町角の歌姫
「~……」
さわやかな歌声が軽やかなメロディに乗って流れていく。
初秋。
太陽がもっとも活発な時期を過ぎたとはいえ、まだまだ残暑は続いている。
残念なことに今日は、太陽が夏の日を思い出したかのような暑さの1日だった。
ただ、それでも。
「~……~……」
その口からつむがれる透き通った歌声にかげりが見えることはなく、それはまるで波紋のように路上に広がって聞き入る観客を魅了していた。
ただそこを通りかかっただけの者も一瞬だけ足を止めて。
パチパチパチパチ。
歌が終わると、聞き慣れた拍手と聞き慣れた賞賛の声。
だが、
「ど、どうもですー」
それを向けられる当人はいまだに慣れていないらしく、暑さで真っ赤になった顔をさらに赤くしてペコペコと頭を下げていた。
(8曲目、か)
いつものように後ろでそれを眺めつつ、晴れ渡った青空に視線を向ける。
今日は暑さもキツイ。
そろそろ頃合だろう。
俺はそう判断して声をかけた。
「ファル。終わりだ」
「え……ま、まだ大丈夫ですよ!」
返ってくるのはいつもと同じ答え。
だが、そんなワガママを許していたらキリがない。
「終わりだ」
有無を言わさず立ち上がる。
曲が終わるたびに使用していたタオルは、すでにこいつの汗でぐっしょりになっていた。
客観的に見て、これ以上は許可できない。
「お。なんだ兄ちゃん。今日はもう終わりかい?」
そんな俺たちに声をかけてきたのは、もうすっかり顔なじみとなった近所のパン屋のオヤジだった。
おそらく最初の常連客といってもいい。
「ああ。こいつは放っておくと倒れるまでやるからな」
「うぅ……それだと私がまるで頭の弱い子みたいですよ」
「それを否定する勇気は俺にはない」
「そんなぁ……」
まさに『ショック』と言わんばかりのわかりやすい顔をして、ファルはガックリとしゃがみ込む。
そんな俺たちのやり取りに、見慣れた幾人かの観客たちは声を上げて笑った。
……あれから3ヶ月以上の時間が流れて。
俺たちはすっかり、町角のちょっとした名物となっていた。
無愛想な男と無邪気な盲目の少女。
組み合わせ的にも人の興味を引く要素があったのかもしれない。
「はー……」
木陰に腰を下ろして体を休めるファル。
その間に俺は集まった金銭をまとめておいた。
「いや、今日もいい歌を聞かせてもらったよ」
最近はこの路上コンサートらしきものが終わってからも、ここに留まって話しかけてくる客がたまにいる。
今日は前述のパン屋のオヤジが店のエプロン姿のままで残っていた。
「あ、こちらこそ、私のつたない歌をいつも聞きに来ていただいて、恐縮です」
ファルも常連の何人かは声だけで判断できるようになっているようだ。額に汗を浮かばせたまま、オヤジを見上げて笑顔になる。
「最近はオジサンがいないと、何だか声の調子が悪くなってしまうぐらいなのです」
「くぅーっ! 嬉しいこと言ってくれるねぇっ!」
オヤジは大げさに喜んでみせる。俺がいなかったら、そのままこいつを抱きしめて頭でもナデナデしそうな勢いだ。
「ウチの娘もアンタぐらい可愛げがありゃなぁ……」
「……んなことよりアンタ、店の方はいいのか?」
俺が口を挟むと、オヤジは腕を組んだまま豪快に笑って、
「ああ、ああ、女房と娘に任せてるから全然平気よ!」
「そうか」
俺はチラッとオヤジの背後を見て、
「俺の目にはちっとも平気そうに見えないんだが」
「ん?」
俺の目線に気付いたのだろう。
オヤジはキョトンとした後、
「……」
顔が青ざめて。
ゆっくりと後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、
「……あなた?」
「……お父さん?」
40歳ぐらいの女性と、ファルと同い年ぐらいの少女。
2人とも鬼のような形相を浮かべていた。
「ひっ……!」
「また店を空けて何をしてるのかと思えば……」
「可愛くない娘で悪うございましたね!」
「そっ……それはっ、誤解だ! なんというか、言葉のアヤで――!」
比較的、見慣れた修羅場だった。
俺は呆れて。
ファルは苦笑。
その後の展開はオヤジの名誉のためにも伏せておくとしよう。
「どうも、ウチの人がお世話になりました」
最後に奥さんがペコッと頭を下げ、
「機会があったらまたパンを買いに来てくださいね」
娘の方はちゃっかり営業までして、ズルズルとオヤジを引きずりながら去っていった。
これも、見慣れた光景で。
「やれやれ」
それを見送って、俺はつぶやいた。
「騒がしい客だな」
「ホントですよねー」
影が少しずつ長くなってくる。
空もほんのわずかに赤みを帯び始めて。
「でも、うらやましいですよ」
ようやく休憩を終えて、ファルもゆっくり立ち上がった。
「オジサンたち、すごく仲良さそうです」
「……そうか?」
うらやましい、か。
なんとなく、言いたいことは理解できなくもなかった。
「でも、考えてみれば私も似たようなものですよね」
「なにがだ?」
問うと、笑顔で見上げてきて、
「カーライルさんがお父さんで、レベッカさんがお母さんで、私がひとり娘で――」
「気持ち悪いこと言わないでくれ。鳥肌が立つ」
「うわ、即答……」
「当たり前だ」
父親はぶっきらぼうで他人を信じることのできない、ケチな小悪党。
母親は酷薄で何を考えてるのかよくわからない、裏世界の腕利き情報屋。
そんな家庭に憧れるというのか、こいつは。
「うう、じゃあ――」
キュッと、俺の手を握る。
少しだけその頬が赤みを帯びて、
「そ、その……カーライルさんが旦那様で、レベッカさんが小姑さんってのはどうでしょうか!?」
「どーでしょうかもなにも」
相変わらずだ。
だから俺も、いつものように素っ気なく返してやる。
「肝心の嫁がいないぞ、その構図には」
「えっ……そ、それは、ですから――」
顔を赤くしてしどろもどろに何事かつぶやいていたが、後半は俺の耳にはまったく届かなかった。
とはいえ、なにを言いたいのかはもちろんわかっている。
「それに、あんな小姑はゴメンだ」
「そーですか……残念です」
しゅん、とうなだれる。
「さ、帰るぞ」
ゆっくり手を引いて、俺たちはようやくその場から移動することになった。
「えっと……」
途中、ファルは何事か決心した顔で俺を見上げて、
「じゃあ……私が小姑でもいいです……」
「……」
それはもっと嫌だ。
「レ、レベッカさんっ! こっ……ここの床が、よっ……よご……よごれが残ってますよ!」
「どーしたの、あれ?」
「知らん」
家に戻ってしばらくするとレベッカが帰ってきた。そして、こいつが戻ってくるとほぼ同時に俺は家を出ることになる。
だから、こうして3人が揃う時間はほんのわずかなのだが、この短い時間帯、この家は単純な足し算ではつじつまが合わないほどにぎやかになる。
「小姑というのは、お嫁さんに意地悪するものだと聞いたことが!」
真っ赤な顔でそう主張するファル。
知識が偏りすぎだ。
「誰が小姑で誰がお嫁さん?」
「さあな」
それ以前に、こいつに床の汚れなんて見えてるわけもない。
仕事用の服に着替え、いくつか必要なものをポケットに詰める。それを服の上からポンと叩いて、俺はベッドから立ち上がった。
「あのー……やっぱり私が小姑というのは無理がありますでしょうか?」
おずおず、といった様子でそう尋ねてくるファル。
俺は答えてやった。
「無理もなにも、小姑ってのは配偶者の兄弟姉妹のことだろ。お前は最初から当てはまってない」
「え……そ、そうだったんですか!?」
驚いたように目を見開いて、
「私てっきり、お嫁さんの恋敵が小姑になるものだと思ってました!」
「……」
それはものすごい勘違いだ。
「なるほど」
レベッカはポンと手を打って、
「つまり私はファルの恋敵だったわけだな」
「……行ってくる」
またストレスの溜まる展開になりそうだったので、俺は早々に家を出ることにした。
……家を出て、すぐ。
「カール」
追いかけるようにレベッカが家から出てきた。
俺は足を止めて、
「なんだ?」
振り返らずに尋ねる。
昼間とは打って変わって涼やかな夜の空気。
夜空は相変わらず晴れ渡り、星も輝いている。
ぽっかりと浮かぶ月。
……とてつもなく不安になる。
パチパチという火の爆ぜる音が、今にも聞こえてくるんじゃないかと――
「8日」
こいつが言いたいことは予想できていた。
「あと8日だ」
「……そうだな」
あの日交わした悪魔との契約。
その期日はあと8日後に迫っていた。
「順調だ」
俺はそう答えて夜空を見上げる。
「予想もしてなかったな。あいつの歌がこれほどに他人を惹き付けるなんて」
「……」
レベッカは何も言わなかった。
ただ、無表情に俺を見つめている。いや、俺は背中を向けているので実際にこいつの表情はわからなかったが、たぶんそうだろうと想像できた。
「今日だってノルマ以上に稼げた。帰りに露店に寄っていく余裕があったぐらいだからな」
「それは良かった」
抑揚のないレベッカの声。
「なにか、買ってやったのか?」
「今日はなにも。せっかくだから、もっと悩んで一番欲しいものを選びたいって、な」
「そうか」
口調は変わらない。
「貴金属の類はヤメた方がいい。すぐに失くす」
「……さすがにそこまでの余裕はねえな」
苦笑する。
なぜだか、自嘲的な笑みになった。
そして一瞬の空白。
「私を恨むか?」
「……」
ファルは予想以上にがんばった。
実際、まだ8日を残した時点で、4ヶ月前にアテにしていた金額の倍近くを稼いでいる。
順調だ。
俺の仕事もあれからは大きなトラブルもなく。
まったく予定通りに進んでいる。
順調。
「お前は、ただ約束を守っているだけだろ?」
「ああ」
そして契約もまた、正確に履行されていた。
すべて予定通り。
だから。
「……わかっていたから、な」
わかっていた。
そういうものだって、俺はイヤというほど理解している。
順調で。
想定通りだった。
だから。
「だから、不可能だと言った」
「……」
順調に進むだけじゃ無理なのは、最初からわかっていたことだ。
予想以上にがんばったとか、予想外にうまくいったとか。
そういうレベルじゃまったく話にならなかった。
もちろん最初からあきらめていたわけじゃない。
少しでも収入が増えるようにと、様々な方面に手を伸ばしてみたりもした。
けど、返ってくる言葉はいつも決まっていて。
『悪いな。今んとこ、あんたに回せる仕事はないんだ』
この4ヶ月の間、何度も聞いたセリフ。
確かにもともと、それほど多方面に人脈を持っていたわけじゃない。持っていたとしても、それほど強いつながりではなかった。
ただ、それを考慮に入れたとしても、異常と思えるほどの門前払い。
その原因ははっきりしている。
『そういう仕事を回すつもりはない』
レベッカは4ヵ月前、確かにそう言っていて。
この地におけるヒエラルキーは、俺よりもこいつの方がはるかに高いから。
だから、やはりこの現状は必然だった。
「……行ってくる」
そのまま足を進める。
呼び止める声はなかった。