小悪党の誘惑
そしてふたたび夜。
昨日一昨日よりも遅い時間に俺は酒場へ足を運んだ。
特に用事はなかったのだが、昨日のトラブルのこともあって少しだけ様子を見に来たのである。
すると、案の定。
酒場に入った途端、俺の目と耳に飛び込んできたのは、早くも聞き飽きた下品な笑い声と、思わず胸がムカついてくる光景。
そこでは酔っぱらった数人の男たちがよってたかってひとりの少女をいじめていた。
おそらくはわざとやったものだろう、床には大量の麦酒がぶちまけられており、ファルは膝をついて黙々とそれを拭いている。
彼女の服装はいつもより軽装。
いつも着ていたボロボロながら多少厚手の服ではなく、まるで下着のような薄い布だけだ。
それもそのはず。
床を拭いているその布きれこそ、彼女がいつも上に着ている服だったのだから。
「……」
俺は眉をひそめてそれを見ていたが、男たちの注意を引く前にカウンターに移動した。
……前からこういう状況だったのか、あるいは昨日のことが引き金になったのか、それはわからない。
どちらにしろ、今日は俺が出しゃばっていく理由を見つけられなかったし、円満に彼女を助けるのは不可能だった。
「麦酒」
注文して、俺は知らんぷりを決め込む。
俺はまだあいつの保護者でも関係者でもない。
助ける義理はないし、何よりも複数の男たち相手のトラブルは避けたかった。
「……」
男たちの怒声や笑い声に、むき出しの肩を震わせながらファルは黙々と床を拭いている。
俺が来たことには気付いただろうか。
俺が知らんぷりをしていることに多少の不満を覚えているかもしれない。
だが、そうだとすれば尚更、彼女を助けるわけにはいかなかった。
不満を覚えるということは、つまり俺が助けてくれるかもしれないと期待しているわけで、俺に何らかの見返りを求めているということ、そういう関係であると錯覚しかけているということだから。
それは俺の望むところじゃない。
頼られたり懐かれたりするのはゴメンだった。
……ただ。
それにももちろん限度ってものがある。
「おい、ちょっと待て」
俺がついに口と手を出したのは――出さざるを得なくなったのは、それから5分ぐらい後のこと。
「なっ……!」
俺に手首をつかまれて、男は怒りの声を上げた。
「なんだてめえ! はなしやがれッ!」
「殴るのはやめておけ」
ファルに暴力を振るおうとした男の手首を押さえ、俺は静かな声でそう言った。
男の後ろにいた一団が不穏な空気を感じ取って席を立つ。
俺はそっちも見据えた。
「こいつ……っ!」
手首をつかまれた男は抜け出そうともがいたが、もちろん俺は離さない。
(さて、精一杯すごんでみせなきゃな……)
この程度の男が相手なら苦労することもないが、問題はその後ろに控える複数の男たちだ。
「あ……」
そのときまで、ファルは俺が来ていることに気付いていなかったらしい。
驚いたように顔を上げて、
「カーライル、さん……?」
「……」
ヤバいな、と思った。
俺としてはただ、依頼主の元へ連れて帰る予定の少女に怪我を負わせるわけにいかなかっただけ。
顔など殴られたら大事だし、それだけでここまでの苦労がパァになってしまうかもしれないから、やむなく間に入っただけにすぎない。
だが、この状況では、俺が『好意』や『正義感』で彼女を助けたのだと思われてしまう。
それはゴメンだった。
彼女の中に変な感謝の気持ちがうまれる前に、釘を刺しておく必要がある。
「服を着ろ」
俺はファルにそう言うと、押さえていた男の手をゆっくりと離してやった。
次に、その後ろに控えた男たちに向かって言う。
「あんたたちと事を構えようとは思ってない。俺は明日にはこの村を出て行くし、その後は好きにすればいい。ただ、今日だけは俺に免じて穏便に済ませてもらえないだろうか。頼む」
「なんだと……この……!」
手首をつかんでいた男が怒りで赤くなった顔を向けてきたが、俺が少し目を細めてやるとすぐに口をつぐんだ。
「……」
同時に後ろの連中も静かになる。
ハッタリだが、効果があったらしい。
こういうとき、どうやら威圧感があるらしい俺の外見は少し役に立つ。
今度は店のオヤジに向かって言う。
「悪いけど今日はこいつを帰してやってくれ。支障があるならその分の金は払う」
「……ああ。別に構わないよ」
陰気なオヤジは嫌そうな顔をするでもなく、ただ店の中で大きなトラブルにならなかったことを安心するように、ホッとした表情を浮かべた。
金を出してオヤジに渡すと、ファルはすでに服を着終えていた。麦酒でびしょびしょになっていたが、あんな格好で外を歩くよりはマシだろう。
男たちは相変わらず動かなかったが、何人かは諦めたように腰を下ろしている。
そして俺はすぐさま身を翻し、
「じゃあ……白けさせてすまなかったな」
また彼らの怒りが再燃しないうちに、俺はファルの手を強引に引いて店を出ることにしたのだった。
「……あの」
「まず、先に言っておく」
店を出た後、しばらく歩いて口を開いたファルに、俺はさっそく釘を刺しておくことにした。
「もし万が一にでも礼を言おうと思っているのなら、それは口にしないでおけ。俺がお前を助けたのは善意でも好意でも、ましてや正義感からでもないし、礼を言われる筋合いなんてこれっぽっちもない」
「ぅ……」
小さくうめいて口をつぐむファル。
あんなことがあった直後でさすがに昼間のような明るさはなかったが、あまり取り乱したところがないのを見ると、ああいった仕打ちを受けることは初めてではないのだろう。
強いな、と、少しだけ感心させられた。
ただでさえ普通の子供より圧倒的に不幸な境遇にいて、今日のような出来事が続いたのでは、この先の不安と自らの不幸を嘆いて生きる気力を失ってもおかしくはない。
それでも安易に泣き出したりしないのは、やはり見た目に似合わぬ芯の強さがあるのだろう。
ただ、ここで励ましや慰めの言葉を掛けてやる気はない。
仕事を成功させるために、こいつに俺の言葉を信用させる必要はあるが、信頼されることは必要なく、余計な好感を持たれるのは最悪だ。
小悪党には小悪党なりのポリシーがある。
特にこういう仕事の場合、相手の感情に対してはかなりの気を遣う。
商品として扱おうとしている以上、人間らしい交流は最低限に留めておく必要があった。
それが俺のためでもあるし、こいつのためでもある。
「あの……お聞きしてもいいですか、カーライルさん?」
「内容による」
おずおずと口を開いたファルに、俺はいつもの口調でそう返す。
「あの、どうして私を2回も助けてくれたんですか?」
「……」
予想してはいたが、実に答えにくい質問だ。
正直に答えることは今はまだ避けたいし、嘘をつくのはもっと避けたい。
少し思案した後、適当に誤魔化しておくことにした。
「それを聞くことが、お前にとってプラスになると思うのか?」
「え? それはどういう……」
ファルがわからない顔をする。
俺は答えた。
「たとえばの話、『俺はとんでもない変態で、実はお前の体が目当てだったんだ、ぐへへ』と言えば、それはお前にとってプラスなことなのか?」
「……そ、そうだったんですか?」
「断じて違う」
「そ、そうですよねー……」
ファルはホッと胸を撫で下ろして、
「あ、それに、もしカーライルさんがそういう人でも、きっと私みたいな薄汚い娘には目も止めないはずです」
「……」
目的こそ違うものの、その薄汚い娘に目を止めたのは間違いなかったら、ちょっとだけ微妙な気持ちになった。
「ってか」
話題を変えることにする。
「お前、いつまで俺の手を握ってるつもりだ」
店を出たときから、ずっと。
俺の方はとっくに離そうとしていたのだが、こいつの方はがっしりと俺の手を握ったままだった。
「あっ……ご、ごめんなさい!」
フッと、その手から力が抜けかけて、
「で、でも、その、できればこのまま……ちょっと怖いので……」
再び、その手に力が入った。
「怖い?」
その言葉に周りを見る。
辺りは真っ暗で明かりもほとんどない。
今日は月も雲に隠れているし、確かに怖がる気持ちはわからなくもなかった。
だが、あんなところでひとりで暮らしているような奴が、夜の暗闇が怖いとは。
(妙な奴だ)
ただ、あの酒場から連れ出したのは俺だし、こいつの家につくまではそれを許してやることにした。
「服、替えはあるのか?」
「あ、はい。あの……昼間に洗濯した服が」
「なるほどな」
つまり、替えの服はそれしかないってことだ。
昼間は天気が良かったとはいえ、まだ完全に乾いているとは思えない。
「ああ。それと」
俺は思いついて、ポケットからいくらかの小銭を出し、
「お前の日当も払ってやらなきゃならないな。これで足りるか?」
「あ、いえ、そこまでしていただくわけには――」
「足りるか?」
有無を言わさぬ口調で言い、その手に金を握らせてやる。
「……」
ファルは観念したように自らの手の中の小銭を親指で数えながら、
「あ、あの……これはちょっと多すぎです」
「多すぎ?」
俺としてはこいつの状況と、あの酒場での立場を考慮した上で提示した金額だったのだが、どうやら思った以上に過酷な生活を強いられているらしい。
(なるほど。ときおり足がふらつくと思ってたが、全く栄養が足りてないらしいな)
納得しながらそこから少しの金額を取り除いて、
「じゃあ、こんなもんか」
「……」
ファルはもう一度、親指で小銭を数えると、やはり小さく首を振る。
「遠慮してるんじゃないのか?」
「そ、そんなことはないです」
慌てたように言ったが、どうやら嘘でもないようだ。
「……」
改めて、彼女の手の中の小銭を見つめる。
そこにあるのは、おそらくギリギリ切りつめた最低限の1日の食費にも満たない額。
俺はため息を吐いて、
「ああ、わかった、もういい。じゃあこれだけやる」
そのまま彼女の手を閉じてやる。
本当の金額を聞いてしまったら、俺の気分が悪くなりそうだった。
「い、いいんですか?」
びっくりしたように聞き返すファルに、もう一度ため息が出てしまう。
(……こいつは一体どんな生活をしてたんだ)
不幸な子供なんてこれまでにいくらでも見てきたが、こいつはその中でもかなりの上位に入る不幸っぷりだ。
(不幸、か。……哀れだな)
心からそう思った。
生きることを諦めてしまった奴に対しては、俺はどんな境遇であろうと不幸だなんて決して思わない。
だがこいつの場合、この境遇にも生きることをまったく諦めておらず、そのための精一杯の努力をしているからこそ、その哀れさがきわだってしまうのだ。
考えなくともわかる。
もしもこのまま、あと2、3年ほども月日が流れれば、こいつはもうこの場所で生きていられなくなっているだろう。
運が良ければ、つまり、俺のようにこいつの容姿の良さに気付く奴が現れれば、どこかの娼楼辺りにいるかもしれない。
だが、おそらく9割以上は、この近くでのたれ死んでいるか、その辺のならず者に遊び半分でなぶり殺しにでもされているだろう。
そう。
いわばこいつは、もう『詰んで』しまっているのだ。
この村にいてこの生活を続けている限り、いくら本人が生きようと努力していても、どうにもならない。
(ちっ……)
そこまで考えて、俺は軽い自己嫌悪を覚えた。
俺がそんなことを考えたのは、別にこいつの行く末を心配したからじゃない。ただ単に、これから自分がやろうとしていることを正当化しようとしているだけだ。
小さいながらも悪党であろうとする以上、自分の悪事に対しての言い訳などしてはならないのに。
「カーライル、さん……?」
気付くと、ファルが不思議そうに俺の顔をのぞき込んでいた。
「ああ……いや」
小さく首を振って、嫌な考えを打ち払う。
……余計なことを考える必要はない。
今はただ、目の前のビジネスに専念するべきだ。
そして、俺は切り出した。
「お前、ここを出たいと思ったことはないのか?」
「え?」
当然、ファルは呆気に取られた顔をする。
「俺の考えを正直に言わせてもらうが」
俺は構わずに言葉を続けた。
信用されているかどうかはまだ微妙だし、少し早いかとも思うが、明日こいつが酒場に行けば今日よりもっとひどい目に合うはずだ。
そうなるとますます厄介だし、連れ出すなら明日の早いうち。
だから、説得するとすれば今しかなかった。
「今のままこの生活を続けていたら、お前はこの先きっとロクな目にあわない。酷な言い方かもしれないが、近いうちに必ず命を落とすことになる」
「っ……!」
断言する俺の言葉に、ファルの表情が急激にこわばった。
いきなりこんなことを言ってどんな反応が返ってくるかと思っていたが、あるいは本人もこの現状にある程度の限界を感じていたのかもしれない。
「そ、そんなこと……だって……」
自然と口調が強くなる。
「わ、私、これでもがんばってます……」
俺の言葉が引き金になったのか。
今まで押さえつけていたものがあふれ出したかのように。
その様からも、彼女がこれまでどんな苦労をしてきたのかがうかがえる。
「私なりに、がんばって生きようと……!」
語尾が震えた。
「わかってる」
そんな彼女の様子に、少しだけ胸にモヤモヤしたものを感じながら静かにうなずく。
たった2、3日の付き合いだが、こいつが生きるために頑張っていることはよく理解しているつもりだった。
風雨をしのぐために洞穴で生活し、ひどい扱いを受けながら酒場で歌い続け、そして雀の涙ほどの日当をやりくりし、なんとか生き抜こうとしている。
いつからこうした生活を送っているのかは知らないが、それは並の子供にはとても難しいことだったろう。
「けど」
俺はそれでも彼女の努力を否定しなければならない。
「頑張ったってどうにもならないことは、世の中にいくらでもある。残念だが、今のお前はそういう状態だろう」
それは正直な意見であり、またおそらく事実でもあった。
「……!」
顔が歪んだ。
泣き出すかと思ったが、それは直前でこらえたようだ。
「だから――ああ、いや。先に言っておこう」
本題に入る前に、俺はいつものように釘を刺しておくことにする。
「俺はこれから、お前に違う道を提案する。その道は、少なくとも今よりは努力次第で生き続けていられる、そういう道だ」
「……?」
突然の言葉に、ファルは怪訝そうな顔をした。
かまわず続ける。
「けど、それは好意でも善意でもない。お前のために提案するわけじゃない。俺が、俺自身のために提案するものだ」
「?」
いまいち意味が通じなかったらしい。
だが、それはいずれわかることだった。
「選択肢は2つ」
そう言って、ファルの目前に指を2本立ててみせる。
「このままの生活を続けるか。あるいは俺と一緒に来るか」
「一緒に……? カーライルさん……それって……」
「ただし」
その表情に俺の望まない感情が走ったように見えて、あらためて釘を刺す。
「俺がお前の面倒を見てやるわけじゃない。俺はただ、お前の新しい居場所へ案内するだけだ」
「……」
俺の言い方に、それが決して単純なことではないと悟ったのだろう。
握る手に、ほんの少しだけ緊張したように力が入って、
「で、でも……私なんて何の特技もないです。歌は少しだけ知ってますけど……」
「そんな心配はいらない。ただ、お前がそこでの生活に耐えられるかどうかだけだ」
「い、痛いのはあまり得意じゃないです……」
「そういう苦労もあまりない。食い物の心配もおそらく必要ない」
「……」
ファルは黙ってしまった。
そろそろこいつの家も近い。
すぐに結論を出せというのも酷な話だろう。
俺はそう考えて、
「考える時間は明日の朝までだ。この村を発つ前に寄ることにする。それまでに結論を出しておけ」
「……」
ファルは無言のままこちらを見上げる。
俺はそれ以上なにも言わず、少し強引に手を引き離した。
これ以上の会話は、ビジネス上必要ないはずだ。
「じゃあな。明日」
「ぁ……」
ファルが何事かつぶやいたようにも聞こえたが、呼び止めるものではなかった。
しばらく歩いた後、暗闇が怖いらしいことを思い出して振り返ってみたが、どうやらちゃんと洞穴の中に戻ったようだ。
安心して、宿への道をたどっていく。
(あとは明日、か)
考えながら、ゆっくりと雲のかかる夜空を見上げた。
手ごたえはよくわからないが、おそらくついてくるのではないかと思った。
……その理由を考えると、少しだけ苦いものが胸を過ぎる。
(ちっ……)
先ほど、俺についてくることを提案したとき、彼女が一瞬見せた表情を思い出すとやはり胸がムカついてきた。
たったの2、3日。
それも少し会話を交わしただけだというのに、どこでどう間違ったのか、俺は彼女に多少なりとも信頼感を持たれてしまったようだ。
(……くそ)
言い様のない怒りが込み上げてきて、道端の石ころを思いっきり蹴っ飛ばす。
仕事は上手く行きそうだというのに、心は晴れず。
結局その嫌な気分は、俺が完全に寝付くそのときまで続いたのだった。