幽霊の頼みごと
それからの雪春の行動は、本当に無我夢中だった。
どうやって帰ったかも、自転車を駐輪場にきちんと片付けたのかも覚えていない(だが玄関の鍵はしっかり掛けたことを覚えている。怖いから!)。
そのままベッドの布団をかぶって震えていて、気づけば朝だった。
夢だったのだろうかとも思ったが、玄関にぶちまけられていた塩が事実だと物語っていた。
おかげで今日の授業は教材を忘れるわ板書ミスをするわで散々だった。
(・・・最悪です。)
自分自身でもあまり動じない性格だと思っていたが、怪奇現象に遭遇するとなると話は別だったらしい。自分の唯一の長所とも言える点が覆されて、幽霊(仮)を見たことよりも密かにショックを受けていた。
「・・・はぁ。」
「どうしたー?元気ないわね。」
職員室で今日集めた鑑賞の感想文の黙読をしていたが、その手が全く進んでいないことに気がついたのだろう。隣の席の綾倉聡美が声を掛けてきた。
彼女は1学年の国語を担当していて、雪春の教育係りである。20代後半の独身女性にして、肝っ玉母さんのような地位を築いていた。
顧問として演劇部を扱く姿や、笑顔で鬼のような課題を与える場面をよく見るが、生徒には好かれている。雪春のこともなにかと気にかけてくれる優しい人だった。
しかしその優しさにも、今の雪春にはどう答えればいいかわからなかった。とりあえず当たり障り無いことを告げておく。
「ちょっと、アイデンティティの喪失について・・・」
「アイ・・・え?」
「なんだなんだー?中坊みたいな悩みだな。」
会話を聞きつけたのだろう。ちょうど授業を終えた松枝清隆が、何故かいつも手にしている竹刀で肩を叩きながら入ってきた。
綾倉は唐突に会話に入ってきたことにムッとして、松枝を睨みつけた。
「ユキくんはあんたみたいな脳筋とは違って繊細なのよ。」
「脳筋ってなんだ!社会教師を捕まえて。それは体育科の奴らに言ってくれ。」
「変わらないわよ。バスケ部顧問なんだから。」
「演劇部に運動部のような筋トレさせている奴が言うんじゃねぇ!」
二人は大学からの同期だそうで、いつもこんな言い合いをしている。しかし喧嘩しても次の瞬間には別の話題で盛り上がっている辺り、仲はいいようだ。
「ま、こんな奴は置いといて、何かあったの?」
その言葉に松枝もこちらを見る。目に心配の色を浮かべているのを見て、いたたまれなくなった。
そんなに元気がなかったのだろうか。
「いえ・・・少し疲れていただけです。」
「・・・そう?」
綾倉は少し納得しがたい顔をした。当然だろう。仕事に支障をきたす様な悩みなら、相談する方が正しい。
いつもこうだ。自分は言葉が足りない。
今だって、「昨日怪奇現象にあってしまって~」ぐらいの軽い調子で言ってしまえば、この二人なら元気良く笑い飛ばしてくれるだろう。あるいは面白がるかもしれない。
そうすれば自分も一緒に笑って、きっとあれは見間違いだと思えるに違いないのに。
「ま、本当に何かあったら、遠慮なく言えよ?」
はい、と頷く自分の声が、どこか遠くに聞こえた。
放課後になり、いつものように明日の授業準備を終えると、雪春は帰路についた。
最後の方にはだいぶ落ち着いて授業ができるようになっていた。むしろ落ち着けたのは授業があったおかげかもしれない。
勤務中に私情を挟んではいけない。生徒はお金を払って来ているのだから。
もともと雪春は教師になりたかった訳ではない。ただ大学の奨学金返済があるために、早いところ手に職をつけたかっただけだ。しかし一度始めたことを中途半端にしたくはなかった。同じく教員採用試験を受けて落ちた人たちへの、自分なりの誠意とも言えるかもしれない。
それとなく岩田に昨日のことを尋ねると、丁度用事があって席を外していたようだ。図書委員は委員会があったらしい。ブッキングしないように調整していたはずなんだけどねぇ、と首を傾げていたが、何かの手違いでもあったのだろう。
やはり昨日のあれは何かの見間違いだ。着任したばかりで自分も疲れていたのかもしれない。そう無理やり自分を納得させた。さすがに今日は図書館に寄る気にはなれないが。
(帰ってお風呂にでもゆっくりつかりましょう…)
そしてベートーヴェンのピアノソナタ12番でも聴こう。特に第3楽章を入念に聴こう。
明日も朝から出勤だが、少しぐらい夜更かししたって罰は当たらない。
そうやって今日の夜の予定を一人で考えていると、例の遅咲きの桜が見えた。ここは丁度図書館の裏手の中庭だ。
こうして季節はずれの桜を見ると、この周りだけ時間が止まっているかのようだ。
一本だけ外灯に照らされて白く浮かび上がる様を見ながら、雪春は先ほどの会話を思い出した。
あの二人にも、扱いづらい新人だと思われただろうか。
自分が周りと馴染みにくい理由はわかっていた。そう思われることにも慣れていた。だが―――…
「おぉ!やっぱり見事なもんだなぁ」
また思考に深く沈みそうになったのを止めたのは、なんとも間延びした声だった。
「また会ったな。」
昨日のスーツ姿のままの樋口幸太郎(仮)が、にかっという擬音がつきそうな笑顔を浮かべて立っていた。
「―――っ!」
「おーっとちょっと待て叫ぶな逃げるな!別に君をどうこうするつもりはない!」
二度も同じ手はのらないと、脱兎のごとく走り出そうとした雪春の行く手を阻み、慌てて弁解した。
俊敏な動きで回り込まれたので、仕方なく立ち止まる。幸太郎は安心したように自分の腰に手を置いた。
「大人しそうに見えて案外エキサイティングだな、君」
自分も昨日初めて知った。自身の新たな一面を見つけるというのは、かくも痛みを伴うものなのか。
しかしそれよりも、認めたくない現象が再び雪春の目の前に広がっていた。
昔から知られている日本の幽霊とは違い、品のよさそうな革靴に包まれた足がしっかりあった―――地面から5cmほど離れて。
「やっぱり疲れているみたいです。早く帰らないと。」
見なかったことにして通り過ぎる雪春に男は再び慌てだした。
「いや、現実だぞ!君以外には見えないみたいだけど!」
今日はちょっと贅沢に入浴剤でも入れよう。新任祝いに一学年の先生方からもらったものがまだ残っているはずだ。名湯めぐりの入浴剤は、たったひと袋で色んな県の温泉を味わえる。今日は石川県の和倉温泉にしよう。爽快な海辺の町に漂う穏やかな潮の香り。気分が澄み渡るに違いない。
「いや、俺も信じられないとは思うけどな?でも気がついたらこの状態で・・・」
そうだ、たしか冷蔵庫に缶チューハイもあったはずだ。普段はあまり飲まないがたまにはいいかもしれない。つまみになるものがあっただろうかと、冷蔵庫の中身を思い出す。
雪春は足を速めた。
周りをふよふよ浮いて着いてくる男なんて知らない見えない聞こえない。
完全に現実をシャットアウトしながら歩き、駐輪場に差し掛かった時だった。
「―――妹を助けてほしいんだっ!」
思わず足を止めた。振り返ると、彼は数メートル後ろで立ち止まっている。先ほどまでののほほんとした表情は消えうせ、辛そうに手を握りしめていた。
妹とはこの場合、樋口一花のことだろう。彼女に何かあったのだろうかと意識を取られる。
しかし同時に、頭の片隅では警鐘がなっていた。きっと面倒なことになる。余計なことに首をつっこむな。これ以上聞いてはいけない、と。
「頼む、俺が見える君に頼むしか、もう方法がないんだ―――‥‥‥」
この後この日のことを何度となく後悔しようとも、寄る辺のない子供のような顔に、他でもない雪春が抗えるはずがなかった。
①「ベートーヴェンピアノソナタ12番第3楽章」…「ある英雄の死を悼む葬送行進曲」という副題がついています。管弦楽や吹奏楽などに編曲され、要人の葬儀にもよく演奏されています。