教会の大きな木の下で
すみずみまで広がった青空。
さわやかな小鳥の鳴き声。
あたたかい日射しの中に、はしゃいだ子供たちの声があふれている。
「先生、先生っ! せーんーせーいーっ!」
近くには小さな教会があって、その脇には広い庭と大きな1本の木がある。
そしてその根元に、数人の子供とひとりの女性がいた。
「はいはい。どうしたんですかー?」
先生と呼ばれた人物は、子供たちの方に顔を向けて、それからニッコリと微笑んだ。
そこにいるのはファリーナ――ファルという名の女性だ。
盲目で、だけど暗い印象などまったくない、あたたかな笑顔の持ち主だった。
「昨日のお歌! もう1回聞きたい!」
「あ、わたしもー!」
ファルのひざに入り込んだ4、5歳の少年に、そばにいたふたりの少女が同意する。
「え、昨日のがいいんですかー?」
少年を抱いたファルは、にこやかな笑顔で聞き返しながら、
「今日は違うお歌を準備してたんですけど……」
「あ、わたし、そっちがいい!」
「わたしも!」
すぐさま態度を変える女の子ふたり。
だが、ひざの中の少年は反論した。
「えぇー! ボク、昨日のお歌が聴きたいなぁー……」
「うーん」
と、ファルは少しだけ困った顔をして、
「じゃあ、まず最初に今日のお歌を歌って、それから昨日のお歌にしますか?」
「うん!」
これには誰も異論を挟まなかった。
「じゃ、いきますねー」
コホン、と軽くさき払いをして目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
その一瞬、子供たちもしぃんと静まり返って。
そして、
「……~……~~……」
その小さな口から歌が流れ出す。
さわやかな風に乗って、透き通った声とどこか懐かしさを覚えるメロディ。
せわしく道行く人々も、思わず足を止めて聞き入ってしまいそうな、そんな歌だった。
パチパチパチパチ。
2曲歌い終わって、少年少女たちから惜しみない拍手が送られる。
「どうもありがとうございますー」
子供たちの拍手に、照れ笑いを浮かべながらうれしそうな顔のファル。
「やっぱり先生、すごい!」
一番近くで聞いていた、彼女のひざの中の少年が尊敬の眼差しを彼女に向けた。
同時に、やはり憧れの目で少女たちも声を上げる。
「ねえねえ。私も大きくなったら先生みたいに上手になれるかなぁ?」
「がんばってたくさん練習すればなれると思いますよ」
にこやかに答えるファルに、少しだけ年長の少女が不思議そうな顔をして、
「ファル先生もやっぱりたくさん練習したの?」
「もちろんです。というより、私の場合はそれしか取り柄がなかったのでー……」
「そんなことないよ!」
冗談っぽく答えたその言葉に、子供たちが真面目な顔で反論した。
「先生ってお歌だけじゃなくて、優しいし、すごく美人だもん!」
「あはは……どうもです」
やはり照れくさそうにすると、
「では、ほめられてしまったので、調子に乗ってもう1曲歌っちゃいますよー」
ワァッ、という、子供たちの歓声が上がって。
ファルはゆっくりと目を閉じた。
ほんの少し、先ほどまでとは雰囲気が変わって。
長い髪が春風に泳ぐ。
「~……~……」
そして流れたのは、少し悲しげなメロディだった。
「~……~……」
目を閉じ、歌の主人公になりきっているかのようなファルに、はしゃいでいた子供たちもやがて静かになった。
ポカンと口を開けて見上げるひざの中の少年。
じっと黙ったまま耳をそばだてて聞き入る少女。
途中から少しだけ瞳を潤ませ始めた年長の少女。
やがて歌が終わると、
「……ね、先生?」
子供たちから浴びせられたのは賞賛ではなく質問だった。
「はい。なんでしょうか?」
「今のはどんなお歌なの?」
そう問いかけたのは年下の少女。
どうやら歌の内容が彼女にとっては難解だったらしい。
それに対し、ファルよりも先に年長の少女が答えた。
「お別れの歌、だよね?」
「はい。正解ですよー」
ファルはそう言ってうなずいた。
「これは、大事な人とお別れする悲しさと寂しさを歌った歌なのです」
「お別れ?」
ひざの中の少年が不思議そうな顔で見上げる。
「だから先生、泣きそうになりながら歌ってたの?」
「え。……そーですね」
指摘されたのが意外だったのか、ファルはちょっとだけびっくりした顔をしてから、
「ちょっとだけ昔のことを思い出してしまいまして」
答えてから、やはり照れたように笑った。
「先生も誰かとお別れしたの?」
そう言ったのは年下の少女。
ファルはゆっくりとうなずいて、
「はい。とても大事な方とお別れしたことがあるのです」
「先生、泣いた?」
その問いかけに、ファルはうーんとうなって、
「いえ。本当は泣きたかったのですが、その方の前では泣かないようにしました」
「どうして?」
「それはですねえ……」
少女の問いに、ファルは少し難しそうな顔をしながら、
「えっと、泣いてお別れしてしまったら、その人が安心できないかな、と、そう思いまして。グッと我慢したのです。結局、後でひとりになったときにたくさん泣いてしまいましたけどね」
「ふぅん?」
よくわからない顔で少女が首をかしげる。
そこへ、ひざの中の少年が身を乗り出して口を挟んだ。
「ねえねえ! それじゃあ先生が悲しくならないように、ボクが先生のおヨメさんになってずっと一緒にいてあげるよ!」
「うーん。おヨメさんですかー……」
と、ファルは困った顔をする。
「馬鹿ねー」
そこへ、年下の少女が口を挟んだ。
「男の子はおヨメさんじゃなくておムコさんなの」
「え? そうなの?」
少年はびっくりしたような顔をして、
「じゃあ、おムコさん! いい!?」
「ダメよ、そんなの」
そこへ口を挟んだのは年長の少女だった。
「ファル先生にはちゃんと、心に決めた人がいるんだから」
「こころにきめたひと……?」
よくわからない顔で少年が首をかしげる。
「先生? そーだよね?」
「え? ……そうですねー」
ファルはあいまいな笑顔を浮かべた。
「えー、だれなのー?」
「決まってるじゃない。そんなのー……」
少年の問いかけに、年長の少女がそう言って。
ふと、その視線がクルッと振り返る。
「あ、来た! 先生っ!」
気付かれたようだ。
少女がこちらに向かって手を振ってくる。
「カーライル先生! こっちこっちー!」
「あー……」
その声で全員、遠くで眺めていた俺の存在に気付いてしまった。
どうにも『先生』って呼ばれ方は背中がむずがゆくなって仕方ないのだが、ひとまず呼ばれるままに子供たちのところへと向かうことにした。
「カーライルさん? 神父様の御用は終わったんですか?」
ファルも笑顔のまま、盲目の瞳をこちらに向けてくる。
「ああ」
駆け寄ってきた子供たちに手を引かれ、なかば強引にファルの座る木の陰まで連れてこられた。
「子供たちにあまり危ない遊びを教えないでくれって説教喰らったよ」
「……あはは」
ファルが苦笑すると、俺はそんな彼女の動き、表情に少しだけ見とれてしまう。
仕草を別にすると、外見的にはもう子供っぽいところはすっかりなくなってしまっていて。
3年。
俺がこいつと出会ってから、すでにそれだけの月日が流れていたのだ。
あの日――目を覚ました場所は、見覚えのない薄暗い部屋のベッドの上だった。
後から聞いたところによると、そこはレベッカの奴が懇意にしている医者の家で、最初から俺が運び込まれることが予定されていたらしい。
相変わらず準備のいい奴で。
もちろん医者といっても、あいつと親しいことからわかるように真っ当な医者などではなく――だからこそ、俺みたいな色んな意味でのお尋ね者でもかくまってもらえた。
俺の容体は結構危なかったらしい。
俺自身、気を失う直前におそらくダメだろうなと感じていたぐらいだから、当然と言えば当然だろう。
むしろ助かったことの方がいまだに不思議なぐらいで。
ファルは俺が意識を取り戻すまでの間、ずっとベッドの横で泣きながら看病を続けていたらしく、意識が戻ったときには、寝不足だか泣き疲れだかよくわからない顔になっていた。
少し動けるようになってから、左腕が途中からなくなっていることに気付いたが、それ自体は大した問題でもなく。
腕の1本ぐらい盲目に比べればそれほどのハンデでもないし、こいつの手を引いてやるには右腕があれば十分だったから。
そして体が動くようになるとほぼ同時に、俺たちは町を出ることになった。
幸い、俺が診療所に送り続けていた金がレベッカを通してファルの手に渡っており、治療費を払っても当座の資金にそれほど困ることはなく。
ただ、結局そのレベッカには会えずじまいだった。
どうしても会いたくて去り際にほんの少しだけ探ってみたが、前の家もすでに引き払っており。
俺の行動を読んだ上でわざと姿をくらませたのだとしたら、自由に動くことのできない俺の力で探し出すことは到底不可能で。
あいつに聞きたいことは、まだ山ほどあった。
意識を失っていた間、あいつは自分の行動の理由を『罪滅ぼし』だとファルに語ったらしい。
その言葉の意味はその時点ではまったくわからなかったが、最近になって、あるいは、と想像するようになった。
すでに薄れかけた最初の記憶の中。
そこに俺の両親とともに確かに存在していた、俺にとってはあまりにも印象の薄い年上の少女。
それがあいつだったのだとしたら――なんて。
それらはすべて憶測に過ぎないし、そうだとしたら出来すぎている。
ただ、もし再び会うことがあったなら、そのときは試しに名前でなく、もっと一般的な呼び方であいつのことを呼んでみようかと思っている。
憶測が事実だったとするなら、きっとあいつの驚く顔が見られるに違いない。
もちろん礼も言わなきゃならないだろう。
たとえあいつの言う『罪滅ぼし』が俺の憶測通りだったとしても、あいつにはなんの罪もないはずだった。
そのころはあいつだってなんの力もない、ただの子供でしかなかったのだから。
手を差し伸べたくても、それが許されない立場だったのだから。
……旅は1年以上にも及んだ。
学もなく、人脈もない。俺は片腕を失っていたし、旅のパートナーは盲目。
途中には数え切れないほどの困難があった。が、今はもうそれについてわざわざ考えることもないだろう。
この町にたどり着いて、この教会の神父と出会い、そして孤児院を兼ねるこの場所でファルと共に子供たちの面倒を見ることになったのが、やはり1年前。
孤児院を毛嫌いし、あんな仕事をしていた俺には最も似合わない職業だと思ったが、こいつに言わせると、
「たぶん、天職だと思いますよ」
だそうだ。
同じ孤児だったとはいえ、かなりねじ曲がっていた俺に子供らの気持ちが理解できるかどうか不安だったが……まあ、今のところは上手くやれてると思う。
神父たち老夫妻には今日のようにときどき説教を食らうが、関係は比較的良好。子供のいない彼らは、俺のことをまるで実の息子のように扱ってくれる。
今までやってきたことをすべて告白して、彼らがそれでも俺を受け入れると言ってくれたときは、不覚にも涙が込み上げた。
まあ、そんなこんなで、なんというか。
月並みな言葉で言うと、今は『幸せ』だ。
受け入れることをためらってしまうほどの安らぎ。
生活自体は決して楽じゃないし、子供たちの面倒を見る以外にも色々仕事があって大変ではあるが、それでも。
俺はかつてないほどの安らぎを、ここで感じているのだ。
「……ね、ファル先生。先生はカーライル先生と結婚するんだよね?」
「えぇ、そうなのー?」
子供たちの話は、どうやらさっきの続きらしい。
そういう内容だったからこそ、俺は巻き込まれないように遠くから眺めていたのだ。
「うーん」
子供たちの言葉に、ファルは笑顔のまま少し考えて、
「そうですね。そうなったらいいですねー」
「ならないの?」
不思議そうに首をかしげる少女。
「ええ、それは」
その問いかけに、ファルは微笑みながら、
「カーライルさんのお心次第ですからー……」
「……」
それは決して、子供たちに対するリップサービスなんかじゃなく。
俺はいまだに慕われているようだった。
こいつはもう、俺の庇護下にはない。
神父たちという新たな保護者を得て、もう俺に頼り切らなくても生きていけるはずだ。
それなのに。
ここでの1年間の生活。
俺の手を離れてからの、こいつの態度。
……なにも変わっていなかった。
「私は、ですね」
神父に呼ばれ、そばにいた子供たちが全員いなくなる。
どうやら勉強の時間らしい。
「ん?」
ほんの少し出来た、静かな空白の時間。
涼やかな風の中、ファルは俺を見上げていた。
月日が流れるにつれ、こいつは当初の期待をひとつも裏切ることなく、当たり前のように美しく成長していく。
もう、子供だ子供だと一蹴することも難しくなってきた。
「カーライルさんのおそばに一生お仕えできるなら、きっとこれ以上ないほど幸せだと思うのです」
「……」
だから最近は、そうなったらそうなったでいいのかもしれない、とも考えるようになった。
こいつがいなければ、今の俺の幸せはなかった。だから、もしも俺がこいつを幸せにしてやれるのなら、ためらう理由なんてないんじゃないか、と。
相手がこいつなら、たぶん俺もそれなりの態度で応えてやることが出来るはずだし。
……ただ、
「別に召使いを雇う気はないんだがな」
今はまだ。
まだもう少し慎重に様子を見ておこうと思っている。
もしかしたらこの新天地で、新しい生活の中で、もっとこいつにふさわしい相手が現れるかもしれない。
他の人間と見比べて、俺の嫌なところや未熟なところに気付いて愛想を尽かすかもしれない。
……いや、それもあるいは、結論を先延ばしにするための口実でしかないのか。
詰まるところ、俺は自分に自信が持てないだけなのかもしれない。
「召使いでも、構わないですよ」
それでもにこやかにそう答えるこいつは、もうずっと以前から心を決めているかのようで。
「ただ、おそばにいられることが幸せなんです。……あ、と言いましても、その」
言ってから、少しだけためらうと、
「カーライルさんが他の方とご結婚なさったりしたら、ちょっとぐらいは泣いちゃうかもしれないですけどー……」
「……」
無言の俺に、ファルは慌てたように付け加える。
「で、でも、ひと晩ぐらいです! その後は、ちゃんと祝福できますから!」
「……アホか」
真顔でそんなことを言うこいつが、俺にはおかしくて仕方がない。
それこそ余計な心配というものだろう。
こいつを受け入れることさえためらう俺が、他の女を愛することなんてできるはずもないのだから。
だが、
「……私の中では、カーライルさんはものすごいハンサムさんで、きっとものすごく女性にモテるはずなんです」
ファルは目を閉じて、緩やかな風に髪を小さくなびかせながらつぶやくようにそう言った。
「ほう」
おもしろそうなので聞いてやることにする。
「ですからきっと、私と並ぶと月とすっぽんだったりするわけです」
「月とすっぽん、か」
あまり異性間で使う表現じゃない気もする。
それに、もしそういう表現を使うとしたら、どちらかというとこいつが思ってるのとは立場が逆だろう。
「なので、その……」
言ってからやはり少しためらいつつも、ファルは人差し指、中指、薬指の3本を俺の目の前で立ててみせた。
「特典付き、ってことでどうでしょう?」
「……特典?」
怪訝な声を返してやると、
「はい。……その、本当なら私だけを見て欲しいのですが、それはたぶん、カーライルさんにとってはとても難しいことだと思いますので」
「……」
もしかしてこいつは、俺のことを好色家かなにかと勘違いしてるんじゃないだろうか。
俺はそういった関係はかなりきちんとしている方なのだが。
「そこで、これです」
そんな俺の思いもよそに、ファルは先ほど立てた3本の指を、俺の目の前で強調してみせる。
「もしも私をもらっていただけるのでしたら、3回までは見て見ぬフリを」
「なにが」
なんとなく想像できるが、あえて聞き返すと、
「え……あ、ですから、その」
ちょっと困ったような顔をしながら、ファルは答えた。
「3回までは浮気をしても絶対に文句を言わないということで……どうでしょうか?」
「……」
どうでしょうか、じゃない。
(……アホだな)
3年経っても治らないのだから、やはりこいつはいつまでもこのままなのだろう。
ま、今となっては、それはそれで……という気がしないでもないが。
「……う」
俺が無言だったのを勘違いしたのか、ファルは少し泣きそうな顔で震えながら親指と小指を広げて、
「じゃ、じゃあ……5回で……」
「その5回ってのは」
俺はまじめな声で聞き返してやった。
「文字通り5回なのか。それとも5人ってことか?」
「えっ……えっと、5人だと、私は6分の1ってことですよね……?」
自分で言って、勝手に悲しそうな顔をしている。
そして少し考えた末、
「うぅ……ぐすっ……じゃ、じゃあそれで――……」
「……あのな」
涙ぐむぐらいなら言わなければいいものを。
そもそも、俺はそんなに器用な人間じゃない。
(……ったく)
しゃがみ込む。
「え?」
俺の行動に気付いたファルが、不思議そうな顔になった。
そして次の瞬間。
「……わ! カ、カーライルさんっ!?」
「暴れるな」
飛び跳ねそうになった小さな体を抑え、右手で軽く頭を抱いてやる。
心なしか以前よりも柔らかい感触を腕に感じつつ、そっと目を閉じた。
……悪くない。
いや……たぶん、俺にはもったいない。
「俺なら、絶対に許さないよ」
「……え?」
ゆっくりと目を開けて言った。
「お前の旦那になる奴が浮気なんかしようもんなら、腕の1、2本はへし折ってやる」
「……?」
ファルは一瞬、理解できないというような顔をしたが、
「……あっ、あああああの! それってどういう!?」
「そのままの意味だ」
ポンと頭を叩いて、離れようとする。
だが、ファルは俺の服のすそをつかんで、
「そっ、そのままと言われましても! つまり、その、喜ぶべきなのか、それともガッカリするべきなのかという、もっとも重大な部分がはっきりしてないわけでして!」
「好きなように想像しておけ」
それでたぶん、大きく間違ってはいない。
「す、好きなように……」
ほうけたようにつぶやくと、その頬に少しずつ赤みが差してくる。
……なんとなく付け加えておきたくなった。
「想像するだけならタダだからな」
「うぅ……カーライルさん、意地悪です……」
不満そうに言って、すねた顔で俺を見上げる。
「……」
なんといえばいいのか、こう――以前に比べると色々とやりづらくなってしまった。
推定年齢もとっくにボーダーラインを越えてしまったようだし、正直な話、たまに心穏やかでいられないときがあるのも確かなことで。
転機は、そう遠くない未来に訪れるのかもしれない。
……ひゅぅ、と。
風が吹く。
「カーライルさん」
「なんだ?」
澄み切った青空。
燦々と輝く太陽。
子供たちのはしゃぐ声と。
風に揺られながら微笑む彼女がいて――
「現実って、意外とメルヘンチックですよね?」
「そうか?」
「はい」
ニッコリと笑って、そしてファルは言った。
「私にとっては、カーライルさんに出会えたこと自体がメルヘンなのです」
「……」
言われてみればそんな気もしてくる。
陳腐な言い方になるが、数え切れないほどの人間がいる中で、俺とこいつが出会う確率なんてどれほどのものだっただろうか、と。
そう考えてみれば、確かにこの世は意外にメルヘンであふれているのかもしれなかった。
もちろんそれ以上に、辛いことも苦しいことも存在してはいるけれど――。
(けど、ま……)
こんなのも悪くはない。
澄み切った青空。
燦々と輝く太陽。
子供たちのはしゃぐ声と。
風に揺られながら微笑む彼女がいて。
もう目を閉じる必要はなかったし、耳を塞ぐ必要もない。
バチが当たりそうで、自らを不幸だと自嘲することさえ出来なくなった。
「なあ、ファル」
言って、俺はファルの隣に腰を下ろした。
額に手をかざし、青々とした天空を見上げる。
「はい?」
「近いうちに、少し遠出しようかと思ってる」
「え?」
ファルはきょとんとした顔をした。
「神父にはもう許可をもらってあってな。生活も落ち着いてきたし、そろそろ行っとかなきゃならないと思ってたんだ」
「……あ」
どうやら俺の言いたいことがわかったらしい。
「かれこれ15年ぐらいにもなるからな。そろそろ顔出ししとかねーと」
「……そーですか」
ファルは黙って、何事か考えているようだった。
「なんだ?」
問いかけると、ファルはなにかためらっているようだ。
ひざの上に置いた手の指が少しせわしない動きを見せて、
「あ、あの……それって、私がついていったりしても大丈夫でしょうか?」
「なに?」
少し驚く。
「あのな。遠出っつっても、せいぜい半月ぐらいで……」
「あ、あの! 別に寂しいからとかそーいうことではなくてですね!」
指の動きが止まり、顔を真っ赤にして俺を見上げる。
「その、ご、ご挨拶をしておかなければならないかと思いまして――」
「はあ?」
なんの挨拶だ。
まったく理解できない俺に、ファルは意味不明の身振りを加えながら、
「つ、つまりですね! 私はその方にとって、カーライルさんを奪ってしまった憎き恋敵みたいな感じなわけでして! 御報告とお詫びをしなければ……」
「……違うだろ」
まだなにも奪われてないし。
ついでに言うと、恋敵ってのもかなり違う。
「い、一応、面通しをしておくべきかと!」
「お前、たぶん面通しの意味がわかってない」
それは犯人を割り出すための手段だ。
「うぅ……」
どうやら違う理由があるらしい。
相変わらずわかりやすい奴だった。
「なんだ?」
「そ、その……」
やはりためらって。
それからギュッと俺のそでをつかんで、言った。
「カ、カーライルさん、ちゃんと私のところに帰ってきてくださいますか……?」
「……」
思わず無言を返すと、ファルは心配そうな顔で、
「そ、その、どーしても不安で! 私、いまだにカーライルさんにご迷惑をかけてばかりですし、もしかしたらまたいつの間にか嫌われてるんじゃないかとか、愛想を尽かされてどこかに行ってしまうんじゃないかとか、散々もてあそばれた挙げ句に飽きられて手酷く捨てられてしまうんじゃないかとか!」
「……おい」
どうやら錯乱しているらしい。
「余計な心配するな」
ため息をついて。
自然と浮かんできたのは、やはり苦笑だった。
「最後のはともかく、他のはまったく心配する必要はない」
「さ、最後のはともかく!?」
顔に縦線が入った。
……ま、冗談はおいとこう。
「そうだな」
考えてみればそれもいいのかもしれない。
今までのことをすべて報告して。
ずっと顔を見せてやれなかったことを詫びて。
最後にこいつのことを紹介しよう。
あいつがどう思うか、それはわからないが。
「じゃあ神父たちの許可がもらえたら、一緒に行くか」
「ほっ……ホントですかっ!?」
「ああ」
たぶん祝福してくれると思う。
ああ……そうだ。
それまでに色々と決心しておくのもいいかもしれない。
こいつのこととか。
これからのこととか――
ひゅぅ、と風が吹いた。
空はどこまでも澄み切っていて。
「カーライルさん」
遠くが騒がしい。
どうやら勉強に耐えられなくなった子供たちが、逃げ戻ってきたようだ。
「……ん?」
決して優しくはなかったこの世界の中で。
長い長い暗闇をさまよい歩いて、ようやく手に入れた。
「私、あなたと出会うことができて、本当に幸せです」
見慣れた、掛け替えのない笑顔。
「……ああ」
俺も、そうだ。
疫病神だった少女は、いつの間にか幸せを運ぶ女神へと姿を変えていたのだ。
「青虫がアゲハチョウになるのよりひどいな……」
「?」
「いや、なんでもない」
ひゅぅ、と。
もう一度、風が吹いて。
「きゃー! 先生、助けてーっ!!」
「お、おい……ふたりとも! 頼むからその子達を捕まえてくれっ!!」
駆け寄ってきた子供たちと。
息を切らしながら追いかけてきた老神父。
「さて。休憩時間も終わりだな」
「……はい。そうみたいです」
クスッと笑って。
俺はその小さな手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
そこから感じる温もりは、きっとこれからも俺を支え、励ましてくれるだろう。
この世界がどれだけ冷たかろうと。
この先どんな苦難があろうとも。
それだけは絶対に、二度と手放すことはない。
そして。
幸せで騒がしい日が、また続いていく――