた後であいつらが出てきたということは、つまり……」
あの封には、鎧霊を鎮めるだけでなく、妖物を抑え込む二重の目的があったのですね。ミズキの言葉に、源蔵はゆっくりと頷いた。
「妖物どもは彼岸の深淵より生まれ出ずる。鎧霊は彼岸と此岸を結ぶ穴を封じるものだったのだ」
小源太と十萌が力を得ようとした結果、深淵に至る穴は開き、そして不破の里は滅んだ。俯き拳を固く握る十萌を横目にし、ミズキは話を逸らした。
「本当の成果があのヒトモドキならば、不破の者が相対していたあの化け物は何なのですか」
「あれは……人が変じたものだそうだ」
「いかにして、人があのような異形に――」
そこまで口にして、ミズキははっと思い至った。あるではないか。人の身を異形に変じる術は、ミズキたちのすぐ近くに。
「まさか、呪態……」
「そうだ。あれは幾度も呪を施され、人の姿に戻れなくなった八岐の者よ」
「う、嘘よ。呪態の限界を超えた者は、体が耐え切れずに死に至るのだと聞いたわ」
顕現させた呪態の禊ぎをせずにいた者や長年に亘る施呪により呪が体の奥深くにまで染み込んでしまった者は必ず命を落とすという話は、蜈蚣だけでなく八岐の一族のほとんどに信じられていた定説だった。
「では、ミズキどのは呪態の呪によって死んだ者を目にしたことがあるのか」
「……ないわ」
ミズキには、それ以上の抗弁はできなかった。
「この不破の地は、人に戻れなくなった八岐が最期に妖物との戦いに身を投じる死地だったのだ。鎧霊によって妖物どもが封じられ、異形と化した八岐の成果のみが残った。それを人の世に出さぬようこの地に留めることこそが、現在の不破の里の役目だったのだ」
じゃあ、この里で不破の者が、あたしが仕留めてきたのは、化け物ではなく八岐の先達だったというのか。源蔵の言葉はミズキの足下をぐらぐらと揺るがした。
絶句したミズキに代わり、今度は十萌が口を開いた。
「その呪態の成果を、呪態研はどのようにして操ったのですか」
「鎧霊だ」
力の中核は小源太に奪われたが、それを宿していた遺骸はまだ残っておった。二人の脳裏に、カニとエビが合わさった巨大な異形が浮かぶ。
「志の歩どのがあれから活きた細胞を抽出し、それを培養した。ああそうだ。伝え忘れておったが……」
仁斎はまだ生きておるよ。その細胞の苗床となってな。父の話を唐突にされ、十萌はひどく混乱した。おやじさまはやはり生きていた。しかし、それは鎧霊の苗床としての虚ろな生であった。
青ざめる十萌に構わず、源蔵は話を続けた。
「細かい仕組みは知らんが、鎧霊には呪態の成果を操ることができるらしい」
呪態研はその機構を明らかにし、呪態の成果を鎮静化させることに成功した。そして、里を襲う妖物の群れを撃退したのだった。
「彼女らは、絶望の底に残る唯一つの希望だった」
源蔵の虚ろな瞳に狂信的な光が宿る。
ミズキはそれに疑念を抱いた。
「ちょっと待って。辻褄が合わないわ。鎧霊が妖物を封じていたのなら、現れるまでに時間があったのはなぜ」
源蔵の話によると、鎧霊の封が解かれてから妖物が現れるまでに、一年以上の月日が経過していることになる。
その指摘に、源蔵はふんと鼻を鳴らして応じた。
「言ったろう。鎧霊の骸にも力が残っていたと」
「じゃあ、封は維持されていたってことじゃない」
「それは……」
言い淀む源蔵に、ミズキは追い打ちをかける。
「封がなくなった理由は一つ。呪態研が鎧霊の骸から力を奪ったからよ」
何が唯一つの希望よ。この里を直接滅ぼしたのは呪態研じゃない。ミズキが啖呵を切ると、源蔵はしばし押し黙り、そして含み笑いを漏らした。
「くっくっく。おまえたちがそれを言うのか。己のことしか考えずに過ちを犯したおまえたちが」
ざわり。広間に鬼気が漂う。
源蔵を除く四人の不破の者が、一斉に呪言を唱え出した。
「ヒトモドキを封じた後、志の歩どのはわしに言ったよ。あなたにも、力を与えてあげる――」
鎧霊の力を分けてあげる、とな。源蔵の言葉に呼応するように、四人の全身が軋み、歪み、変形する。部分的な身体変化ではなく全身の呪態――成果。四人は巨大なムカデへと姿を変えた。
「かかれ」
手前の二体が狙いを定め、顎門を開いた。
ミズキは立ち上がり、応戦する体勢を取った。
しかし、一体だけでも手こずる成果を、呪態もなく倒すことができるのだろうか。
いや、やってみせる。襲い来る二体のムカデを迎え撃とうとするミズキを十萌が突き飛ばした。
ミズキの身代わりとなり、顎にさらされた十萌が小源太の名を叫ぶ。
二体の顎ごと、十萌が黒い光に覆われた。
虚空から現れた蝓蠖が十萌の全身を飲み込む。
蝓蠖を纏装した十萌の足下で、頭部を失ったムカデの成果二体がびたびたともんどり打つ。
その眼は青い――暴走状態ではなく意識を保っているようだが、それが十萌のものなのかは定かではない。
「臆するな」
源蔵に指示され、残る二体のうち一体が顎を剥いて飛びかかる。
蝓蠖は片手を上げてムカデの頭を掴むと、無造作に握り潰した。
その体を放り捨て、蝓蠖は畳を軋ませながら源蔵へと近付いた。
もはや成す術ないはずの源蔵は、しかし泰然と構えていた。
蝓蠖が両腕を伸ばして掴みかかると、源蔵は人の姿のままそれと組み合った。
成果すら潰す力を、源蔵は受け止めるだけでなく押し返す勢いだった。
「くく。蝓蠖の力とはこの程度か」
志の歩どのの手を煩わすまでもない。源蔵は裂帛の気合いを放ち、蝓蠖を軽々と庭へ投げ飛ばした。
「源蔵どの、あなたは……」
ミズキが驚嘆の声を上げる。
「言ったとおりだ。わしも力を与えられたのよ。鎧霊の力をな」
呪言もなく、源蔵の体が呪態へと変じる。それは成果ではなく、人のように四肢を持ち、直立する甲殻人間の姿だった。
「その姿は、まるで……」
ずんぐりと大柄で頭から肩にかけてがやや扁平だが、源蔵が変じたのは紛れもなく蝓蠖だった。
「それだけではない」
源蔵の左手が最後のムカデの胴を掴むと、細胞が融合して一体となった。
ぎしゃっ。庭先に下りた源蔵に、蝓蠖が飛びかかる。
源蔵はそれを舞うようにかわして背後に回ると、ムカデの顎門で蝓蠖の胴を挟み込んだ。
「ら、雷翁……」
ミズキは愕然とした。源蔵が見せた動きは、確かに翁の歩法だった。鎧霊と呪態を掛け合わせた肉体のみならず、雷翁の顎までもを兼ね備えているというのか。
ぎじゃじゃ……。蝓蠖が初めて苦痛に身をよじらせた。このままでは中の十萌ごと両断されてしまう。ミズキが助けに入ろうとしたとき、蝓蠖の眼が赤光を放った。
蝓蠖が後ろ手にムカデの頭に触れる。
さして力を込めた様子もないが、ムカデの頭は乾いた音を立ててひしゃげた。
縛から解き放たれた蝓蠖は、蜻蛉を切って源蔵の背後を取り返す。
源蔵が振り返りざまに出した右の裏拳を難なく受けると、そのまま腕を捻り上げた。
「ぐああッ」
叫ぶ源蔵に何の感興も湧かせず、蝓蠖はその右腕を捻じ切った。
「きさま、きさまぁッ」
源蔵は左腕と同化したムカデの胴を鞭のように振るい、蝓蠖を縛り上げる。
そして同化を解き、戻った左手で雷の一撃を放った。
源蔵の貫手が届く寸前、蝓蠖から黒い閃光が放出された。
閃光は源蔵を呑み込み、のみならず不破屋敷の一角を消失させた。
ぼとり。頭と胸だけとなった源蔵が地に転がる。
生気が薄れゆくその目に映るのは、亡き妻の面影だった。
死にゆく源蔵にとどめを刺そうとする蝓蠖に刃が走った。
「正気に戻りなさい」
ミズキの言葉は届かない。眼の赤光はいや増すばかりだった。
やはり蝓蠖は、人には御せぬ禁忌の力なのだろうか。
この手で十萌と小源太を殺さなければならないのだろうか。
いやだ。ミズキは迷いを振り切った。
「あたしはあなたたちを殺さない」
取り返しのつかない過ちなんてない。ミズキの思いに応えるように緋々牙が形を変える。それは鏡のように磨かれた小さな盾だった。
その形が何を意味するのか、ミズキは即座に悟った。
蝓蠖が掌から黒い球体を撃ち出す。
その数は十を超えており、不可避だった。
――避けたりなんかしない。
ミズキは両腕の盾を駆使し、黒い球体の全てを跳ね返した。
黒球の一つを蝓蠖に向けて反射させると、それを追うように間合いを詰めた。
蝓蠖は黒い靄を発生させ、球体を弾く。
そこへ、ミズキは雷の一撃を滑り込ませる。
ミズキの拳が蝓蠖の顔をしたたかに打つが、数歩たたらを踏ませただけだった。
ミズキは攻め手を緩めなかった。
蝓蠖は獣のような動きで腕を振るが、舞う翁には触れることすらできない。
生じる隙を見逃さず、ミズキは雷の一撃を何度も叩き込んだ。
源蔵との戦いから蓄積した疲労もあってか、蝓蠖の動きは目に見えて鈍くなっていった。
ミズキを捉えようと躍起になる蝓蠖は、制御核を露わにするほど身の守りを疎かにしていた。
今なら、制御核を破壊できる。
制御核を破壊すれば、おそらく蝓蠖は力の大半を失うだろう。
しかし、ミズキはそこを突かず、それどころか攻め手を止めて距離を取った。
「殴り合いじゃ敵わないってわかったかしら」
わかったんなら、あれを出しなよ。何と、ミズキは黒い閃光を撃つように挑発した。
怒りに震えた蝓蠖は、赤光をぎらぎらと輝かせると、両手の間に黒い光を凝集させた。
ミズキは避ける素振りもなく、その場に立ったまま緋々牙に意志を伝導させた。
黒い閃光がミズキに迫る。
ミズキは二つの緋々牙を一体化させて全身を覆い隠すほどの大盾に変え、身を屈める。
黒い閃光は緋の大盾に阻まれ、軌道を天へと逸らされた。
閃光が失せ、そしてミズキは何事もなく立ち上がる。
「見たか、あたしの勝ちだ」
その宣言を聞き、力を使い果たした蝓蠖の眼の赤光が薄らぎ、青へと移ろった。
「……アリガトウ、ミズキ……」
礼を言うのは小源太の声だった。
「どういたしまして、だよ」
ミズキが微笑むと、蝓蠖の異相も和らいだように思えた。
「ミ……ミズキさん」
十萌が意識を取り戻した。
「おはよう、十萌ちゃん」
ミズキは笑顔を投げかける。
「あたし……あたし、やっぱり……」
記憶があるのだろう。自責の念に駆られ、十萌は蝓蠖を纏ったまま膝を落とした。
「泣き言なんて聞きたくない」
悩んでる暇なんてないよ。一喝され、十萌は顔を上げる。
「そんな力がなんだい。あたし一人を殺せなかったんだよ。十萌ちゃんと小源太が気持ちをしっかり重ねれば、そんな力の一つや二つ、ちょちょいと操れるってもんよ」
論理の筋は通っていないが、ミズキの言葉には心を突くものがあった。
「ミズキさん、ありがとう」
今し方の小源太と同じ礼の言葉に、ミズキは面はゆい気持ちになった。
「礼なんていいから、さっさとはじめよう」
「はじめるって、何をですか」
「決まってるじゃない。蝓蠖の力を操る方法よ。今思い付いたんだ。さあさあ立って立って」
あ、纏装は解かないで。そのままでね。ミズキが何を考えているかはわからないまま、十萌は言われるとおりに立ち上がった。
遠く彼方から、己を呼ぶ声が聞こえる。
よく似た声が、二つ。
双子の弟たちだ。
父に言われてわたしを捜しに来たのだろう。
そうか。今日はたしか、不破仁斎が訪ねてくる日だった。
仁斎は、資質のない娘の代わりに継承者となり得る者を探しているそうだ。
わたしの顎を見たら、仁斎は大層羨ましがることだろう。
「喜べ、野良犬。今日はここまでにしておいてやる」
こいつをいたぶるのも、仁斎が里から去るまでは控えておいた方が良さそうだな。
わたしは地べたに這い蹲る男の顔を蹴り飛ばし、弟たちに返事をした。
「兄者、こんなところに」
「仁斎さまのお迎えをせよと父上が」
二人の弟は、里の者ですら見分けがつかないほどよく似ている。わたしですら十を越えた頃にようやく判別できるようになったくらいだ。
上の兵吾は目つきが鋭く、いつもぴりぴりと緊張している。
下の冬吾は少しおっとりしており、一人でいるときはぼんやりと空を見上げている。
二人が声を出す機はいつも同じだが、ややせっかちな兵吾が必ず先に口を開き、冬吾はそれを補うように話をする。
補い合う二人の人間。
わたしはなぜか、それを羨ましく思った。
最近になるまで、双子の弟の見分けがつかなかったのはなぜだろうか。
幼い頃から、一人で血の滲む鍛錬に明け暮れていたからだろうか。
いや、それだけではない。
わたしは、弟たちを見ないようにしていた。
父母や里の者の愛を惜しみなく注がれた弟たちは、父の跡を継がねばならぬ自分にとっては愛くるしいものではなく、嫉妬と羨望を抱く存在でしかなかった。
愛するどころか、憎んでさえいた。
そんなわたしが弟たちに目を向け、各々の個性に気付いた原因――。
それは、足下に這い蹲る男だった。
わたしたちは友になるはずだった。
輝かしい将来を約束されていたわたしは、何も持たないこの男の噂を聞き、身の内に広がる空洞を分かち合えると思っていた。
男はわたしの孤独を理解し、支えてくれるはずだった。
わたしは男に役目と顎を授け、全幅の信頼を寄せるはずだった。
しかし、この男はそれを全てぶち壊しにした。
わたしに牙を剥いた報いを受けさせる。
里の誰にも、父にすら文句は言わせない。
さらなる孤独の道を歩まんとしたわたしに、なぜか弟たちは近付いてきた。
二人の弟はわたしの孤独を理解し、寄り添ってくれた。
会ったこともない男ではなく、血のつながった弟たちがわたしを支えてくれる。
考えてみると至極当然の話だった。
わたしは男に一瞥をくれると、弟とともに屋敷へ引き返した。
「仁斎さまも、兄者の顎には舌を巻くでしょうな」
「おい兵吾、言うまでもないことを口にするな」
「なんだと冬吾。率直な思いを表に出して何が悪い」
「おまえが口の軽い粗忽者であると知れると、おれと兄者が迷惑するのだ」
「何だと、もう一度言ってみろ」
「ああ、何度でも言ってやる」
「おいおいおまえたち。その辺りにしておけ」
窘めながらも、わたしは言い合う弟たちを微笑ましく思った。
「申し訳ありません」
二人は同時に小さくなった。
「謝ることではない。兵吾に誉められることも、冬吾の気遣いも、どちらもわたしの心を安らげてくれる」
あらためて、これからもよろしく頼むぞ。わたしが感謝の念を伝えると、兵吾と冬吾は滂沱の涙を流して喜んだ。
ふと、疑念が浮かぶ。
このようなことが、あっただろうか。
口論する二人を微笑ましく見守ることはあったが、わたしが己の思いを口に出したことなど、あっただろうか。
「しかし、兄者」
「我らとていつまでも御供ができるわけではありませぬ」
おもむろに、弟たちの口調が重々しくなる。
「兄者はゆくゆくは里を統べ、蜈蚣の一角を担われる方だ」
「不肖の弟に思いを割いてばかりはいられますまい」
どうした、おまえたち。しかし、わたしの言葉は二人に届かなかった。
兵吾と冬吾の顔は暗く沈み、まるで死人のようだった。
「その御姿をこの目で見ることが叶わぬのは残念ですが」
「兄者ならば心配は無用でしょう」
何を言うか、これまでわたしを支えてくれたのは他ならぬおまえたちではないか。これからも共に栄達の道を進んで行こう。いつまでも……。
二人は寂しげに頬を緩ませ、両腕を差し出した。
わかってくれたか、二人とも。二度とそのようなことを申すな。わたしは縋るように弟たちの手を取った。
揺るぎない信頼を込めてその手を握るが、その思いに反して二人の肉体が徐々に薄れてゆく。
行ってしまう。二人がわたしの元から去ってしまう。いやだ、行かないでくれ。独りにしないでくれ。わたしは形振り構わず弟たちの腕を抱え込んだ。
しかしその切なる思いは届かず、兵吾と冬吾の体は幽冥へと消えてしまった。
わたしに残されたのは、愛しい弟たちの四本の腕だけだった。
「お目覚めかしら」
飛び上がるように身を起こした贄文吾の傍らに、一人の女が佇んでいた。
「随分とうなされていたわ。悪い夢を見たのね」
女は細い指で、文吾の涙を拭った。
「わ、わたしは……」
文吾は状況を理解できず、困惑した。
「あなたはひどい大怪我を負ったの」
蝓蠖――小源太と不破十萌によって。二つの名を耳にし、文吾の記憶が怒濤のように蘇った。
「そうだ、わたしは奴らを追い詰め、そしてこの手で殺した……」
「ええ。たしかにあなたはあの二人を殺したわ。でも、それがよくなかった」
虫の息の十萌が、岩となった小源太に触れ――。
「奴らは一つになった」
緑灰色の外殻。
赤光を放つ眼。
黒い球体が地面を抉った。
とっさに呪態を顕現させた。
鋼を裂く刃がへし折られた。
兵吾と冬吾が駆けつけ、そして――。
「わたしは、どうして生きているのだ」
弟たちと共に崖から身を投げた瞬間、蝓蠖が放つ黒い閃光に呑み込まれたはず。
「あなたを発見したとき、体を失った四本の腕があなたを守るように掴んでいたわ。二人の弟さんはおそらく、その身を捨ててまであなたを救ったのよ」
「兵吾と冬吾が……」
死んだ。己を守るために、かけがえのない弟が死んだ。蝓蠖に――小源太と十萌に殺された。
「弟たちの腕は、何処にある」
文吾は女の両肩を強く掴んだ。
女は一度丸くした目を鋭く細め、笑った。
「あるわ。すぐそこに」
「どこだ。教えてくれ」
文吾は女の両肩を押さえたまま、その胸倉を掴み上げた。
「ほら、あるじゃない」
文吾はその矛盾に気付いた。どうして肩と胸倉を同時に掴んでいるのだ、わたしは。
「よくご覧なさい」
女はどこからか取り出した手鏡で文吾を映す。
「これは――」
それは、阿修羅の如き六臂を生やした己の姿だった。




