Introitus
主よ、永遠の安息を彼らに与え、
絶えざる光でお照らしください。
出典・レクイエム(入祭唱)
その瞬間、全てが変わった。比喩ではなく、思い過ごしでもない。仮想である筈の世界は、生々しく本物であるかのように主張し五感にその存在を焼付ける。
「な、なんだよこれ」
「アップデートかな」
「いや、それなら何かしらアナウンスは有るだろうしログインも出来ない」
後方に固まっていた仲間も状況が分からないようで、戸惑ったような声で囁き合っている。周囲をぐるりと見渡すと、やはり景色自体に変化はなく鬱蒼とした森が広がるばかりだ。
「首領、お前はどう思う」
「どうって言われてもな、とりあえずホームに戻ろうとか考えてたんだが……リーダーはお前だろう」
お前が決めろと暗に伝え、声を掛けてきたフルプレートの鎧に身を包んだ男に向き直る。全身鎧に隠れている今は見えないが、現実の容姿をそのまま流用した自分と違い随分と気合を入れて作りこまれた顔だったなと、薄れかけた記憶を掘り返す。
「そう言うなよ、仲間だろう」
「大袈裟だな、喜一郎」
「本名を呼ぶんじゃないっ」
「そう言うなよ、仲間だろう。なぁ、ジーク」
そう茶化すと顔を真っ赤にして――無論、想像だが――唸る喜一郎、もといジークに誘われなければ自分は此処には居なかった。言わばこいつのせいで俺は巻き込まれているのだからこのぐらい言っても構わないだろうと一人ごちる。
「あの、ジークさん決まりましたか」
喜一郎と二人で騒いでいる中、か細い声が割り込む。話しかけてきたのは正しく白魔導師といった風情の少女だ。仮想現実に於いて、明確に人を対象としたスキル構成である自分が気に入らないらしく嫌われているので名前は覚えていない。一応、対人戦専用のキャラを育成中だと伝えてはいるのだが、どうやら対人戦そのものが気に入らないらしい。憮然とした顔のまま自己紹介すらせずに背を向けられたことは記憶に新しい。
「ああ、取り敢えず町に戻ろう」
「そうですか、じゃあ何処の町にしますか」
「一番近い所で良いだろう」
「……」
「王都かな、一番近いし」
「そうですね」
自分の嫌われっぷりを再確認しつつ周囲の警戒を一段引き上げる。今回誘われたのも斥候職のドタキャンが原因だ、ここで気を抜いては笑い話にもならない。
ジークと少女は未だ混乱中である緑の狩人に近寄り、何事かを相談している。町に戻るのが先だろうなどと突っ込みたくもなるが、ジークを除き親しい訳でもないので自重することにして控えていると、周囲に巡らしていた警戒網に敵性の何かが引っ掛かる。
「ジーク、北東から敵だ」
「マジで、分かった。ミナ、ツナギ下がって」
流石にVRMMO等でPTリーダーをしていると切り替えが早いらしく、既に戦闘態勢に移行している。他のメンバーもそれに追従するようにフォーメーションを組む。
彼らとの連携に慣れていない自分はジークの後方で、遊撃手として備える。
「接触まで5,4,3,2,1……今」
カウントの終了とともに現れたのは人間だった。見目は悪いが整えられた装備に雑ではあるが統制された陣容、傭兵然とした彼らは下卑た笑みを浮かべ殺意を隠すこともなく振りまいていた。賊も兼業らしい、ゲームの世界と雖も世知辛いものだ。
「これはこれは、随分ご立派な騎士様じゃねぇか」
明らかな嘲笑、数の利を以て増長した山賊衆は此方を囲み、これ見よがしに切っ先を突き付け誰かが悲鳴を上げる度にわざとらしい笑い声を上げる。先程から振りまかれる悪意もそうだが、どうにもおかしい。細かい動作の一つ一つが、ゲームとして捉えるには逸脱しすぎている。人間臭すぎる、と言い換えても構わないが、彼らの頭上に煌めくアイコンはNPCである事を示している。
「何だぁ、ブルってんのか、なら仕方ねぇ女と有り金、全部渡せば勘弁してやるよ」
如何にも下っ端らしい風情の男から言葉と共に吐き出される哄笑に喜一郎はびくりと震えるが、拒絶の意を示すべく剣を向ける。御指名を受けた白魔導師は勿論、狩人は硬直し怯えている。この局面に於いて、どこか他人事のように眺めている自分もその点では例外ではない。剣を向けられた山賊衆は悪意を膨らませ、剣を向けた喜一郎の様子は鎧に隠され正確には伝わらないが切っ先にブレがないので表面上は持ち直しているのだろう。頭目と思わしき男は目を細め、薄く然し凄絶に笑う。その様は如何にも楽しげでおぞましかった。
「この数相手にやるってか、大した騎士道精神だ。だがな騎士様、戦場にも立ったことのないお前さんが勝つ事はあり得ねえ、犬死だ」
先程までの侮蔑とは違う修羅場を潜った先達としての言葉が重い。システムに表示された情報を鑑みるなら彼我の戦力差は圧倒的に此方に傾く。だが、それを覆すナニかがこの場を支配しており此方を縛り付けている。どうにも不可思議な現状が堪らなく恐ろしく、苛立たしい。山賊衆の円陣の外、少し離れた高台に点在する生命反応から察するに射手も控えているらしい。目の前の男を斬ったところで、死体が四人から五人に増えるだけであろうと結論付ける。俯瞰しているのはキャラクターとしての自分なのか、素のままなのかは分からない。しかし、どうせなら体の緊張も解してほしいと、強張る手を開閉しながら益体もない事を考え、普段実践している緊張の解し方を行うことに決める。
「ふぅ、ハッハッハ」
深く息を吐き、口角を上げながら声を出す。無理矢理にでも構わないから笑う。
何処で聞いたかも定かではない知識を頼りに実施している行為だが、効果は有るような気がするので飽きやすい自分には珍しく長く続けている習慣だったりする。更なる脱力を行うべく腕をだらりと下げ、口元に笑みを浮かべたままスキルを使用する。
「隠行」
スキル名を呟くのと同時に体は周囲に溶けるように消えていき、地を這うように駆け出す。目標は円陣の外、射手の後方である。周囲は俺が笑い出すのと同時に凍りついたように静まり返っていたが、そんなことを気にする余裕は今の自分には無い。
「ちょ、ちょっと逃げるつもり」
白いのが何か叫んでいるが今は関係ない。完全に己の姿が消えたのを確認し。
「土遁」
そう呟き、地面に潜る。やはり普段とは違う、ぬるま湯に浸かる様な感覚に眉を顰めるが、幸いにも体を動かす感覚は変わらない。
生命探知を最大限利用しながら地中を泳ぎ、遠方の射手から順に始末していく。声を上げられては堪らないので、満身の力を込めて一気に引きずり込む。
掴んだモノが大地の圧力に潰される妙な感覚に思わず手を放すが、状況は切迫している。再度標的を決め、一人、二人と引きずり込んでいく。
およそ十五人、後方に配置されていると思しき射手を全て圧死させ、浮上する。
「おい、どうした。何故撃たねぇ」
先程の頭目の困惑した様な怒声が響く。パッと見た限り陣容に変化はなく、最初から弓で仕留める算段だったらしい。
「じゃ、期待にお応えして」
場を離れ、少しばかり軽くなった体を解しながら足元に転がっていた短弓を取る。やはり、物は悪いが使い込まれており、手入れも行き届いている。現実であれば、癖がついて引き難くなるだろうがゲームのキャラクターとは一種の超人である。基本を習得さえすればどのような武器も使いこなせるし、玩具の剣であろうと敵を倒せる。
「one shot one killってか」
自らの持つ唯一の弓スキルである「狙撃」を使用しながら、未だに怒鳴っている頭目を狙う。弓と一体になる様な感覚、弓が己の一部になるのではなく己が弓の一部となる様な感覚は不思議な心地となって、それ以外の事柄を脳髄から排斥していく。弦を胸元まで引く。耳に伝わる独特の軋みに思考はさらに冷えていき、脳裏に矢の描くであろう射線を示す。鏃を始点として延びるそれを対象の眉間に合わせる。
「へっ」
一息、再度笑みを浮かべ脱力と共に矢を放つ。怒号を吐き出すと同時に眉間を貫かれた頭目は、沈黙と共に倒れ伏す。漏れた悲鳴は賊か、仲間か定かではないが、混乱している事だけは感じ取れたので一気に駆け降りる。
「落ち着け、相手は高々一人だろう」
どうやら喜一郎達は数に入れられていないらしい。未だ呆然と剣を構えている騎士を視界から外し、副頭目らしき男の下で統制を取り戻しつつある一団を見据える。喜一郎達に対する包囲は解けているが、その分、己に対する戦力を集中させている。腐っても傭兵、戦場を跋扈する戦闘集団であることを意識せざるを得ないその様子に思わず舌打ちを漏らすが駆け降りる勢いはそのまま、弓を捨て投擲用の武器を取り出す。藪から飛び出す直前に苦無を投擲、中衛に控える射手と指揮を飛ばす副頭目を始末する。やはり、ステータスだけならば此方が上であり、殲滅するのにそれほどの労力は要らない。まして、今の己は対人戦が専門だ。格下に負ける要素は何一つ見当たらない。が、情報を得るために一度捕縛するべきかと考え直し、インベントリから縄を呼び出す。
飛び出す瞬間に跳躍した自身の体躯が丁度、賊の真上に来たときに手に持った縄を投げつける。スキル補正の掛かった縄は、蛇のように賊の周りを這い、囲んで締め上げる。どういう原理でそうなるのかは知らないし、突っ込むだけ無駄なのだろう。しかし、本来意志を持たない物が這い回るというのは、何回見ても慣れないモノだ。そしてそれは他者も同様なのだろう。縛られている賊達は、一様に情けない悲鳴を上げてもがき、逃れられないと見るや種々雑多な体液を垂れ流し失神してしまった。血と糞尿、其々が互いを殺すことなく醸成された異臭に顔を盛大に顰め、喜一郎達の方向に向き直る。
「こっちもか」
溜息を吐きながら首を振る。突如眼前で繰り広げられた惨劇に耐えられなかったのか、それ以前からなのか分からないが三人とも立ったまま気絶している。
賊を起こし尋問するのが先か、仲間と相談するのが先かを考えるが、優先順位を決める前にしなければいけないことが残っている。
「……下着変えよ」
冷たく張り付く下半身の感触に、少々ぎこちない歩き方をしながら、こそこそと藪の中を目指す。