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或る小悪党の苦悩  作者: 黒雨みつき
その3『せつない恋人たちの子守唄』
15/29

甘い幻想


 寝覚めは近年最悪といってもよかった。


「〜〜〜〜っ」


 頭はガンガンするし、体はダルい上に節々がミシミシと音を立てそうな痛みを訴えている。


(くそっ、確か――)


 背中に感じる床の感触、窓から射し込む光の角度がいつもと違うことに気付いて、俺は昨日の状況を思い出した。


(ああ、二日酔いだな……)


 頭が痛いのと体がダルいのはそのせいだろう。

 そして体の節々が痛いのは、床に直に寝ていたためだ。


「ちっ……」


 激しい後悔が襲ってくる。


 後になって気分が悪くなるような飲み方だけは絶対にするまいと常日頃から心に誓っていたのだが、昨日の俺はそのことすら忘れてしまう状態だったらしい。


 記憶は多少断片的になっていたが、もちろん原因はしっかり覚えている。


 そう。……あいつが死んだこと。


「……ふうっ」


 胃の奥から息を吐き出して、きしむ体をゆっくり起こす。


 外はまだ薄暗く、太陽がようやく頭のてっぺんを出し始めたぐらいの時間。外は静かで、家の中でもかすかな寝息が聞こえていた。


「……」


 昨晩のことを思い出して、ベッドの上を見る。


「すぅ……すぅ……」


 寝息の主は確認するまでもない。


「……ちっ」


 昨日、そのベッドの主と交わした会話を思い出して、俺は少し暗い気持ちになった。


 と言っても、こいつに対しての怒りが再燃したというわけではない。


 その逆だ。


(完全に言い過ぎたな……)


 そのときはシラフのつもりでいたが、今思い返してみればやはり酔っていたのだろう。


 まったく心にないことばかりを言ったわけではないが、確信を言葉にしたわけじゃなかったし、何よりも言う必要のないことばかりだった。


 つまり、結局は八つ当たり以外の何物でもなかったのだ。


「くそ……」


 激しい自己嫌悪に駆られながら、フラつく足でトイレへと向かう。イライラと同時に急激な吐き気がせり上がってきたためだ。


「っ……かはっ……はあっ……!」


 胃の中のものを戻してただよってきた匂いは、ファルと出会ったあの村の情景を思い起こさせた。


 吐けるだけ吐いてから、脱力してトイレの壁にもたれかかる。


「はっ……これじゃ、俺もあのクズどもと変わらんな……」


 そんなつぶやきがもれた。


 今になって気付いたことじゃない。けど、俺は自分自身で作った最低限のルールを守ることで、そういう奴らとは一線を画しているつもりでいたのだ。


 けど、昨日のザマじゃ、とてもそんな偉そうなことは言えない。


 同じだ。

 道端で酒ビン片手に転がっていた連中と。


「……っ」


 トイレを出て、水で口の中を洗い流す。


 吐いた直後で胸のむかつきは少しだけ和らいでいたが、頭の奥の痛みと激しい自己嫌悪だけは消えなかった。


「はぁっ……」


 重いため息を吐いて、静かに部屋の中へと戻る。


(ひとまず――)


 俺はベッドに目をやって、そこにファルの姿があることをもう一度確認した。


(あれでまた飛び出していったりしなかったことが、不幸中の幸いか……)


 自分がかぶっていた毛布の上に腰を下ろし、重苦しい体をそこに落ち着ける。


 こういうとき、他の奴らならタバコに火を点けたりするのかもしれないが、残念ながら俺にそういう習慣はなかった。


 そして、再び昨日の出来事に思いを巡らせる。


(……謝ったほうがいいんだろうな)


 おそらくそれが正しい選択なのだろうと思う。

 ただ、そうするのはいいとして、一体どのように説明すればいいのだろうか。


 俺が言ったいくつかの言葉は、まったくのデタラメだったわけじゃない。少なくとも心の片隅には存在している思いだったし、本心に限りなく近い言葉も含まれていた。


 すべて嘘で、酒のせいだと言い訳するのか。


(……冗談じゃない)


 それこそ自己嫌悪が上塗りされるだけだ。

 そんなことは言いたくない。


(俺の本心は……どうなんだ?)


 あいつが俺の体を心配したという、そのことについて。


 あのときは勢いで、媚を売ってるだけだなどと言ってしまったが、あいつの普段の態度から考えると、本当に心配していただけなのかもしれないとも思える。


 ……いや。


 『かも』じゃない。

 そんなこと、考えるまでもなかった。


 俺はずっと昔、あいつと出会ったそのときにすでに感じていたのだ。


 あいつはおそらく、他人に媚を売ったり同情を買おうとするような奴じゃない、と。


(俺が悪かった、か……)


 とすれば、やはり謝らなければならないだろう。

 少なくとも、その発言については。


 ただ、俺の私生活に口を出してきたことについては、あいつに体を心配されるいわれはないのだし、言い過ぎだったにせよ、発言を撤回するまではしなくていいだろう。


(……よし。そうするか)


 あの発言に関してだけは素直に謝る。

 それ以外の言い訳じみたことは言わない。


 それで決まりだ。


(しかし、どーもな……)


 今までなかったことだけに、妙な感じだ。


 いや、別に他人に謝るのは珍しいことでもないのだ。


 例えばレベッカの奴に迷惑をかけたときとか、あるいは仕事をスムーズに進めるために悪くもないのに謝ったりすることだとか、そういうのはしょっちゅうだから。


 だけど、その相手がファルとなると、何だか妙に胸がざわざわした。


 そもそも、まだ相手が目覚めてもいないのに、謝罪の言葉を探してしまっている時点ですでにおかしい。


(そりゃあ、余計なことを言って、また飛び出されても厄介なんだが……)


 どうにもすっきりしない。


 外は徐々に明るくなってきている。

 そろそろ俺がいつも帰宅している時間だから、ファルとレベッカも目を覚ます頃だろう。


 ……と、そのとき。


(……ん?)


 ふと、違和感を覚えた。

 と同時に、小さく口ずさんでいたメロディを止める。


(なんだ……?)


 無意識だった。

 気持ちを落ち着かせるために、俺は無意識に歌のメロディを口ずさんでいたのだ。


 いや、それ自体は別におかしいことではない。


「〜……」


 もう一度、そのメロディを口ずさむ。


 スローテンポの、かすかに郷愁を呼び起こすような旋律、おそらくは子守歌かなにかだろう。


 ……まったく覚えのないメロディだった。

 にもかかわらず、口から自然に出てきたのだ。


「〜……」


 もう一度、口にしてみる。


 最近、こんな曲を聴いた覚えはない。

 ファルと一緒に行ったコンサートだって、こんな曲はなかったはずだ。


(……なんなんだ)


 あるいは、はるか昔に聞いた曲が今になって頭の中によみがえってきたのだろうか。


「〜……」


 耳ざわりの良いメロディ。

 自分自身の歌で気持ちが落ち着くなんて、俺にとっては初めての経験だった。


 不思議な、感覚。


(……っと)


 知らず知らずに音量が上がっていた。

 歌を止める。


 と同時に、隣の部屋から人影が現れた。


「カール。随分と機嫌良さそうじゃないか」


 やはり最初から起きていたのだろう。今、目覚めたのだとしたらタイミングが良すぎる。


「よくねえよ。二日酔いで頭は痛ぇしな」


 俺が素っ気なくそう返してやると、


「気分悪いときには歌なんて出てこないもんだ」


 言いながら、レベッカは大きく背伸びをして洗面所の方へと歩いていった。


「お前なあ……その格好は寒くないのか?」

「最近はこれで充分だよ」


 そう答えて軽く手を振るレベッカ。


 こいつは寝間着に着替える習慣がないので、冬は普段着で寝ているし、暑くなってくれば肌着のままで寝る。


 今は上半身にはシャツを着ているが、下は肌着だけだった。


 一緒に暮らし始めた頃は、そういう格好で起きてくることにクレームをつけてやったものだが、こいつ自身がまるで気にする様子もないし、不思議と俺もすぐに慣れてしまったので、今では何も言わなくなった。


 水の流れる音がして、しばらく。


「朝食はないのか」


 タオルで顔を拭いながら、レベッカが戻ってくる。

 その言葉に眉をひそめて、


「それは俺が当然のごとく用意しなきゃならないものなのか?」

「別に強制はしないが」


 言って、部屋の隅にあったクッションに腰を下ろすと、


「謝罪にはやはり誠意が伴ってないと」

「……お前って、ほんっとにイヤな奴だな」


 なんでこいつはここまで俺の行動を先読みできるのだろう。


「謝らないのなら、私は君を軽蔑するよ」


 言ってから、いつものしれっとした顔で、


「私も朝飯作るの面倒だし」

「……そっちが本音だろ」


 相変わらず真意のつかめない奴だった。

 が、こいつの言うことにも確かに一理ある。


「はあ、やれやれ」


 仕方なく、ズキズキ痛む頭とダルい体を奮い立たせ、朝食の準備をすることにした。


 元々そんな贅沢なものを食って生きてるわけじゃないし、朝食といってそれほど手間がかかるわけじゃない。


(あー、いてえ……)


 動くたびに痛みが走る頭に片手を添えながら、適当にメシを作っていく。


 そうしているうちに外はどんどん明るさを増し、窓からも直接光が入ってくるようになってきた。


「……しかし」


 そうしながら振り返る。


 レベッカはいつまであの格好なのか、クッションの上で呑気に本なんか読んでいるし、ファルの奴は未だにベッドですやすやと寝息を立てていた。


「そいつ、この時間ならいつもは起きてるんじゃないのか」

「ああ、そりゃあ」


 レベッカは本から顔を上げようともせずに、


「昨日は夜ふかししてたみたいだから」

「夜ふかし?」

「子守歌を聴きながら寝たのなんて何年ぶりかな」

「……なんだ?」


 いまいち意味がわからない。


「子守歌なんか歌わせたのか?」

「いい声をしてるね、この子は」


 微妙にずれた返答をして、


「たとえ前後不覚におちいったクソみたいな酔っぱらいでも、きっと安らかに眠れたに違いない」

「……」


 間違いなく嫌味であることはわかるが、俺はあいつにそんなものを歌わせた記憶はない。


 そもそも、昨日はそんな間もなくすぐ寝付いてしまったのだから。


(……なんなんだ)


 いまいち釈然としないまま、俺は作業に戻った。


「……うぅん」


 ファルがかすかな反応を示したのは、俺がちょうど朝食を作り終えたときだ。


 ベッドの上で少し身じろぎしながら、


「カーライルさんー……そんなに押したらベッドから落ちてしまいますー……」

「なんだよ、そりゃ」


 またわけのわからない夢を見てるらしい。


 レベッカもチラッとベッド上に視線をやって、


「なかなか楽しそうだね」

「うなされてるようにしか見えないが」

「願望が成就した夢でも見てるんじゃないの?」

「……ますますわからねえ」


 なんとなく想像できなくもなかったが、知らないフリをするのがよさそうだ。


 朝食をテーブルに並べながら、


「おい、レベッカ。そろそろそいつを起こしてくれ」

「古来より、お姫様を起こすのは王子様のキスと相場が決まって――」

「それはもういいから、頼む……」


 二日酔いの頭痛に加えてこいつにオモチャにされたのでは、精神的にかなりキツイ。


「仕方ない」


 レベッカはクッションから腰を上げて、ファルの寝ているベッドに近付いていく。


 そして、ゆっくりとその耳元に口を寄せると、


「ファル、起きて」

「うぅん……?」

「起きないとその愛らしい頬にキスをしてしまうよ……」

「……ぇ……ええッ!?」


 レベッカのセリフに、ファルがビクッと体を震わせて飛び起きた。


「……」


 このさい、俺の声真似ぐらいは許すことにしよう。

 効果抜群みたいだし。


「あ、あれ……?」


 一瞬、混乱していたようだが、さすがにレベッカの悪戯だとわかったらしい。


「あ、お、おはようございますー……あ、あの、レベッカさんですよね?」

「正解」


 レベッカは意外にも素直にそう答えてから、


「楽しそうな夢の最中に起こして悪かったね」

「えっ!?」


 寝起き早々、顔が真っ赤になる。


「あ、あ、あの……も、もしかして、私、何かおかしな寝言を言ってたりー……」

「言ってたよ。寝言」


 レベッカはまるでためらうことなくうなずいて、


「子供がもう3人ぐらい産まれてそうだった」

「……えええっ!」


 ファルの顔がゆでだこのように真っ赤になる。


「ち、違うんです! それはその、別に普段からそういうことばかり考えているというわけではなくてですね! せっかくカーライルさんが夢に出てきてくださったので、あくまでひとつの可能性としての新たな関係の模索を――」

「ああ、なんだ。相手はやっぱりカールだったのか」

「~~~~~~!」


 ファルは言葉を失い、抱えていた枕に顔を埋めてしまった。


「……その辺にしとけ」


 仕方なくレベッカの悪戯を止めてやる。


「あ……」


 ファルはそこで初めて俺がいることに気付いたようで、


「おっ……おはようございます、カーライルさんっ!」

「ああ」


 最後の皿をテーブルに置いて、ファルの元へ。


「ほら。いい加減に枕を離して顔を洗え」

「え……」


 戸惑った様子の手を引いて連れて行く。


「あ、あのー……」

「タオル」

「あ、は、はい」


 冷たい水に浸したタオルを渡してやる。


「あとはひとりで出来るな?」

「そ、それはもう――じゃなくて!」


 ファルは小さく首を振って、


「あ、あの……昨日は申しわけ――」

「待て」


 言いかけた言葉を制止する。


 この上、こいつに謝らせたりしたら、レベッカに何を言われるかわかったもんじゃない。


 そしてどう言おうか迷った末、俺はなんのひねりもない言葉を選んだ。


「昨日は悪かったな」

「……え?」


 きょとんとした顔。

 拭こうとしたタオルが口元で止まっていた。


「俺が悪かった」


 もう一度言ってやる。


「……」


 表情は動かない。

 タオルも口元で止まったままだ。


 ……なぜか徐々に顔が赤くなっていっている。


 そして数十秒。


「……ぷはぁっ!」

「筋金入りの馬鹿だろ、お前」


 呼吸までフリーズしてたらしい。

 が、こいつはそんな俺の言葉も耳に入っていない様子で、


「ああああの、わ、私、また何かカーライルさんのお気にさわることでも……!」


 普通に錯乱していた。


「あ、わ、わかりました! 運命の神様はきっとそうやって私のことを油断させておいて、あとでどん底に叩き落とすつもりなんです!」


 いや、かなり高いレベルで錯乱しているようだ。

 かまってられん。


「いいから、とっとと顔を洗え!」

「はっ、はいぃっ!!」


 ビシッと敬礼する。

 結局、こんな感じになるらしい。


(ま、とりあえず謝るには謝ったんだからいいだろ……)


 タオルで顔を拭い始めたのを見て、俺はテーブルに戻る。


 思ったよりも落ち込んでいなかった。

 今まで以上にきついことを言った自覚があったので、その辺は少し意外だ。


 以前のあいつなら、昨日のような突き放す発言にはひどく反応していたものだが。


(前ほどは……俺に対する接近欲がなくなったか)


 だとしたら、それに関してはいいことだ。

 もし例のコンサートがその要因だとするなら、連れ出した甲斐もあるというもので。


「顔が淋しそうだぞ、カール」

「……お前は」


 俺はこめかみをピクピクと震わせながら、


「他人の心を読んだ上で、しれっとデタラメを吐くんじゃねえよ!」

「気のせいか。……けど」


 レベッカは相変わらずこたえた様子もなく、横目でファルの様子をうかがいながら、少し意味ありげに口元に笑みを浮かべる。


「どっちにしろ、君の認識は間違っていると思うけどね」

「なに?」


 いまいち意味のわからない言葉だった。


 ……いや。


「カーライルさん、あの」


 顔を洗い終えたファルがやってくる。


 大事そうに胸に抱えていたのは、見慣れない包み。


 記憶は曖昧だったが、確か昨日こいつがわざわざレベッカと出かけて買ってきたものだったか。


「昨日は酔ってらしたので、お渡しできなかったのですが」

「……」


 怪訝な目を向けると、そんな雰囲気を察したのか少し焦ったような口調になって、


「あのっ……わ、私、目が見えないのでデザインとか全然わからないんですけど、でも、カーライルさんに使っていただければと思いましてっ」


 おそるおそる、両手でそれを差し出してくる。


「……俺に?」


 チラッとレベッカを振り返ると、やはり先ほどの笑みを浮かべたまま。


(……なるほど、そういうことか)


 包みに入っていたのは、シンプルで動きやすそうなシューズだった。


 レベッカがついていったおかげかサイズはピッタリ。

 デザインは正直、気にしないのでどうでも構わない。


「……」


 俺の認識が間違っている、と、レベッカは言った。

 それは、もしかすると正しいのかもしれない。


「あの金で買ったのか?」


 問いただすと、ファルはすぐに、


「はいっ。あの、好きなように使えと言われましたので」

「俺はお前に言ったはずだな?」


 シューズを床に置いて、俺は少し顔を近付けた。


 目が見えないファルにもその気配は伝わったようで、少し緊張したような表情になる。


「お前の面倒を見るのは俺の義務だ。それに対して、お前が俺に何か貢献する必要はない、って」

「……はい」


 俺の言葉に少し押され気味だったが、ファルは素直にうなずいた。


「わかっているなら、どうしてこんなものを買ってきた?」


 別に詰問しているつもりではなかった。

 ただ、口調は少し厳しいものになっていたかもしれない。


 だが、そんな俺の言葉にも、ファルはまるでためらうことなく答えた。


「それが一番、私のためになる使い方でしたので……」

「……」


 俺が黙っていると、ファルは補足するようにさらに言葉を続けた。


「その……本当に楽しかったんです。何を買ったらいいかな、とか、どんな反応をしてもらえるのかな、とか、そういうことを考えるだけでも、本当に」


 そうしているうちに、徐々に笑顔が戻ってくる。

 声も弾んでいて、それは確かに楽しそうで。


「……」


 昨晩の記憶が刺激される。


(……そうか)


 帰ってきたときの陽気さは、つまりそういうことだったのだ。だからきっと、こいつの今の言葉は取って付けたものなんかじゃない。


 そして――それならなおのこと。


 おそらく昨晩、俺が発した言葉は、いつも以上の鋭さでこいつの心をえぐったことだろう。


 その事実を知って、わずかに胸が痛む。


 だが、それでもなお。

 こいつはへこたれることもなく、こうして近付いてくるのだ。


(これじゃ……レベッカの奴に言われて当然か)


 そんな俺の胸の内も知らず、ファルはすでに満面の笑顔になっていた。

 言葉はやはり弾んでいて。


「その、私が期待してたのとは少し違いましたけどー……でも、色々想像するのが楽しかったんです。ですから――」

「……本当に悪かったな」

「え?」


 思わず発した俺の言葉に、ファルの表情が再び驚きに彩られた。


「あ……」


 そしてすぐに思いついたかのように、目の前で手をブンブン振ると、


「あ、あの! そ、それは、私が勝手に、その、喜んでくれるかなーとか想像していただけでして! 私としてはー……その、たとえそのままゴミ箱に捨ててしまわれてもなんの文句もありませんので!」

「そっちじゃない」


 そんなもったいないことをするはずもない。


 錯乱気味のファルの手を引いて、ゆっくりとテーブルに着かせる。


 朝食は少し冷めてしまっているようだが、そこまでグルメなやつはいないから問題ないだろう。


「あ、あのー……」


 ファルはいまいち状況が呑み込めていないようだ。

 不思議そうにこちらを見上げている。


 ……今回ばかりは、ちゃんと伝えてやるべきか。


 俺はファルの小さな頭にそっと手を置いて、


「もう、昨日みたいな馬鹿な飲み方はしない」

「え?」

「体に悪いから、だろ?」

「あ……」


 きょとんとした顔。

 目が大きく見開かれて。


 一瞬、周りの空気が震えたような錯覚。


 そして、


「あっ……あれっ……?」


 戸惑ったような声とともに、こちらに向けたその瞳から涙があふれ出した。


(……やっぱり泣くのか)


 俺にとっては一応予想の範囲だった。

 だが、


「わっ、わわっ、なんでっ……?」


 本人にとってはまるで想定外の出来事だったらしい。

 慌てた様子で流れてきた涙を拭いながら、


「ち、違います! わ、私、泣いてないですよ!?」

「……」


 悲しくて泣いてるんじゃないのは俺にだってわかる。


「こ、これは……そう! いわゆる心の汗というものでして!」


(……なんだそりゃ)


 そんな錯乱状態のこいつが妙におかしくて、俺は声に出さないように笑いながら、


「もういい」


 もう一度、軽く頭を撫でてやる。


「メシにするぞ。……おい、レベッカ!」

「もういいのか?」


 気を利かせたつもりなのか、部屋に戻って着替えていたらしい。普段着だった。


「うう……」


 ファルは全員が席に着いてからもまだ涙を拭い続けていたが、それがようやく収まってくると、


「……そ、その」


 少し、こちらをうかがうように顔を上げた。


「なんだ?」

「えと、その、あ、ありがとうございます……」

「……」


 謝ったことに対して礼を言われるというのも奇妙なものだ。


 ただ、晴れ晴れしたこいつの表情を見ていると、別に突っ込む必要はないのかもしれないと思える。


「とりあえずとっとと食っちまうぞ。……ま、少し冷めちまってるけどな」

「きょ、今日はもしかしてカーライルさんの手料理ですか!?」

「そんな大げさなもんでもない」


 だが、ファルは胸の前で両手を組んで、目をキラキラさせると、


「そんなことないですよー! カーライルさんのお作りになられたものでしたら、たとえ炭の塊でもおいしくいただけます!」

「食ってみるか、炭?」

「……あ。いえ、あはは……」


 笑って誤魔化した。

 もういつもの調子だった。


「……」


 そうやって喜ばれるのは悪い気分でもないが、別に俺が作ったもんを食うのは初めてじゃないだろうに。


「料理の最高のスパイスは『愛情』だそうだ」


 相変わらずマイペースに食事を進めながら、レベッカがボソッと言った。


「ふむ。とすると、カールには私に対する愛情がいまいち足りてないな」

「文句言うなら食うんじゃねえよ」

「あ、私はとてもおいしくいただいてますよ!」

「そうか」


 フォローなのかもしれないが、実際、おいしそうに食べてはいる。別においしくしようとか考えて作ったものでもないが、文句を言われるよりはよっぽどいい。


 そして流れていく。

 俺にとっては本当に久々の朝食風景。


「それでですねー、昨日は……」


 弾んだファルの声。

 受け答えするレベッカの言葉も、今日はどこか違って聞こえる。


 そして、おそらくは俺も。


 ――懐かしい。


(懐かしい?)


 なぜだかそう感じた。


 俺にとってこんな朝食は初めてのはずのに、どこか懐かしい。一家団らんなんてものがあるのだとすれば、こんな感じなのだろうか。


(疫病神、か……)


 こいつは俺に何ももたらしてはくれない

 今までずっと、そう思っていた。


 けど、もしかしたらそれは――


(……ヤバいな)


 一瞬冷静に返って、そして初めて自覚した。


 もしかすると、俺はとっくに捕らわれていたのかもしれない。


 耳に届いてくる、明るい声。

 こちらに向けられる、無垢の笑顔。


 そして帰ってきたとき、そこに誰かが待っていること。


『懐かしい』


 それはここが、こいつのいるこの場所が、俺にとっての帰るべき場所になってしまっていることの証なのか。


(帰るべき場所……か)


 それは、いつからだったのだろう?


 さっき、プレゼントを受け取ったときか?

 数日前一緒にコンサートに行ったときか?


 それとも3ヶ月前、こいつの中に昔の俺自身を重ねてしまったときか?


 あるいは――


(……ダメだ!)


 そんな考えを慌てて吹き飛ばす。


(冗談じゃない……)


 俺たちがそれを望めば、どうなるか。

 あいつが教えてくれたばかりじゃないか。


 明日を生きることに何の保証もない、そんな俺たちが、たとえひとりでも他人の運命を背負い込むことは困難だ。


 そして現在、俺はすでに診療所にいる弟の運命を背負い込んでしまっていた。


 いくら俺が頑張ろうとも、これ以上は絶対に不可能。

 そんなのはわかりきったことだ。


(大丈夫。今は少し感傷的になっているだけだ……)


 俺はいつの間にかこの生活を楽しいと感じてしまっている。

 それは認めざるを得ない。


 だが、たとえそうだとしても、俺はいつでもこの生活を捨てられる人間でなければならなかった。


 ――すべては一時の幻想。


 ハッと気が付いたとき、そこに待っているのは非情な現実でしかない。


 いつものこと。


 あの日――初めて優しく手を引いてくれた母親は、もう二度と俺たちの前には現れなかった。


 期待したところで、待っているのはいつも同じ結果だ。

 そして今の俺には、そんな幻想よりも守らなければならないものがある。


 だから、俺はまだそんな不安定なものに転ぶわけにはいかないはずだった。


 ……だけど。


「カーライルさん!」

「ん?」


 ボーっとしてた。

 しかも、ずっと目の前の人物を見つめたまま。


 相手の目が見えなかったのは、不幸中の幸いかもしれない。


「なにかお考え事ですか? 急に静かになられたようですけどー……」

「いや、なんでもない。少し胸がムカムカしててな」

「もしかして二日酔いですか?」

「ああ」

「それなら、私にお任せください!」


 ファルは嬉しそうな顔をして、ドン、と胸を叩く。


「私、二日酔いに効くツボを知ってますから!」

「ツボ?」

「はい! えっと、ベッドの方に座っていただけますか?」

「まあ、構わんが」


 特に断る理由もなく、言われるままにベッドに腰を下ろす。

 レベッカの奴は相変わらずマイペースに食事を続けながら、しっかりとこっちの様子を見ていた。


「じゃあ、上半身裸になってください。……あ! その! 私はどうせ見えませんので――!」

「いちいち言い訳しなくていい」


 たとえ見えたところで恥ずかしがるほど子供じゃない。


「んしょ……っと」


 俺が服を脱ぐと同時にファルはベッドに上がり、そのまま背後に回った。


「で、では、失礼します」


 その言葉とともに、ピタッと、脇腹にヒンヤリした両手が添えられる。

 その冷たさが、少し心地よい。


「ぅわ……」

「ん?」


 突然聞こえた妙なため息に、何事かと思ってチラッと振り返ると、


「た、たくましいですね……」


 なぜか顔を赤くしていた。


「……」


 ガタッ。


「わっ! な、なんで逃げるんですか!!」


 慌てて手を伸ばし、なんとか俺のズボンをつかんだファル。


「なんか背筋が寒くなった」

「そ、そんなあ……」

「だったら真面目にやってくれ」


 泣きそうだったので、とりあえず元の位置に戻ってやる。


「うぅ」


 悲しそうにしながらも、今度は真面目に俺のお腹に手を当てて、


「えっと……この辺……」

「ぉっ……」


 右肋骨の下辺りを軽く押し上げるように揉んでくる。


 最初は軽く。

 徐々に強く。


「あ。体を軽く前に倒していただけますか?」

「おぅ……」


 何となく妙な感覚だ。


 ある程度右を揉むと、次は左へ。

 それを幾度か繰り返していく。


「どうですかー?」

「あ、あぁ……」


 答えはしなかったが、結構気持ちいい。

 頭痛は取れないものの、胸のむかつきは間違いなく収まってきていた。


「んしょ、んしょ……」


 懸命なファルのかけ声。


 そうしているうちに、少しずつ手の平が汗ばんでくる。

 こっちはそれほど感じないのだが、やってる方にすれば意外に力がいるのだろう。


 そうしていたのは、時間にして5分ぐらいだろうか。


「もういいぞ」


 俺はそこでマッサージを止めさせた。


「え……?」


 ピタッと動きが止まり、それから不安そうな視線が向けられる。


「あ、あの、全然ダメでした?」

「……いや」


 ゆっくりと体を離し、脱ぎ捨てた上着を手に取る。

 そして不安そうなファルに言ってやる。


 本心からの言葉。


「だいぶ気分が良くなった。サンキュな、ファル」

「は……」


 一瞬、ほうけたような反応。


「……は、はい! えと、またいつでも言ってください!」


 満面の笑顔がそこを支配した。

 額にうっすらと汗を浮かべながら。


「また、って、もう馬鹿な呑み方はしないって言ったはずなんだがな」

「あ。そ、そういえばそうでしたね……」


 ファルは少し残念そうな顔をした後、照れたような笑みを浮かべた。


「……」


 そんなこいつの反応に、頭のどこかが熱くなる。


 ……わかっているのに。

 たぶん、それはいつもの序章でしかないと、わかっているのに。


 それなのに、俺の頬はわずかに緩んでしまう。

 ひたむきで、まっすぐな少女の笑顔に。


「ああ……」


 つられて微笑んでしまうのだ。


「いつか……また、頼むかもな」


 いつしか染み付いてしまった、最近の日常。


 そして、


「……」


 そんな俺たちをレベッカは無言のまま、どこか複雑そうな表情で見つめていた。


 何が言いたかったのか、そのときの俺はまったく気付くこともなく。


 ……もちろん俺はわかっていたのだ。


 甘い幻想はいつだって。

 非情な現実の入り口にすぎないことを――


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