記憶を失った夫が、死ぬ日にだけ私の名前を呼んだ
村に奇病が広がり始めたのは、三年前のことだった。
最初はただの物忘れだと思われていた。
だが、症状はゆっくりと、確実に進んでいく。
忘却病──。
名前の通り、すべてを忘れていく病だ。
家族の顔も、言葉の意味も、歩き方すらも。
十年から十五年の末期には、呼吸の仕方さえ分からなくなる。
そして、この病にはひとつだけ残酷な特徴があった。
死ぬ日だけ、すべての記憶が戻る。
かかる前の、その人のままに。
エマの夫、ヨナスが病を宣告されたのは、村に奇病が広がり始めた頃だった。
「大丈夫だよ、エマ。少し物忘れが増えただけさ」
ヨナスは笑っていた。
その笑顔が、エマには痛かった。
最初の一年は、まだ会話もできた。
ただ、同じ話を何度も繰り返すようになり、
エマは笑いながらも胸の奥が冷えるのを感じていた。
三年目には、ヨナスはエマの名前を呼ばなくなった。
呼びかけても、少し遅れて反応する。
まるで、誰か別の人を探しているようだった。
六年目には、食事の仕方を忘れた。
スプーンを持たせても、口まで運べない。
床にこぼれたスープを見つめて、
ヨナスは子どものように泣き出すこともあった。
夜中には家の外に出てしまい、
エマは裸足のまま暗い村を探し回った。
八年目には、言葉を失った。
声は出るのに、意味を成さない。
ヨナスはエマの顔を見ても、
誰なのか分からないような目をしていた。
エマは献身的に世話をした。
ヨナスの体を支え、食事を口に運び、
夜は何度も起きて、息をしているか確かめた。
手首には、抱え上げた時についた青あざが増えていった。
眠れない日が続き、
エマの指先はいつも震えていた。
それでも、エマは夫の手を離さなかった。
だが、疲労は確実に彼女を蝕んでいった。
「……ごめんね、ヨナス。今日も……うまく笑えないや」
ヨナスは返事をしない。
ただ、空を見つめていた。
エマは分かっていた。
夫はもう、自分のことを覚えていない。
それでも、エマは夫の手を握り続けた。
──そして、ある朝。
ヨナスが、エマの名前を呼んだ。
「……エマ?」
エマは、手に持っていた水差しを落とした。
「ヨナス……? ヨナスなの……?」
夫は、かつての優しい瞳で微笑んだ。
「おはよう。どうしたんだい、そんなに泣いて」
エマは声を上げて泣いた。
今日が──
ヨナスの“最後の一日”だと知っていたから。
ヨナスは、まるで病にかかる前の頃に戻ったようだった。
声の調子も、笑い方も、歩き方も。
エマの手を握る力さえ、昔のままだった。
「エマ、散歩に行かないか?
最近、外に出てなかった気がするんだ」
エマは涙を拭き、笑顔を作った。
「ええ……行きましょう。あなたと一緒に」
二人は村の道を歩いた。
ヨナスは景色を見て驚いたように言う。
「ずいぶん変わったな、この村。
あの木、こんなに大きかったか?」
エマは胸が痛んだ。
ヨナスがその木の下で転んだ日も、
二人で初めてキスをした日も、
彼は覚えていない。
今日だけ──
今日だけ、思い出している。
エマはそっと言った。
「あなたが……忘れていただけよ」
ヨナスは不思議そうに笑った。
「そうか。俺は本当に、物忘れがひどいな」
エマは俯き、涙をこらえた。
昼には、ヨナスの好きだった料理を作った。
エマは震える手で包丁を握りながら、
何度も深呼吸をした。
「エマ、これ……懐かしい味だな」
「あなたが好きだったから……ずっと作ってたのよ」
「そうだったのか。
俺は……幸せ者だな」
エマは返事ができなかった。
喉が詰まって、声が出なかった。
夕方、二人は丘の上に座り、沈む夕日を眺めた。
ヨナスはエマの肩に手を回し、静かに言った。
「エマ。
俺は……お前と結婚して、本当に良かった」
エマは堪えきれず、涙をこぼした。
「私も……あなたと一緒にいられて……幸せだったわ」
ヨナスは優しく微笑む。
「どうしたんだい。
まるで今日が最後みたいな顔をして」
エマは胸が張り裂けそうだった。
──今日が最後なのよ、ヨナス。
言いたかった。
でも言えなかった。
夜。
ヨナスはベッドに横たわり、エマの手を握った。
「エマ……ありがとうな。
お前がいてくれて、俺は幸せだ」
「私もよ……ヨナス。ずっと……ずっと……」
ヨナスは穏やかに目を閉じた。
その呼吸は、次第に静かになり──
やがて、完全に止まった。
エマは夫の手を握りしめたまま、声を殺して泣いた。
「いや……いやよ……ヨナス……
行かないで……お願い……」
返事はない。
温もりだけが、ゆっくりと消えていく。
エマは泣きながら気づいてしまった。
胸の奥に、
ほんのわずかに──
安堵があった。
これで、
もう夜中に起こされることもない。
もう泣きながら介護する必要もない。
もう、疲れ果てて倒れる心配もない。
「……いや……いや……こんなの……」
エマは自分の胸を叩いた。
「どうして……どうして私は……
あなたが死んで……ほっとしてるの……?」
罪悪感が、波のように押し寄せた。
「ごめんなさい……ヨナス……
ごめんなさい……!」
エマは夫の胸に顔を埋め、泣き続けた。
翌日、村人たちが弔いに訪れた。
エマは涙を拭きながら言った。
「私……最低なの……
ヨナスが死んで……
少しだけ……楽になったって……思ってしまったの……」
村の老人が、静かに首を振った。
「エマ、それは普通のことだよ。
十年も介護してきたんだ。
誰だって……そう思う」
別の女性も言った。
「あなたは十分すぎるほど頑張ったわ。
誰も責めたりしない」
エマは泣きながら、かすかに頷いた。
その夜。
エマは一人になった家で、ヨナスの写真を見つめた。
寂しさが胸を締めつける。
でも、その片隅に──
確かに安堵があった。
エマは写真に向かって、静かに呟いた。
「……ごめんね。
でも……ありがとう。
あなたと生きた日々は……本当に幸せだったの」
涙が落ちた。
それは、悲しみと安堵が混ざった、
人間としての正直な涙だった。




