優しい幽霊
「とは言っても、一体誰なんだろうな。」
幸太郎が空中でぷかぷか浮いている。
この数日の内に自宅ではすっかり見慣れた光景になったが、今日はいつもより開放感に満ちていた。
夏目の抑圧がなくなったからだろうか。
しかし、心の内はきっと違う。場が暗くならないように努めて明るく振舞っているということぐらいは、雪春にもわかっていた。
結局あれから英語準備室の面々のアリバイの裏を取ろうと歩き回ったが、結果は思わしくなかった。
全員アリバイを証明できなかったのである。抜け出そうと思えば抜け出して、英語準備室に行くことができた。
(でも・・・)
心の端にひっかかるものがあったが、雪春はあえて目をそらしていた。
やはり同僚を疑うというのは気が重い。
「そう言えば、それは明日の授業の準備か?」
空気を変えるように、幸太郎が手元を覗き込んで尋ねた。
机の上には教科書やプリントが乗っている。
「北原白秋って、詩人だよな?」
「白露時代と呼ばれる、近代の日本を代表する作詞家です。」
北原白秋は、自身に大きく影響を与えた祖母を小さい時に、本の大切さを教えた叔父を新進気鋭の詩人として注目された時に亡くした。
実は結婚も何回もしている。一度目の結婚相手は不倫だった。姦通罪で告訴され、その後結婚することができたが、両親と折り合いが悪く離婚。二度目の結婚もすぐに離婚。三度目で子供を得る。
その間も、生活が困窮したり、詩人仲間と絶交したり。最後は糖尿病と腎臓病の合併症で視力を失った。こうしてみると結構壮絶な人生である。
しかし彼は自分の生きた証をたくさん残している。数多く生みだした童謡や詩歌は、今もなお歌い継がれている。
その中の一つが「この道」だ。
「お母様と馬車でいったよ、か。」
幸太郎は歌詞を見て言った。
「俺は正直、母親とのいい思い出はないなー。ヒステリックなとこしか思い出せない。」
そう言えば、夏目もそんなことを言っていた。
「そんなに神経質な方なんですか?」
幸太郎や一花の様子からそうだとは思っていたが、詳細を聞いていないのでよくわからない。
幸太郎は珍しくため息をついてから話し始めた。
「俺が昔、同級生を殴って怪我させたことがあってさ。」
「殴った?」
虫も殺さなそうなこの幸太郎が?
雪春はとても信じられなかった。
「文化祭で妙に興奮したやつらがいたんだ。それを仲介しようと割って入った時に。」
それなら納得できる。ああいうお祭りになると血が騒いで、人が変わったように振舞う輩というものは必ず一人や二人は出てくるものだ。
「そしたらこんな不祥事を広められたら困るって、転校させられそうになったよ。」
「え…。」
「結局、前島先生とかが訳を必死で話してくれたから何とかなったけどな。」
幸太郎は小さく笑った。
幸太郎の話も聞かずに、世間体だけ気にしたというのか。
予想以上の話に雪春は愕然とした。
「小さな人なんだよ。自分の周りの幸せを守ることで精一杯。だから、俺を追い出さずにいてくれただけで感謝してる。」
以前、母親には嫌われてたと笑って言った幸太郎が重なった。
どういう経緯で幸太郎が引き取られたのかは知らない。
しかしその自分の幸せの中に、ずっと一緒に暮らしてきた幸太郎を入れてあげることはできなかったのか。そんなに、母親には許しがたいことだったのだろうか。
なんと言えばいいかわからなくなって、雪春はうつむいた。
「一花だけだったんだ。俺をまっすぐ見てくれるのは。・・・俺自身を必要としてくれるのは。」
後継としてしか見てもらえなかった幸太郎を、一花だけは兄だと慕ってくれたのだろう。
幸太郎がここまで一花を大事に思っている理由が少しだけわかった気がした。
時計の針の音が部屋に響く。
手元のルーズリーフが手に触れて、カサリと音を立てた。
「強いですね。」
「ん?」
幸太郎は強い。たとえ一花という存在がいたとしても、自分だったら母親を恨まずにいられるだろうか。
いや、きっとできないだろう。
現に雪春は逃げることしかできなかったのだ。弱い自分から目をそらして。なかったことにして。
あの人から、逃げることしか。
「・・・強いですよ。」
スタンドライトに照らされた教科書の無機質な文字が目に痛い。上滑りしていく文章が雪春の弱さを責め立てているようだった。
幸太郎は静かな雪春の横顔をじっと見つめた。
「強くなんかないぞ。」
沈んでしまった空気を打ち消すように、幸太郎は明るく言った。
「なんせ、ずっと願ってたからな。」
「願ってた?」
オウム返しに尋ねる雪春に、幸太郎は苦笑して答えた。
「生まれてくるのは、妹でありますようにって。」
一瞬意味をはかりかねて首を傾げる。
しかし言葉の真意に思い至ったとき、思わず声が漏れそうになった。
ずっと、怯えていたんだろうか。
大きくなっていくお腹を見ながら。
もし中にいるのが弟だったら、本当に居場所をなくしてしまう、後継としてさえも見てくれなくなると。
小さな体で、ずっと一人で。
(助けたい。)
雪春は心の底から思った。
助けてあげたい。幸太郎がずっと願って、大切にしてきた一花を。
このひどく優しい青年の、ささやかな願いを。
そうすれば、自分も一歩前に進めるような気がした。




