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或る小悪党の苦悩  作者: 黒雨みつき
その6『傾く天秤』
25/29

暗転


 ――賽は、投げられた――


 この手に預けられたそれは、実際よりもはるかに大きな重みを私に感じさせていた。


 見慣れたはずの部屋がいつもより広く感じる。


 そして思い出す。

 あの子が今朝、見慣れない地味な髪留めをしていたことを。


 ……正しい選択だ。


 あれならば贅沢だとののしられることも、ねたまれて奪われる可能性も低い。


 他人からどう見えようと、あの子にとってのそれの価値はなんら変わることはなくて。


 もしも絶望に満ちた世界に身を投じることになっても。

 願わくばそれが、彼女の支えになってくれますように――


「……さて」


 太陽は西に傾きかけている。


「そろそろ、行くとするか」


 そんなに急ぐ必要はないけれど。

 私にも少々心の準備が必要な気がしていた。






 今夜の空気は少し肌寒い。


「ふぅ……」


 舞台で演じられる感動的な物語のそれとは違って、現実の別れは拍子抜けするほどあっさりしたものだった。


 あれからちょうど1年。

 いや、正確にいうとあと2、3日はあったはずだが、それだけの日をほぼ毎日一緒に過ごして。


 そしておそらく二度と顔を合わせることはない。


 別れる瞬間のファルは、さすがに泣きそうだった。

 たぶん笑顔を浮かべようとはしていたのだろうが、それでもぜんぜん笑えてなくて。


 結局、俺もあいつも面と向かって『サヨナラ』を口にすることはなかった。


「ふーぅ……」


 なんとも言えない気分だ。


 さみしいような。

 ホッとしたような。


 もちろん、まだすべてが終わったわけじゃない。

 それでも、これで――


 達成感とともに、頭上を見上げる。


 雲ひとつない、キレイに晴れ渡った夜空。

 ぽっかりと浮かぶ、丸い月。


 ……パチパチという火の爆ぜる音と、赤く染まる――


(っ!)


 違う。

 頭を振ってその情景を吹き飛ばした。


 火の爆ぜる音なんて聞こえない。

 空は今も真っ暗なままだ。


 たまたま似てるだけ。

 あの日とはまったく違う。


 だって俺は、今度こそうまくやったのだから。


(そう。すべてうまく行ったんだ)


 あとは、俺がヘマすることなくこの町から姿を消すことさえできれば、それですべて解決だ。


 もちろん、しばらく不自由な生活を強いられることにはなるだろうけども。


『~……』


 学舎へ送り届ける道中、あいつが何度も口ずさんでいた歌を思い出す。


 たぶん、別れの歌だったのだろう。

 どことなく、いつもよりも悲しく聞こえるメロディだった。


『私、カーライルさんのこと、忘れません』


 別れぎわ、あいつが再び口にしたその言葉。


『絶対に忘れませんから、だからカーライルさんも――』


(忘れない、か)


 その言葉を深く胸に刻み込む。


 俺だって、おそらく忘れることはできないだろう。


 あわただしい仕草も。

 あどけない笑顔も。

 そしてあの歌声も。


 それらはきっといつまでも、どこか心の奥底に。


 大事に綴じて――


(……?)


 思わず。

 ピタッと、足が止まった。


 冷たさを増す、夜風の中。


(……なんだって?)


 ふと覚えた、とてつもない違和感。


 ……耳の奥底で、火の爆ぜる音が聞こえる気がした。


(忘れない? ……忘れない、だって?)


 おかしい。


 計画を急ぐことで頭がいっぱいだったせいだろうか。

 今の今まで疑問にも思わなかった。


 だが、よくよく考えてみるとあいつのその言葉はどこかがおかしい。


 だって、そんなはずがないのだ。

 忘れるはずなんてない。


 ……いや、違う。


(なんだ、それ……)


 急に襲いくるのはとてつもない不安。


 あいつは俺がまた、近いうちに会いに来ると信じているはずだった。


 昨日、何度もそのことを誓わせて。

 また会えると信じているはずなのに。


 あいつはどうして繰り返したのだろうか。


『忘れない』

『絶対に忘れない』


 そんな言葉は本来必要ないはずなのに。


 本当に会えると思っているのなら。


 本当にそれを信じているのなら、そんな言葉は必要ないんじゃないのか――


「……っ!」


 激しい悪寒に襲われ、俺は思わずその場にしゃがみこんだ。


 頭が痛い。

 頭の奥で。

 パチパチと。


 俺はもしかすると、とんでもないあやまちを犯してしまったのではないだろうか?


(冷静になれ……冷静に)


 深呼吸する。

 とにかく落ち着いて、頭を働かせた。


 ……もしかして、あいつは二度と俺に会えないことを知っていたのだろうか?


 もし――もしも、だ。本当にそうだったと仮定するなら、どんな状況が考えられるだろう。


 まず確実なのは、少なくとも俺はそんなことを一言も口にしてはいないということ。


 たとえあいつが俺の言葉の端々からそれを感じ取っていたとしても、そこまでの確信は得られていないはずだ。


 だとすれば、どうして?


 ……思い当たることがひとつあった。


(レベッカ――)


 彼女がなにかをしゃべった可能性しかない。


 じゃあ、なぜそんなことをしゃべったのか――?


 ……マズイ。

 はっきりとはわからないが、とてつもなくマズイ気がした。


 これまで組み立ててきて、そしてうまくいったと思い込んでいたすべてが反転しようとしている。


 すべてが悪い方向に。

 取り返しのつかないことに。


 あの日のように――。


「くそっ……!」


 俺は身をひるがえした。


 俺の知らないところでなにが起きていたのか、今の時点ではっきりとはわからない。


 けど、今はとにかく急いでファルの元へ戻るべきだと思った。

 ゆっくり考えるのは、それからでもいい。


 地面を蹴って。

 3歩、4歩、5歩――


 人影が俺をさえぎったのは、そのときだった。


「カール」

「っ……」


 立ち止まって、目の前に現れた人物の顔を確認する。


「どこへ行くつもりなんだ、カール?」

「レベッカ、お前……」


 予想通り、その人物はレベッカだった。

 そして疑念が確信へと変わる。


 この時間のこいつは仕事中か、あるいは家で俺たちの帰りを待っているかのどちらかのはずだった。


 仕事中に偶然出会った――この状況で、そんな偶然が起きる確率はゼロにも等しい。


 とすれば。


「どういうことなんだ、レベッカ!」


 迷いなく俺は彼女を詰問した。


 こいつはすべての事情を知っている。

 間違いなくそう確信できたから。


 だが、


「なにがだ、カール?」


 レベッカはいつもと変わらぬ態度だった。


「なにが不思議なのか、私にはわからない」

「ふざけるな!」

「ふざけてなんてないけど。……ああ」


 そして思い出したように、つぶやく。


「君があの子を送ってくれたんだったか。そのぐらい私がやってあげてもよかったのに」

「……なんだって?」


 その言葉は、まるで鈍器のように俺の頭を打った。


 視界がグラグラと揺れる。

 めまいがした。


「なにを言ってるんだ、お前……」

「情報ってものを甘く見すぎたな、カール」


 レベッカは平然としたまま、片手を腰に当てて。

 そして真っ向から俺に視線を合わせた。


「その道に関してはシロウトに毛が生えた程度の君が、そう簡単に相手の本当の姿を見抜けるはずがないじゃないか。ましてやこの私を出し抜いてなんて、ね」

「……なんだって?」


 徐々に形を成していく。

 最悪の可能性。


 そして、


「少し期限には早かったけど、君と私の契約はほぼ完璧に履行された。つまり『商品』は君の手で無事に『買い主』のもとへ届けられた。そういうことだ」


 レベッカの声に、全身から力が抜けていく。


「……そんなはずは」


 確かにあの申し出は向こうから。

 しかも突然の話だった。

 タイミングも嫌というほどに絶好だったけれど。


 相手はきちんとした地位と肩書きを持った人物で。

 それが偽物でないことはちゃんと確認できていて。


 だから――


 ……でも。


 レベッカの言うとおりだった。


 そいつに裏の顔がないと、どうして断言できるのだろう?

 少なくとも俺は、そういった事例をいくつも知っていたはずで。


「君は自分で口グセのように言っていたじゃないか」


 呆然とする俺に、レベッカはふうっとため息を吐いて近付いてくる。


 1歩、2歩……


「この世界はいつも非情で、奇跡のどんでん返しなんて絶対に起こらないんだ、って。そんな君がこんな簡単なカラクリにも気付けないとは」

「っ……!」


 地面を蹴る。

 だが、それをさえぎるようにレベッカが立ちふさがった。


「どこに行くつもりだ、カール?」

「どけ、レベッカ」


 明確な敵意を込めてレベッカをにらみ付ける。


 だまされた。

 だますつもりが、逆にだまされていたのだ。


 もちろんこの怒りは理不尽なものだ。ただ、だからといって抑えることができるわけでもなかった。


「無駄だよ」


 だが、そんな俺のむき出しの怒りにさらされても、レベッカはなにひとつ動じることもなく。


「今から戻ったところで、君はあの子を見つけることはできない。できたところで」


 小さく、笑みを浮かべた。


「君には、あの子を取り戻す力なんて、ない」

「……貴様ァッ!」


 反射的に体が動いた。

 えり首をつかんで、予想以上に軽いその体を近くの家の壁に押しつける。


「っ……」


 レベッカはかすかに苦悶の声を上げた。


「貴様は……なにを考えてるんだ! どうしてそうまでしてあいつを……ファルを……っ!」

「どうして、だって?」


 だが、口調は変わらない。


「私はただ契約を履行しただけだ。この選択をしたのは私じゃない。君だ」

「この……!」


 頭に血がのぼる。

 力が入って、そのままレベッカのえり首を絞めていく。


「っ……カール」


 レベッカは少し苦しそうにしながらも、その視線はまっすぐに俺を射抜いていた。


 抵抗の気配もなく。


「殺したいのなら殺すがいい。私はそれでもかまわない」

「なんだと……?」

「君に殺されるのなら……私はそれで納得できるんだ」

「……!」


 その言葉と視線が、なぜだか俺を激しく動揺させた。


 ……嘘だ。


 そんな言葉が本気であるはずはない。

 そんなはずはない。


 ……なのに。


 なのに、その目を真っ向から否定できない――


「もっとも……君にとってはなんの解決にもなりはしないだろうけどね」

「くっ……!」


 わかっている。

 もともとこいつがしたことは正当防衛にも等しい。


 だまされることがわかって、逆にだまし返した。

 仕掛けたのは俺の方だ。


 それに、こいつをどうこうしたところで状況が好転するわけでもない。


 自然と手から力が抜けた。


「……ふぅ。それに……ね」


 解放されたレベッカは息を吐いて乱れた服を直し、一歩離れた俺をやはりまっすぐに見据えて言った。


「知らなかったのは君だけだよ。あの子はすべて知っていたんだから」

「……なんだって?」


 レベッカの言葉が俺の心を揺さぶり続ける。


 ……さらに気分が悪くなった。


「私が全部話したんだ。君の思惑も、裏の事情も。だからこれは、あの子が望んだ結果でもある」

「バカな……そんなこと――!」

「本当にないと思うか?」


 だが、レベッカはひどく真剣な表情のまま答える。


「契約を破ったら君がどういう状況に陥るかを聞いて、それでもあの子がそういう行動を取るはずがないと、確信を持ってそう言えるのか?」

「……!」


 わからない。


 ……いや、違う。


 あいつが本当にすべての事情を知っていたのなら。

 きっと、おそらくは――


「あの子にとって大事なことは、君のそばにいられるかどうか、ただその一点だけだって」


 レベッカはゆっくりと、少しだけ哀しそうに目を閉じた。


「それなら、どうせ一緒にいられないのなら、君のためになる方を選びたいと。あの子がそう考えたことがそんなにも不自然なことか?」

「……」


 返す言葉が見当たらない。


(……そんな馬鹿な)


 だが最悪なことに、こいつの言葉を裏付ける材料は確かにあった。


『忘れない』


 あいつが何度も口にしたその言葉は、つまり二度と会えないことを知っていたから。


 そういうことなら納得できるのだ。


 昨日、露店で計画を話したときの少しだけ奇妙な反応も。

 昨晩、最後の夜にあんな申し出をしてきたことも。


 絶対に忘れない、忘れないでほしい――と、あんなにしつこく繰り返したことも。


「つまり」


 そう言ってレベッカが懐から取りだしたのは、大きくふくらんだ茶色の封筒だった。


「……これが、あの子の答えだ」


 その先からわずかに顔をのぞかせていたのは、この数ヶ月、懸命に稼いできた金額の数倍はあろうかという紙幣の束。


「借金の分はすでに差し引いておいた。ここにあるのは君の取り分だ。……ほら、受け取るといい」

「っ……!」


 視界がブレた。


 めまい。

 吐き気。


 俺はかろうじてレベッカをにらんだ。


「……ふざけるな」

「ふざけてないよ、カール。これはあの子の、人間としての最後の意思だ。君にはこれを受け取る責任がある」


 その言葉はあくまで淡々としていて。

 それが俺の混乱に拍車をかける。


「そんなもん、受け取れるわけないだろッ!」


 感情のままに払った手が、レベッカの右手を直撃した。

 封筒が宙を舞う。


「……」


 スローモーションのように落ちるそれを、レベッカは横目で追っていた。


「受け取るんだ」


 あくまで無表情に。


「受け取って……そして死ぬまで後悔しろ」


 封筒が地面に落ちる。


「君が選んだんだ。他の誰でもない。君があの子の未来を奪ったんだから」

「違う!」


 そうかもしれない。

 そんなことはわかっていた。


 けど、反論せずにはいられなかった。


「やれるだけのことはやった! けど、どうにもならなかっただけだろッ!」


 そう。

 そうだ。


「少なくともこの4ヶ月は全部があいつのためだった! 俺はあいつのために、仕事も住む場所も捨てるつもりだったんだ! なのに――!」

「全部があの子のため?」


 そんな俺の言葉をレベッカは冷笑で返した。


「見苦しい言い訳もたいがいにするんだ。君にとってのあの子は全部どころか、その半分も満たしていない。そうだろ? なぜなら――」


 言葉が鋭さを増す。


「君はもっと早く、もっと簡単にあの子を救うことができたんだ。でも、そうしなかった」

「……!」


 その言葉の意味に気付く。


「いや。けど、それは……」

「弟の方が大事だった、か?」


 そう言った瞬間。

 レベッカの瞳に明らかにこれまでとは違う、異様な感情の色が生まれた。


 だが、今の俺はそんなことを疑問に思う余裕もなく。


「そんなの……どっちを捨てるとか、そういう話じゃないだろ……」


 そう答える。


 俺はどっちも捨てられなかった。

 どっちも助けてやりたかった。


 ただ、それだけのことだ。


 それが……いけなかったというのか。


「本来なら君の言うとおりかもしれないね」


 レベッカはうなずいた。

 だが、すぐに、


「だけど、君の場合は違うよ」


 また、その瞳が異様な光を帯びる。

 まるで、なにかの決意を秘めているかのように。


「……なぜなら、君があの子と天秤に架けていたのは、君の弟なんかじゃないから。君が架けていたのは――」


 そして一瞬のためらい。


 トン、トン、と、そのつま先がゆっくりと地面を叩いて。


 レベッカは吐き捨てるように言った。


「君が天秤に架けていたのは、君の、君にとって都合のいい、ただの妄想だ」

「……妄想?」


 一体なにを言ってるのだろうか。

 思わず浮かんだのは、困惑の笑み。


「なんの話をしてるんだ、お前……」

「君は――」


 もう一度、レベッカが変化する。

 今度は、今までに見たこともない表情。


 感情の発露。


「君は、この期に及んで、まだ逃げ回るつもりか」

「……!」


 俺が知っている、どの表情でもない。

 何年も一緒に暮らしてきて、初めて目の当たりにした怒りの面。


 苛立たしげに唇をかんで、そして俺を見据える視線は紛れもない憤りに満ちていて。


「……見ろ、カール」


 そしてレベッカは懐から1枚の紙切れを出す。


 くしゃくしゃになったものを、広げ直したような。

 見覚えがあった。


「……手紙、か?」

「そう。毎月、君の弟から送られてくる手紙……だったか。ゴミの中から私が拾っておいたものだ」

「それが……どうかしたってのか?」


 少しずつ。

 頭の奥の痛みが戻ってくる。


 ズキ、ズキ、と。

 視界がブレる。


 ゴクリ、と、のどを鳴らしたのは、俺だったか、あるいはレベッカだったか。


「カール。この手紙にはなにが書いてあるんだ?」


 痛みがひどくなる。

 耳の奥が痛い。


「弟の……近況だ。あいつは毎月そうやって俺に自分の様子を報告してくるんだ」

「近況だって?」


 雲ひとつない夜空。

 ぽっかりと浮かぶ月。


 ……頭が痛い。


 耳の奥でパチパチという音が聞こえる。


「私の目には」


 レベッカは手紙を裏返し、それを見つめて言った。


「ただの白紙にしか見えない」

「……はっ」


 頭の痛みに耐えながら、笑い飛ばす。


「なに言ってんだ? お前、字も読めなくなったのか?」

「……カール」


 レベッカはもう一度、今度はその手紙を俺の眼前に突きつけながら言った。


「目を開けて、よく見るんだ」

「だから、なにを言ってるんだ」


 まったく理解できない。

 何度見たって同じことだ。


 診療所での様子。最近の体調。

 送金に対する礼と、『会いたいから訪ねてきてくれ』という言葉。


 なにもかもが、いつもどおり。


「なんの冗談だ? 俺にはお前がなにを言っているのかさっぱり――」


 その瞬間。


「っ……カール!」


 せきが切れた。

 まさにそんな感じだった。


 それまで懸命に押さえつけていたものが一気にあふれ出したかのような、そんな感情の波。


「いい加減に目を覚ましてくれッ!!」


 レベッカは叫んだ。

 手にした手紙を思いっきり握りつぶして。


 その向こうに見えたのは……今にも泣き出しそうな顔。


 ……ひどく、非現実的な光景。


 これは――現実か?

 それとも――


「っ……!」


 めまいがする。

 体の感覚が少しずつぼやけていく。


 増していく、非現実感。

 夢のような。


 ……いや、もしかしてこれは夢なのか。

 俺は夢を見ているのか。


「思い出せ、カール! あの日も――そう! あの日もこんな夜だったんだろうッ!?」

「あの日……?」


 そう。

 あの日もこんな夜だった。


 ……雲ひとつない、キレイに晴れ渡った夜空。

 ……ぽっかりと浮かぶ、丸い月。

 ……パチパチという火の爆ぜる音と、赤く染まる空―――


「っ!」


 頭が痛い。


 痛い。

 痛い。

 痛い――


「くぅっ……!」

「思い出せ! その日のことをッ!」


 レベッカの声が混乱した頭の中に響き渡る。


 ……浮かび上がる情景。


 燃える建物から逃げ出して。

 ススだらけになって。

 歩けなくなった弟を背負って。


 走った。

 走った。


 そして――


「あいつは……歩けない体になった」


 ドス黒いものがせり上がってくる。


「だから俺は、あいつを診療所に預けたんだ……」

「……」


 レベッカは目を細めた。


 表情が歪んで。

 まつ毛が震えている。


 ……なにかを迷っている。


「……カール」


 そして数秒のためらいの後。

 言葉は少し落ち着きを取り戻して。


 一歩。


 まるで自らの心を奮い立たせるかのように、レベッカは俺に向かって踏み込んできた。


「君に、弟なんてものはいない」

「……?」

「いや、正確には」


 すぅっと息を吸い込んで、


「もう、いない」

「っ――!」


 ひときわ大きな頭痛。


「思い出せ……君は思い出さなきゃならない」


 耳の奥で火が爆ぜる。


「思い出さなきゃ、君はいつまでも前に進めない」

「くぅっ……!」


 全身から汗が噴き出して。

 耳の奥がぼぅっとなって。


 視界が真っ暗になって。


「っ……!」


 ――意識が……遠のく――


 最後に映った光景は――


 雲ひとつない、キレイに晴れ渡った夜空。

 ぽっかりと浮かぶ、丸い月。

 パチパチという火の爆ぜる音と、赤く染まる空――


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