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あしたへ贈る歌  作者: こいも
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少女の笑顔

 その日雪春が明日の授業準備を終えたのは18時を超えたぐらいだった。いつもなら20時まで掛かったりするが、事前に準備していた分もあったので、いつもより早く終えることができたのだ。

「三島先生、お帰りですか?」

 帰り支度をして立ち上がった雪春に気がついて、科学教師の犬飼義隆いぬかいよしたかが声をかけてきた。

 ひょろっとした体に分厚い黒縁眼鏡。雪春より2,3歳年上だったはずだ。

「はい。寄り道して帰ります。」

「熱心なんですね」

 雪春の行き先を知っていての発言に、内心苦笑する。

彼はどこかいつもおどおどしているが、人と話すのが好きなのか、普段から空き時間には色んな人に声をかけていた。どうやら今のやりとりはただのきっかけ作りだったようで、彼は続けて世間話を始めた。生徒会や委員会の話、そして今度行われる講話の話など、他愛もない話ばかりだ。

 しかし返事はあまり求めていないようで、一方的に話すだけ話して自分で納得する性格は、自分から話題を提供するのが不得意な雪春にとって比較的楽な相手だった。

 もう一度座るのも気が引けたので、ずっとそのままで話を聞き初めて15分も経過したころだった。

「先生」

 後ろからまだ幼さの残る透き通った声で呼びとめられた。振り返ったそこには、一人の女子学生が立っていた。

 ブレザーの制服を着崩すことなく綺麗に整え、背中まで伸びる黒い髪をなびかせ、両手を揃えて静かに立っている様は、一般家庭ではなかなか身につけられないような気品があった。

 実際、有名企業のご令嬢だったはずだ。

「休み中の科学の課題をいただきに来ました。」

 どうやら犬飼に用事があったようだ。

 GW中は、生徒がダレないようにと各教科から課題を出していた。

 ただ、彼女はある事情で入学式以降休んでいたので、受け取ることができなかったのだ。

 今日が事実上、初めての登校日だった。

 手には既に数学Aと社会のテキストがある。その他の教科は今日の授業でもらったのだろう。科学が最後のようだ。

 雪春は会話が途中だったため、帰るに帰れずにその場で様子を見ることにした。

 犬飼は初めて話す生徒相手だからか、いつも以上におどおどしている。それでよく生徒に馬鹿にされるようだが、基本無表情な雪春と比べればましだろう。教師や生徒で雪春をよく思っていない人物がいることは感じていた。

 しかし今は授業や委員会についての会話が素通りする中、別のことが頭を占めていた。

 ここはやはり、教師として自分も何か言うべきだろうか、と。

 それは彼女―――樋口一花ひぐちいちかが休んでいた理由にあった。

 体裁を整えた、耳障りのいい言葉は幾つか頭をよぎったが、どれもいう気にはなれなかった。

 感情のこもってない言葉を言われるよりは、何も言われない方がいいだろう。

 そう思い直し、無言で棚に寄りかかっていた。

 しかし彼女が話を終えて自分の前を通り過ぎた時、彼女の大きな瞳がとても深く、暗いのが目に入って、思わず言葉が喉をついて出てしまった。


「お兄さんとは、お別れはすみましたか?」


 雪春か彼女かはたまた犬飼か。息をはっと吸う気配がした。

 一花が休んだ理由は、彼女のたった一人の兄の死によるものだった。

 それも入学式の日、彼女が新入生代表として登壇するのを見るため、学校へ向かっている途中の交通事故だったという。

 スーツ姿で大きな一眼レフのカメラを携えて―。

 彼女にその話が伝わったのは、入学式を終えてからだった。それからお通夜や葬式のために休み、忌引きがあけてからも彼女は姿をみせることなく、GWに突入してしまった。

 身内を亡くすという、自分には経験できない悲しみを理解してあげることはできない。しかし「ご愁傷様」という言葉では一括りにしてはいけない気がしたのだ。

 一花は少し瞳を揺らしてから、ぎこちない笑顔を見せた。

それは社会で生きていく上でいずれ身に着けなければならないものではあったが、まだ15歳の少女がこんな笑顔を取り繕わなければいけない事実に胸が痛んだ。

 彼女の華奢な肩が更に小さくなって、そのまま消えていきそうだったので、雪春は思わず手を伸ばした。

 と、その時、一花の傍らには一人の青年が立っていた。初めからそこに立っていたかのように自然に、しかし唐突にそこにいたのだ。

 かろうじて声は出さなかったが、行き先を失った手はすぐに引っ込められた。

 彼は戸惑っているこちらを気にもかけずに彼女を見つめている。

 目にかからないぐらいの短髪に、180cmは超えているであろう長身。身にまとっているスーツにはシワ一つなく、ブランドに疎い雪春にも高級品だと感じられた。自分が今着ているチェーン店のセールで買ったものとは比べ物にならない。

 しかし威圧感は全くなかった。優しそうな少しタレ気味の目が、そういったスーツを着る人にはありがちな―偏見かもしれないが―取っ付きにくさを緩和させていた。

 それにしても一体いつの間に入ってきたのだろう。近づいた気配は全く無かった。

 肩に手を置かれても全く気にしていない彼女を見るに、親戚の誰かが迎えにでも来たのだろうか。

 しかし一花は青年の手をすり抜けると、開けていたままだった扉の前で一礼してから職員室を後にした。

 青年は後に続いて扉を出た後、その後ろ姿をじっと見送っている。

 一花は振り向くことも、足を止めることもなく廊下を歩いていった。見事なまでの無視にこちらが罪悪感を覚えるほどだ。

 あまり仲が良くないのだろうか。雪春は内心首をかしげた。

 しかし辛い時に傍にいてくれる人がいるのなら、彼女はきっと大丈夫だろう。

 これ以上自分が関わっても仕方のないことだろうと思い、最後に青年に向かって言った。

「どうか、声をかけ続けてあげてください。」

 余計な一言だったろうか。しかし少しの願いをこめて言った。

 すると青年は声の主を探すかのようにきょろきょろとしてから、後ろを振り向いた。目が合うと、さらに目を見開き驚いた顔をした。

 そんなに影が薄いつもりは無いが、突然声をかけたのでびっくりしたのだろうか。

 しかし今更挨拶するのもおかしいので軽く会釈をし、犬飼にも挨拶をしてから職員室をあとにした。

 その青年が、じっと見つめていたことには気がつかなかった。


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