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君だけが知らない歌

作者: 時司 龍
掲載日:2026/08/30

 莉子(りこ)は泣くと、昔から俺のところへ来る。

 それが、いつからなのかは覚えていない。


 小学生の頃、飼っていた犬が死んだ時もそうだった。中学生の頃、仲の良かった友達と喧嘩をした時も。高校の卒業式の日、理由もよく分からないまま泣いていた時も。


 そして24歳になった今も。


 スマホが震えて、画面に『莉子』の名前が浮かぶと、俺は反射的に取ってしまう。

「もしもし」

『・・・(あおい)?』

 その声を聞いた瞬間、ああ、また何かあったんだなと思った。

「どうした」

『今、暇?』

「まあ・・・」

『ほんと?』

「嘘ついてる声に聞こえた?」

『聞こえないけど』

「じゃあ暇」

 短い沈黙。

 スマホの向こうで、莉子が小さく息を吐く音がした。


『会える?』


「どこ」

『駅前』

「駅前のどこ」

『・・・時計台のところ』

 ああ、と心の中で頷く。駅前の時計台。ここらでは待ち合わせの定番みたいな場所だ。

 金曜日の夜ともなれば、その周囲には待ち合わせをしている人間が何人もいる。恋人らしい男女。仕事帰りらしい会社員。スマホを眺めながら誰かを待つ学生。

 莉子も、その中の一人なのだろう。


 待ち合わせ相手は聞かなくてもわかる。・・・直人(なおと)。莉子の彼氏だろう。


「今から行く」


『・・・いいの?』

「会えるって言っただろ」

『でも、蒼、車でしょ?』

「そうだけど」

『飲んでない?』

「飲んでたら運転しねえよ」

『ごめん』

「何が」

『呼び出して』

「いいから待ってろ」

『うん』


 スマホを切った。俺はテーブルの上に置いていた車のキーを掴んだ。本当なら、もう風呂に入って寝るだけだった。

 今日は朝からアルバイトが入っていて、夕方からはスタジオで練習。売れないバンドマンの生活なんて、格好いいものではない。


 明日も、カフェとコンビニバイトの掛け持ち。

 夜は音楽。

 その合間に、夢を諦めたくない自分と、そろそろ現実を見ろと言う自分がいる。


 疲れていた。

 正直、面倒だった。


 ・・・莉子からの連絡でなければ。


 靴を履き、部屋を出る。エレベーターの鏡に映った自分は、寝る前の適当な格好だった。

 だるだるなジャージ。

 カッコつけたい気持ちもあるが、今更だ。中学のジャージで寝ている時に突然、部屋に入って来られた事だって何度もあるし。エロ本だって部屋中探されて、見つけられた事だってある。

「・・・まあいいか」

 誰に見せるわけでもない。そう思って駐車場へ向かった。けれど車に乗り込み、エンジンをかけてから俺は一度、バックミラーを見た。

 髪を手で軽く整える。

「・・・何やってんだ、俺」

 自分で自分に呆れた。会いに行く相手は、彼氏とデートする予定だった女だ。


 俺に会いたかったわけじゃない。


 ただ、予定をキャンセルされて、寂しくなって、たまたま俺を呼んだだけだ。それなのに、少しでもまともな顔をして迎えに行こうとしている。

 ・・・馬鹿みたいだった。実際、馬鹿だ。



 駅前へ近づくにつれて、道路は混み始めた。

 金曜の夜。

 仕事を終えた人間達が、街へ流れ出している。

 信号待ちの横断歩道には、手を繋いだカップルがいた。店のガラス越しには、向かい合って笑う男女がいる。そんなところにばかり目が行く。


 そのどれもが、俺には少し眩しかった。


 時計台が見えてくる。

 その下に、莉子はいた。


 すぐに分かった。人混みの中でも、昔から、莉子を探すのは難しくなかった。


 肩より少し長い、柔らかな茶色の髪。夜の照明を受けて、毛先がわずかに揺れている。

 白いブラウスの上に、薄いベージュのカーディガン。膝下まである淡い色のスカート。足元は低めのヒール。

 派手な格好ではない。けれど、明らかにいつもよりちゃんとしていた。髪も綺麗に巻かれている。

 小さなピアスが、街灯を受けて光っていた。

 デートのために準備したのだろう。

 それが分かるから、胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 歩道脇に車を寄せる。ハザードランプを点けると、スマホを見ていた顔が上がる。

 莉子がこちらに気づいた。そして、ほんの少しだけ笑った。

 その笑顔を見ただけで、来てよかったと思ってしまう。


 馬鹿だ。


 助手席のドアを開けると、莉子が乗り込んできた。

「お邪魔します」

「自分の車みたいに言うな」

「蒼の車、何回乗ってると思ってるの」

「知らん」

「多分、直人より乗ってる」

「それは嫌な比較だな」

 シートベルトを締めながら、莉子が笑う。けれど、笑顔は長く続かなかった。

「・・・ごめんね」

「だから何が」

「急に」

「別に」

「別にって顔じゃない」

「どんな顔だよ」

「寝る前の顔」

「それは否定しない」

「やっぱり」

「でも、電話取ったの俺だろ」

「うん」

「なら、呼ばれる覚悟くらいある」

「何その覚悟」

「知らん」

 莉子が小さく笑った。


 車を発進させる。

 バックミラーの中で、時計台が少しずつ遠ざかっていく。さっきまで莉子がいた場所。直人を待っていた場所。

「で?」

 俺は前を見たまま言った。

「何があった」

「・・・」

「また直人だろ?」

 返事はなかった。

 代わりに、莉子が窓の外を見た。車窓に映る横顔。さっき見たときよりも、少しだけ疲れて見えた。


「喧嘩した」


「また?」

「またって言わないでよ」

「この前も喧嘩したって電話してきただろ」

「その時とは違う」

「はいはい・・・」

「ちゃんと聞いて」

「聞いてる」


 信号が赤になる。

 車が止まる。

 横断歩道を人が通り過ぎていく。

「今日さ。直人とご飯食べる約束してたの」

「うん」

「2週間前から」

「うん」

「なのに、仕事が長引いたから無理だって」

「仕事なら仕方ないだろ」

「蒼まで直人の味方するの?」

「してない」

「してる」

「してないって」

「してる」


 信号が青に変わった。

 アクセルを踏む。前の車について、ゆっくりと進む。

「・・・それで?」

「最初から言ってるじゃん。ご飯行く約束してたの。私、仕事終わってから一回家帰って、着替えて」

 莉子が自分の髪を触る。

「髪も巻いて」

「見れば分かる」

「え?」

「いや」

「なに?」

「・・・気合い入ってるなと思って」

「わざわざって言いたい?」

「言ってない」

「顔に出てる」

「運転中だから前見てる」

「ずるい」

 少しだけ莉子の表情が緩んだ。

「だって、久しぶりだったし」

 その声が小さくなる。


 俺は何も言わなかった。


「最近、全然会えてなかったの」

「忙しいんだろ」

「そうなんだけど」

「直人も仕事してるし」

「分かってるよ」

 莉子は窓の外を見た。街の明かりが、彼女の横顔を流れていく。

「分かってるけど・・・」


 また赤信号。また車が止まる。

 その時、莉子が小さく言った。


「たまには、私のこと優先してくれてもいいじゃん」


 胸の奥に、嫌なものが生まれた。

 今なら・・・そんな事を思った。直人に腹を立てている今なら。莉子が寂しがっている今なら。隙がある今なら。

 俺が。


『俺ならそんなことしない』・・・と言えばいい。

『俺なら約束を忘れたりしない』

『俺なら待たせない』

『俺なら、お前の事を一番にする』

 そう言えばいい。


 狭い車の中、他に誰もいない。逃げ場もない。莉子は俺のすぐ隣にいる。

 手を伸ばせば届く距離。その肩に手をかけて、ちょっと引き寄せるなんて簡単な事だ。

 今まで何度も、俺の助手席に座ってきた女。

 俺が好きな女。

 彼氏がいる女。


 そう言えば、何かが変わるかもしれない。


 莉子は俺を見るかもしれない。

 今まで一度も向けたことのない目で、俺を見るかもしれない。


 ・・・でも。

「直人も悪気はないんじゃないか」

 口から出たのは、そんな言葉だった。

 莉子がゆっくり俺を見る。

「・・・蒼って、本当に直人のこと好きだよね」

「好きじゃねえよ」

「なんでいつも直人のフォローするの?」

「してない」

「してるよ」

「仕事だったんだろ」

「そうだけど」

「だったら仕方ないだろ」

「・・・蒼は優しくない」

「なんでそうなる」

「私が怒ってるんだから、一緒に怒ってよ」

「直人、最低だなって?」

「そう」

「いや、それは言えない」

「なんで」

「知らん」


 本当は知っている。言えない理由なんて、ずっと前から分かっている。俺が直人を悪く言えば、俺の中にあるものまで、一緒に零れそうだからだ。

 直人なんかやめろよ。そんな男より、俺の方がいい。

 俺と一緒にいればいい、ずっと。


 ずっと前から、そう思っている。


 なのに・・・それを言葉にする勇気がない。勇気がないという言い方は、少し違うかもしれない。

 怖い。

 告白する事が怖い。

 断られる事が怖い。

 今の関係が終わる事が怖い。

 そして何より、もし俺の言葉が原因で、莉子が直人と別れたとして、その後で莉子が後悔したらどうする。

『蒼に相談したから別れちゃった』

『本当は直人の事、まだ好きだったのかな』

 そんな風に泣かれたら俺はきっと、一生後悔する。


 莉子が幸せになる事を願っている。


 それは本当だ。

 嘘じゃない。

 だけど、その幸せの隣にいるのが俺ではない事を、俺は一度も受け入れられた事がない。


「蒼?」

 呼ばれて、顔を上げた。

「聞いてる?」

「聞いてる」

「絶対聞いてなかった」

「聞いてた」

「じゃあ今、私が何言った?」

「・・・直人が仕事だった」

「最初の話に戻ってるじゃん」

「合ってるだろ」

「合ってない」

 莉子が少し笑った。泣きそうだった目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。それを見ると、安心してしまう。笑わせたかった。泣かせたくなかった。


 昔からずっと。そのためなら何でもできると思っていた。


 ただし。

 恋人になること以外なら。




「お腹空いた?」

 しばらく車を走らせたあと、俺は聞いた。

「・・・ちょっと」

「飯、食う?」

「いいの?」

「デートの予定だったんだろ」

「でも、こんな時間だよ」

「ファミレスくらいなら開いてる」

「ファミレス・・・」

「何か文句ある?」

「ないけど」

「じゃあ決まり」

「蒼」

「ん?」

「ごめん」

「だから謝るな」

「でも」

「腹減ってんだろ」

「・・・うん」

「じゃあ飯食え」

「何その言い方」

「正しいだろ」

「もうちょっと優しく言えない?」

「できない」

「嘘」

 莉子がシートにもたれた。少しだけ笑っている。


 その横顔を見て、俺はようやく息を吐いた。


 車内に流れるラジオから、知らない曲が聞こえていた。

 窓の外には、夜の街が流れていく。コンビニ。居酒屋。明るい看板。信号待ちをする車。誰かが誰かの帰りを待っている街。


「ねえ」

 莉子が言った。

「ん?」

「私と直人が別れたら、どうする?」

 アクセルを踏んでいた足が、一瞬だけ固まりそうになった。

「・・・どうするって?」


「蒼は嬉しい?」


 赤信号が見えた。ブレーキを急いで踏む。

 車が止まる。

 エンジンの低い振動だけが、車内に残る。


 答えられなかった。

 ・・・すぐに。

『そんなわけないだろ』と言うべきだった。

 友達として。幼なじみとして。

『お前が悲しむなら嬉しくない』

 それが正解だ。

 なのに、頭の中に浮かんだのは、あまりにも正直な感情だった。嬉しいかもしれない。いや。凄く嬉しい。

 一瞬でも、そう思ってしまう。

 直人がいなくなる。

 莉子の隣が空く。

 そこに俺が入れるかもしれない。

 そんな事を考えてしまった自分が、気持ち悪かった。


「・・・なんでそんな事聞くんだよ」


 結局、質問で返した。

「・・・別に」

「別にじゃないだろ」

「何となく」

「何となくで聞く質問じゃない」

「じゃあ答えてよ」

 莉子が俺を見る。

 俺も横を見る。


 近い。

 当たり前だ。同じ車の中にいる。それだけの事なのに、今まで何度も隣に座ってきたはずなのに、この距離が今夜は妙に近かった。

 俺は、お前が直人と別れたら嬉しい。そんな事、言えるわけがないだろ。

 言ってしまえば、今まで俺が聞いてきた愚痴も、慰めた言葉も、全部が下心みたいになる。

 莉子が泣いていた夜、俺は隣にいた。莉子が直人と喧嘩をした時、俺は話を聞いた。

 でも、心のどこかで、このまま続かなければいいと思った事がないわけじゃない。

 むしろ、何度も思った。このまますっきり別れてしまえ。喧嘩したと聞けば。会えないと聞けば。直人が約束を破ったと聞けば。

 そのたびに、ほんの一瞬だけ期待してしまう。別れてしまえ。


 最低だ。


 莉子の悲しみの、その隙間に入り込もうとしている。更に、未来の確約も出来ない男が。そんな男が、俺がお前を幸せにするなんて言っていいのか。


「蒼?」

「・・・嬉しくない」

 嘘をついた。

「ほんとに?」


「オマエが泣くなら嬉しくない」


「じゃあ、私が泣いてなかったら?」

「面倒くさいな」

「答えて」

 莉子は笑っていた。冗談のつもりなのかもしれない。だから余計に苦しい。

「・・・別れた理由による」

「なにそれ」

「浮気されたとか二股とかなら、別れて正解だろ」

「直人は浮気しないよ」

「じゃあいいじゃん」

「うん」

 莉子は窓の外を見た。流れていく街灯の光が、横顔を照らしては消える。

「そうなんだよね」

「何が」

「直人、悪い人じゃないんだよ」

 俺は黙った。

「優しいし。仕事も頑張ってるし」

「うん」

「私の事も、ちゃんと好きだと思う」

「・・・うん」

「だから、余計に分からなくなる」

 莉子の声が、少しだけ震えた。


「たまに、すごく寂しくなるの」


 俺は前を見たまま聞いていた。横を見る事ができなかった。

「好きなんだけど」

「うん」

「好きだから我慢しなきゃいけない事もあるんだろうけど。でも、我慢ばっかりしてると・・・たまに、自分が好きなのか、好きでいてほしいだけなのか、分からなくなる」


 その言葉に、何も返せなかった。俺には、偉そうな事を言える資格はない。

 好きでいてほしい。その気持ちだけなら、俺も同じだからだ。

 莉子に好きになってほしい。

 俺だけを見てほしい。

 直人より先に俺に連絡して、何かあったら俺を頼って、俺の隣で笑って、そんな願いを抱えながら、俺は何年も、友達の顔をしている。


「・・・蒼」

「ん?」

「私、わがままかな」

「別に」

「ほんと?」

「多分」

「多分って何」

「我儘でもいいだろ」

「え?」


「好きな相手に会いたいって思うくらい」


 莉子が黙る。

「蒼」

「ん」

「そういうところ、ずるい」

「何が」

「たまにすごく優しい」

「たまに?」

「いつもじゃない」


「じゃあ、もっと優しくしてやろうか」


「・・・そういうのはいらない」

「なんだよ」

 莉子が笑った。今度は、さっきより自然に。


 俺はその笑顔を見て、また思う。これでいい。これでいいんだ。俺が告白して、莉子を困らせるより、こうして笑ってくれるなら友達のままでいい。

 思うのに・・・。


 莉子のスマホが震えた。画面を見る。

 そして、顔を上げた。

「直人?」

「うん」

 それだけで分かった。俺の隣にいた莉子の意識が、ほんの一瞬で別の場所へ行く。画面の向こう、俺ではない誰かのところへ。

『ごめん。今終わった』 そんなメッセージなのだろう。

 莉子の口元が、少し緩んだ。

「何だって?」

「謝ってる」

「そりゃ謝るだろ」

「電話していい? って」

「すれば」

「蒼がいるのに?」

「俺は運転してる」

「スピーカーなら聞こえる?」

「聞こえる」

「じゃあやめとく」

「なんで」

「恥ずかしい」

「俺に聞かれて困ること言うなよ」

「違うよ」

「じゃあいいだろ」

「・・・やっぱり、やめとく」

 莉子はスマホを伏せた。


 その選択に、ほんの少しだけ、心が浮いた。自分といる事を優先されているみたいで。

 最低だ。

 電話一本。それだけの事で。俺は、莉子が今だけ直人より俺を選んだような気になっている。

「別に出ればいいのに」

「後でいい」

「そう」

「うん」

 少しだけ沈黙が続く。俺は運転に集中するふりをした。

「でも」

 莉子が言った。

「仲直りしたいとは思ってるよ」


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。仲直りするのか・・・まだ続ける気持ちはあるのか。


「そりゃそうだろ」

「だって、好きだから」

 好きだから。たったそれだけの言葉が、俺には遠い。

「・・・うん」

 それしか言えなかった。

「明日、会えるかな」

「知らん」

「冷た」

「直人に聞け」

「聞く」

 莉子がスマホを手に取る。

 俺は前を向いた。

 赤信号。

 車が止まる。

 そして莉子の指が、画面を操作する。

 ほんの数秒。メッセージを打つだけ。それなのに。俺には、何かが決定的に遠ざかっていく時間のように思えた。

 送信。すぐに既読。莉子が笑う。

「何?」

 聞かなくても分かる。それでも聞いた。

「明日、会えるって」

「よかったじゃん」

「うん」

 莉子は嬉しそうだった。


 その顔を見て、俺はまた、自分に言い聞かせる。これでいい。莉子が笑っている。そこが大事。直人と仲直りできるなら、それでいい。

 俺は、それを望んでいたはずだ。莉子が幸せになればいい。

 誰といても。

 どこにいても。

 幸せなら、それでいい。


 ・・・本当に? 心の奥で、誰かが聞いた。

 俺は答えなかった。答えられなかった。


 だって本当は。

 さっき、スマホが震えた瞬間直人からの連絡だと分かった瞬間、ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけ・・・邪魔だと思ってしまった。

 そのまま連絡なんて来なければよかった。今夜くらい、莉子が俺の隣にいてくれればよかった。直人の事なんて忘れて、俺と笑っていてくれればよかった。

 そんな事を思う自分がいる。


 幸せになってほしい。

 でも。

 俺が幸せにしたい。


 笑っていてほしい。

 でも。

 その理由が俺であってほしい。


 莉子の幸せを願う気持ちと、莉子を奪いたいと思う気持ちは、多分、ずっと同じ場所にある。

 どちらかだけが本当なのじゃない。どちらも本当だ。だから、苦しい。


 ファミレスの駐車場に車を停める。

「着いたぞ」

「・・・ねえ」

「ん?」

「私、今日デートだったんだよ?」

「知ってる」

「その代わりがファミレス?」

「文句あるならやめるか?」

「ないけど」

 莉子が笑う。

「蒼らしいなと思って」

「どういう意味だ」

「気取らない」

「褒めてる?」

「褒めてる」

「ならいい」

 エンジンを切る。急に車内が静かになった。

 外では、他の車が出入りしている。けれど、すぐには二人ともドアを開けなかった。

「蒼」

「何」

「ありがと」

「何回目だよ」

「何回言ってもいいじゃん」

「別に」

「今日、蒼に電話してよかった」


 その言葉だけで、心臓が、馬鹿みたいに跳ねた。


 今日・・・今夜だけ、莉子にとって俺が必要だった。たったそれだけの事を俺は、ずっと欲しがっている。


「・・・飯、食うぞ」

 俺はそう言って、先にドアを開けた。これ以上、隣にいたら何か言ってしまいそうだった。何年も言えなかった事を。

 今夜なら言えてしまいそうだった。

 だから逃げるように車を降りた。


 冷たい夜風が頬に当たる。駐車場の照明の下で、反対側の助手席のドアが開いた。莉子が降りてくる。デートのために選んだ服。自分じゃない誰かに見せるために整えた髪。

 そして。

 本当なら俺ではない男と過ごしていたはずの夜。

 その全部を俺は今、隣で見ている。

「行こう」

 莉子が言った。

「ああ」

 俺は歩き出す。ほんの少しだけ莉子より先に。

 隣に並んでしまわないように。

 もし並んだら、当たり前みたいに、彼女の手を取ってしまいそうだったから。





 その日は何て言って呼び出されたのか。もう忘れた。

 駅前の小さなカフェ。


「私、直人と同棲する事になった」


 その言葉を聞いた瞬間、目の前にあったグラスの水が、ひどく遠くに見えた。

「・・・へえ」

 やっと、それだけ言った。

 莉子は俺の向かいに座っている。

 日曜の昼前だった。窓から差し込む春の光が、テーブルの上に柔らかな影を落としている。


 こんないい天気の日に、こんな明るい場所で、俺の人生が変わるような話をするんじゃない。

 そう思った。

 もっと、何か。雨の日とか、誰もいない夜とか、せめて、俺が心の準備をできる時間がある場所にしてくれればいい。


「その反応?」

 莉子が少し笑った。

「もっと驚くと思った」

「驚いてる」

「見えない」

「心の中では驚いてる」

「ふうん」

 莉子はストローをくるくると回した。今日は淡い水色のブラウスを着ていた。

 柔らかい生地が、彼女の華奢な肩に沿って落ちている。いつもより少し短く切った髪が、耳元で揺れるたび、小さなイヤリングが光った。

 昔から、莉子は大きく印象を変えるような化粧はしなかった。

 薄く色づいた唇。長い睫毛。笑うと少しだけ細くなる目。

 それだけで俺には十分すぎるほど、可愛かった。


 可愛いと思っている事を、本人には一度も言った事がない。言えば何かが変わると思ったからだ。


 そして今。

 変わってしまうのは、俺たちの関係ではなく、莉子の生活そのものだった。

「いつから?」

 聞いた。

「ちゃんと決めたのは先週」

「早いな」

「前から話はしてたんだよ」

「へえ」

「何その反応」

「いや」

 カップを持ち上げる。コーヒーは少し冷めていた。

「どこ住むの」


「直人の会社に近いところ」

「オマエの職場からは?」

「ちょっと遠くなる」

「じゃあ通勤大変じゃん」

「うん。でも、まあ」

 莉子は笑った。

「一緒に住むなら、それくらい仕方ないかなって」


 仕方ない。その言葉が引っかかった。

 俺なら・・・。

 そんな事を思う。

 俺なら、オマエが通いやすい場所を探す。仕事帰りに迎えに行ける場所。夜、疲れて帰ってきたオマエが、すぐに靴を脱げる場所。

 朝、寝坊したオマエを起こして。コーヒーを淹れて。くだらない話をして。

 そういう生活を。

 俺は、一瞬で想像できてしまった。想像できてしまった事が、苦しかった。


「蒼?」

「ん?」

「聞いてる?」

「聞いてる」

「また?」

「今回は聞いてた」

「怪しい」

「家賃折半の話?」

「聞いてないじゃん」

「聞いてない」

 莉子が吹き出した。

「もう」

 笑う。

 その笑顔を見て俺も、つられて少し笑った。


 それでいい、莉子が笑っているなら。

 そう思う。

 そう思っている・・・はずなのに。





 頭の中には、まったく違う景色が浮かんでいた。

 夜の道路。

 赤信号。

 助手席。

 窓の外を流れていく街の明かり。

 そして・・・俺の車の助手席に座っていた莉子。


 あの夜。

 俺は、莉子を帰したくなかった。

 ファミレスの駐車場で、俺が先に車を降りた後、莉子は反対側のドアを開けて、ゆっくりと外へ出てきた。

 夜風が吹いてた。デートのために丁寧に巻いた髪が、肩のあたりで揺れる。

 綺麗だった。


「なに?」

 俺が見ていた事に気づいたのか、莉子が首を傾げた。

「別に」

「絶対なんか思った」

「思ってない」

「怪しい」

「早く入れ」

「はいはい」

 莉子が先に歩き出す。

 俺はその背中を追った。

 少しだけ迷って、結局、隣に並ばなかった。

 いつもそうだ。


 俺は莉子の隣に立てるのに、自分から半歩だけ後ろに下がる。友達だから、そういう距離でいい。そう言い聞かせながら。

 本当は隣を歩きたかった。

 手を繋ぎたかった。

 寒いなら、俺のポケットに手を入れろと言いたかった。


 そんなことを思っている男が、何食わぬ顔で友達をしている。


 店内に入ると、若い店員がテーブル席へ案内してくれた。

「ご注文が決まりましたら、お呼びください」

「はーい」

 莉子はメニューを開く。

「何食べよう」

「好きなの食え」

「デートの代わりなんだから、もっと考えてよ」

「俺との飯をデート扱いするな」

「じゃあ何?」

「緊急避難」

「なにそれ」

「直人にキャンセルされた女の保護」

「言い方!」

 莉子が笑う。

「じゃあ蒼は保護者?」

「知らん」

「お父さん?」

「違う」

「お兄ちゃん?」

「もっと違う」

「じゃあ何」

 メニューから顔を上げて、莉子が俺を見る。


 その一瞬、言えると思った。

 俺は何でもないふりをした。


「友達」


 その言葉を口にするまで、ほんの一秒もなかったと思う。

 けれど、俺の中では何年分もの時間があった。


 恋人。

 好きな男。

 お前を幸せにしたい男。

 そんな言葉が喉元まで浮かんで、結局一番安全な言葉だけを選んだ。


「だよね」

 莉子が笑った。

 でも、その笑顔に安心している自分がいた。

 そして少しだけ傷ついている自分もいた。


「蒼ってさ」

 注文を終えた後、莉子がセルフのドリンクバーのグラスを両手で持ちながら言った。

「昔から変わらないよね」

「何が」

「優しいところ」

「そんなことない」

「あるよ」

「ない」

「ある」


「直人より?」

 言ってから、自分で失敗したと思った。


 莉子が瞬きをする。

「なんでそこで直人?」

「いや」

「気にしてる?」

「何を」

「直人の事」

「気にしてない」

「ふうん」

 絶対に信じていない顔だった。

 莉子はストローで氷を動かした。からん、と小さな音がする。


「蒼といると、楽なんだよね」


 まただ。俺は、こういう言葉に弱い。

 莉子は何も知らずに言う。

「気を遣わなくていいし」

「それ褒めてる?」

「褒めてる」

「微妙」

「直人とは、やっぱりちょっと違う」


 心臓が跳ねる。

 期待するな。

 頭の中で自分に言う。期待するな。繰り返す。


「直人はさ」

 莉子は続けた。

「一緒にいると、ちゃんと彼女でいなきゃって思う」

「彼女だろ」

「そうなんだけど」

「何だよ」

「蒼の前では、別に可愛くしてなくてもいいじゃん」


「してるだろ」


「え?」

「いや」

 危なかった。

「・・・別に、いつも通りでいいって事だろ」

「そうそう」

 莉子は笑った。

「蒼の前でまで気合い入れてたら疲れる」


 その言葉を聞いて少しだけ苦しくなった。俺の前では可愛くなくていい。俺の前では女でいなくていい。

 それは、信頼されているという事なのか。それとも最初から、男として見られていないという事なのか。

 たぶん、その両方だった。


「でも」

 莉子が言った。

「今日、蒼に会えてよかった」

 俺は顔を上げた。

「さっきも言ったな」

「何回言ってもいい」

「もう聞いた」

「聞いて」

「聞いてる」

「・・・ありがと」

 その声は、さっきより小さかった。

「だって」

 莉子は窓の外を見る。


「今日、すごく楽しみにしてたんだ」


 俺は黙った。

「仕事終わって、一回家に帰って」

「聞いた」

「ちゃんと着替えて、髪も巻いて」

「それも聞いた」

「蒼はそういうの、ちゃんと覚えてるんだね」

「二回も聞かされたからな」

「そっか」

 莉子が少し笑った。

「直人にも、そういうの分かってほしいなって思っちゃった」


 俺は、テーブルの下で手を握った。言えばいい、今なら。

 俺なら分かる。オマエが今日どんな服を着ているか。髪をいつもより丁寧に巻いた事も。いつもはつけない小さなピアスをしている事も。その全部を。

 直人が気づかないような事まで。

 俺は知っている。知っているから、俺を選べ。そんな言葉が心の奥から浮かんでくる。

 けれど。

 言えない。

 俺が知っている事は、莉子が俺を選ぶ理由にはならない。長く一緒にいた。何でも話せる。すぐに駆けつけられる。

 それは恋愛の勝ちじゃない。

 むしろ告白しなかった俺が自分で選んだ場所だった。


「・・・直人も分かってるんじゃないか」

「何が」

「オマエが今日、楽しみにしてた事」

「でも来なかった」

「仕事だったんだろ」

「またそれ」

「事実だ」

 莉子が頬を膨らませた。そんな仕草一つ可愛い。

「蒼は、本当に直人の味方だよね」

「違う」

「違う?」


「俺は」

 そこで言葉が止まった。俺はオマエの味方だ。そう言おうとしてそれすら、何か違う気がした。

 俺は莉子の味方でいたい。でも莉子が直人を選ぶなら、俺は本当に、心から応援できるのか。

 直人と結婚すると言われたら、笑って祝福できるのか。


 ・・・分からない。


 今なら、このテーブルの上にある水を飲み干すより簡単に、直人の悪口を言える。あんな男やめろと言える。オマエを待たせる男なんて、大事な日に仕事を優先する男なんて。


 俺なら。俺なら、そんな事しない。


 ・・・でも。

 それは本当に、莉子のためなのか。

 それとも俺のためなのか。

「・・・俺は」

 莉子が待っている。

 俺は笑った。

「腹減ってる」

「何それ」

「料理遅いな」

「話逸らした」

「逸らしてない」

「逸らした」

 莉子が笑う。その笑顔に俺はまた逃げた。


 食事を終えてファミレスを出ると、夜はさらに深くなっていた。駐車場に並ぶ車の数も、来た時より少ない。

 遠くの国道を走るトラックの音。看板の光。少し冷たい風。

「お腹いっぱい」

 莉子が両手を上に伸ばした。

「食いすぎ」

「だって蒼が好きなの頼めって言った」

「全部食えとは言ってない」

「でも食べたかった」

「ならいい」

 莉子が笑う。


 その笑顔を見ていると、時間が、このまま止まればいいと思った。直人の電話も、明日の約束も、何も来なければいい。


 この駐車場に俺と莉子だけがいて、いつまでも、くだらない話をしていられればいい。


 その時、莉子のスマホが震えた。

 俺は反射的に画面を見た。名前までは見えなかった。見なくても分かる。

 莉子がスマホを見て、すぐに表情を柔らかくしたから。

「直人?」

「うん」

 胸の奥が沈む。

「電話?」

「ううん、メッセージ」

「返せば」

「蒼、急に冷たくない?」

「別に」

「じゃあ返す」

 莉子は立ち止まり、画面を見ながら文字を打ち始める。


 俺は数歩先へ歩いた。振り返らなかった。振り返れば莉子が、俺じゃない誰かに向けて笑う顔を見る事になる。

 それが嫌だった。

 そんな自分がひどく子供っぽく思えた。


「蒼」

「ん?」

「ごめん」

「何が」

「明日、直人と会う事になった」

「別に報告いらない」

「なんでそんな言い方」

「会えばいいだろ」

「うん」

 莉子が少し黙った。

「仲直り、したいし」

 俺はゆっくり歩き続けた。駐車場の白い線だけを見ながら。

「好きなんだろ」

「うん」

 その一言が俺に刺さる。

「じゃあ、行けよ」

「・・・うん」


 本当は行くなと言いたかった。明日なんて来るな。直人に会うな。俺の隣にいろ。今日、会えなかった事も忘れて、そのまま全部忘れてしまえ。

 俺がいる。俺がいるから。もう帰らなくていい。

 そう言いたかった。

 でも莉子が直人を好きだと知っている。

 知っているから、俺には、それを壊す権利がない。いや権利がないからじゃない。壊してしまった後、莉子が幸せになれなかったら怖いのだ。

 もし俺が自分の気持ちだけで彼女を引き止めて、直人との関係を壊して、それでも莉子が俺を選ばなかったら・・・俺は彼女から、恋人だけを奪った男になる。

 それが怖い。


 だから俺は優しい男を演じる。


「幸せになれよ」

 そんな言葉を簡単に言える。

 でも本当は、そんなに綺麗な男じゃない。





「蒼? 聞いてる?」

 莉子の声で、俺は顔を上げた。

 カフェの窓の外では、街路樹が風に揺れていた。

「どうしたの?」

「いや」

「また聞いてなかった?」

「聞いてた」

「嘘」

「・・・新居の話だろ」

「それ、10分前」

「じゃあ合ってないな」

「もう」

 莉子が笑う。その笑顔、あの夜と同じだった。何も変わっていない。変わったのは、俺が、あの夜を思い出している事だった。


 あの夜、俺は莉子をきちんと帰した。正確には帰る時間を決めたわけではない。ファミレスを出て、車に乗って、少しだけ遠回りのドライブをして、家の前まで送り届けた。

 その間も、莉子は隣にいた。直人の事を話した。仕事の事を話した。どうでもいいテレビ番組の話をした。

 そして、何度も笑った。


 だから俺は思ってしまった。このまま帰したくない、と。

 夜が終わらなければいい。ガソリンが尽きるまで走って、知らない街へ行けばいい。朝まで海でも見て、直人からの電話には出ないで、明日の約束なんて忘れて、莉子が俺の隣にいる事だけを当たり前にすればいい。

 そんな事を本気で考えた。


 勿論、実際には何もしなかった。


 コンビニに寄って、眠くなった莉子が助手席で欠伸をして「そろそろ帰る?」と聞いた。

 俺は「ああ」と答えた。


 それだけだった。


 それだけで莉子は安心したように笑った。

「蒼、ありがと」

「何回言うんだよ」

「今日だけは、いっぱい言わせて」

「好きにしろ」

「今日は、ほんとに楽しかった」


 楽しかった。その言葉が嬉しかった。けれど俺の期待とは別の、次の言葉が来る事を知っていた。


「直人と仲直りできたら」

 ほら。

「ちゃんと、蒼にも報告するね」

 俺はハンドルを握る手に力を入れた。

「いらない」

「なんで?」

「どうせするだろ」

「する」

「じゃあ聞く」

「素直じゃない」

 莉子が笑った。

 俺も笑った。


 その時、俺は一度だけ。本当に一度だけ車を止めようと思った。


 路肩に寄せて、ハザードを点けて、莉子を見る。そして言う。

 帰るな。

 俺を選べ。

 直人より俺の方がいい。

 オマエが泣いた夜も、笑った夜も、俺はずっと隣にいた。これからも俺がいる。

 俺がオマエを幸せにする。

 だから、行くな。


 そう言えば、何かが変わったかもしれない。


 あの夜なら、もしかしたら、ほんの少しくらい、俺に可能性があったのかもしれない。そんな事を今でも思う。

 だから今日のこの言葉が余計に苦しい。


「・・・蒼?」

「ん?」

「どう思う?」

 莉子が言った。

「同棲」

 俺は、目の前の莉子を見る。嬉しそうだった。少しだけ不安そうでもあった。

 新しい生活を前にした人間の顔だった。

 期待と怖さと、それでも前へ進もうとする気持ち。


 俺はその顔を壊したくなかった。莉子には幸せになってほしい。


 それは嘘じゃない。

 直人が彼女を幸せにできるなら俺は、それを願うべきだ。

 もし二人が一緒にいる事で、莉子が毎日笑えるなら、俺が割り込む理由なんてない。

 分かっている、全部。分かっている。


 それでも、俺が幸せにしたい。


 朝、眠そうな顔で起きてくる莉子を見たい。機嫌が悪い時に、コーヒーを渡したい。仕事の愚痴を聞きたい。喧嘩したら仲直りしたい。帰りが遅い夜には、迎えに行きたい。

 泣いたら・・・昔からそうだったように、俺のところへ来ればいい。

 そんな未来を、俺が欲しい。直人から奪ってでも。

 そう思ってしまう。

 その願いが莉子を幸せにするためなのか。俺が幸せになるためなのか。もう、分からなかった。


「蒼」

 莉子が、少し不安そうに呼ぶ。

「反対?」

「・・・」


 言え。

 今なら、反対だと言えばいい。嫌だと言えばいい。行くなと言えばいい。

 俺はオマエが好きだと。

 何年も言えなかった事を。

 今、言えばいい。


 でも莉子の目を見た瞬間、あの夜のことを思い出した。

 助手席で俺に向かって笑った莉子。

『今日、蒼に電話してよかった』

 あの言葉。

 俺は、あれを恋愛の言葉に変えたかった。

 友達としての信頼を、別のものにしたかった。でも、できなかった。


 そして・・・今もできない。


「反対じゃない」

 俺は言った。

 莉子が少しだけ目を細める。

「ほんと?」

「ああ」

「よかった」

 よかった。莉子はそう言った。

 俺が賛成した事で安心した。

 それが少しだけ悲しかった。俺が反対するとは、最初から思っていなかったのだろう。

 俺はいつでも莉子の味方だから。どんな選択をしても最後には笑って、それでいいんじゃないと言う男だから。


「蒼」

「ん?」

「引っ越す前にさ」

「何」

「昔みたいに、二人で遊びに行かない?」

 心臓が止まりそうになった。

「・・・二人で?」

「うん」

「直人は?」

「別に来ないでしょ」

「そりゃそうだろ」

「何がいい?」

 莉子は楽しそうに笑っている。

「海とか?」

「遠い」

「じゃあ遊園地」

「子供か」

「映画?」

「それは普通に行くだろ」

「じゃあ、昔よく行ったところ巡るとか」

 楽しそうに予定を立てる、何も知らずに。俺の心臓を、何度も掴む。


「いいよ」

 俺は答えた。答えながら、行かないだろうなと思った。


「ほんと?」

「ああ」

「約束ね」

「分かった」

 莉子が笑った。


 その笑顔を見ながら俺はまた思った。あの夜、本当に帰したくなかった。今でも帰したくない。引っ越してほしくない。直人のいる部屋へ。新しい生活へ。俺の知らない毎日の中へ、行ってほしくない。

 それでも俺は、見送るのだろう。

 莉子が幸せになる事を願いながら。その幸せの中に自分がいない事だけを誰にも見せない場所で、何度も、何度も、憎むように。






 最後の音が、ライブハウスの天井へ消えていった。一瞬の静寂の後、フロアから拍手が湧き起こる。今日も凄い熱気だった。


「ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」 「ありがとうございました~!」


 ボーカルの蒼の声に、バンドメンバー達もそれぞれ手を上げた。

 ドラムがスティックを掲げる。ベースが笑いながらアンプの電源を落とす。ギターが客席へ軽く頭を下げた。

 いつもの終わり方だった


 演奏を終えれば、全員がステージの袖へはける。

 だから、一人、また一人と袖へ消えていく中、蒼だけが、ステージに残った時、客席の誰もが、少しだけ不思議そうな顔をした。


「蒼?」

 袖から誰かが呼んだ。


 けれど、蒼は振り返らなかった。マイクの前に立ったまま、少し俯いている。

 照明が一段、落ちた。

 さっきまで騒がしかったフロアが、ゆっくりと静かになる。


 やがて蒼が、小さく息を吸う音をマイクが拾った。


 アカペラだった。

 伴奏はない。


 ただ、一人の声だけが、暗いライブハウスに落ちた。いつもの高めのキーの歌声ではない。シャウトでもない。低めの声で口ずさむバラード。いつものマイクパフォーマンスはない。ただ・・・静かにそこに立っていた。


 歌い始めたのは、誰かを好きになった歌だった。けれど、手に入れた恋の歌ではない。好きだと叫ぶ歌でもなかった。

 もっと静かで。

 もっと、どうしようもない歌だった。


 多少騒めいていた客席が本当に静かになった。


 笑っていてほしい。

 幸せになってほしい。

 その願いだけなら、きっと誰にでも言える。

 けれど、その幸せの隣にいるのが、自分ではないと知った時、人は、どうすればいいのだろう。

 祝福するのが愛なのか。

 それとも・・・醜くても、行かないでくれと、腕を掴んでしまってもいいのか。


 蒼の声が、少し低く落ちた。

 歌声が、静かなフロアへ零れる。


 ♪  幸せになってほしい  ♪


 祈るような声だった。

 自分ではない誰かの隣で笑う未来さえ、受け入れようとするように。

 けれど、次の言葉には、隠しきれない痛みがあった。


 ♪ もし君に伝えられたら  ♪


 伝えられなかったのは何だったのだろう。

 好きだという言葉か。

 それとも、君の幸せを願っていると言いながら、本当は自分が幸せにしたかったという身勝手で、けれど、どうしようもなく真っ直ぐな願いなのか。


 蒼は歌い続けた。

 誰かを責めるわけではない。

 奪われたと叫ぶわけでもない。

 ただ、届かない場所にいる誰かへ、声を届けようとしているようだった。


 ステージの光が、伏せられた睫毛を照らす。

 一瞬、声が掠れた。

 ほんの一瞬だった。

 けれど、それが演出ではない事を、なぜか誰もが分かってしまった。


 この人は、本当に誰かを好きなのだ。

 叶わないと分かっているのに。

 幸せになってほしいと願いながら。

 それでも、願っているだけではいられないほど好きなのだ。


 蒼が顔を上げた。

 薄暗い照明の向こうに、誰かを探すように。

 けれど、そこにいるのは観客。

 それでも。

 最後に。

 蒼の声が、ほんの少しだけ震えた。


 ♪ 帰したくなかったよ ♪


 誰かが、息を呑んだ。

 あまりにも短い言葉だった。

 けれど、その一言の中には、長い夜があった。

 もう少し一緒にいたかった。

 朝なんて来なければよかった。

 誰かの元へ帰る事なんて、忘れさせてしまえばよかった。

 そんな、口にすれば醜くなる願いが、全部、そこにあった。


 蒼は、最後まで歌った。

 届かなくても。

 もう別の誰かの隣で笑っていても。

 それでも。

 幸せになってほしい。

 だけど、もし君に伝えられたらあの夜・・・帰したくなかった。

 俺が、君を幸せにしたかった。


 最後の声が消えた。

 誰もすぐには拍手をしなかった。

 静寂が、フロアに落ちる。


 蒼はゆっくりと目を閉じた。


 泣いているようにも見えた。

 ただ誰にも渡したくなかったものを、自分の手で手放した人間の顔をしていた。


 やがて、一人が拍手をした。それを合図にしたように、フロアいっぱいに拍手が広がる。


 蒼は長く頭を下げた。

 観客の誰も、彼が誰を好きなのか知らない。

 それでも、もし、この会場のどこかに彼が歌っている相手がいたのなら、どうか一度だけでいい。振り返ってほしい。


 そう願わずにはいられなかった。




読んでくださってありがとうございます(*_ _)

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― 新着の感想 ―
 時司 龍さん、こんにちは。 「君だけが知らない歌」拝読致しました。  短編だし、読み流そうかなと思いましたが、読み進めるうちに、感想を書きたくさせられますね。相変わらず、上手いなぁ。  莉子の…
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