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記憶を失った夫が、死ぬ日にだけ私の名前を呼んだ

作者: アポロ
掲載日:2026/04/16

村に奇病が広がり始めたのは、三年前のことだった。

最初はただの物忘れだと思われていた。

だが、症状はゆっくりと、確実に進んでいく。


忘却病──。


名前の通り、すべてを忘れていく病だ。

家族の顔も、言葉の意味も、歩き方すらも。

十年から十五年の末期には、呼吸の仕方さえ分からなくなる。


そして、この病にはひとつだけ残酷な特徴があった。


死ぬ日だけ、すべての記憶が戻る。

かかる前の、その人のままに。


エマの夫、ヨナスが病を宣告されたのは、村に奇病が広がり始めた頃だった。


「大丈夫だよ、エマ。少し物忘れが増えただけさ」


ヨナスは笑っていた。

その笑顔が、エマには痛かった。


最初の一年は、まだ会話もできた。

ただ、同じ話を何度も繰り返すようになり、

エマは笑いながらも胸の奥が冷えるのを感じていた。


三年目には、ヨナスはエマの名前を呼ばなくなった。

呼びかけても、少し遅れて反応する。

まるで、誰か別の人を探しているようだった。


六年目には、食事の仕方を忘れた。

スプーンを持たせても、口まで運べない。

床にこぼれたスープを見つめて、

ヨナスは子どものように泣き出すこともあった。

夜中には家の外に出てしまい、

エマは裸足のまま暗い村を探し回った。


八年目には、言葉を失った。

声は出るのに、意味を成さない。

ヨナスはエマの顔を見ても、

誰なのか分からないような目をしていた。


エマは献身的に世話をした。

ヨナスの体を支え、食事を口に運び、

夜は何度も起きて、息をしているか確かめた。

手首には、抱え上げた時についた青あざが増えていった。

眠れない日が続き、

エマの指先はいつも震えていた。


それでも、エマは夫の手を離さなかった。

だが、疲労は確実に彼女を蝕んでいった。


「……ごめんね、ヨナス。今日も……うまく笑えないや」


ヨナスは返事をしない。

ただ、空を見つめていた。


エマは分かっていた。

夫はもう、自分のことを覚えていない。


それでも、エマは夫の手を握り続けた。


──そして、ある朝。


ヨナスが、エマの名前を呼んだ。


「……エマ?」


エマは、手に持っていた水差しを落とした。


「ヨナス……? ヨナスなの……?」


夫は、かつての優しい瞳で微笑んだ。


「おはよう。どうしたんだい、そんなに泣いて」


エマは声を上げて泣いた。

今日が──

ヨナスの“最後の一日”だと知っていたから。


ヨナスは、まるで病にかかる前の頃に戻ったようだった。

声の調子も、笑い方も、歩き方も。

エマの手を握る力さえ、昔のままだった。


「エマ、散歩に行かないか?

 最近、外に出てなかった気がするんだ」


エマは涙を拭き、笑顔を作った。


「ええ……行きましょう。あなたと一緒に」


二人は村の道を歩いた。

ヨナスは景色を見て驚いたように言う。


「ずいぶん変わったな、この村。

 あの木、こんなに大きかったか?」


エマは胸が痛んだ。

ヨナスがその木の下で転んだ日も、

二人で初めてキスをした日も、

彼は覚えていない。


今日だけ──

今日だけ、思い出している。


エマはそっと言った。


「あなたが……忘れていただけよ」


ヨナスは不思議そうに笑った。


「そうか。俺は本当に、物忘れがひどいな」


エマは俯き、涙をこらえた。


昼には、ヨナスの好きだった料理を作った。

エマは震える手で包丁を握りながら、

何度も深呼吸をした。


「エマ、これ……懐かしい味だな」


「あなたが好きだったから……ずっと作ってたのよ」


「そうだったのか。

 俺は……幸せ者だな」


エマは返事ができなかった。

喉が詰まって、声が出なかった。


夕方、二人は丘の上に座り、沈む夕日を眺めた。

ヨナスはエマの肩に手を回し、静かに言った。


「エマ。

 俺は……お前と結婚して、本当に良かった」


エマは堪えきれず、涙をこぼした。


「私も……あなたと一緒にいられて……幸せだったわ」


ヨナスは優しく微笑む。


「どうしたんだい。

 まるで今日が最後みたいな顔をして」


エマは胸が張り裂けそうだった。


──今日が最後なのよ、ヨナス。


言いたかった。

でも言えなかった。


夜。

ヨナスはベッドに横たわり、エマの手を握った。


「エマ……ありがとうな。

 お前がいてくれて、俺は幸せだ」


「私もよ……ヨナス。ずっと……ずっと……」


ヨナスは穏やかに目を閉じた。

その呼吸は、次第に静かになり──

やがて、完全に止まった。


エマは夫の手を握りしめたまま、声を殺して泣いた。


「いや……いやよ……ヨナス……

 行かないで……お願い……」


返事はない。

温もりだけが、ゆっくりと消えていく。


エマは泣きながら気づいてしまった。


胸の奥に、

ほんのわずかに──

安堵があった。


これで、

もう夜中に起こされることもない。

もう泣きながら介護する必要もない。

もう、疲れ果てて倒れる心配もない。


「……いや……いや……こんなの……」


エマは自分の胸を叩いた。


「どうして……どうして私は……

 あなたが死んで……ほっとしてるの……?」


罪悪感が、波のように押し寄せた。


「ごめんなさい……ヨナス……

 ごめんなさい……!」


エマは夫の胸に顔を埋め、泣き続けた。


翌日、村人たちが弔いに訪れた。

エマは涙を拭きながら言った。


「私……最低なの……

 ヨナスが死んで……

 少しだけ……楽になったって……思ってしまったの……」


村の老人が、静かに首を振った。


「エマ、それは普通のことだよ。

 十年も介護してきたんだ。

 誰だって……そう思う」


別の女性も言った。


「あなたは十分すぎるほど頑張ったわ。

 誰も責めたりしない」


エマは泣きながら、かすかに頷いた。


その夜。

エマは一人になった家で、ヨナスの写真を見つめた。


寂しさが胸を締めつける。

でも、その片隅に──

確かに安堵があった。


エマは写真に向かって、静かに呟いた。


「……ごめんね。

 でも……ありがとう。

 あなたと生きた日々は……本当に幸せだったの」


涙が落ちた。

それは、悲しみと安堵が混ざった、

人間としての正直な涙だった。

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