序
ブナの幹で、硬質の複眼が身を忍ばせている。
大きく剛健な顎を持つオオムカデだ。
それに気付かず一匹のニイニイゼミが幹に止まる。
風がそよぎ、夏の木漏れ日が複眼の幾何学模様に当たるのと同時に、オオムカデはその身を躍らせた。
ニイニイゼミに飛びかかり、その胴に顎を食い込ませる。
そして、両者は諸共に地に落ちていった。
その樹の近くに二人の男がいた。
男たちはまるで舞うように足を運び、身を揺らし、そして拳を交えている。
一人は溌剌とした黒髪の青年。胸板の厚みはまだ十分ではないがしなやかな筋肉を最大限に活用して伸びやかに拳を振るう。
もう一人は髪に白いものがわずかに混じり、顔にはところどころ皺が浮かんでいる。壮年に差し掛かっていながら、頑強で完成された肉体を維持しており、青年の攻め手を軽やかにかわし続けていた。
四半刻にも及ぶ攻防の末、青年の拳が壮年の肩口を捉える。
そこに生じた微かなゆらぎを見逃さず、青年は相手の体幹に向けて貫手を放つ。
必殺の機――。
だが、壮年は緩やかな動作で合掌してその貫手を挟み込んだ。
転瞬、青年の天地が逆となって宙を舞う。
中空で無防備となった青年の顔面に壮年が拳を打つ。
顔面を打ち抜かれる寸前、青年は左の掌を迫る拳の前に滑り込ませた。
拳が掌に触れた刹那、そこを支点として体の制動を取り戻した青年は拳をいなしざま錐揉み状の動きで壮年の頭上へと蹴りを放った。
これには壮年も対応が遅れ、直撃は避けたものの青年の足先が顔の端をかすめた。
青年が着地するや、両者は距離を取って動きを止めた。
壮年のこめかみに刃物で斬られたような傷がぱくりと開く。
赤黒い血が頬を伝い、ぽたりぽたりと地に落ちた。
「見事だ、小源太」
壮年の男が野太い声でそう言うと、小源太は構えを解いて蹲踞の姿勢で頭を下げた。
「勿体ないお言葉です。仁斎さま」
「贄の里にて拾うた小僧が、おれの顎――雷翁をここまで遣いこなすようになるとは」
流れる血はそのままに破顔する仁斎を見た小源太は、身を起こしてその血を拭おうとした。
「よい」
仁斎が袖口でこめかみを拭うと、不思議なことに血だけではなく傷そのものも消えるように塞がってしまった。
「これほどの腕前ならば、おれの代わりに十顎になる日もそう遠くはないな。おれも楽隠居できるというものだ」
「そんな、おれは未熟です。仁斎さまに教えていただきたいことが山ほどあります」
まだまだ楽隠居なんてさせません。軽口を叩こうとした小源太の目から不意に熱いものが溢れ出す。師に受けた恩をようやく返せるまでになれたという感が極まったのだった。
小源太が恥ずかしそうに顔を伏せると、仁斎はもう一度破顔した。
「そうだな。たしかに、まだおまえに教えておらぬことがある」
含みのある師の言葉に、小源太は顔を上げた。
「と、仰いますと」
「この不破仁斎の――いや、不破の里に秘められたもう一つの役目を、今こそおまえに伝えよう」
仁斎の顔から柔らかな笑みが消えた。その目は厳しく、そして微かに悲しげな色を浮かべていた。




