君だけが知らない歌
莉子は泣くと、昔から俺のところへ来る。
それが、いつからなのかは覚えていない。
小学生の頃、飼っていた犬が死んだ時もそうだった。中学生の頃、仲の良かった友達と喧嘩をした時も。高校の卒業式の日、理由もよく分からないまま泣いていた時も。
そして24歳になった今も。
スマホが震えて、画面に『莉子』の名前が浮かぶと、俺は反射的に取ってしまう。
「もしもし」
『・・・蒼?』
その声を聞いた瞬間、ああ、また何かあったんだなと思った。
「どうした」
『今、暇?』
「まあ・・・」
『ほんと?』
「嘘ついてる声に聞こえた?」
『聞こえないけど』
「じゃあ暇」
短い沈黙。
スマホの向こうで、莉子が小さく息を吐く音がした。
『会える?』
「どこ」
『駅前』
「駅前のどこ」
『・・・時計台のところ』
ああ、と心の中で頷く。駅前の時計台。ここらでは待ち合わせの定番みたいな場所だ。
金曜日の夜ともなれば、その周囲には待ち合わせをしている人間が何人もいる。恋人らしい男女。仕事帰りらしい会社員。スマホを眺めながら誰かを待つ学生。
莉子も、その中の一人なのだろう。
待ち合わせ相手は聞かなくてもわかる。・・・直人。莉子の彼氏だろう。
「今から行く」
『・・・いいの?』
「会えるって言っただろ」
『でも、蒼、車でしょ?』
「そうだけど」
『飲んでない?』
「飲んでたら運転しねえよ」
『ごめん』
「何が」
『呼び出して』
「いいから待ってろ」
『うん』
スマホを切った。俺はテーブルの上に置いていた車のキーを掴んだ。本当なら、もう風呂に入って寝るだけだった。
今日は朝からアルバイトが入っていて、夕方からはスタジオで練習。売れないバンドマンの生活なんて、格好いいものではない。
明日も、カフェとコンビニバイトの掛け持ち。
夜は音楽。
その合間に、夢を諦めたくない自分と、そろそろ現実を見ろと言う自分がいる。
疲れていた。
正直、面倒だった。
・・・莉子からの連絡でなければ。
靴を履き、部屋を出る。エレベーターの鏡に映った自分は、寝る前の適当な格好だった。
だるだるなジャージ。
カッコつけたい気持ちもあるが、今更だ。中学のジャージで寝ている時に突然、部屋に入って来られた事だって何度もあるし。エロ本だって部屋中探されて、見つけられた事だってある。
「・・・まあいいか」
誰に見せるわけでもない。そう思って駐車場へ向かった。けれど車に乗り込み、エンジンをかけてから俺は一度、バックミラーを見た。
髪を手で軽く整える。
「・・・何やってんだ、俺」
自分で自分に呆れた。会いに行く相手は、彼氏とデートする予定だった女だ。
俺に会いたかったわけじゃない。
ただ、予定をキャンセルされて、寂しくなって、たまたま俺を呼んだだけだ。それなのに、少しでもまともな顔をして迎えに行こうとしている。
・・・馬鹿みたいだった。実際、馬鹿だ。
駅前へ近づくにつれて、道路は混み始めた。
金曜の夜。
仕事を終えた人間達が、街へ流れ出している。
信号待ちの横断歩道には、手を繋いだカップルがいた。店のガラス越しには、向かい合って笑う男女がいる。そんなところにばかり目が行く。
そのどれもが、俺には少し眩しかった。
時計台が見えてくる。
その下に、莉子はいた。
すぐに分かった。人混みの中でも、昔から、莉子を探すのは難しくなかった。
肩より少し長い、柔らかな茶色の髪。夜の照明を受けて、毛先がわずかに揺れている。
白いブラウスの上に、薄いベージュのカーディガン。膝下まである淡い色のスカート。足元は低めのヒール。
派手な格好ではない。けれど、明らかにいつもよりちゃんとしていた。髪も綺麗に巻かれている。
小さなピアスが、街灯を受けて光っていた。
デートのために準備したのだろう。
それが分かるから、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
歩道脇に車を寄せる。ハザードランプを点けると、スマホを見ていた顔が上がる。
莉子がこちらに気づいた。そして、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見ただけで、来てよかったと思ってしまう。
馬鹿だ。
助手席のドアを開けると、莉子が乗り込んできた。
「お邪魔します」
「自分の車みたいに言うな」
「蒼の車、何回乗ってると思ってるの」
「知らん」
「多分、直人より乗ってる」
「それは嫌な比較だな」
シートベルトを締めながら、莉子が笑う。けれど、笑顔は長く続かなかった。
「・・・ごめんね」
「だから何が」
「急に」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「どんな顔だよ」
「寝る前の顔」
「それは否定しない」
「やっぱり」
「でも、電話取ったの俺だろ」
「うん」
「なら、呼ばれる覚悟くらいある」
「何その覚悟」
「知らん」
莉子が小さく笑った。
車を発進させる。
バックミラーの中で、時計台が少しずつ遠ざかっていく。さっきまで莉子がいた場所。直人を待っていた場所。
「で?」
俺は前を見たまま言った。
「何があった」
「・・・」
「また直人だろ?」
返事はなかった。
代わりに、莉子が窓の外を見た。車窓に映る横顔。さっき見たときよりも、少しだけ疲れて見えた。
「喧嘩した」
「また?」
「またって言わないでよ」
「この前も喧嘩したって電話してきただろ」
「その時とは違う」
「はいはい・・・」
「ちゃんと聞いて」
「聞いてる」
信号が赤になる。
車が止まる。
横断歩道を人が通り過ぎていく。
「今日さ。直人とご飯食べる約束してたの」
「うん」
「2週間前から」
「うん」
「なのに、仕事が長引いたから無理だって」
「仕事なら仕方ないだろ」
「蒼まで直人の味方するの?」
「してない」
「してる」
「してないって」
「してる」
信号が青に変わった。
アクセルを踏む。前の車について、ゆっくりと進む。
「・・・それで?」
「最初から言ってるじゃん。ご飯行く約束してたの。私、仕事終わってから一回家帰って、着替えて」
莉子が自分の髪を触る。
「髪も巻いて」
「見れば分かる」
「え?」
「いや」
「なに?」
「・・・気合い入ってるなと思って」
「わざわざって言いたい?」
「言ってない」
「顔に出てる」
「運転中だから前見てる」
「ずるい」
少しだけ莉子の表情が緩んだ。
「だって、久しぶりだったし」
その声が小さくなる。
俺は何も言わなかった。
「最近、全然会えてなかったの」
「忙しいんだろ」
「そうなんだけど」
「直人も仕事してるし」
「分かってるよ」
莉子は窓の外を見た。街の明かりが、彼女の横顔を流れていく。
「分かってるけど・・・」
また赤信号。また車が止まる。
その時、莉子が小さく言った。
「たまには、私のこと優先してくれてもいいじゃん」
胸の奥に、嫌なものが生まれた。
今なら・・・そんな事を思った。直人に腹を立てている今なら。莉子が寂しがっている今なら。隙がある今なら。
俺が。
『俺ならそんなことしない』・・・と言えばいい。
『俺なら約束を忘れたりしない』
『俺なら待たせない』
『俺なら、お前の事を一番にする』
そう言えばいい。
狭い車の中、他に誰もいない。逃げ場もない。莉子は俺のすぐ隣にいる。
手を伸ばせば届く距離。その肩に手をかけて、ちょっと引き寄せるなんて簡単な事だ。
今まで何度も、俺の助手席に座ってきた女。
俺が好きな女。
彼氏がいる女。
そう言えば、何かが変わるかもしれない。
莉子は俺を見るかもしれない。
今まで一度も向けたことのない目で、俺を見るかもしれない。
・・・でも。
「直人も悪気はないんじゃないか」
口から出たのは、そんな言葉だった。
莉子がゆっくり俺を見る。
「・・・蒼って、本当に直人のこと好きだよね」
「好きじゃねえよ」
「なんでいつも直人のフォローするの?」
「してない」
「してるよ」
「仕事だったんだろ」
「そうだけど」
「だったら仕方ないだろ」
「・・・蒼は優しくない」
「なんでそうなる」
「私が怒ってるんだから、一緒に怒ってよ」
「直人、最低だなって?」
「そう」
「いや、それは言えない」
「なんで」
「知らん」
本当は知っている。言えない理由なんて、ずっと前から分かっている。俺が直人を悪く言えば、俺の中にあるものまで、一緒に零れそうだからだ。
直人なんかやめろよ。そんな男より、俺の方がいい。
俺と一緒にいればいい、ずっと。
ずっと前から、そう思っている。
なのに・・・それを言葉にする勇気がない。勇気がないという言い方は、少し違うかもしれない。
怖い。
告白する事が怖い。
断られる事が怖い。
今の関係が終わる事が怖い。
そして何より、もし俺の言葉が原因で、莉子が直人と別れたとして、その後で莉子が後悔したらどうする。
『蒼に相談したから別れちゃった』
『本当は直人の事、まだ好きだったのかな』
そんな風に泣かれたら俺はきっと、一生後悔する。
莉子が幸せになる事を願っている。
それは本当だ。
嘘じゃない。
だけど、その幸せの隣にいるのが俺ではない事を、俺は一度も受け入れられた事がない。
「蒼?」
呼ばれて、顔を上げた。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「絶対聞いてなかった」
「聞いてた」
「じゃあ今、私が何言った?」
「・・・直人が仕事だった」
「最初の話に戻ってるじゃん」
「合ってるだろ」
「合ってない」
莉子が少し笑った。泣きそうだった目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。それを見ると、安心してしまう。笑わせたかった。泣かせたくなかった。
昔からずっと。そのためなら何でもできると思っていた。
ただし。
恋人になること以外なら。
「お腹空いた?」
しばらく車を走らせたあと、俺は聞いた。
「・・・ちょっと」
「飯、食う?」
「いいの?」
「デートの予定だったんだろ」
「でも、こんな時間だよ」
「ファミレスくらいなら開いてる」
「ファミレス・・・」
「何か文句ある?」
「ないけど」
「じゃあ決まり」
「蒼」
「ん?」
「ごめん」
「だから謝るな」
「でも」
「腹減ってんだろ」
「・・・うん」
「じゃあ飯食え」
「何その言い方」
「正しいだろ」
「もうちょっと優しく言えない?」
「できない」
「嘘」
莉子がシートにもたれた。少しだけ笑っている。
その横顔を見て、俺はようやく息を吐いた。
車内に流れるラジオから、知らない曲が聞こえていた。
窓の外には、夜の街が流れていく。コンビニ。居酒屋。明るい看板。信号待ちをする車。誰かが誰かの帰りを待っている街。
「ねえ」
莉子が言った。
「ん?」
「私と直人が別れたら、どうする?」
アクセルを踏んでいた足が、一瞬だけ固まりそうになった。
「・・・どうするって?」
「蒼は嬉しい?」
赤信号が見えた。ブレーキを急いで踏む。
車が止まる。
エンジンの低い振動だけが、車内に残る。
答えられなかった。
・・・すぐに。
『そんなわけないだろ』と言うべきだった。
友達として。幼なじみとして。
『お前が悲しむなら嬉しくない』
それが正解だ。
なのに、頭の中に浮かんだのは、あまりにも正直な感情だった。嬉しいかもしれない。いや。凄く嬉しい。
一瞬でも、そう思ってしまう。
直人がいなくなる。
莉子の隣が空く。
そこに俺が入れるかもしれない。
そんな事を考えてしまった自分が、気持ち悪かった。
「・・・なんでそんな事聞くんだよ」
結局、質問で返した。
「・・・別に」
「別にじゃないだろ」
「何となく」
「何となくで聞く質問じゃない」
「じゃあ答えてよ」
莉子が俺を見る。
俺も横を見る。
近い。
当たり前だ。同じ車の中にいる。それだけの事なのに、今まで何度も隣に座ってきたはずなのに、この距離が今夜は妙に近かった。
俺は、お前が直人と別れたら嬉しい。そんな事、言えるわけがないだろ。
言ってしまえば、今まで俺が聞いてきた愚痴も、慰めた言葉も、全部が下心みたいになる。
莉子が泣いていた夜、俺は隣にいた。莉子が直人と喧嘩をした時、俺は話を聞いた。
でも、心のどこかで、このまま続かなければいいと思った事がないわけじゃない。
むしろ、何度も思った。このまますっきり別れてしまえ。喧嘩したと聞けば。会えないと聞けば。直人が約束を破ったと聞けば。
そのたびに、ほんの一瞬だけ期待してしまう。別れてしまえ。
最低だ。
莉子の悲しみの、その隙間に入り込もうとしている。更に、未来の確約も出来ない男が。そんな男が、俺がお前を幸せにするなんて言っていいのか。
「蒼?」
「・・・嬉しくない」
嘘をついた。
「ほんとに?」
「オマエが泣くなら嬉しくない」
「じゃあ、私が泣いてなかったら?」
「面倒くさいな」
「答えて」
莉子は笑っていた。冗談のつもりなのかもしれない。だから余計に苦しい。
「・・・別れた理由による」
「なにそれ」
「浮気されたとか二股とかなら、別れて正解だろ」
「直人は浮気しないよ」
「じゃあいいじゃん」
「うん」
莉子は窓の外を見た。流れていく街灯の光が、横顔を照らしては消える。
「そうなんだよね」
「何が」
「直人、悪い人じゃないんだよ」
俺は黙った。
「優しいし。仕事も頑張ってるし」
「うん」
「私の事も、ちゃんと好きだと思う」
「・・・うん」
「だから、余計に分からなくなる」
莉子の声が、少しだけ震えた。
「たまに、すごく寂しくなるの」
俺は前を見たまま聞いていた。横を見る事ができなかった。
「好きなんだけど」
「うん」
「好きだから我慢しなきゃいけない事もあるんだろうけど。でも、我慢ばっかりしてると・・・たまに、自分が好きなのか、好きでいてほしいだけなのか、分からなくなる」
その言葉に、何も返せなかった。俺には、偉そうな事を言える資格はない。
好きでいてほしい。その気持ちだけなら、俺も同じだからだ。
莉子に好きになってほしい。
俺だけを見てほしい。
直人より先に俺に連絡して、何かあったら俺を頼って、俺の隣で笑って、そんな願いを抱えながら、俺は何年も、友達の顔をしている。
「・・・蒼」
「ん?」
「私、わがままかな」
「別に」
「ほんと?」
「多分」
「多分って何」
「我儘でもいいだろ」
「え?」
「好きな相手に会いたいって思うくらい」
莉子が黙る。
「蒼」
「ん」
「そういうところ、ずるい」
「何が」
「たまにすごく優しい」
「たまに?」
「いつもじゃない」
「じゃあ、もっと優しくしてやろうか」
「・・・そういうのはいらない」
「なんだよ」
莉子が笑った。今度は、さっきより自然に。
俺はその笑顔を見て、また思う。これでいい。これでいいんだ。俺が告白して、莉子を困らせるより、こうして笑ってくれるなら友達のままでいい。
思うのに・・・。
莉子のスマホが震えた。画面を見る。
そして、顔を上げた。
「直人?」
「うん」
それだけで分かった。俺の隣にいた莉子の意識が、ほんの一瞬で別の場所へ行く。画面の向こう、俺ではない誰かのところへ。
『ごめん。今終わった』 そんなメッセージなのだろう。
莉子の口元が、少し緩んだ。
「何だって?」
「謝ってる」
「そりゃ謝るだろ」
「電話していい? って」
「すれば」
「蒼がいるのに?」
「俺は運転してる」
「スピーカーなら聞こえる?」
「聞こえる」
「じゃあやめとく」
「なんで」
「恥ずかしい」
「俺に聞かれて困ること言うなよ」
「違うよ」
「じゃあいいだろ」
「・・・やっぱり、やめとく」
莉子はスマホを伏せた。
その選択に、ほんの少しだけ、心が浮いた。自分といる事を優先されているみたいで。
最低だ。
電話一本。それだけの事で。俺は、莉子が今だけ直人より俺を選んだような気になっている。
「別に出ればいいのに」
「後でいい」
「そう」
「うん」
少しだけ沈黙が続く。俺は運転に集中するふりをした。
「でも」
莉子が言った。
「仲直りしたいとは思ってるよ」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。仲直りするのか・・・まだ続ける気持ちはあるのか。
「そりゃそうだろ」
「だって、好きだから」
好きだから。たったそれだけの言葉が、俺には遠い。
「・・・うん」
それしか言えなかった。
「明日、会えるかな」
「知らん」
「冷た」
「直人に聞け」
「聞く」
莉子がスマホを手に取る。
俺は前を向いた。
赤信号。
車が止まる。
そして莉子の指が、画面を操作する。
ほんの数秒。メッセージを打つだけ。それなのに。俺には、何かが決定的に遠ざかっていく時間のように思えた。
送信。すぐに既読。莉子が笑う。
「何?」
聞かなくても分かる。それでも聞いた。
「明日、会えるって」
「よかったじゃん」
「うん」
莉子は嬉しそうだった。
その顔を見て、俺はまた、自分に言い聞かせる。これでいい。莉子が笑っている。そこが大事。直人と仲直りできるなら、それでいい。
俺は、それを望んでいたはずだ。莉子が幸せになればいい。
誰といても。
どこにいても。
幸せなら、それでいい。
・・・本当に? 心の奥で、誰かが聞いた。
俺は答えなかった。答えられなかった。
だって本当は。
さっき、スマホが震えた瞬間直人からの連絡だと分かった瞬間、ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけ・・・邪魔だと思ってしまった。
そのまま連絡なんて来なければよかった。今夜くらい、莉子が俺の隣にいてくれればよかった。直人の事なんて忘れて、俺と笑っていてくれればよかった。
そんな事を思う自分がいる。
幸せになってほしい。
でも。
俺が幸せにしたい。
笑っていてほしい。
でも。
その理由が俺であってほしい。
莉子の幸せを願う気持ちと、莉子を奪いたいと思う気持ちは、多分、ずっと同じ場所にある。
どちらかだけが本当なのじゃない。どちらも本当だ。だから、苦しい。
ファミレスの駐車場に車を停める。
「着いたぞ」
「・・・ねえ」
「ん?」
「私、今日デートだったんだよ?」
「知ってる」
「その代わりがファミレス?」
「文句あるならやめるか?」
「ないけど」
莉子が笑う。
「蒼らしいなと思って」
「どういう意味だ」
「気取らない」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいい」
エンジンを切る。急に車内が静かになった。
外では、他の車が出入りしている。けれど、すぐには二人ともドアを開けなかった。
「蒼」
「何」
「ありがと」
「何回目だよ」
「何回言ってもいいじゃん」
「別に」
「今日、蒼に電話してよかった」
その言葉だけで、心臓が、馬鹿みたいに跳ねた。
今日・・・今夜だけ、莉子にとって俺が必要だった。たったそれだけの事を俺は、ずっと欲しがっている。
「・・・飯、食うぞ」
俺はそう言って、先にドアを開けた。これ以上、隣にいたら何か言ってしまいそうだった。何年も言えなかった事を。
今夜なら言えてしまいそうだった。
だから逃げるように車を降りた。
冷たい夜風が頬に当たる。駐車場の照明の下で、反対側の助手席のドアが開いた。莉子が降りてくる。デートのために選んだ服。自分じゃない誰かに見せるために整えた髪。
そして。
本当なら俺ではない男と過ごしていたはずの夜。
その全部を俺は今、隣で見ている。
「行こう」
莉子が言った。
「ああ」
俺は歩き出す。ほんの少しだけ莉子より先に。
隣に並んでしまわないように。
もし並んだら、当たり前みたいに、彼女の手を取ってしまいそうだったから。
その日は何て言って呼び出されたのか。もう忘れた。
駅前の小さなカフェ。
「私、直人と同棲する事になった」
その言葉を聞いた瞬間、目の前にあったグラスの水が、ひどく遠くに見えた。
「・・・へえ」
やっと、それだけ言った。
莉子は俺の向かいに座っている。
日曜の昼前だった。窓から差し込む春の光が、テーブルの上に柔らかな影を落としている。
こんないい天気の日に、こんな明るい場所で、俺の人生が変わるような話をするんじゃない。
そう思った。
もっと、何か。雨の日とか、誰もいない夜とか、せめて、俺が心の準備をできる時間がある場所にしてくれればいい。
「その反応?」
莉子が少し笑った。
「もっと驚くと思った」
「驚いてる」
「見えない」
「心の中では驚いてる」
「ふうん」
莉子はストローをくるくると回した。今日は淡い水色のブラウスを着ていた。
柔らかい生地が、彼女の華奢な肩に沿って落ちている。いつもより少し短く切った髪が、耳元で揺れるたび、小さなイヤリングが光った。
昔から、莉子は大きく印象を変えるような化粧はしなかった。
薄く色づいた唇。長い睫毛。笑うと少しだけ細くなる目。
それだけで俺には十分すぎるほど、可愛かった。
可愛いと思っている事を、本人には一度も言った事がない。言えば何かが変わると思ったからだ。
そして今。
変わってしまうのは、俺たちの関係ではなく、莉子の生活そのものだった。
「いつから?」
聞いた。
「ちゃんと決めたのは先週」
「早いな」
「前から話はしてたんだよ」
「へえ」
「何その反応」
「いや」
カップを持ち上げる。コーヒーは少し冷めていた。
「どこ住むの」
「直人の会社に近いところ」
「オマエの職場からは?」
「ちょっと遠くなる」
「じゃあ通勤大変じゃん」
「うん。でも、まあ」
莉子は笑った。
「一緒に住むなら、それくらい仕方ないかなって」
仕方ない。その言葉が引っかかった。
俺なら・・・。
そんな事を思う。
俺なら、オマエが通いやすい場所を探す。仕事帰りに迎えに行ける場所。夜、疲れて帰ってきたオマエが、すぐに靴を脱げる場所。
朝、寝坊したオマエを起こして。コーヒーを淹れて。くだらない話をして。
そういう生活を。
俺は、一瞬で想像できてしまった。想像できてしまった事が、苦しかった。
「蒼?」
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「また?」
「今回は聞いてた」
「怪しい」
「家賃折半の話?」
「聞いてないじゃん」
「聞いてない」
莉子が吹き出した。
「もう」
笑う。
その笑顔を見て俺も、つられて少し笑った。
それでいい、莉子が笑っているなら。
そう思う。
そう思っている・・・はずなのに。
頭の中には、まったく違う景色が浮かんでいた。
夜の道路。
赤信号。
助手席。
窓の外を流れていく街の明かり。
そして・・・俺の車の助手席に座っていた莉子。
あの夜。
俺は、莉子を帰したくなかった。
ファミレスの駐車場で、俺が先に車を降りた後、莉子は反対側のドアを開けて、ゆっくりと外へ出てきた。
夜風が吹いてた。デートのために丁寧に巻いた髪が、肩のあたりで揺れる。
綺麗だった。
「なに?」
俺が見ていた事に気づいたのか、莉子が首を傾げた。
「別に」
「絶対なんか思った」
「思ってない」
「怪しい」
「早く入れ」
「はいはい」
莉子が先に歩き出す。
俺はその背中を追った。
少しだけ迷って、結局、隣に並ばなかった。
いつもそうだ。
俺は莉子の隣に立てるのに、自分から半歩だけ後ろに下がる。友達だから、そういう距離でいい。そう言い聞かせながら。
本当は隣を歩きたかった。
手を繋ぎたかった。
寒いなら、俺のポケットに手を入れろと言いたかった。
そんなことを思っている男が、何食わぬ顔で友達をしている。
店内に入ると、若い店員がテーブル席へ案内してくれた。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
「はーい」
莉子はメニューを開く。
「何食べよう」
「好きなの食え」
「デートの代わりなんだから、もっと考えてよ」
「俺との飯をデート扱いするな」
「じゃあ何?」
「緊急避難」
「なにそれ」
「直人にキャンセルされた女の保護」
「言い方!」
莉子が笑う。
「じゃあ蒼は保護者?」
「知らん」
「お父さん?」
「違う」
「お兄ちゃん?」
「もっと違う」
「じゃあ何」
メニューから顔を上げて、莉子が俺を見る。
その一瞬、言えると思った。
俺は何でもないふりをした。
「友達」
その言葉を口にするまで、ほんの一秒もなかったと思う。
けれど、俺の中では何年分もの時間があった。
恋人。
好きな男。
お前を幸せにしたい男。
そんな言葉が喉元まで浮かんで、結局一番安全な言葉だけを選んだ。
「だよね」
莉子が笑った。
でも、その笑顔に安心している自分がいた。
そして少しだけ傷ついている自分もいた。
「蒼ってさ」
注文を終えた後、莉子がセルフのドリンクバーのグラスを両手で持ちながら言った。
「昔から変わらないよね」
「何が」
「優しいところ」
「そんなことない」
「あるよ」
「ない」
「ある」
「直人より?」
言ってから、自分で失敗したと思った。
莉子が瞬きをする。
「なんでそこで直人?」
「いや」
「気にしてる?」
「何を」
「直人の事」
「気にしてない」
「ふうん」
絶対に信じていない顔だった。
莉子はストローで氷を動かした。からん、と小さな音がする。
「蒼といると、楽なんだよね」
まただ。俺は、こういう言葉に弱い。
莉子は何も知らずに言う。
「気を遣わなくていいし」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「微妙」
「直人とは、やっぱりちょっと違う」
心臓が跳ねる。
期待するな。
頭の中で自分に言う。期待するな。繰り返す。
「直人はさ」
莉子は続けた。
「一緒にいると、ちゃんと彼女でいなきゃって思う」
「彼女だろ」
「そうなんだけど」
「何だよ」
「蒼の前では、別に可愛くしてなくてもいいじゃん」
「してるだろ」
「え?」
「いや」
危なかった。
「・・・別に、いつも通りでいいって事だろ」
「そうそう」
莉子は笑った。
「蒼の前でまで気合い入れてたら疲れる」
その言葉を聞いて少しだけ苦しくなった。俺の前では可愛くなくていい。俺の前では女でいなくていい。
それは、信頼されているという事なのか。それとも最初から、男として見られていないという事なのか。
たぶん、その両方だった。
「でも」
莉子が言った。
「今日、蒼に会えてよかった」
俺は顔を上げた。
「さっきも言ったな」
「何回言ってもいい」
「もう聞いた」
「聞いて」
「聞いてる」
「・・・ありがと」
その声は、さっきより小さかった。
「だって」
莉子は窓の外を見る。
「今日、すごく楽しみにしてたんだ」
俺は黙った。
「仕事終わって、一回家に帰って」
「聞いた」
「ちゃんと着替えて、髪も巻いて」
「それも聞いた」
「蒼はそういうの、ちゃんと覚えてるんだね」
「二回も聞かされたからな」
「そっか」
莉子が少し笑った。
「直人にも、そういうの分かってほしいなって思っちゃった」
俺は、テーブルの下で手を握った。言えばいい、今なら。
俺なら分かる。オマエが今日どんな服を着ているか。髪をいつもより丁寧に巻いた事も。いつもはつけない小さなピアスをしている事も。その全部を。
直人が気づかないような事まで。
俺は知っている。知っているから、俺を選べ。そんな言葉が心の奥から浮かんでくる。
けれど。
言えない。
俺が知っている事は、莉子が俺を選ぶ理由にはならない。長く一緒にいた。何でも話せる。すぐに駆けつけられる。
それは恋愛の勝ちじゃない。
むしろ告白しなかった俺が自分で選んだ場所だった。
「・・・直人も分かってるんじゃないか」
「何が」
「オマエが今日、楽しみにしてた事」
「でも来なかった」
「仕事だったんだろ」
「またそれ」
「事実だ」
莉子が頬を膨らませた。そんな仕草一つ可愛い。
「蒼は、本当に直人の味方だよね」
「違う」
「違う?」
「俺は」
そこで言葉が止まった。俺はオマエの味方だ。そう言おうとしてそれすら、何か違う気がした。
俺は莉子の味方でいたい。でも莉子が直人を選ぶなら、俺は本当に、心から応援できるのか。
直人と結婚すると言われたら、笑って祝福できるのか。
・・・分からない。
今なら、このテーブルの上にある水を飲み干すより簡単に、直人の悪口を言える。あんな男やめろと言える。オマエを待たせる男なんて、大事な日に仕事を優先する男なんて。
俺なら。俺なら、そんな事しない。
・・・でも。
それは本当に、莉子のためなのか。
それとも俺のためなのか。
「・・・俺は」
莉子が待っている。
俺は笑った。
「腹減ってる」
「何それ」
「料理遅いな」
「話逸らした」
「逸らしてない」
「逸らした」
莉子が笑う。その笑顔に俺はまた逃げた。
食事を終えてファミレスを出ると、夜はさらに深くなっていた。駐車場に並ぶ車の数も、来た時より少ない。
遠くの国道を走るトラックの音。看板の光。少し冷たい風。
「お腹いっぱい」
莉子が両手を上に伸ばした。
「食いすぎ」
「だって蒼が好きなの頼めって言った」
「全部食えとは言ってない」
「でも食べたかった」
「ならいい」
莉子が笑う。
その笑顔を見ていると、時間が、このまま止まればいいと思った。直人の電話も、明日の約束も、何も来なければいい。
この駐車場に俺と莉子だけがいて、いつまでも、くだらない話をしていられればいい。
その時、莉子のスマホが震えた。
俺は反射的に画面を見た。名前までは見えなかった。見なくても分かる。
莉子がスマホを見て、すぐに表情を柔らかくしたから。
「直人?」
「うん」
胸の奥が沈む。
「電話?」
「ううん、メッセージ」
「返せば」
「蒼、急に冷たくない?」
「別に」
「じゃあ返す」
莉子は立ち止まり、画面を見ながら文字を打ち始める。
俺は数歩先へ歩いた。振り返らなかった。振り返れば莉子が、俺じゃない誰かに向けて笑う顔を見る事になる。
それが嫌だった。
そんな自分がひどく子供っぽく思えた。
「蒼」
「ん?」
「ごめん」
「何が」
「明日、直人と会う事になった」
「別に報告いらない」
「なんでそんな言い方」
「会えばいいだろ」
「うん」
莉子が少し黙った。
「仲直り、したいし」
俺はゆっくり歩き続けた。駐車場の白い線だけを見ながら。
「好きなんだろ」
「うん」
その一言が俺に刺さる。
「じゃあ、行けよ」
「・・・うん」
本当は行くなと言いたかった。明日なんて来るな。直人に会うな。俺の隣にいろ。今日、会えなかった事も忘れて、そのまま全部忘れてしまえ。
俺がいる。俺がいるから。もう帰らなくていい。
そう言いたかった。
でも莉子が直人を好きだと知っている。
知っているから、俺には、それを壊す権利がない。いや権利がないからじゃない。壊してしまった後、莉子が幸せになれなかったら怖いのだ。
もし俺が自分の気持ちだけで彼女を引き止めて、直人との関係を壊して、それでも莉子が俺を選ばなかったら・・・俺は彼女から、恋人だけを奪った男になる。
それが怖い。
だから俺は優しい男を演じる。
「幸せになれよ」
そんな言葉を簡単に言える。
でも本当は、そんなに綺麗な男じゃない。
「蒼? 聞いてる?」
莉子の声で、俺は顔を上げた。
カフェの窓の外では、街路樹が風に揺れていた。
「どうしたの?」
「いや」
「また聞いてなかった?」
「聞いてた」
「嘘」
「・・・新居の話だろ」
「それ、10分前」
「じゃあ合ってないな」
「もう」
莉子が笑う。その笑顔、あの夜と同じだった。何も変わっていない。変わったのは、俺が、あの夜を思い出している事だった。
あの夜、俺は莉子をきちんと帰した。正確には帰る時間を決めたわけではない。ファミレスを出て、車に乗って、少しだけ遠回りのドライブをして、家の前まで送り届けた。
その間も、莉子は隣にいた。直人の事を話した。仕事の事を話した。どうでもいいテレビ番組の話をした。
そして、何度も笑った。
だから俺は思ってしまった。このまま帰したくない、と。
夜が終わらなければいい。ガソリンが尽きるまで走って、知らない街へ行けばいい。朝まで海でも見て、直人からの電話には出ないで、明日の約束なんて忘れて、莉子が俺の隣にいる事だけを当たり前にすればいい。
そんな事を本気で考えた。
勿論、実際には何もしなかった。
コンビニに寄って、眠くなった莉子が助手席で欠伸をして「そろそろ帰る?」と聞いた。
俺は「ああ」と答えた。
それだけだった。
それだけで莉子は安心したように笑った。
「蒼、ありがと」
「何回言うんだよ」
「今日だけは、いっぱい言わせて」
「好きにしろ」
「今日は、ほんとに楽しかった」
楽しかった。その言葉が嬉しかった。けれど俺の期待とは別の、次の言葉が来る事を知っていた。
「直人と仲直りできたら」
ほら。
「ちゃんと、蒼にも報告するね」
俺はハンドルを握る手に力を入れた。
「いらない」
「なんで?」
「どうせするだろ」
「する」
「じゃあ聞く」
「素直じゃない」
莉子が笑った。
俺も笑った。
その時、俺は一度だけ。本当に一度だけ車を止めようと思った。
路肩に寄せて、ハザードを点けて、莉子を見る。そして言う。
帰るな。
俺を選べ。
直人より俺の方がいい。
オマエが泣いた夜も、笑った夜も、俺はずっと隣にいた。これからも俺がいる。
俺がオマエを幸せにする。
だから、行くな。
そう言えば、何かが変わったかもしれない。
あの夜なら、もしかしたら、ほんの少しくらい、俺に可能性があったのかもしれない。そんな事を今でも思う。
だから今日のこの言葉が余計に苦しい。
「・・・蒼?」
「ん?」
「どう思う?」
莉子が言った。
「同棲」
俺は、目の前の莉子を見る。嬉しそうだった。少しだけ不安そうでもあった。
新しい生活を前にした人間の顔だった。
期待と怖さと、それでも前へ進もうとする気持ち。
俺はその顔を壊したくなかった。莉子には幸せになってほしい。
それは嘘じゃない。
直人が彼女を幸せにできるなら俺は、それを願うべきだ。
もし二人が一緒にいる事で、莉子が毎日笑えるなら、俺が割り込む理由なんてない。
分かっている、全部。分かっている。
それでも、俺が幸せにしたい。
朝、眠そうな顔で起きてくる莉子を見たい。機嫌が悪い時に、コーヒーを渡したい。仕事の愚痴を聞きたい。喧嘩したら仲直りしたい。帰りが遅い夜には、迎えに行きたい。
泣いたら・・・昔からそうだったように、俺のところへ来ればいい。
そんな未来を、俺が欲しい。直人から奪ってでも。
そう思ってしまう。
その願いが莉子を幸せにするためなのか。俺が幸せになるためなのか。もう、分からなかった。
「蒼」
莉子が、少し不安そうに呼ぶ。
「反対?」
「・・・」
言え。
今なら、反対だと言えばいい。嫌だと言えばいい。行くなと言えばいい。
俺はオマエが好きだと。
何年も言えなかった事を。
今、言えばいい。
でも莉子の目を見た瞬間、あの夜のことを思い出した。
助手席で俺に向かって笑った莉子。
『今日、蒼に電話してよかった』
あの言葉。
俺は、あれを恋愛の言葉に変えたかった。
友達としての信頼を、別のものにしたかった。でも、できなかった。
そして・・・今もできない。
「反対じゃない」
俺は言った。
莉子が少しだけ目を細める。
「ほんと?」
「ああ」
「よかった」
よかった。莉子はそう言った。
俺が賛成した事で安心した。
それが少しだけ悲しかった。俺が反対するとは、最初から思っていなかったのだろう。
俺はいつでも莉子の味方だから。どんな選択をしても最後には笑って、それでいいんじゃないと言う男だから。
「蒼」
「ん?」
「引っ越す前にさ」
「何」
「昔みたいに、二人で遊びに行かない?」
心臓が止まりそうになった。
「・・・二人で?」
「うん」
「直人は?」
「別に来ないでしょ」
「そりゃそうだろ」
「何がいい?」
莉子は楽しそうに笑っている。
「海とか?」
「遠い」
「じゃあ遊園地」
「子供か」
「映画?」
「それは普通に行くだろ」
「じゃあ、昔よく行ったところ巡るとか」
楽しそうに予定を立てる、何も知らずに。俺の心臓を、何度も掴む。
「いいよ」
俺は答えた。答えながら、行かないだろうなと思った。
「ほんと?」
「ああ」
「約束ね」
「分かった」
莉子が笑った。
その笑顔を見ながら俺はまた思った。あの夜、本当に帰したくなかった。今でも帰したくない。引っ越してほしくない。直人のいる部屋へ。新しい生活へ。俺の知らない毎日の中へ、行ってほしくない。
それでも俺は、見送るのだろう。
莉子が幸せになる事を願いながら。その幸せの中に自分がいない事だけを誰にも見せない場所で、何度も、何度も、憎むように。
最後の音が、ライブハウスの天井へ消えていった。一瞬の静寂の後、フロアから拍手が湧き起こる。今日も凄い熱気だった。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」 「ありがとうございました~!」
ボーカルの蒼の声に、バンドメンバー達もそれぞれ手を上げた。
ドラムがスティックを掲げる。ベースが笑いながらアンプの電源を落とす。ギターが客席へ軽く頭を下げた。
いつもの終わり方だった
演奏を終えれば、全員がステージの袖へはける。
だから、一人、また一人と袖へ消えていく中、蒼だけが、ステージに残った時、客席の誰もが、少しだけ不思議そうな顔をした。
「蒼?」
袖から誰かが呼んだ。
けれど、蒼は振り返らなかった。マイクの前に立ったまま、少し俯いている。
照明が一段、落ちた。
さっきまで騒がしかったフロアが、ゆっくりと静かになる。
やがて蒼が、小さく息を吸う音をマイクが拾った。
アカペラだった。
伴奏はない。
ただ、一人の声だけが、暗いライブハウスに落ちた。いつもの高めのキーの歌声ではない。シャウトでもない。低めの声で口ずさむバラード。いつものマイクパフォーマンスはない。ただ・・・静かにそこに立っていた。
歌い始めたのは、誰かを好きになった歌だった。けれど、手に入れた恋の歌ではない。好きだと叫ぶ歌でもなかった。
もっと静かで。
もっと、どうしようもない歌だった。
多少騒めいていた客席が本当に静かになった。
笑っていてほしい。
幸せになってほしい。
その願いだけなら、きっと誰にでも言える。
けれど、その幸せの隣にいるのが、自分ではないと知った時、人は、どうすればいいのだろう。
祝福するのが愛なのか。
それとも・・・醜くても、行かないでくれと、腕を掴んでしまってもいいのか。
蒼の声が、少し低く落ちた。
歌声が、静かなフロアへ零れる。
♪ 幸せになってほしい ♪
祈るような声だった。
自分ではない誰かの隣で笑う未来さえ、受け入れようとするように。
けれど、次の言葉には、隠しきれない痛みがあった。
♪ もし君に伝えられたら ♪
伝えられなかったのは何だったのだろう。
好きだという言葉か。
それとも、君の幸せを願っていると言いながら、本当は自分が幸せにしたかったという身勝手で、けれど、どうしようもなく真っ直ぐな願いなのか。
蒼は歌い続けた。
誰かを責めるわけではない。
奪われたと叫ぶわけでもない。
ただ、届かない場所にいる誰かへ、声を届けようとしているようだった。
ステージの光が、伏せられた睫毛を照らす。
一瞬、声が掠れた。
ほんの一瞬だった。
けれど、それが演出ではない事を、なぜか誰もが分かってしまった。
この人は、本当に誰かを好きなのだ。
叶わないと分かっているのに。
幸せになってほしいと願いながら。
それでも、願っているだけではいられないほど好きなのだ。
蒼が顔を上げた。
薄暗い照明の向こうに、誰かを探すように。
けれど、そこにいるのは観客。
それでも。
最後に。
蒼の声が、ほんの少しだけ震えた。
♪ 帰したくなかったよ ♪
誰かが、息を呑んだ。
あまりにも短い言葉だった。
けれど、その一言の中には、長い夜があった。
もう少し一緒にいたかった。
朝なんて来なければよかった。
誰かの元へ帰る事なんて、忘れさせてしまえばよかった。
そんな、口にすれば醜くなる願いが、全部、そこにあった。
蒼は、最後まで歌った。
届かなくても。
もう別の誰かの隣で笑っていても。
それでも。
幸せになってほしい。
だけど、もし君に伝えられたらあの夜・・・帰したくなかった。
俺が、君を幸せにしたかった。
最後の声が消えた。
誰もすぐには拍手をしなかった。
静寂が、フロアに落ちる。
蒼はゆっくりと目を閉じた。
泣いているようにも見えた。
ただ誰にも渡したくなかったものを、自分の手で手放した人間の顔をしていた。
やがて、一人が拍手をした。それを合図にしたように、フロアいっぱいに拍手が広がる。
蒼は長く頭を下げた。
観客の誰も、彼が誰を好きなのか知らない。
それでも、もし、この会場のどこかに彼が歌っている相手がいたのなら、どうか一度だけでいい。振り返ってほしい。
そう願わずにはいられなかった。
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