隠しごと
次の日。
(あと7日……)
「~」
今日も晴れ。
ただし昨日と違って風があり、いくらか涼しい。
「~……」
ファルの伸びやかで澄んだ声は、今日も道行く人々の足を止め、耳を傾けさせて。
「~~」
本日最後の歌は、明るく陽気で、希望に満ちあふれた曲。
それに合わせ、歌声も明るく弾みながら聞き手の鼓膜に心地よい刺激を与えていく。
(希望に満ちあふれた曲、か)
刻一刻と迫り来る終焉の時を目の前にしてもなお、こいつの歌声はかげらない。それどころか、日々強さを増しているようにさえ思えた。
「……ファル」
いつもの路上コンサートが終わって。
「はい?」
タオルで汗を拭きながら、ファルは不思議そうにこちらを見た。
今日は長くとどまる常連もなく。
「今日も、寄り道してくか?」
「あ……はい!」
明るい返事だった。
「なんだか最近は涼しくなってきたです」
相変わらずにぎわうメインストリート。
「あと1ヶ月もすれば、きっとお外で歌うのも楽になりますね!」
「ああ。……そうかもな」
意識したのか、あるいは無意識だったのか。
……意識してないはずはない。
こいつだって現状は理解しているはずだった。
これまでに集まったのは、目標額の6割程度。
3ヶ月半以上が過ぎてようやく6割だ。
それが何を意味するのか、こいつにだってわからないはずはなかった。
「あ、でも冬になったらもっと厳しいかもですね」
それは現実逃避なのかもしれない。
だが、こいつは別にそれでもいい。
あと7日。
絶望に打ちひしがれて湿っぽくそのときを待つよりは、こうして明るく過ごしていた方が何倍も有意義に違いない。
現実を見つめて、そして判断するのは俺の仕事だ。
(判断、か)
3ヶ月半前の俺の判断。
それが正しかったのかどうか、まだ答えは出ていない。
けど。
(間違ってなかった、と思いたいな)
右手でファルの手を引いて。
左手はポケットの中。
堅い紙の感触が指先に触れる。
(どんでん返し……とはいかないまでも)
そこにあるのは、数日前に手にした最後の希望だった。
レベッカにも知られてない、最後の希望。
『……私はこういう者だが』
路上コンサートが終わった後、俺に突然話しかけてきた初老の男。
『あの子を私に預けてみないか?』
手にした名刺は、この町にある有名な音楽関係の学舎のもので、男はそこの学長だと名乗った。
それからの数日は仕事を休んで情報を得ることに費やし、裏付けを取ることができた。
男の語った素性がどうやら真実であり、さらにはその申し出が気まぐれなどではなく、今までにも才能のある子供を支援してきた人物であるということも。
それは予期してなかった奇跡的な幸運。
あとは俺が決心して最後の判断を下すだけのことだった。
「なにか欲しい物はないのか?」
露店を歩いていても、目の見えないこいつは自らそれらを見ることができない。だから興味を引きそうなものを俺が見つけ、それをこいつに触れさせてみる必要があった。
だが、
「今日は、いいです」
昨日に続き、今日も興味を引かれるものは見つからなかったようだ。
「そうか」
俺はうなずいた。
まだ7日ある。
無理に急がせることもないだろう。
あるいはこいつも気付いているのか。
俺が選ばせようとしているそれが、別れの品であるということに。
「それなら、今日は帰るか」
「あ……」
手にしていたブローチを店先に戻すと、ファルは俺の腕を両手でギュッとつかみ、それから俺を見上げた。
「その……もう少し一緒に歩いていただけませんか?」
「そりゃ家までは一緒に行ってやるが」
「そ、そーいうことではなくてですね!」
不満そうな顔をして、
「もう少しだけお散歩したいというか、お話をしたいというか……」
そう言うと、それを主張するかのようにさらに俺に体を預けてくる。
恋人同士か、そうでなければ親子のような距離。
「お前、自分がさっきまで汗まみれになってたことを忘れてないか?」
「っ!」
ハッとした表情で、弾かれたように体を離すファル。
それからアタフタと顔を真っ赤にしながら、
「ごっ、ごめんなさいっ……!」
「……」
予想通りの反応をするこいつが、妙におかしかった。
「悪い。冗談だ」
笑いながら言うと、ファルは驚いた様子で、
「え?」
「前にも言っただろ。お前の汗の匂いなんて別に気にしない」
「あっ……」
その言葉を証明するように、今度は俺の方からその手をにぎってやった。
「わっ……わわっ……」
軽く引くと、ファルはよろけたようにして、今度は逆に俺の胸に納まる。
「う、うぁ……」
「おい。しっかり立てって」
「そ、そー言われましても……」
しどろもどろになりながら、それでもなんとか俺から離れて定位置に戻る。
だが、顔はまだトマトのように真っ赤なままだ。
「なにやってんだよ、お前」
「だ、だって……」
「変な奴だな」
「っ……」
俺の言葉に、ファルは少し恨めしそうな顔を俺に向けると、
「カ、カーライルさんは女の敵ですっ!」
「はあ?」
いきなり意味不明だった。
が、こいつはそんな俺の反応にも構わず……というかあまり余裕のなさそうな口調で、
「そ、そーいうのは、その、ちゃ、ちゃんと予告していただかないと、心の準備というものがですね!」
「……」
かろうじて言いたいことはわからないでもないが、
(……それほどのことをしたか?)
この年頃の少女の感覚というのはわかりづらいもんだ。
で、結局。
その日はファルの希望どおり、大きく回り道をして帰ることになった。
「あと7日」
「わかってるさ」
夜。
今日もレベッカは仕事に向かう俺の後を追って家を出てきた。
空には雲がかかっていて、少し丸みを帯び始めた月もその裏に隠れて見えない。
野良犬の遠吠えがいつもよりうるさかった。
「ふむ」
レベッカは腕を組んで家の壁にもたれかかる。
窓は閉まっていて、中にいるファルに会話が聞こえる心配はないだろう。
「もっと絶望感に満ちあふれた顔が見られるかと思ったのだが」
「……お前は悪鬼か」
「いや」
俺の返答に、レベッカは肩をすくめて首を横に振った。
「ロリコンの君ほど鬼畜ではないよ」
「誰がロリコンだって?」
「まあ、それは大した問題じゃないからいいが」
「……コノヤロウ」
大した問題じゃないどころか、俺としては朝まで徹底討論してでも否定しておきたい不名誉だ。
やはり俺の精神的安息を確保するために、こいつは今ここで駆逐しておくべきなのかもしれない。
(……駆逐、か)
そんな自分の考えに思わず苦笑。
現状を考えるに、それは決して冗談とも言い切れない考えだった。
「……」
空白。
そして次の瞬間。
まるで緊張の切れる一瞬を狙っていたかのようなタイミングで、
「奥の手でも見つかったか?」
「……!」
いきなり核心を突いた言葉に、ドキッとする。
直前までそんな素振りはまったく見せなかった。
本当に油断できない奴だ。
でも大丈夫。顔には出てない。
いくらこいつでも、そこまで見破る事なんてできるはずもない。
頭に浮かぶのは、数日前のやり取り。
『あの子を私に預けてみないか?』
その申し出がなくとも、頭のどこかでは考えていたことだった。
もしも金が集まらなければ、期限が訪れる前にあいつをレベッカの手が届かないどこかに預けてしまおうと。
候補地もすでにいくつか選別してあって、そこへたまたま、最良の条件が割り込んできただけのこと。
だが、それをこいつに悟られるわけにはいかない。
俺がやろうとしていることは、明らかな契約違反。
だから、ファルにもこのことはまだ話していない。
最後の切り札。
慎重に慎重を重ねる必要があった。
だから俺は、こちらを見透かそうとするレベッカの瞳を真っ直ぐに見つめ返して、
「そんなもんがあるなら、こっちが教えてもらいたいぐらいだ」
平静を装ってそう答える。
「いくつか思いつくよ」
その反応を見るに、完璧にバレているとかそういうわけじゃないらしい。
とすると、お得意の探りか。
ボロを出さないように注意する必要がある。
「ひとつ」
レベッカはピッと人差し指を立てた。
「この場で私を殺し、金を奪って逃げればいい」
「……無茶言うな。そもそもお前の金の隠し場所なんて知らねえ」
それに俺は『小』悪党だ。人殺しなんてできるはずもない。
まして相手は曲がりなりにも数年を共に過ごしてきた相手だ。友愛とかそういう感情はなかったとしても、そんな大それたことはできない。
「ふたつ」
レベッカはまるで表情を変えることなく、淡々と続けた。
「私をだまして、そのまま逃げればいい」
「だます?」
そっちは核心だった。
だが、大丈夫。
まだ、どこも不自然じゃない。
「君が私との約束を破り、あの子をどこかに預けてしまえば、私は手が出せなくなるし」
「そして俺は住む場所と、仕事場を失うってわけか?」
平静のまま笑い飛ばしてそう答えた。
「契約ってやつの重大さは、十分に理解している」
変な話だが、法律の支えがないこの社会では、表の社会よりもよっぽど『信用』が重要視される。
そして同業者間での裏切り行為は、そのまま信用の失墜を意味する。
俺とレベッカが交わした契約は正式なもので、この社会におけるルールの名の下、それは確実に執行されるべきものだった。
それを破るようなことがあれば、間違いなく俺の居場所はなくなるだろう。ただでさえこの社会では、俺よりもこいつの方が権力が強いのだから。
「俺がそんな自殺行為をするってのか?」
少しだけ、手の平が汗をかいている。
大丈夫。
それを裏付けるモノはこいつの手の中にはないはずだ。
「そうかな?」
レベッカは相変わらずの、なにを考えてるのかわからない表情で、
「最初からそういう手段を考慮に入れているものだと思ってたよ、私は」
「バカバカしい」
「あの子を守るには最良の手段だと思うけど?」
「はっ」
俺は即座に否定した。
「んなことになったら弟に金が送れなくなる。道理に合わないだろ」
「……3つ目は」
それについてはなにも答えず、レベッカは続けた。
「君が――」
言いかけて。
珍しく言いよどんだ。
「なんだ?」
レベッカの視線が泳ぐ。
思考を巡らせ、まるで言葉を選ぶようにして。
トン、トン、と足が地面を叩いた。
そして、
「……簡単なこと。君が、幸せを願えばいい」
「は?」
レベッカはまったくの真顔で、思わず笑い飛ばしたくなるような言葉を発した。
いや、
「はっ……そりゃ楽な話だ」
考えるまでもなく、俺は笑い飛ばしていた。
「まさかお前の口からそんな夢物語が出てくるなんて思わなかったな。最初のふたつは前フリか?」
「そうかな? 別に夢物語を語ったつもりはないよ」
レベッカの表情は変わらなかった。
「自分が幸せになることを想像できない人間が、他人を幸せにすることなんてできるはずもない。……これは真理だと思うよ」
「なんだ、そりゃ」
再び笑い飛ばす。
……と、
「そんなに怖いのか?」
組んでいた腕を下ろして、レベッカはゆっくりと近付いてきた。
「幸せになるのが怖いのか、カール」
「……なに言ってんだ、お前?」
俺はそこで初めて異変に気付いた。
いつもとは明らかに違う、その表情。
(……なんだ……?)
理解できない。
こいつの言葉の意味も。
それと。
なぜか込み上げてくる頭の奥の痛みも。
「理解できないなら」
10センチ。
それが今の俺とレベッカの顔の距離だった。
「あがいてみるといい。けど、なにをやろうとおそらく無駄だ」
無表情。
なのに、その瞳は恐ろしく鋭い光を放っていた。
「今の君には他人の行く末を思いやる資格など、ない。その力も……ない」
「……」
頭痛はすぐに消え失せて。
「わからないな。お前が何を言いたいのか」
「そうか」
相変わらずレベッカはそれについて答えることはなく。
俺の考えに気付いて牽制しているのか。
あるいは別の思惑があるのか。
……風が吹いて。
「じゃ、行ってらっしゃい」
その表情にほんのわずかな変化。
レベッカはいつも通りの彼女に戻ると、まるで興味を失ったかのようにあっさりと背中を見せた。
「……ああ」
俺もそれ以上は声をかけずに、すぐにその場を離れる。
背後で家のドアが閉じて。
「……」
そして俺はいつもの仕事に出掛けた。
少し、計画を早めた方がいいのかもしれない――と、そんなことを頭のすみで考えながら。