薄氷の想い
――薄氷の上を渡っているかのようだ――
手の平にはじっとりと汗がにじんでいる。
どっちかというと汗は少ない方なのに。
たぶん、緊張していたんだろう。
あの一瞬。
彼のあの一瞬の表情に、私の心臓は大きく跳ね上がった。
彼の胸に根付いてしまった『それ』は相当なものだ。
わかってはいたけど。
難しい。
「あ、レベッカさん」
薄暗い部屋の明かりの中。
その子は笑顔を見せていた。
「カーライルさん、もう行かれましたか?」
「ああ」
「そうですか」
笑顔。
だけどそれは、彼がいたときのこの子とは少し違う。
私と2人だけのときにはちょっとだけ本音をのぞかせる。
その様子は、こんな私の目にも痛々しく映った。
「今日も、終わってしまいました」
ぼぅっと、盲目の瞳で、まるで天井を見上げるようにして、
「最近、カーライルさんの夢をよく見るのです」
「前から見ていただろう?」
「そ、それはそーなんですけど!」
そうやって彼のことを語るこの子は、本当に彼のことを信頼して、慕って……おそらく愛しているのだろうと、そう感じる。
それは多分、この私にも劣らないぐらいに。
……腹立たしい、とてつもなく。
この想いを思いっきりぶつけることができたなら。
それですべてが解決するのなら。
どれほど事は簡単だっただろう。
だけど、今の段階でそうすることはすべての破綻を意味している。
それはできない。
もう少し確率を上げておかなきゃならない。
「夢を見ると、何だか一緒にいられる時間が倍になったみたいで、とても嬉しくなってしまうのです」
「そんなもん?」
「そんなもんなのです」
「ふぅん」
笑顔の裏に懸命に隠した悲しみは、間近に迫った別れを察してのこと。
それをこの子に強いたのは、紛れもなくこの私。
イライラする。
……本当ならこんな手荒なことはしたくなかった。
私だってこの子のことは気に入っている。
もしかしたら、この世で2番目に大切な人間だと言っていいのかもしれない。
だけど、それでも1番目の『彼』とは比べものにならない。
彼は、少なくとも今の私にとっての、すべてだ。
「レベッカさんはカーライルさんの夢を見たりします?」
「私? ……見たことないな」
ウソだ。
私は毎晩のように彼の夢を見ている。
それは決して楽しい夢なんかじゃないけれど。
「私とカールのことが、そんなに気になる?」
「えっ!? い、いえ! そーいう意味では――!」
「私にウソはつかなくていいって。少なくとも君の恋敵だったりはしないから安心していい」
「ち、違いますのにー……」
この子をここに住まわせ続けるのは簡単なことだ。
正直なところ、彼の借金なんて私にとってはどうでもいいことだったから。
でも、それじゃきっと私の願いは叶わない。
この子には可哀想なことになるかもしれない。
けど、これだけはどうしても譲れなかった。
かわいそうだけど、私と彼のために、この子にはひとまず犠牲になってもらう。
その結果がどうなるかは、運を天に任せるしかないけれど。
「レベッカさん……じゃあ、今日も昨日の続き、お願いできますか?」
「ん……ああ」
……あと7日。
彼は私のこの想いに応えてくれるだろうか。
私の長年の願いを叶えてくれるだろうか――。
翌々日は午後から雨模様。
けど、俺にとっては都合の良い雨だった。
夜の闇と雨。
万が一尾行があったきのことを考えると、身を隠すには好都合だ。
俺の行動がすべて読まれているとは思えないが、おとといあんな話を切り出したところを見ると、レベッカはその可能性についてすでに想定済みということだ。
なら、こっちも慎重になる必要がある。
目指す先は、名刺に書いてあったアドレス。
昨日、仕事前にアポイントを取ってある。遅い時間帯だが、仕事の都合だと話すと向こうは快諾してくれた。
もう、俺の胸の内は決まっている。
相手は有名な学舎の学長で、社会的にもしっかりとした地位と肩書きを持っている人物だ。その庇護のもとに入れば、いくらレベッカのヤツでも手を出すことはできないだろう。
それでファルのことは解決だ。
ただ、それはもちろんレベッカとの重大な契約違反で、しかも悪いのは一方的に俺であり。
その状況から考察される俺の近未来はひとつしかない。
堅気っぽくいえば、失職。
ついでにホームレス。
もういっちょ言っておけば、島流しの刑ってとこか。
仕事と家を失うどころか、もう二度とこの町で暮らすことはできなくなるだろう。
だがまあ、それは大した問題じゃない。
もともとなにもないところから出発した。築いてきたものをすべて失ったとしても、この町を出て生活していくことはできる。
少なくとも、あいつを――双子の弟と天秤に架けるほど俺の中に入り込んでしまった少女を、この世の底辺に送ってしまうよりはずっと我慢できることだ。
で、問題はつまりそれ。
弟のことだ。
一時的に失職するってことは、その間は弟に金を送ることができなくなる。
それが最大の問題である。
が、それもなんとかなりそうなのだ。
というのも、レベッカとの契約はこうだったから。
『4ヶ月間、2人分の生活費をすべて貸す。その後、既存の借金と4ヶ月の間に増えた借金をまとめて返す。返せなければファルを売り飛ばす』
つまりこの4ヶ月間、俺が出費したのは弟に送る分の金だけだ。
それ以外の、俺と、そしてファルが歌で稼いできた金はすべて手元に残っている。
レベッカへ返さなきゃならない金額には6割ほどまでしか届いていないとはいえ、決して少ない金額じゃなかった。
もともとはあいつにまとめて返すはずの金で俺のものではないが、それは今この手の中にある。
それをすべて持ち出せば、数ヵ月はしのげる見込みだった。
(レベッカの奴には悪いが……どうせ裏切るんだ。徹底的にやらせてもらう)
まあ、客観的に見て最低の行為だ。
それはわかっている。
あいつは俺を信頼して金を貸してくれていて。
他じゃ考えられないほど長い間返済を待ってくれて。
今まで安定した仕事をやってこられたのもあいつのおかげ。
(……)
ふと冷静に思い返してみると、あいつはその印象とは裏腹に、俺に対してだけはひどく甘かったようにも思えてきた。
(……なんだろうな)
頭を過ぎったのは、この4ヶ月間のあいつの不可解な行動のこと。
今になって考えたことじゃないが、おかしいことだらけだった。
不可解な言動もさることながら。
ただ借金を返して欲しいだけなら、他にいくらでも方法があったように思える。
ファルがこうして稼ぐようになったのだから、4ヶ月という制限さえなければ、時間はかかるにしろ俺の手から普通に返していくことだってできた。
俺の仕事に干渉してきたことだってそうだ。
『無茶して捕まったら、借金が返ってこなくなる』
あいつはそんなことを言ったが、そのときはそれこそ俺に遠慮することなくファルの奴を売り飛ばしてしまえばそれで済む話。
そのぐらいのこと、あいつが気付かないわけもなく。
とにかくおかしい。
おかしすぎる。
まるで……そう、まるで、俺にムリヤリ二者択一の選択肢を押しつけようとしているかのように。
『君にふたつの荷物は重すぎる』
ふと耳の奥で響いたのは、いつかのあいつの言葉。
あいつの真意はやはりそこにあるような気がした。
いや、そうとしか考えられない。
どうしても俺に捨てさせたい。
考えれば考えるほど、借金のことは口実でしかないように思えてきた。
だとしたら、あいつが俺に捨てさせたいのは、どっちなのだろう。
弟か。
それともファルなのか。
(……言えない、か)
あいつの真意を聞きたい。
その欲求が徐々に強くなっていく。
けど、それも今となっては叶わないこと。
どっちにしても、今の俺にはどちらを捨てることもできない。あいつの望みが二者択一の選択である限り、俺の希望と相容れることはないのだから。
「……」
雨の中。
俺は小さく頭を振って、目的の場所に向かった。
――すべてはあの日の想いを遂げるために――
危険な賭けだと理解している。
もしもすべてが上手くいかなかったなら。
崩壊、失望、喪失。
失うモノは大きい。
これは私のエゴなのかもしれないけれど、でも譲れない。
あの薄暗い日々に残してきた、想いを遂げるために。
「レベッカさん。今日もお願いできますでしょうか……?」
「ああ。別に構わないよ」
そろそろ最後の段階。
あと必要なのは。
この子の、真に彼を想う一途な心と。
それを踏み台にするための冷酷な決意。
「カーライルさん、最近は毎日露店に寄ってくださるのです」
「何か買ってもらったのか?」
「いいえ、まだですけどー……」
表情が少し沈んだ。
「その……たぶん、お別れの品だと思うのです」
「……そうか」
「あ、で、でも、その、後悔してるわけではないのです。あのとき、なにもしないでサヨナラするよりはずっと良かったと思いますから」
そう言いながら、顔は泣きそうだった。
おそらくここ数日は、ずっとこの表情を笑顔の裏に隠してきたのだろう。
「私もそう思うよ」
たぶん、私は彼よりもこの子の気持ちを理解している。
……どうしてわかってくれない。
こんなにも、こんなにも一途に想っているのに。
痛いほど理解できてしまう。
それが腹立たしさに変わる。
「ファル」
「?」
「大事な話があるんだけど」
「え……?」
最終段階。
これから口にする私の嘘と真実は、きっとこの子の心を動かすだろう。
あとは、ただ待つだけだ――。