凶報
寝耳に水。
青天の霹靂。
それが朗報であればこれほど嬉しいことはないが、残念ながら俺たちの住む世界でそういったものが朗報である確率は、その逆のおそらく1割にも満たない。
それは、次の日の昼過ぎ、夕方も近くなっていたころのこと。
仕事後の眠りから目覚めた俺を待っていたのは、ひとつの訃報だった。
「……死んだ?」
俺に情報を持ってきたのは珍しくレベッカじゃなかった。
「あいつが?」
俺の言葉の先には、暗い顔であぐらをかいた体格の良い男がいる。
冗談の好きな奴だ。
オカマっぽいしゃべり方で冗談を飛ばし、周りを笑わせるのが得意な奴だ。
……けど。
「冗談、じゃ、ないんだろうな」
残念ながら、そんな縁起でもない冗談を言う奴でもなかった。
それがこいつと仲の良かった人間の話であれば、尚更。
「彼、ワリのいい仕事が入ったって、言ってたでしょ?」
表情は沈んでいる。
いつもの明るいトーンは影も形もない。
普段どんなときでも明るい奴だけに、それがひどく痛々しく思えた。
「詳しくはわかんないけど、デカイ組織同士の取引に関わってトラブったみたい」
「……」
そんなもんだろう。
事故でも病気でもなく、あいつが命を落とす出来事といったらそのぐらいしか思い浮かばない。
「なるほど、な」
別に珍しいことじゃなかった。
そういったデカイ組織にかかれば、ここにいる連中なんて使い捨ての紙くずのようなもの。そういう仕事は大きな見返りも期待できるが、リスクの方がはるかに大きい。
それで命を落とした奴を、俺はこれまでに何人も見てきた。
「馬鹿な奴だ」
目先の利益に囚われてそれで命を落とすなんてのは馬鹿のすることだ。
だから俺はコツコツとやる道を選んできた。
そして、それはあいつも同じ。……そのはずだった。
「馬鹿な奴」
そう言うしかない。
あいつはそれがどれだけ危険で愚かな行為であるか、十分にわかっていたのだ。
わかっていて首を突っ込み、そして命を落とした。
誰がどう見ても自業自得でしかなかった。
「……彼、最近おかしかったしね」
俺の言葉にそう返して、ゆっくりと立ち上がった。
どうやら、あいつと仲の良かった連中にこのことを伝えて回っている途中らしい。
「最近、滅多にしない自分の娘の話とか、よくしてたわ」
「……」
それは俺も直接聞いている。
加えて、今回の仕事が上手くいったらファルを引き取ってもいい、なんてことも、あいつは言っていた。
……本気だったのだろう。
もしかすると大金を手に入れて、それを元手に人生をやり直そうなんて、そんなことを考えていたのかもしれない。
「はっ……」
自然と笑いがこぼれた。
どうして笑ったのか、自分でもよくわからなかった。
「……馬鹿な奴」
口をついて出たのは同じ言葉。
確かに、誰かを養おうとするなら、誰かとともに生活しようとするなら、俺たちの仕事では色々と不都合がある。
金銭的にもそうだし、いつ官憲に捕まってもおかしくない身でもあるからだ。
並の人間と同じ暮らしがしたいなら、そういう生活に戻りたいのなら、どこかで無茶をする必要は出てくる。
それはわかることだった。
けど。
「もう何年もひとりでやってきたくせに、まだそんなもんに未練があったってのか」
「そういう男だったのよ、きっと」
「……ふん」
それは俺もわかっていた。
どこをどう間違ってこんなところにやってきたのかは知らないが、あいつはきっと、平凡で普通の暮らしが一番ピッタリな男だったのだ。
だから、たとえあいつの行動に気付いていたとしても、俺にはそれを止めることも、あいつのために何かをしてやることも、できやしなかっただろう。
ここには、他人のためにそこまで動ける人間なんていやしないのだ。
みんな、自分のことで精一杯だから。
だから――それを考えた上での結論は、ひとつしかない。
「遅かれ早かれ、あいつは命を落とす運命だった。そういうことか」
「……」
返事はなかった。
ただ、離れていく足音が一瞬止まって、それから玄関のドアが閉まっただけだ。
「……はん」
再び、意味のない笑いがこぼれて――静寂が訪れる。
ほんの一瞬だけ、視界がブレた。
「……」
そして自然と、サイドテーブル上のワインに手が伸びる。
仕事前のこの時間に呑むことなんてまず有り得ないことだったが、今はそれを考える気にもなれなかった。
「他人との繋がりなんて、この場所で求めちゃいけねえってのに……」
フタを外してそのまま口を付けると、3分の2ほど残っていたそれの半分を一気に飲み干して、
「……馬鹿な奴」
口を拭って、つぶやきが自然ともれた。
西向きの窓から射し込む赤い日射しがやけにまぶしく、心なしか外の喧噪も遠い。
ゆっくり体を後ろに倒すと、コツンと後頭部が壁に当たる。
天井を仰いで、
「馬鹿な奴、か……」
思わずもう一度もれたつぶやきは、自嘲の笑みを伴った。
「はっ……お前だって、本当は大して変わらないんじゃないのか……?」
自問する。
俺は自分がもっと冷静な人間だと思っていた。誰が死のうが、誰がいなくなろうが、それはそれと割り切れる人間だと思っていた。
だが、実際のところはどうだ。
ちょっと交流のあった男がひとり死んだだけで、俺はこんなにもショックを受けてしまっている。
口で強がるのは簡単だったが、それで自分を誤魔化せるわけでもなかった。
「……いいさ。今日は思う存分弔ってやる」
今日はもう仕事に行く気がしない。
いや、これだけ呑んでしまってはもう無理だろう。
大事な約束があるわけでもない。
ワインのビンを目の前にかざす。
あいつと酒を酌み交わしたことはなかったが、不思議とどんな呑み方をするのかは想像できた。
あいつは意外にチビチビやるタイプ。
俺も本来はそうだったが、今日はそんな気分でもなく。
再びワインのビンに口を付け、一気に流し込む。
「……俺は、お前みたいにはならねーよ……」
そんな慣れない呑み方をしたせいか、最初のワインのビンが空になるころには完全に酔いが回り始めていた。
2本目のビンを手にして再び目の前にかざし、見えない相手と軽く杯を合わせる。
「お前と違って、もともと家族なんてもんは知らない。誰だろうと、自分の利益のためなら切り捨てられる……」
そんな、取り留めない思考の中。
ふと頭に浮かんだのは、最近ではすっかり見慣れた少女の笑顔。
「……冗談じゃねーよ」
嘲笑した。
「あいつなんて、俺にとっちゃなんでもないさ……」
そう。あいつなんて、俺自身と、そして俺が大事にしているもののためなら、いつだって無慈悲に、無造作に、そして無感動に切り捨てられる。
俺にとってのあいつは、まだその程度の存在でしかない。
「……まだ?」
思わず浮かんだその言葉に、自然と笑いがこぼれた。
「時間が経てば変わるってのか……は……ははっ……バカバカしい……」
そんなことがあるはずもなかった。
俺にとってのあいつは、ストレスを上昇させる原因であり、家計を圧迫するゴク潰しであり、単なる疫病神だ。
あいつは俺に何ももたらしてはくれない。
そんな奴に対して、どうして俺が情を向けてやらなきゃならないのか。
そんなのはナンセンスだ。
「なあ……お前はそんな奴とでも一緒に暮らしたかったってのか……?」
理解できない。
たとえ、実の娘の影をその中に重ねていたにしても。
それは俺には全く理解できないことだった――
西に沈みかけた太陽の下。
人もまばらな路地の中を、ファリーナ――ファルという名の盲目の少女が、背の高い女性に手を引かれて歩いている。
「どうもすみません、レベッカさん。こんなことに付き合ってもらってしまいまして」
「ん。ま、別に構わないよ」
「おかげさまで目的のものを買うことができました」
その胸元には両腕にすっぽりおさまるほどの包みがあり、少女はそれを大事そうに抱えていた。
「それにしても」
背の高い女性――レベッカという名の、ファルにとっては姉のような存在の女性が、少しだけ怪訝そうな声で問いかける。
「あのお金、君の自由に使えって言われてたんじゃないの」
「あ、はい」
その言葉にファルはニッコリと笑顔を返して、
「ですので、自由に使わせていただきました。カーライルさん、靴がボロボロだから新しいのが欲しいっておっしゃってたんです」
「なるほど」
レベッカの言う『自由に』は、『自分のために』という意味であったが、どうやらうまく伝わっていなかった。
……いや。
厳密に言うと、確かにその買い物は彼女のためでもあったのかもしれない。
なぜなら、
(カーライルさん、喜んでくれるかな……)
彼女はそれを想像して胸を躍らせていたし、もしそれが現実になったなら、間違いなく彼女自身にとっても喜ばしいことだったから。
それに彼女は、生活費以外のお金の使い方というものをまったく知らない。だから、これが彼女にとって最も自分のためになる使い道でもあったのだ。
「〜……」
自然、ファルの口から歌がこぼれ出す。
それは彼女が昨日のコンサートで最も気に入った『せつない歌』ではなく、聞いた中では一番陽気な歌だった。
「……」
しばらく黙ってそれを聞いていたレベッカだったが、やがて、まるでひとりごとのようにつぶやいた。
「君は、カールのことが本当に好きなんだな」
「え? はい、そりゃあもう――!」
反射的にそう答えた後、ファルは少しだけ慌てる。
「……あ、いえ! そーいう意味ではなくてですね! その、カーライルさんはお父さんみたいな方ですから!」
「別に私には言い訳しなくても」
「あ……」
みるみるうちに頬が赤くなっていく。
「そ、その……」
恥ずかしそうに顔を伏せ、ギュッと胸の包みを抱きしめると、
「カーライルさんは、その、とても優しい方ですので……」
「優しい、か」
レベッカの表情は少し複雑そうだったが、盲目の少女にそれを確認することはできなかった。
「あいつより優しくしてくれるのなんて、この世にはいくらでもいると思うのだが」
「……そうなのかもしれないです」
ファルは視線を下に向けたままで答える。
「でも、実際に手を差し伸べてくださったのは、カーライルさんでしたから」
「それはカールが――」
言いかけたレベッカの言葉をさえぎって、ファルはゆっくりと首を横に振った。
「わかってます。……カーライルさんもおっしゃってました。単なる失敗で、仕方なくだったんだって。私も最初は本当にそうなんだと思ってて。でも……」
グッ……と、つないだ手に少しだけ力が入る。
「一緒に暮らしてて少し経ったら、なんだかそうは思えなくなって。口で言うよりずっと、私のことを気に掛けてくださってるような気がして」
「なるほど」
「……お恥ずかしいです。私の勝手な妄想ですからー」
そう言って、ファルは照れ笑いを浮かべた。
「じゃあ、君は」
レベッカはピタリと足を止める。
自然、ファルの足も止まった。
「もしも叶うなら、カールとずっと一緒に暮らしたい?」
「え……?」
突然の質問に呆気に取られて、ファルは顔を上げた。
その質問の意図をうかがうように、少しだけ眉を動かす。
「ずっと、一緒に……?」
そしてすぐに視線が落ちた。
……彼女はそんなことを考えたことはなかった。
一緒に暮らすのは一時的なことだと最初から言われていたし、有り得ないことだと思っていたから。
だが、もしも。
もしもそれが叶うとするならば、彼女の答えは決まっている。
「それは……もちろんですよ」
言って、再び胸の包みをギュッと抱きしめた。
「そうなったらきっと、心臓が止まっちゃうぐらい幸せに違いないです」
「……ふぅん」
ファルには確認できないことだったが、レベッカは珍しく真剣な表情だった。
そのまま2人は再び歩き出す。
夕日の中、この薄暗い路地の世界に人影はほとんど見られない。あるとすれば、あまり大声では言えないような仕事に出かけていく者たちの姿だけだ。
ひどく寂しさを感じさせる赤く染まった道を歩き、2人が自らの家にたどり着いたのは、辺りがすっかり薄暗くなってしまったころ。
「……ん?」
そこで怪訝そうな声をあげたのはレベッカだった。
「明かりがついてるな」
「え?」
その言葉に、ファルも意外そうな声を返す。
「でも、カーライルさんはそろそろ出かけている時間ではないですか?」
「そのはずだけど」
「もしかして、ど、泥棒さんでしょうか……」
「うーん」
適当ながらも否定的な意味合いのうなりを返すレベッカ。
その後、
「もしかして……あの情報が入ったか」
そうつぶやいた言葉の意味は、ファルには全く理解できなかった。
そして一瞬の逡巡。
「ファル」
「はい?」
「カールは今日、仕事を休むようだ」
「え?」
唐突な言葉にファルは当然のごとく驚いた。
が、レベッカはそれを説明することはなく、
「そして私はたった今、大切な用を思い出した」
「え? え?」
「というわけで」
レベッカに引かれ、ファルの手は家のドアにまで達する。
「ここまでくれば大丈夫だろう? じゃ、私は出かけるから」
「あ、あのっ……」
「それと」
呼び止めるファルの声を無視して、レベッカは一言、
「プレゼントを渡すのは、明日以降にした方がいいかもしれないな」
「……?」
「じゃ、そういうことで」
それだけを言うと、まるで状況を把握できていないファルを置いて、レベッカの足音は遠ざかっていった。
「……」
残されたファルは、しきりに首をかしげるばかりだ。
(……レベッカさん、どうしたのかな?)
いくら事あるごとに『天然』とか言われている彼女でも、それが不自然であることは理解できた。
だが、それが一体何を意味しているのかまではわからない。
とりあえず、ドアノブを握る手に力を込める。
(でも、カーライルさんは珍しくお休みみたいだし……)
すぐにさっきまでの陽気な気分が戻ってきた。
(お布団はどうするのかな……カーライルさんを床に寝かせるわけにはいかないから、私が毛布で床に)
浮かれながらドアノブを回し、
(でも、も、もしかしたら、カーライルさんの隣で寝かせてもらえたり――)
勝手にそんな妄想をして、勝手に照れまくっていた。
だが、彼女がそんな風に浮かれていられたのも、家のドアを開くその瞬間までのこと。
「カーライルさん! ただい――」
すぐにその『異常』に気付く。
「――え?」
異臭だ。
といっても、それは彼女にとっては比較的嗅ぎ慣れた匂い。
(これ……)
それは……そう。
彼女がここにやってくる前の、酒場で歌っていたころの記憶を呼び覚ます匂いだ。
(お酒の……匂い……)
それは彼女を戸惑わせるのに充分すぎるものだった。
この部屋の主が酒を呑まないわけではない。むしろ、毎日のように口にしているのを彼女は知っていたし、そのときにだってアルコール臭はしていた。
だが、それはいつでも朝、彼が仕事から帰ってきてすぐ、寝る前に少量だけ。
もちろん悪酔いすることなんてなかったし、家の入り口からでもすぐにわかるような強烈なアルコール臭をただよわせているなんてこと、今までにはなかったことなのだ。
(……カーライルさん)
少女の中の嫌な想い出がよみがえる。
その匂いは、彼女が最もみじめな生活を送っていたころに、嫌というほど嗅いできたものだった。そしてそれは彼女自身に自覚はなくとも、トラウマに限りなく近いものを心の中に植え付けている。
「……」
足が震えた。
脳裏にいくつもの古い記憶がフラッシュバックしていく。
奥からの反応はない。
まだ彼女が帰ってきたことに気付いていないのか。
(……ううん!)
自分を奮い立たせるように首を振ったのは、たっぷり30秒ほどの時間が経ってから。
(カーライルさんは違う……あんな人たちとは違う!)
自らにそう言い聞かせて。
そして少女は両足に力を込め、家の中へと足を踏み出していった。