2-1
日に日に活発さを増していく愛息ユファンを、ようやく寝かしつけようかという時のこと。
いつもであればそのまま息子と共に寝入ってしまうリヴィニーシャであったが、寝入る間際、ユファンが妙に外の様子を気にした素振りを見せたのが気にかかった。
何かを求めるよう、外に向かって手を伸ばすことしばし。
彼が寝付くのを見届けると、起こさぬようそっと寝台を降りた。
「今、外で何か変わったことはなかった?」
裸足のまま石床を歩き、寝室の扉の前に控えていた女王付きの侍女たちに声をかける。しかしリヴィニーシャが期待する返答はなく、彼女らは小首を傾げるのみであった。
「今日はこれといって催しもありませんし……大事ないとは思われますが、ご不安でしたら、確かめさせましょうか」
小首は傾げながらも、女王の様子を見て取ったのだろう、乳母ハーラは真摯にそう申し出てくれた。宜しくね、と返すと、ハーラの手の振りに応じて侍女の一人が部屋を辞した。
それを見送る間も惜しんで、リヴィニーシャは次の間の方に踵を返す。それを見るなり先回りした侍女の一人が扉を開き、彼女は歩みを緩めもせず泰然とそこをくぐった。
寝室の隣は彼女の衣裳部屋である。豪奢を好まぬリヴィニーシャとはいえ、女王のそれとなればその数は尋常でなかった。が、彼女の関心は全くそれらには注がれなかった。
「お召し物はいかがなさいましょう?」
後に続いた侍女が、夜着を脱がせつつそう尋ねてくるが、
「何でもいいから、手早くお願い」
応える女王の声は実に素っ気ないものであった。ハーラが言ったとおり、今リヴィニーシャの胸中は一抹の不安に妙に囚われていたのである。
元来、発達に勢いのついた幼児というものは外界の刺激に実に率直に反応するものである。風が起こす葉擦れの音や某かの足音、果ては飛ぶ鳥が落とす影の動きにも反応を示す。それは別段おかしなことではない。
加えて、竜の血である。
一歳の幼さながら、この少年の目や耳が見聞きしている世界は、どこまで及んでいるかしれない。
とすれば、そのユファンの反応の一つ一つに不安を覚えていたらきりがないし、実際普段のリヴィニーシャはといえば無頓着といえるくらいに気にせず、穏やかに愛情を注いでいたのだった。
一つだけ普段と違っていたこと。それは一瞬だけユファンの顔によぎったもの悲しげな表情である。そう、子が親から離される時に浮かべる表情。それを母親であるリヴィニーシャは見過ごせなかったのだ。
それだけ?
疑問がよぎる。予感めいたものがあったのではないか、と。
悪い想像は不幸を呼び込むだけだ。単なる思い過ごし、と言い聞かせるように彼女は軽く頭を振った。
侍女たちはその一思案の間にリヴィニーシャの身支度をすっかり整えてくれていたようだった。ありがとう、と軽く微笑んで、彼女は寝室に戻った。そのまま歩みを止めず、廊下に繋がる扉へと向かう。
ふと、寝台で眠るユファンを省みる。幼い我が子は、今は安らかに寝息を立てているばかりであった。
「妃殿下、そのように慌てなされて、いかがされましたかな?」
廊下に出るやいなや声をかけてきたのは、大将軍タナヴィス=ヴィセルだった。
建国王と肩を並べて統一戦争を戦い抜いた、今となっては軍中の最古参である。眉も髭も色を喪い、顔もすっかり皺だらけになってしまっていたが、しかし大柄な体躯はたっぷりと精気をまとっていて、大将軍の地位が飾りでないことを明らかに示していた。
後を追うように先の侍女が続いてくるところをみると、彼女がこの老人を連れてきたようである。他の堅物を連れてくるよりはずっと賢明であるのだが、彼は彼で大仰にも思われる。
「これは大将軍どの、お呼び立てしてしまったようで申し訳ない」
「呼び立てたなどととんでもない、妃殿下の憂いを晴らすことこそ我が務めでありますでな。尊貴なるお方がそのように慌てなすっては、下々の者が不安に思いますゆえ」
顎鬚をしごきながらヴィセル公が柔らかい笑みを後ろに向けると、そこでは侍女が恥じ入ったように身を小さくさせていた。
「あら、私はそんなに慌てていたの?」
一瞬きょとんとした表情を浮かべたリヴィニーシャだったが、一拍置くと、悪戯っぽく、それでいて柔らかく侍女に尋ね掛けた。それでも、とんでもございません、とだけか細く応えると、それきり侍女は俯いてしまう。
「大丈夫よ、怒ったりしないから。――それよりヴィセル公、貴公、陛下がいずこにおられるかご存じないかしら?」
「陛下が? ……いえ、存じ上げませぬ。妃殿下もご存知のとおり、国事万端にまで目を向けられるお方ですからな、今もいずこにおられることやら。どうしても、ということならば、侍従長か近衛兵長に尋ねられてはいかがですかな?」
リヴィニーシャの問い掛けに、さらりと応えるヴィセル公。しかし、その返答に彼女の目は僅かに細められた。
「それでは、侍従長はどちらにおいでか? 近衛兵長は?」
「申し訳ない。私も公務のさなかを抜けて参ったもので、どちらも存じ上げませぬ。直ちに召し出しますゆえ、しばしお待ち下され」
「いや、その必要はない」
一礼し、まさに身を翻そうとした老公を、リヴィニーシャがきっぱりと言い留める。
「……必要ない、とは?」
「ヴィセル公、これ以上虚言を弄するようなら王家への叛逆とみなすがよろしいか?」
「…………。妃殿下、叛逆とは穏やかならぬ物言いですな。一体――」
「――ヴィセル公。陛下はいずこか?」
経産婦の貫禄があるとはいえ、齢二十にも満たない娘の冷厳な視線が、ゆうに齢六十を越す歴戦の勇将を今まさに射抜いていた。老獪さでは教主サルディエや侍従長オルゲウにも引けをとらぬと自負していた老公であったが、この上はそれも返上せねばならぬようである。降参、と言わんばかりに大きく頭を振ってみせた。
「ふ、妃殿下には敵いませぬな。――陛下はラフダニに赴かれました」
「ラフダニに!? 貴公、なぜお止めしなかった!?」
「ローデンウェリ卿から書簡が届けられたとのことにございます。報を容れた時にはすでに侍従長を伴い出立なされておいででしたゆえ、直ちに近衛を招集し後を追わせましたが……」
「やはりサルディエか。あれのことだ、仮病辺りを口実に陛下を誘い出したのであろうな。となれば何を言っても聞き容れて下さる陛下ではない」
「まさしく」
応えつつ老公は、このうら若い娘の見識に舌を巻かずにはいられなかった。
彼女がそれなりの出自であれば納得もしようものだが、しかしリヴィニーシャはラティアルトに妃として迎え入れられるまでは辺境の村娘でしかなかったのだ。宮中にあってもかつてこれを席巻した母后摂政とはうって変わって慎ましやかに振舞っているから、凡庸な田舎娘と侮っている者は決して少なくない。老公とて、大将軍としてこのように近く接する機会がなければ、そのように思っていただろう。
となれば、現王家への風当たりのきつい宮中にあっては、慎ましやかな振る舞いこそ彼女なりの処世術なのだろう。メルエーヴェの専制を体験した貴族や教団に対してリヴィニーシャがその鋭敏な才覚を示せば、女帝の再来を恐れて疎んじられるのは火を見るより明らかである。まして今は、民衆の上に王家と貴族と教団が危うい均衡を保っているのだ。この実り豊かな平和がその均衡の上にこそ成り立っていることを知っていれば、彼女の為しようは確かに賢明かもしれなかった。
「まあ、それで陛下の御身が危うくなる訳ではないからよいとしても、人の良さに付け込まれておかしな約定を交わされても迷惑です。ヴィセル公、私の馬を」
「お待ち下さい妃殿下。馬などと、いかがなさるおつもりか?」
「自明のこと、陛下を思い止まらせに赴く為です。侍従長が止められぬものを、私以外の誰が止められると?」
「いやしかし、陛下がラフダニに向かい、その上妃殿下がそれを追ってこのヴァドステンを離れたとなれば、王太子殿下がお独りになられてしまいます。ここはこの老人にお任せ願いませぬか」
「貴公に? 言いたくはないが、貴公では陛下をお止めすることは難しかろう」
「存じております。ですから、お止めいたしませぬ」
「止めぬ、と? ではみすみす陛下の御身をサルディエの掌中に明け渡すと言うのか?」
「左様。その上で、私めが一軍を率いて陛下をお迎えに上がりまする」
「……ラフダニを攻めると?」
「ローデンウェリ卿に害意があるとすればそれも有り得ましょうな。もっとも、それは最悪の事態と思っていただいて結構。攻めるばかりが用兵ではございませぬぞ」
「なるほど、一軍を以ってサルディエを牽制しようという訳か」
「さすがは王妃殿下、ご明察でございます」
「だが、もしあれが陛下や侍従長を盾に取ったらどうする?」
「今しがた、陛下の御身が危うくなることはない、と仰られたのは妃殿下ご自身でございましょう? ましてその最たる忠臣であるオルゲウ老を害したとなれば、身を危うくするのはローデンウェリ卿の方でありましょうや。――しかし、妃殿下が王家の血の力をご存知であったというのは些か意外でしたが」
言って、ヴィセル公は肩を竦めた。
竜を殺し、その血を飲んだことで初代王ヴァスガルトが人外の力を得、その力を以って大陸を統一したということは、今では乳飲み子ですら聞かぬことのない建国神話である。が、その人外の力を得たという件を真実と知っている者は極めて少ない。
戦場にあって幾百の敵兵を斬って捨てたとか、固く閉ざされた城門を投槍一本で打ち砕いた、剣で切っても槍で突いても傷一つ付けられない等々、信じ難い逸話は枚挙に暇がない。中には多少の誇張や創作も勿論あろうが、しかしその殆どは紛うかたなき真実そのものなのである。
建国当初から将軍格として王国軍の軍略を監督していたヴィセル公は、屠竜王の勇猛ぶりをたっぷりと目の当たりにしているし、大陸統一の詰めを果たした彼の息子たちの活躍とて、実に父王に比肩しうるものであった。残念ながら、この太平の世にあってラティアルトがその武勇を発揮する機会はなかったが、しかし王家の血族に連なる彼がその力をも受け継いでいようことは疑いようもない。
「無論、私は貴公が戦場で見聞きしたようなことは知りません。ですが私は陛下の妻であり、王太子の母でありますゆえ」
そこまでで言葉を止めて、リヴィニーシャがにっこりと微笑む。
夫と息子のことであれば、ヴィセル公よりもずっとよく知っている、と言うのだ。言われてみれば確かにその通りである。我ながらつまらぬ問いかけをしたものだ、と彼は我知らず失笑を洩らしていた。
「それでは、ここで悠長に話している場合ではなかったのではなくて?」
「はて。といいますと?」
「急ぎ軍を立てなければならないのでしょう? 出立が遅れれば、それだけサルディエを増長させることになるのですから」
「ああ、それでしたらご心配は無用にございます。すでに指示は下してありますゆえ。なまじ有能な部下に恵まれると不幸でございますな。万事そつなくこなしてしまって、老人が口を挟む隙さえ与えてくれませぬ」
「軍をそのように育て上げてくれたのは貴公の功績でありましょう? そのように老人ぶったとしても、まだまだ勇退などとは言わせませんよ」
「これは勿体無いお言葉を――」
「――とはいえ」
不意にリヴィニーシャに持ち上げられて、さも愉快げに身体を揺らしてヴィセル公は笑い立った。が、彼女に半眼で言葉を遮られると、老公は丁度肩をいからせたような格好でぴたりとその動きを止めてしまった。つと一筋の冷や汗が頬を伝い落ちる。
「王家の許しなく宮中にて軍を動かすのは越権と言わざるを得ません。それについて、何か言うべきことがあるのではなくて?」
「は、誠に僭越とは存じ上げておりましたが、なにぶん火急のことゆえ、準備万端整ったところで王妃殿下のお許しを頂こうと、私めの独断でことを進めさせていただきました。無事陛下を御許にお連れした後は、いかなる処断も甘んじて受ける覚悟にございます」
膝を折り、しかし視線は外さずに老公が言上する。その覚悟の程を見せられては、リヴィニーシャには嘆息するより他に為しようがなかった。
「言うてみただけです、貴公ほどの忠臣に処罰など出来ようはずもありません。頼みます、陛下を無事王太子の下に帰しておくれ」
「は。一命にかえましても、陛下は王太子殿下と妃殿下の御許にお届けいたしましょう」
「侍従長も、な。貴公もオルゲウも陛下のかけがえのない財産なのだから。それと、ラフダニの民は陛下の民。徒に不安を植えつけることのないように」
「これは、些か注文が多うございますな」
「出来ぬと申すか?」
「妃殿下の命とあらば、果たしてご覧にいれましょう。然らば」
言うなり、身を翻してヴィセル公はその場を後にした。いかにも頼もしげに、リヴィニーシャがそれを見送る。
ラティアルトの肉体は、頑健を通り越して強固である。容易に害することは出来ない。
大軍を以って恫喝すれば、老獪なサルディエなればこそ迂闊には動くまい。侍従長が付いていればなまじの策など看破してみせるだろうし、ヴィセル公の用兵の巧みさは誰もが認めるところである。
不安はあるまい。だが。
なればなぜ、悪い予感が消えないのだろうか。むしろ胸騒ぎはその度を強めてさえいるように感じられる。
「…………リヴィニーシャさま、大丈夫ですか?」
いつの間にか側に寄った侍女が、気遣わしげに声をかけてくる。また思考が表情に表れてしまっていたようだ。
「ええ、大丈夫。さあ、後は男たちに任せて、ユファンの寝顔を眺めに戻りましょうか」
尊貴なる者が動揺すれば、民も動揺する――先のヴィセル公の言葉を思い出して、リヴィニーシャは不安を無理やり押し殺した。
――王軍壊滅。三日後、その報はもたらされた。




