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或る小悪党の苦悩  作者: 黒雨みつき
その4『二つの楔』
17/29

重なる面影


 日が変わった深夜0時。

 外は雨のままだった。


 閃光がときおり部屋を明るく照らし、遠くに聞こえる雷鳴が俺の暗い気分をさらに色濃く縁取っていく。


(……4ヶ月、か)


 暗闇に浮かび上がったベッドの上では、ファルが静かな寝息を立てていた。


(それで、どうしろってんだ)


 そんな中、俺は壁際で片膝を立ててずっと考えている。


 4ヶ月。


 俺の毎月の収入そのものは決して少なくはない。


 税のことを考えなければこの町の中流家庭における家主ぐらいの稼ぎはあるし、学も何もない人間にとっては充分すぎるものだろう。


 だから本来なら、たいして金がかかるわけでもない娘ひとりを養うぐらいは問題ないのだ。


 借金などする必要だってないし、無駄遣いさえしなければ現在の借金を返すのも無理ではない。


 だが、俺にはもうひとり。


 ……いや、『もうひとり』という言い方はおかしいな。


 唯一、絶対に見捨てることのできない存在がいる。


『兄ちゃん――……』


 遠い町の診療所で寝たきりになっている双子の弟。


 こんな俺にいつでも絶対の信頼を寄せてくれた俺の半身。


 両親の元では同じように無視され続け、その後たまたま流れ着いた孤児院では同じように虐待を受けた。


 反抗的だった俺が余計に殴られると、かばおうとしてあいつも殴られた。


『大丈夫。大丈夫だよ――……』


 それでも笑顔でいることが多かったあいつの顔や体は、いつでもアザだらけで。


 もちろん俺も同じようにアザだらけだったが、双子であるにもかかわらず、あいつと俺とじゃ体の頑丈さがまるで違っていた。


 10年前。

 ついに孤児院を逃げ出したその夜。


 多分、ずっと以前から限界を越えていたのだろう。


 あいつは、自分で起き上がることのできない体になった。


 思い出すと、今でもドス黒いものが胸の中に込み上げてくる。


 ……雲ひとつない夜空。

 ……ぽっかりと浮かぶ、丸い月。

 ……パチパチという火の爆ぜる音。

 かすかに赤く染まる空――。


「……っ!」


 頭痛がした。

 同時に吐き気が胸を襲う。


「……くそ」


 あの日のことを思い出すと、いつもこうだった。

 忘れたくても忘れられない記憶。


 母親に捨てられた日。

 そして、孤児院から逃げ出したあの日の夜は。


(もう、10年以上も前の話だってのに)


 とにかく俺の収入の大半は弟への送金に充てていた。


 放っておけば、いつ命を落とすかわからない病だ。1か月たりとも送金を怠るわけにはいかない。


 それだけは、絶対だ。


(……他に、道があるのか?)


 考えてみる。


 たとえば明日から仕事が再開できるとして。

 さらに限界まで働き、限界まで切りつめたとする。


 もちろん何もアクシデントが起きないという想定で。


 計算し。

 ……途中でやめた。


 するまでもなかった。


(……くそ)


 どう頑張っても無理だ。


 それは明らか。

 となれば、選択肢はやはりふたつしかない。


 ファルと一緒にこの家を出ていくか。

 あるいは、あいつを生贄に捧げるか。


(逃げ道なんて、どこにもないじゃないか)


 再び、レベッカに対する腹立たしさが込み上げてくる。


『後悔のない選択肢』


 最初からそんなものは存在しなかった。


 何よりも、その2択なら俺の選ぶ道はひとつ。

 後者しかない。


 前者を選択したとしても、無一文で外に放り出された状態ではファルを養っていくことなど出来るはずもないから。


 もちろん弟に送金を続けることだってできなくなるから。


 後者しかない。

 ただ、それは――


(……売る、のか?)


 ドクンッ……


 鼓動が強さを増した。


(あいつを……売る?)


 ドクン、ドクンッ……


 胸に突き刺さる、鼓動。

 頭の中が急激に熱くなってくる。


「……」


 ゆっくりと腰を上げ、静かに、歩く。


 閃光が、部屋を照らした。


 かすかに床がきしむ。

 雨音が、遠くなる。

 雷鳴が……轟く。


「……」


 ベッドの上で、少女は安らかな寝息を立てていた。


 寝る直前、雷が苦手だと騒いでいた割には、無防備な安心しきった寝顔。


 それはおそらく信頼の証。


 ……信頼。


『兄ちゃん――』


「っ……!」


 面影が、重なる――――。


「……どうしろってんだよ……」


 指の隙間で、視界がぼやけた。


 ずっと恐れていたその事実に気付いて、俺を襲うのは限りない絶望感。


 ……抱えきれない荷物を背負ってしまった。


 目の前に現れるのは、やはり選択肢。


 さっきとは違う2択。


 荷物は俺の限界を越える重さとなった。

 このままでは俺はもちろんのこと、背負った荷物すらも潰れてしまう。


 どちらかを、捨てるしかない。

 それは単純な結論だ。


 ただ、その2つの荷物はすでに、俺の体と深く繋がってしまっていた。


 捨てるなら、自身の一部すらも切り離す必要がある。


 片方は脳裏の奥底に。

 もう片方は左胸の奥深く。


 つまり、これこそがレベッカの用意した本当の選択肢だ。


 俺にとって本当に大事なものは何なのか。

 より大事な方を選び出し、不要な方を捨てろと、つまりはそういうことだ。


「はっ……」


 思わず笑みがこぼれた。


 どうしようもなくなったとき、ついつい笑ってしまうのは俺のクセらしい。


(余計にタチ悪ぃ……)


 確かに弟への送金をやめれば、借金を返すことは可能だろう。レベッカはもともと、俺が送金することを認めてはいたが、決していい顔はしていない。


 回復する見込みのない奴のために大金を送り続けるなんて、あいつにしてみれば理解できない行動だったんだろう。


 ……けど。


「ファル……」


 ゆっくりと身をかがめ、そっと少女の頬に手を置く。


 そんなに汗をかいている様子ではなかったが、湿気の多さからか少しだけしっとりとした感触だった。


「ぅ……ん……」


 寝返りを打って、少女の顔がこちらを向く。

 小さく開いた唇から吐息がもれた。


「ファル……」


 名前を呼ぶたび、不思議な感覚が胸を支配していく。


 視線の先に。指の先に。そこに存在していること自体が、俺の胸を揺り動かす。


 もう、疑う余地などない。

 俺は間違いなく、目の前のこの少女に特別な感情を抱いてしまっている。


 ……レベッカの言うことはいつだって正しい。


『構えていない限り、赤の他人だって一緒に暮らしていれば仲良くなる』


 もちろん、そんなことは俺だって承知済みだった。


 ただ計算外だったのは、こいつが――このファルという少女が――想像以上に自然に俺の心に入りこんできてしまったということ。


(まさか俺が、な)


 こいつに関しては、本当に全てが計算外だ。


 偶然のようなものがいくつも重なった。

 この現状はその結果。


 もしもこの世に『運命』なんてものがあるのだとしたら、こいつとの出会いこそがそれだったのかもしれない。


(運命の出会い、か)


 さっきとは違う意味で、思わず笑みがこぼれた。

 俺には似合わない言葉だ。


(けど、これが運命の出会いだというなら)


 すぐに、頬の筋肉が硬直する。

 そっと手を離す。


(……別の奴に譲ってやればいいものを)


 ゆっくりと立ち上がった。


 自ら出した結論に、胸の奥が揺れる。


(ファル……)


 視線を落とすと、そこには変わらない寝顔。


(……すまないな)


 そっと、心でつぶやく。


 ……やるだけのことはやってみようと思う。

 だが、もしもそれでダメだったなら――


(やるだけのこと、か)


 可能性ということでいえば、いくつか思いつく。


 レベッカとの契約が成立する前、つまりは今月の家賃の支払い期限である明日までに、どこか環境の良い引取先を見つけてしまえば。


 それならその時点から俺の返済能力は元に戻るし、レベッカの奴だって返済のメドが立つならおそらく文句は言うまい。


 あるいは、そう。

 レベッカに出された4ヶ月という期限の間に、何かどんでん返しのような奇跡が起きて借金を返済できれば。


 ……しかし。

 どちらも望み薄だ。


(なにやってんだ、俺……)


 今の生活がとても危ういものだということには、最初から気付いていた。


 当たり前だ。

 もともと俺にはこいつを養っていくだけの力がなかったのだから。


 それなのに、俺はこいつの引取先を探すことに、それほど真剣じゃなかった気がする。


(くそ……)


 本当に腹立たしい。

 一体、何のつもりでいたんだろうか。


 引取先を探すのが難しかったのは確かだが、少なくとも現状――得体の知れない場所に売られてしまうよりマシなところは見つけられたはずだ。


 それなのに。


 まさか俺は心のどこかで、ずっと面倒を見ていくことを考えていたんだろうか。


 もしそうなら、最悪だ。

 まるでガキのわがままじゃないか。


(……くそッ!)


 頭を振る。

 それに気付いたところで、今さらどうしようもない。


(とにかく今は、やれるだけのことをやるしかない)


 玄関に向かい、そこにあった上着と古い傘を手にする。


「カール。出掛けるのか?」

「……」


 部屋から聞こえたその声に言葉を返す気にはなれず。

 俺はそのまま雨の中へ出かけていった。




「~……」


 朝になると、雨はキレイに上がっていた。


 屋根や道ばたの雑草に残った水滴が太陽の光でキラキラと輝き、おそらく空を見上げれば虹が見えるに違いない。


「~……~~~……」


 鼻歌の主は相変わらずのノンキな様子で洗濯物を干す準備をしている。


 目が見えないくせに、器用なものだ。


「……ふう」

「あ、カーライルさん」


 何度目かわからない俺のため息に、ファルが敏感に反応した。


「あまりため息をつくとダメなんですよ。幸せが逃げるんだって、レベッカさんが言ってました」

「じゃあ、ため息をつかなきゃ幸せになれるのか?」


 馬鹿らしい。

 本当にそうなら、ため息ぐらいいくらでも我慢してやる。


(そもそも、逃げるほどの幸せもここには無い、か)


 だが、そんな俺の皮肉めいた言葉にも、


「はい! ですから私、その話を聞いてからは絶対にため息をつかないようにしてるんですよ!」


 ファルはまるで疑った様子もなく、そう言い切った。


「まただまされてると思うがな」


 まあ、一般的にも聞く言葉だから、別に嘘を教えたつもりではないのかもしれない。


(それで空から金でも降ってくるなら、幸せにもなれるんだろうが……)


 我ながら夢のない話だと思うが、それで現在の苦境を抜け出せるのは確かだった。


「もしかすると」


 そんな俺の思いも余所に、ファルは言葉を続けた。


「ため息を我慢してるから、こうやってカーライルさんと一緒にいられるのかもしれないですね」

「ちっぽけな幸せだな」


 今の気分じゃ口をつくのはこんな皮肉ばかりだ。

 ファルはそんな俺に言った。


「そんなことないですよ。……じゃあ、カーライルさんの幸せって、どんな感じなんですか?」

「俺の幸せ?」


 言われて、すぐには返せず言葉に詰まる。


「幸せ、か」


 考えたこともなかった。


 少なくとも、この場所でこうして生きるようになってからは、ただひたすら、自らが生きるため、そして弟に送る金を稼ぐことばかり考えていた。


 それ以上のことは、おそらく望んだことはない。

 あるとすれば、弟の体が完治して欲しいと願ったぐらいか。


「そうだな。大きなトラブルもなく、淡々と今まで通りの日が流れれば、それが幸せかもしれん」


 結局、俺にはその程度の言葉しか思い浮かばなかった。


「そうですよね!」


 パァッとファルの顔が明るくなる。


「それじゃ、私とおんなじです!」

「同じじゃないだろ。俺の言う『トラブル』には、お前の存在も含まれているんだから」

「……ああっ! 今のは聞かなかったことに!」


 ギュッと耳をふさぐファルに、俺は思わず苦笑した。

 ホント、おもしろい奴だ。


(……今まで通りの日、か)


 ふと窓の外に視線を向けた。


 あと1時間もすれば太陽は頂点に達するだろう。

 レベッカの奴は30分ほど前に出掛けていった。


(あのころが遠い昔に感じるな……)


 それもそのはず。


 こいつと初めて会ったのが去年の秋口。

 すでに8ヶ月もの時間が流れている。


 当初はこんなことになるなんて思いもしなかった。こいつのことでこんなに思い悩むことになるなんて。


 とはいえ。


 何の因果か知らないが、これまで続いてきたこの生活も、長くてあと4ヶ月の話。


 そしてそれは、もしかすると今日この場で終わりを告げるかもしれなかった。


「ファル」

「……」


 いまだに耳をふさいでいた。

 俺はため息をついて、その手を引きはがしてやる。


「ファル」


 もう一度呼びかけると、ビクッとして、


「は……はいっ!?」

「ちょっと話がある」

「え?」


 怪訝そうな顔。

 直後、わずかに不安そうな色が過ぎる。


 ……俺の声色から、何かを察したのか。


(変なところで勘の鋭い奴だ……)


 だが、俺はもちろんそのまま言葉を続ける。


「あのな。実は――」


 いや、続けようとしたのだが。


「あ! あ、ちょっと待ってください!」

「……なんだ」


 いきなり慌てた様子で俺の言葉をさえぎったファル。

 あからさまに不審な態度だった。


「えっと、その……」


 まるで、俺の話の内容をあらかじめ知っているかのように。


(まさか、な)


 俺はもちろん話していないし、レベッカの奴だってこいつに直接そんな話をするはずはない。


「お話の前に、私からお願いがあるんです」

「お願い?」

「はい。先に聞いていただけないでしょうか……?」

「……」


 もう一度、外を見た。


 レベッカが帰ってくるまではまだ充分な時間がある。

 急ぐ理由はないように思えた。


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