海と思い出
もうほとんど自分の仕事は終わったと思った。
理由はわからずじまいだが、夜に出歩かないなら自分の出番は必要ない。
と思っていたのに。
「なんでまた、こんなことになってるんですか・・・。」
今度は夕方の海だった。
「だって、あの一花が一人で海なんておかしいじゃないか!」
知るか。
「人間なんです。一人で黄昏たいことだってあるでしょう。」
「そのまま思い誤って、入水自殺でもしたらどうするんだよ!」
あんたは自分の妹をどうしたいんだ。
雪春は大きくため息をついた。
今日は日曜日。部活動もない完全な休みである。朝から掃除をして、洗濯をして、夕方にスーパーで買い物をしていた時。また性懲りもなくこの男に捕まってここまでつれてこられた。
5月の海にはいる人はいない。近くにいるとつけているのがバレるので、堤防の影からこっそりと覗いていた。
「夜に出歩かないと言ってたし、もう大丈夫じゃないですか?」
「じゃあ何でこんなところにいるんだよ!」
「それは・・・」
なんでだろう?
「いや、ですから、一人黄昏たいのかもしれないじゃないですか。」
「それで思いがつのって、入水自殺でもしたらどうするんだよ!」
エンドレス。
バカバカしくなって会話を放棄した。
一花は夕方の海に、一人でポツンと座っている。学生鞄を持っているのは、夕方まで塾があったからだという。日曜日なのに結構なことだ。
地平線から覗いた夕日は、波の中に砕けてキラキラと輝いていた。一定に押し寄せる波の音は、人を黙らせる効果があるらしい。しばらく二人で見つめていた。
「そう言えばこの海、一花と来たことあるな。」
隣でポツリと幸太郎が言った。
「小学生になっても、あいつ泳げなくてさ。一緒に練習したなぁ」
夕暮れの広い海に、幼い兄妹の姿が見えた気がした。
きっと優しい兄だったのだろう。
手を取り合って。何度も何度も練習して。
(海か・・・)
そう言えば、自分も一度だけ行ったことがある。
中学生の時だったろうか。
海に遊びに行ったことがないと言ったら、なぜか怒られたのだ。
善は急げとその日のうちに車を出して、近くの海に行った。
その時もたしか季節外れで、海の家もやっていなかった。
二人で海岸沿いを歩いて、子供っぽいが砂の家なんか作ったりして。
自分は変わらず無表情だったが、楽しいという気持ちは伝わっていたようだ。
次は泳げる時に、そう言って乗せられた大きな手に、別にいいと答えた気がする。
本当に別に良かったのだ。
一緒にいられるのなら。
「懐かしいな。」
自分の口から出たのかと思ったが、隣の幸太郎が呟いたようだ。
一気に周りの風景が色を取り戻して、愕然となった。
(また性懲りもなく・・・)
事あるごとに蘇る記憶に、雪春は身動きがとれなくなる。
未だに抜け出せない自分を嘲笑っているかのような気がして。
海を眺めている一花を見つめた。
自分はもう大人だ。教師だ。
何もできなかった子供とは違う。
あの人とは、違う。
「おぉーきれいにしてるんだなぁ。」
「・・・あんまりじろじろ見ないでください。」
もの珍しそうに部屋を見回す幸太郎に、思わずため息をついた。
駅から少し離れたこのアパートの一室は、セパレートの1DKにしては比較的家賃が安い。物が少ない雪春にはもう少し狭くても大丈夫そうだが、新任祝いに奮発して買った電子オルガンを入れるためにはこのぐらい必要だった。
しかし人が一人増えただけで、部屋の空気がこんなに変わるものなのだろうか。
飛び回る幸太郎をちらりと見た。
(どうしてこんなことに…)
それは遡ること20分前のことだった。
雪春の言葉を守ったのか、一花は暗くなる前に帰った。
海から雪春の家までそれほど距離はなかったので、そのまま自転車を押して帰ることにした。
大通りから外れて、川沿いの道を歩く。このまま橋を渡って住宅街のある向こう岸に入れば、家まですぐそこである。そこで雪春はあることに思い至った。
「・・・家に帰らないんですか?」
このままでは家についてしまうと、別れる気配がない幸太郎にそう尋ねる。
しかし幸太郎は何を今更、とでも言いたげな表情を浮かべた。
「ユキの家に行っちゃダメか?」
「・・・その馴れ馴れしい呼び方について言及するのは置いといて、何故ですか?」
「だって今後のことも話し合わないといけないだろ?」
成人男性が小首をかしげるな。
しかし妙に似合っているから不思議だ。自分よりずっと大きいくせに。
幸太郎はそれに、と続けてから、また妙に胸を張って言い放った。
「話し相手がいないのは寂しいからな!」
それが一番の本音に違いない。
家に上げるなんて言語道断。丁重にお断りさせていただきます・・・と言うつもりだったが。
一花を見送る幸太郎の横顔が記憶をかすめる。
届かない思いを抱えて、一人で延々と夜を過ごさなければいけないことを考えると、少し同情した。
幸い気兼ねの要らない一人暮らしだし、食費も光熱費もかさまない幽霊一匹部屋の片隅にいるぐらいかまわないだろう。
そんな軽い気持ちで了承すると、幸太郎は文字通り飛び上がって喜んだ。
もちろん自分の至福の音楽鑑賞タイムを邪魔しようものなら即刻退場させる、と胸の中で付け足す。
「それにしても、一人暮らしの成人女性の家に入りたがるなんてデリカシーがないですね。妹さんに嫌われますよ。」
「え?」
幸太郎がまじまじと見つめてきた。
まるで行事で振替休日となっているのを知らずに登校してしまった学生のような顔をしている。
「なんですか?」
「まさか・・・。」
妙に真剣な顔に、こちらまで緊張がうつってしまいそうだ。
幸太郎はごくりと唾を飲んでから、口を開いた。
「ユキって女だったのか?」
無駄だと分かりつつも鞄を投げつけたくなった。
「やっぱりお断りします。その辺で一人寂しい夜をお過ごしください。」
「わー待て待て待て!」
それまで手で押していた自転車に跨ろうとすると、幸太郎は慌て始めた。
「いや、確かに男臭くないなとは思ってたけど!名前が男っぽいし、スーツ着込んでるし、化粧もしてなかったから!」
「別に普通です。それに就活生はみんなスーツです。化粧だってちゃんとしています。」
薄いけど。ベースクリームに粉をはたくぐらいだけど。
それでも男に間違えられることはなかった・・・はずだ。
たしかに新任の挨拶をするときにわざわざ女ですとは言う人なんていない。綾倉が“ユキくん”と呼んでくるのが、今更ながら不安になってきた。
(いや、職員トイレであったことがあるから大丈夫なはずだ。)
心の中で頷く。
でも明日確認しよう。
そして、結局自転車に乗った雪春の後を死に物狂いで追いかけてきた(ちょっとホラーだった)幸太郎を仕方なく家にあげて現在に至る。
初めて家に入れた男性が幽霊だなんて怪談話にもなりやしない。女性だって数人しかいないのに。
そもそもほぼ初対面に近い人を家にあげるのは、かの有名な指揮者・リッカルド・ムーティがプッチーニのオペラを取り上げるより珍しいことだ。
よほどこの妙に馴れ馴れしい男は、人を懐柔させるのが得意らしい。この二日間で、自分の中で無意識に引いている色んな線を随分と超えさせてしまった。
生前はそれなりにプレイボーイだったのでは。
キッチンの方を覗いていた幸太郎に疑いの目をやると、彼は一通り見て満足したのかリビングに戻ってきた。
「写真とか、少ないんだなー。」
「…あまり好きではないので」
答えてから、自分でも見回してみる。
「そんなに少ないですか?」
楽譜がはいった小さな本棚の上に写真を二枚。大学の卒業式に無理やり撮られたものだ。そしてその張本人が、家に来た時に勝手に飾っていってそのままだった。
わざわざしまうほど嫌なわけでもない。
「俺なんて一花の写真でいっぱいだったぞ。」
「・・・そうですか。」
それは異常だ。とは言わないでおいた。
世間の兄妹事情なんてわからない。ワーグナーの「ヴァルキューレ」に出てくるジークムントとジークリンデは結婚して子供までできた。それに比べたら随分かわいいものじゃないか・・・と思いたい。
「友達とかと遊びに行ったりしないのか?」
「休日は体を休めるために使ってます。」
洗濯物たたまなきゃな。
朝に取り込んでそのままにしていた山に手を伸ばす。
「家で過ごすのか?」
「図書館に行ったり、買い物に出たりはしますが。」
シワが寄ったまま固まっているハンカチを手で引き伸ばす。干す時に叩いて伸ばしたつもりだったのに。
あとでアイロンをかけよう。
「一人で寂しくならないか?」
「平日はうるさいぐらいなのでちょうどいいです。」
あ、シミが取れていない。これはもう一度洗濯。
畳まずに脇に避ける。
洗濯物は次々と仕分けられていく。
まずいな。
片手間に相槌をうちながら、雪春は話がだんだん良くない方向に流れているのを感じていた。
ここら辺で話題を変えるべきだろうか。
しかし、雪春が口を開く前についにその質問がとばされた。
「そういえば、ユキの両親は?」
①「リッカルド・ムーティ」・・・現代を代表する巨匠として知られています。前奏曲(1)に書いたようにプッチーニには必ずしもいい評価が与えられなかったのですが、彼もそういう理由かはわかりませんがプッチーニのオペラを数回しか指揮していません。ちなみにアバドと言う指揮者は一切取り上げない指揮者として知られています。
②「ヴァルキューレ」・・・ワーグナーの舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」四部作の二作目にあたる作品です。