小悪党の日常
風の冷たい、薄暗い路地。
この町の貧困街は細い路地が縦横無尽に走っていて、夜になると、貧乏ながらも比較的まともな生活を送っているような連中は全員家の中に閉じこもってしまう。
そこから先は、俺たち大小含めた悪党どもの時間だ。
そんな貧困街の中では、比較的メインストリートに近い方の路地。
「あんた……カーライルさん?」
若い男が声を掛けてくる。
服装を見るに中流家庭の出。
年齢は14、5歳ってところか。
俺はそいつを一瞥すると、手にした火の点いてないタバコを揺らして、
「火ぃ、持ってるか?」
「え? ……あ、ああ」
そう言って、そいつは少し大きめのマッチ箱を出した。
受け取って素早く中を確認する。
入っていたのは、小さく折り畳まれた紙幣。
俺はその数が合っていることを確認すると、
「サンキュ。じゃ、こいつは礼だ」
言って、小さな袋を差し出した。
中身は薬、と言っても、風邪薬とか頭痛薬じゃない。
少しだけ摂取すると幸せな気分になれて、やりすぎるとアッチの世界に旅立つことのできる高価な薬だ。
「これが……そうか」
男は小さくのどを鳴らした。
どうやら初心者らしい。
「これはどうすればいい? このまま飲むのか?」
「いくつか方法はあるが、初心者なら経口をオススメする。それで物足りなくなったらまた別の方法もあるし、別のモノもある。……またごひいきに」
俺は型どおりの文句を口にして男と別れた。
(最近ああいう雰囲気の客が増えてきたな……)
パッと見た限り、こんな薬に手を出すほどの理由があるとはとても思えない客。
働かなくたって食っていける。親の金で学を身につけられる。屋根があり、隙間風の入ってこない家で、暖かい布団で寝ることができる。
そもそも、そうでなくてはこんな薬に金を出す余裕なんてあるはずもないのだ。
あいつらは一体、何が不満なのだろう。
(知ったこっちゃない、か)
あいつらの存在が俺の朝食に化けているのだと思えば、文句なんてあろうはずもなかった。
(しかしやれやれ、こんなはした金じゃ)
少し歩いた後、マッチ箱から金を出してポケットに詰めた。
そこにあるのはそれなりの金額だったが、薬の仕入値を考えれば俺自身の収入はさほどでもない。
冷たい秋風が吹き抜けた。
(家賃と2人分の食費、か)
性には合わないが、今日も残業する必要がありそうだった。
盲目の娘ファルの面倒を見るようになってから約半月。
秋風が徐々にその冷たさを増し、冬の気配がわずかに顔をのぞかせ始めていた、そんな時期。
もちろん、半月程度で周囲に劇的な変化など起ころうはずもなく。
ファルの新しい引取先を探すという任務は予想通りの難航状態にあった。ヘタをすると月どころか年単位での長期戦を覚悟しておく必要があるほどに。
貧乏は相変わらず。
仕事の量は増えたが、余裕は減っていくばかり。万が一のために少しずつ貯めていた金も、少しずつ切り崩していく必要に迫られていた。
まあ、それらの出費についてはあいつの着る冬物の服だとか、そう言った初期段階の投資が大部分を占めているので、これからはもう少し楽になるだろうし、今すぐ資金が底を突くとかそういう心配はない。
ただ、これがもともと負う必要のない出費だったのだと考えるとやはり腹立たしいことこの上なかった。
(とんでもない貧乏くじだ……)
あいつが来て変わったことといえば、日ごとの支出が目に見えて増えたことと、それと比例するように俺のストレスの増加率が上がったこと。
メリットなんてひとつもありはしない。
何しろ、あいつにはどうやら学習能力がないのだ。
あれだけ馴れ合おうとするなと言ったにも関わらず、隙を見せれば近付いてくる。
最初のうちはちょっとしたことだった。
『カーライルさんは、いったいどんなお顔をされているんでしょうかねー?』
とか、
『カーライルさんのお誕生日って、いつなんですかー?』
という、俺のパーソナルに関する質問。
そのたびに『出っ歯でギョロ目のハゲ男だ』とか『お前に会った日の前日だ』とか適当に答えてやってるうちはまだ良かった。
それが効果ナシと悟ると、さらに踏み込み始めたのだ。
俺が何かするたびに自分も手伝いたいと言い出したり、疲れた様子を見せるとマッサージさせてくれと言ってみたり、挙げ句の果てには、目が見えないクセにメシを作ろうとして軽い怪我をしてみたり、と。
そこまで来ると適当にあしらって終わりというわけにもいかず、その差し出がましい行為に対して怒りをぶつけてみせる必要があった。
俺は別にサディストじゃない。
なかばフリとはいえ怒ってみせればストレスは溜まるし、それでもめげないあいつに対してイラ立ってもくる。
半月。
決して気が短い方だとは思わないが、それは俺の忍耐力を限界ギリギリまで追いつめるのに十分すぎる時間だった。
その日、俺が自宅の敷居をまたいだのはちょうど太陽が昇り始めたぐらいの時間。
職業柄、俺は基本的に昼夜逆転の生活を送っている。
「あ、おかえりなさい、カーライルさん!」
扉をくぐるなり、元気の良い声とともに疲れた体を刺激する匂いがただよってきた。
「や、カール。今日も遅かったね」
そこにあったのは、ワイワイと仲良くテーブルを囲むファルにレベッカという光景。
「……」
残業続きで寝不足の頭に、その光景はまさに悪夢だった。
俺は深く重い息を吐いて、
「……どうしてお前とそいつが、和気あいあいとテーブルを囲んでんだ?」
「え……あ、あの!」
不機嫌そうな俺の口調に気付いたのか、ファルが慌てて弁解を始めた。
「た、たまたまです! たまたま一緒に朝食になりましたし、それにそろそろカーライルさんも帰ってらっしゃるから、たまにはみんな一緒にと思って――」
「……」
どうやらこいつには何を言っても無駄のようだ。
小さい舌打ちを返してレベッカを見ると、ヤツはいつものようにしれっとした顔で、
「大丈夫。君の大事なハニーには手を出してないから」
冗談にまぎらせた口調に、ついカッとなる。
「そいつと無闇に関わるなって言ってんだろっ!」
怒鳴ると、ファルがビクッと体を震わせる。
そして、すぐに取りつくろうように、
「あ、あのっ、カーライルさん……!」
「お前は黙ってろ」
「っ……!」
ファルは脅えたように口をつぐんだ。
一方のレベッカは全然こたえてない様子で、小さな笑みを口元に浮かべる。
「関わっちゃいけない? へぇ……じゃあ無関係なものとして扱っていい、ってこと?」
「!」
その言葉の持つ意味にはもちろん気付いた。
「レベッカ、お前……」
俺が少し低い声を出すと、レベッカは笑顔を俺に向けたまま、
「まさか君は、ここがどこなのか忘れてしまったのかい?」
まるで弟をさとす姉のような態度で言った。
「それとこれとは……話が別だ」
「別じゃない。親切で言ってあげてるんだよ、カール」
レベッカはゆっくり席を立って近付いてくる。
俺の胸元に人差し指を置いて声をひそめた。
「君が変な意地を張るのをやめれば、少なくともこの家の中での安全は保障してあげる。君のいない間に彼女が姿を消す確率はきっと減るだろう」
「……」
「君の主張はわかってる。君の仕事に対する考え方だって少しは知ってるつもりだ」
言いながら、レベッカは俺の耳元に口を寄せた。
「でも、いつまでここにいるかわからない彼女を、完全に蚊帳の外に置いたままにするのは不可能だよ。まして私もいっぱしの小悪党だ。無関係だというのなら、私はいつでもあの子をどこかに売り飛ばすことができるんだよ」
「……」
それは確かに、俺と敵対することをデメリットと考えなければ不可能じゃないだろう。
そしてこの女になら、おそらくそれができる。
反論の余地はなかった。
それを察したのか、レベッカは相変わらずの笑みのまま、
「お利口さん」
ポンポン、と、俺の頭を撫でる。
完全にこっちを馬鹿にした態度だったが、言っていること自体は確かに間違っていない。
ここは家の中にさえいれば安全だと言い切れるような場所ではなく、本来ならレベッカに金を払ってでも、ファルに手を出さないことと、彼女の安全を保障してもらうように依頼する必要さえあるだろう。
それについては、こいつが正しい。
「ああ、それと。イライラしてたらしいのはわかるけど、おとなげない態度は謝っておいた方がいいかもね。ほら。彼女、かなり落ち込んでいる」
「……」
次々にカンにさわる言葉が飛んでくる。
「一緒に住んでる人と仲良くしたいと思うのは当たり前のことだよ。君に手ひどく突き放されるような過ちを彼女がおかしたとは思えないな」
「お前は――」
イラ立つ。
ただ、先ほどすでに怒鳴ったこともあって、今度は比較的冷静に返すことができた。
「お前は何もわかっちゃいない」
「そうかもね。結局他人の気持ちなんてそう簡単には理解できないもんだ」
否定はしなかった。
「それでも君の言い分はやっぱりメチャクチャだよ。日常会話すら許さないのなら、どうしてここに連れてきたんだ?」
「それは……俺に責任があるからだ」
「責任、か」
テーブルで成り行きを見守るファルをチラッと見て、レベッカは少し考えてから言った。
「ひとりきりで暮らす貧しい生活と、同居人がいながらそれに関わることを完全否定された生活。……彼女にとって、果たしてどちらが苦痛だろうか、ね」
「そんなの」
決まっている。
「生きることを保障された生活の方がいいに決まってる」
「そう」
レベッカは目を閉じる。
「なら、君の主張も間違いではないのかもしれない」
そう言って背を向けると、テーブルへ戻っていった。
……いつもながら勝手なことばかり言ってくれる奴だ。
それが意に介す必要もないくだらない発言ばかりならともかく、そこに一理あることは俺にだって嫌というほどわかっている。
だから余計にタチが悪いのだ。
そりゃ俺だって、あんな子供をいじめるようなことを望んでしたいわけじゃない。
ただ、それでもレベッカの意見を受け容れることなどできはしなかった。
……危険なのだ。
俺がレベッカたちと付き合っていられるのは、これが表面上の、利害関係のみの付き合いであることを互いに理解しているから。
こっちの都合で切り捨てても、なんの後腐れもない。だから付き合っていける。
けど、ファルはおそらく違う。
あいつはきっと、俺が少し心を許せばあっさりと、何の抵抗もなく飛び込んできてしまうだろう。
それは俺にとって苦痛であり、負担でもある。
もしもあいつが必要以上に俺に依存し、俺をアテにし続けたとしても、俺にはあいつの面倒を見続けることなどできない。
そのときが来れば、ためらうことなくあいつの手を離すだろう。
そしてそのとき、俺に依存していたあいつはきっと途方に暮れることになる。
そういうのはイヤだ。
それは俺にとって耐え難いほどに後味の悪いことだった。
たぶん、そこに俺とレベッカの大きな意識の差があるのだろう。
(……妥協、できるのか)
ある程度受け入れながら、それでいて情を移されないように距離を保つ。
そんな器用なことが、この俺に可能なのだろうか。
結論は、すぐに出る。
(無理だ)
自信がなかった。
それならやはり、俺の取るべき道はひとつしかない。
「……寝る」
「あ……カーライルさん……あの、朝ご飯は……」
ためらいがちにファルが声をかけてきた。
「今はいい。それと……」
彼女を一瞥して続ける。
「前言は撤回だ。そいつとだったらいくらでも仲良くしていい。……レベッカ。それでいいんだろ?」
「……」
レベッカはチラッとこっちを見て、それから肩をすくめた。
「え、あ……」
戸惑う表情のファル。
それほど嬉しそうではなかった。
おそらく、その言葉の裏にある俺の意図に気付いたためだろう。
(……レベッカは仕方ない。けど、俺はやっぱり距離を保つべきだ)
それが最善。
そう思える。
ベッドに転がった。
レベッカの部屋を除けばここには1部屋しかないので、当然、彼女らはベッドのすぐそばだ。
それに背を向けて布団をかぶる。
「……ガンコな奴」
小さくつぶやいたレベッカの言葉はひとりごとのようでもあったが、まず間違いなく俺に聞かせるために発したものだろう。
「……」
一方のファルは何も言わない。
俺が彼女に対してあれだけ怒鳴ったのは初めてのことだし、おそらく何か言って機嫌をそこねることが怖いのだろう。
体は疲れているはずなのに、眠気はなかなか訪れなかった。
原因は明らかだ。
……イラ立ち。
結論は出たはずなのに、それがなかなか俺の胸から消えてくれようとしない。
(……ホント、とんでもない貧乏くじを引かされたもんだ)
睡眠だけは取っておかないと、今日の仕事にも影響してしまうというのに。
そうして悶々としていると。
しばらくして。
「あの……レベッカさん」
ファルの声が聞こえた。
それはおそらく、俺が寝付いたと思ってのことだろう。
「私、わからないです。どうしてこんなにカーライルさんに嫌われてしまったのか……」
ひどく沈んだ声。
実際にはどうだかわからないが、トーンからすると目に涙ぐらいは浮かべているかもしれない。
「私って、そんなに気にさわるようなことしてるんでしょうか? 少しは……仲良くなれるように頑張ってるつもりなんですけど……」
やはり学習していない。
その無駄な頑張りにイラ立っているのだと、直接的にも間接的にも何度も言っているのに。
……あるいは。
自分が頑張りさえすれば、少しは歩み寄ることができるなんて考えているのだろうか。
(馬鹿な)
それは子供の理論だ。
努力することは悪いことではないし、努力する人間はそれをしない人間よりよほど生きる価値があるとは思うが、それと結果はまた別の話だ。
頑張れば、努力すれば何事もどうにかなるなんて、そんなのは夢物語に過ぎない。
報われる努力する奴は尊敬に値するが、無駄な努力をする奴はただのバカだ。
「んー」
対するレベッカの返事はいつも通りの調子。
「別に嫌われてないんじゃ」
「で、でも……」
ファルは少し強い調子で反論する。
「カーライルさん、いつもはもっと普通です。レベッカさんに対しても、他の人に対しても……私が関わったときだけ、いつもあんな感じで……」
「だから嫌われてるって?」
「だ、だって、そうじゃないですかぁ……」
「ん、まあ、この子は色々難しいからね」
(……ちっ)
聞きたくもない話が次々と耳へ飛び込んでくる。
まるで盗み聞きしているようで気分が良くない。
かといって、起きていることをわざわざアピールするのも馬鹿らしい。
結局、軽く寝返りを打っておくことにした。
それで話をやめてくれれば良かったのだが、
「好きか嫌いかで言うなら」
言葉を続けるレベッカ。
俺が起きていることをわかってやっているのかもしれない。
「カールはほとんど全員嫌いだから。いや――」
一瞬の溜め。
やはり俺が起きていることに気付いているようだ。
「嫌おうとしてる。できもしないくせに」
(……くそっ!)
意地の悪い笑みを浮かべるレベッカの顔が頭に浮かんで、俺は猛烈に耳を塞ぎたい気分だった。
「嫌おうとしてる……?」
理解できてない声。
「難しい年ごろなのさ」
知ったふうな口を利いて、
「だから君が特別嫌われてるってことはないよ。ただ、少々怖がられてはいるかも」
「こ、怖がられてる?」
驚く声が上がった。
「わ、私、どこか怖いんですか? え……あの、もしかして私って化け物みたいな顔してたりします?」
「ぷっ」
吹き出すレベッカ。
(……バカか、こいつ)
多分、間違いなくバカなのだろう。
ただ、あまりにとぼけたその反応は、ほんのわずかではあったが俺の中のイラ立ちをやわらげていた。
「そういう心配はいらないな、きっと」
レベッカも妙に楽しそうだ。
「逆の心配なら必要になるかもしれないが」
「?」
「手を出されないように、注意」
(……野郎)
俺が口を挟めないのをいいことに言いたい放題だった。
「手を? 私、まだカーライルさんに叩かれたことは一度もないですよ?」
こいつも相変わらずボケまくりだ。
「ん、ま、それでもいいか」
(……いいのか)
どうやらどーでもいいらしい。
(ふう……)
心の中で大きく息を吐いてみる。
少し陰鬱な気分が抜けていた。
冷静になって、ふと考える。
(やっぱ、大人げなかったか……)
相手はどうしようもないほどに子供だった。
じゃあ、少しぐらいは長い目で見る必要もあるのかもしれない。
これからはなるべく脅えさせることのないように、冷静に拒絶してみよう。そうしていれば、いつかは俺との距離の保ち方を理解するはずだ。
レベッカはああやってファルをかばうような発言をしてはいるが、俺よりもずっと距離の保ち方が上手い。
仲良くはしても、懐かれるようなヘマはしないだろう。
(あとは……とにかく早く……あいつの……落ち着き先を――)
そうこうしているうちに、ようやく睡魔が俺に襲いかかってきた。