取り引き
雨。
外は吸い込まれそうな夜闇の最中にあった。
首筋に手を当てるとうっすらと不快な湿り気が手のひらに残る。
初夏独特の湿った暑さ。
俺のイラ立ちは否応なしに高まっていく。
「……くそ」
逃げ場所をなくした不快感が自然と口をついて出た。
薄暗い室内の明かりが、窓に俺の顔をうっすらと反射させている。
そのときの俺の表情は、おそらくこの心情をそのまま映していたことだろう。
イラ立ち。
そして焦り。
家の中はしんと静まり返っている。
ファルはレベッカに連れられ公衆浴場へ出かけていた。
雨降りの日に外出させることはこれまでほとんどなかったのだが、降り止む気配のない連日の雨に、さすがに外出を許可せざるを得なかった。
「これじゃ、今月分も待ってもらわなきゃならんか……」
ここ数日、俺は思うように仕事ができないでいた。
といってもこの連日の雨とは関係ない。俺の仕事は基本的に天気に関係なく行われるし、そんなことで休めるほど余裕のある立場でもない。
理由は別。
それは6日前のこと。
この町のとある学び舎の学徒たちに麻薬が蔓延していた事実が明るみに出た。
そこで広まっていた薬は中毒性の高い危険な種類で、俺が主に扱っているものとは別ルートのものだったが、生徒たちの供述から何人もの売り子が捕まり、官憲連中は連日連夜のパトロールを強化している。
俺自身はレベッカからの早急な情報提供によって事なきを得たが、知り合いはすでに何人かが捕まった。
言うまでもなくこの状況で仕事をするのはリスクが高い。
仕事ができなければ収入がなくなる。
これは当たり前のことだ。
2人分の生活費を捻出し始めて半年以上が経過し、これまでは黒と赤の間をなんとかキープしていたが、それは仕事が順調だったからで。
こういう事態になると生活が苦しくなるのはわかりきったことだった。
「わかってはいたんだが、な」
ため息が雨音にかき消される。
たくわえがまったくないというわけではない。
ただその大半は弟の診療所への送金が途切れないようにするためのものだ。
それも来月分ギリギリ。
それに手を付けるわけにはいかない。
近い内に生活費も底をつくだろう。
俺は多少食わなくてもなんとかなるが、ファルを飢えさせるわけにはいかない。
(……またレベッカの奴に頼み込むしかないな)
それは不本意なことだった。
あいつに頭を下げることは難しくないが、最近はなんだかんだと借金する機会が増えていたし、そのたびにあいつに頼りっぱなしになっている。
とはいえ。
背に腹は変えられない。
そこへドアの開く音。
タイミング良く2人が帰ってくる。
「ただいま戻りましたー」
明るい声はファルのもの。
「ただいま」
あまり起伏のない声はレベッカ。
話すなら早い方がいいだろう。
そう思い、ファルには台所の掃除をやらせることにして、あとはレベッカの部屋で相談することにした。
「……だろうね」
話すまでもなく、レベッカは俺の窮状をとっくに把握していた。
少し雨の染みた上着を脱いでその辺に放り投げると、履いていたズボンまでも脱ぎ捨ててベッドの上に勢いよく腰を下ろす。
「で、とりあえず今月分の家賃を待って欲しいと、そういうわけだな?」
「頼む」
言って、頭を下げる。
「……ふぅん」
レベッカはそうつぶやいて、頭を下げたままの俺の顔を横からのぞき込むようにすると、
「わかっているのか? 君が今、私にどれだけの借金をしているか」
「ああ。理解しているつもりだ」
それは当然だ。
正直に言うとかなりの金額だった。
ファルの問題が片付いて、そしてまともに働けるようになったとしても、おそらくは1ヶ月や2ヶ月で返せる額ではない。
「わかっていて、まだ借りたいというわけだ」
「働けるようになったら俺の食費を切りつめてでも返していく。だから、頼む」
ひたすらに頭を下げた。
今はとにかく、そうするしかなかった。
レベッカは腕を組んで目を閉じ、しばし考えると、
「正直言って現状、君からお金が返ってくることはあまり期待できない。それがわかっていてお金を貸し続けられるほど、私はお人好しではないんだ」
「……ああ」
それはよく理解していた。今まで目をつむっていてもらえたことすら不思議なぐらいだ。
だが、それでも今はこいつに頼み込む他に手がない。
万が一この家を追い出されてしまったら――俺ひとりならともかく、ファルの面倒を見続けるのは困難だ。
「頼む。近い内に何とか都合をつけてみせる」
隣室のファルに聞こえない程度の声で懇願する。
土下座しろと言われればするつもりでいる。
ただ、こいつはそんな無意味なことを望みはしないだろう。
「ふむ」
レベッカはさらに何事か考えていた。
あまりいい反応ではない。
が、考えてる以上は何か妥協案を探してくれているのか。
そしてしばらく。
「……いい機会かもしれないな」
ぽつりとそうつぶやき、レベッカは顔をあげた。
そして彼女の口から出てきた妥協案は突拍子もないものだった。
「期限を切ろう。そうだな……4ヶ月待ってあげようじゃないか。待つだけじゃない。その間の君たちの家賃、食費、その他の生活費はすべて無利子で私が面倒見てあげよう」
「生活費をすべて? 無利子?」
そこまでの提案は魅力的だった。
が、そんなうまい話が無条件に転がっているはずはない。
「……条件は?」
意図が見えない。
疑うように問いかけた俺の言葉に、レベッカは答える。
「4ヶ月後、今までの分と、それまでの間に増えた借金をまとめて返すこと。もしそれができなければ」
いつになく真剣な顔で俺を見つめ、そしてチラッと隣室のほうに視線を送った。
「私はあの子をどこかに売り飛ばすことにしよう。あの器量なら、君の借金を補って余るぐらいの報酬を出す男に心当たりがある」
「……は?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
そして意味を理解した瞬間、声が自然と険を帯びた。
「……レベッカ。お前それ、本気で言ってるのか」
「もちろん本気だ。私はあの子を抵当として要求する」
そんな俺の声色の変化にも、レベッカはまるで動じることはなく。
「その条件を受け入れられないなら、君が今持っている金を全部置いて、今すぐあの子と一緒にここから消えるといい。足りない分は、今までのよしみで目をつむってあげよう」
「……」
俺は返す言葉を失って、呆然となった。
少しずつわき上がってきたのは、戸惑いと、怒り。
(レベッカ……)
こいつがこういう奴であることはわかっていた。
今の発言だって決して突飛でも理不尽でもない。
こいつ自身の利益を守る行動としては当然のことだ。
だけど。
一方で俺は、レベッカもファルに対し、利害抜きの好意を少なからず抱いているものだと思っていたのだ。
すべて俺の勘違いだったのか。
そうだとするなら、やはりこいつは俺よりもずっと上手だ。少なからず懐柔されてしまった俺なんかよりもずっとしっかりしていて賢い奴だった。
(……4ヶ月?)
不可能だろうか。
いや、不可能ではない。
ただ、それを可能とするにはいくつかの条件があった。
「先に言っておくが、他にも条件が3つほどある」
考え込む俺に、レベッカが釘を刺すように言う。
「なんだ?」
返す声が少し低くなったのは仕方ない。
「ひとつめ」
ピッと人差し指を立てた。
「当たり前のことだが、その4ヶ月の間にあの子を手放すことは禁止だ」
「ああ」
もちろんそうだろう。
ただ、その条件は目標達成の障害ともなる。
なるべく早くファルの行き先を見つけて、生活費をひとり分という手段が取れなくなってしまうということだから。
「ふたつめ」
中指が立つ。
「慣れない仕事……つまり君が日ごろからやっている以外の仕事は禁止だ」
「……なんだと?」
これは理不尽な要求だった。
だが、レベッカは当然という顔をして、
「そりゃそうだろ? 無茶なことして捕まったり死なれたりでもすれば、貸してきた金がすべてパアになるからね」
「それはそうかもしれんが、それでどうやって――」
「少なくとも期間中、私は君にそういう仕事を回すつもりはない」
「……」
確かにそういう類の仕事はこいつ経由で入ってくることがほとんどだった。
他のルートで仕入れることも不可能ではないと思うが、その場合は余計な手間もかかるし、リスクも高くなるだろう。
「最後に」
薬指が立った。
「私は今まで以上に、朝から夕方までこの家を空けることが多くなる。その間、あの子をこの家にひとりにしたりしないこと」
「……つまり、朝から夕方までの時間には仕事をするなってことか?」
「あの子を連れてなら、いくら働いても構わないが?」
レベッカはしれっとそんなことを言ったが、仕事の性質上、そんなことが簡単にできるはずもない。
言い換えればつまり。
ファルを手放すことなく。
高報酬でハイリスクの仕事もせず。
残業も禁止。
と、いうことになる。
「……無理だ」
考えるまでもなかった。
それでどうにかなるなら、そもそも最初からこいつに借金する必要なんてないだろう。
「そんなの、不可能に決まっている」
そうつぶやくと同時に腹立たしさが込み上げてきて、俺はレベッカをにらみ付けるようにして言った。
「どういうつもりなんだ? ここを出ていくか、あいつを見捨てるか、どちらか選べってことなのか?」
「そんなつもりはない」
「そう言ってるも同じだ!」
ついつい声を荒げてしまう。
そりゃ偉そうなことを言える立場じゃないのはわかっている。こいつには俺に金を貸さなきゃならない義務なんてないし、それは仕方ない。
けど、それならそうとはっきり断ってくれればいいのだ。
こんな無茶な条件を提示するのは、悪質な嫌がらせとしか思えなかった。
「ま、どう取るかは君の自由だよ」
レベッカは相変わらず動じない。
その表情から何を考えてるかを読み取るのは不可能だ。
「ただ、ひとつだけ言わせてもらうと」
ゆっくりと立ち上がって近付いてくると、俺の胸に人差し指を置く。
その瞳が、一瞬だけ異様な光を帯びた。
「よく考えて、後悔のない選択肢を選ぶんだ、カール」
「……っ」
驚く。
いつものこいつとはまるで違う。
真剣で、切羽詰まっているかのような。
……そう。
もしかしたら、今の俺と同じような表情。
言葉を失った。
「君にとって本当に大事なことが何なのか。君が守ろうとしているものは何なのか。よく考えてほしい」
「何を言ってるんだ、お前……」
「考えろ、カール。私は理不尽な選択肢を突きつけたつもりはない」
「……」
指先で胸を軽く押されただけで、大きくよろける。
それほど呆然としていた。
「……」
レベッカはそんな俺を一瞥するなり、無言で横を通り抜けていく。
そして一瞬の後。
「あ、お話、もう終わったんですか?」
「ああ。しかしカールもひどい奴だな。風呂上がりの少女に台所掃除を押しつけるとは」
背中越しに聞こえてきたのは、普段と変わらない2人のたわいもない会話。
「ひどくなんかないです。私、お掃除好きですから」
「君が好きなのは掃除じゃなくてカールの方じゃないのか」
「そ、そんなんじゃ……それにレベッカさん! 声が大きいですよ!」
まるで仲の良い姉妹のような。
「大丈夫大丈夫。彼は今、色々考え事をしているみたいだから。どうせ聞いてないよ」
「そ、そうですか……?」
(……なんなんだよ)
わからなかった。
あいつが一体何を考えているのか。
何を考えて、俺に何を期待しているのか。
(どうしろ、ってんだ……)
神ならざる俺に、その答えなどわかるはずもなかった。