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かつての少年王も始祖王ヴァスガルトの黒く逞しい体躯とメルエーヴェの聡明な面差しを窺わせるほどに成長し、臣民からは慈愛篤き賢君として信望を集めるようになっていた。即位の折には右も左も分からなかった幼王も、真綿が水を吸い込むようによく多くを学び、今では宮廷と教団の双方を用いて、太平の世をますます豊かに育て上げていった。数多くの犠牲を肥やしとして育ったスウォンジュナという麦穂が、ついに結実した瞬間であった。
黄金時代――まさにそれであろう。賢君も年頃となると、巷の話題といえば専らどのような娘が彼を射止めるか、ということばかりであった。そうした中、全ての街という街、村という村の街頭で伝令吏が朗々と読み上げて回ったのは、若い王が発した簡潔な布告であった。
お妃候補、求む。身分問わず。
国中が、殊に女が皆この布告に沸き立ったことは言うまでもない。誰も彼もがその話題を挙げずにはおられず、国は祭りの如く盛んに賑わうこととなった。その喧騒の中では、善人の形をした毒蛇が暗がりでいやらしく笑う様など、誰も気付くはずもなかった。
「おい、聞いたかい?」
「もちろんさ。あたしもダメ亭主なんぞおっぽり出して、王都に行ってみようかしらねぇ」
「莫迦言っちゃいけないよ。あんたみたいな年増、誰が相手にするもんかい。お妃になるのはあたしみたいなうら若き乙女、って相場が決まってるんだよ」
「ちょいと、誰が年増だって!?」
「あんただよ、あんた。年増が子供を五人も連れて、王さまを脅迫でもしに行くつもりかい? 第一、王都なんて遠いとこまで、どうやっていく気だい」
「大丈夫だよ、お妃候補はナバニ―ルさまの御輿に乗って連れてってもらえるって話じゃないか」
「お妃候補は、だろ。あんたなんぞが乗ったら御輿が潰れちまわぁ。お妃さまってのはナバニ―ルさまみたいな楚々としたお人でなきゃあ、王さまがかわいそうだってぇの!」
「分かった、分かったよ。ちょいと冗談言ってみただけさね。そんな皆揃ってきゃんきゃん言わなくてもいいだろうに」
『いーや、あんたの目は本気だったね』
「……あ、ばれてた?」
そのような会話が、女が二人三人と集まれば、井戸端だろうが教会だろうが、場所を問わず繰り広げられたものである。女の不貞や離婚を背徳の極みと考える世のこと、この場合彼女らの会話は不謹慎なことこの上なかったのだが、このお妃選びを主催しているのが実のところ教主サルディエであったならば、道徳を説くべき司祭らも、ここは見ぬ振り聞かぬ振りを決め込まざるを得なかった。
こうして話は矢の速さで広まり、伝令吏が布告を終えて次の街に発つと、その日のうちにはその街の女という女は皆その布告を耳に入れていたのだった。果ては情報が伝令吏を追い越してしまうことさえあったほどである。
王国の興りから三十余年、世はなべて太平であった。現王ラティアルトも即位より三年を経、齢十六となる。早婚ならずとも妻帯しておかしくない年頃であろう。
実際、年頃の娘を持つ貴族たちはこぞって王家と縁を結ぼうとしたものであった。器量に優れた者、凡夫の及ばぬ才覚を持つ者、或いは天上の造形かという絶世の美女までが彼の前に列をなし、一時、玉座は万華に彩られたかの如き華やかさを見せていた。勿体無くもその悉くを蹴って払った彼が、今さら市井の女を娶ろうということは、当然のこと多くの貴族の不興を買ったが、しかしそれ以上に多くの者たち――つまりは貴族の大多数が抱いたのは、むしろ奇妙な納得であった。
やはりそうか、と。
竜を屠りその血を啜ったという初代王はそれにより人外の力を得たのであるが、その代償か、彼の血を引く者たちはこれまで総じて凄惨な死、不可解な死を遂げている。死に様ばかりのことではない。その生き様さえ、お世辞にも幸福であったとは言い難いものであったのだ。呪われた血を引く一族――その血を引くのであれば、やはりまともではないのだ、と。宮廷儀礼という外向きの仮面の下で貴族諸衆が考えることは、おおよそ同じことであった。
と。
「…………はぁぁ…………」
溜息の大きさがそのまま悩みの深さである、という訳ではなかったろうが、彼のそれは玉座からよく響き渡った。朝議の済んだ後で、謁見の間には人気もない。
「どうなされましたかな、陛下」
ただ一人傍らに侍っていたのは、教主サルディエであった。老境に入ったとはいえ矍鑠でいて、背筋の曲がった様子さえない。彼は玉座の御前に跪くと、王を見上げるようにして穏やかに問い掛けた。
「いや、風当たりがきついな、とな。彼らが怒るのも当然とは思うが」
憂鬱気に表情を曇らせて応える様は、これから連れ合いを探そうとする歳若い青年には似つかわしいものではない。背もたれに預けた頭もひどく重たげである。
「まだそれを憂えておられますか、陛下はお優しゅうございますな。ですが、過分の配慮が誰の為にもならないとは幾度も申し上げたこと。王権の分散とそれが為の混乱を避けるべく決断を下されたのであれば、もはや迷いは禁物。王の迷いはすなわち国の乱れ、揺るぎのない一条の道こそ真の王道ですぞ」
対して、応える老サルディエの言葉こそ淀みないものであった。
王権に服し、俗世にその権能を持ち得ない教団の長としてはいささか強すぎる語調とも思われるが、しかしラティアルトの王位を保証するのが教団勢力の後ろ盾であることからも、現在、教団が王権を凌ぐ力を有していることは明らかである。望めば望むままの大権を得られよう教主サルディエが王の相談役という曖昧な立場に甘んじていることこそ貴族諸衆の不審を招いていることは、いかに賢明といえども、歳若いラティアルトに分かろうはずもなかった。
とはいえ、権勢盛んなサルディエの言葉も、若き善王の憂悶を払えるものではなかったようだ。
「それが私の甘さだと言いたいのだろう? しかし祖母君のこともある。王の独断で万事を進めることは危うかろう」
祖母君、つまりは初代王の妃メルエーヴェは、スウォン=ジュナ建国からオスドウェル在位の中期まで、国家内政の中核に君臨した人物であった。初代王ヴァスガルトの死後宮廷内での孤立化を深め、殊に晩年、オスドウェル在位中は母后摂政として他者を排し、完全な独裁体制を築き上げていた。
それが貴族の反発を招かないはずはない。ゆえに彼女の死後、オスドウェル退位の際に行われた貴族諸侯による王権解体の勢いの凄まじさは筆舌に尽くし難い。
「祖母君?」
唐突に挙げられた政敵の名に、伏せられたサルディエの目に剣呑な光がちらつく。が、それも一瞬のことで、彼の表情はすぐに好々爺のそれに戻っていた。
「祖母君が貴族の反発を招いたのは、彼女が貴族たちの意のただ一つをも汲もうとせず、独善を貫き通した為のこと。陛下のそれとはそもそも話が違いましょう。いえ、むしろ陛下は祖母君を見習って丁度よいのかもしれませぬな」
「……だがな――」
「では、陛下はお召し物を決めるのにも彼らの意見を仰がれるのですかな? これより選び出すは誰でもない、陛下ご自身のお妃さまですぞ。それを陛下がお決めになられず、どの者に決めさせると仰るおつもりか?」
なおも言葉を濁そうとするラティアルトに、片膝を立ててサルディエが詰め寄る。と、迫力に負けた玉座の主は弱々しく視線を泳がせてしまった。
「妃を選ぶ、と言ってもな。……私はまだ乗り気ではないのだが」
「手遅れ、でございますな。お妃候補は続々とこのヴァドステンへと到着しておりますぞ。祝祭に乗じようとする者たちも早々城外に市を築いて待ち構えている次第。もっとも、彼ら全てを宥め透かして引き上げさせる方策があるというならば、話は別ですがな」
「うっ…………」
聞くなり、視線をあさっての方に泳がせたままの形で硬直するラティアルト。音が絶えると、外の賑わいが城中にまで届いてくるかのようであった。妃求むの布告を今さら白紙撤回するなどと、非情ならぬ彼に言えようはずもなかった。
そうして彼一人悶々として過ごすうちにお妃候補は全て王都ヴァドステンに集められ、国を挙げての大祭はいよいよその序幕を上げたのであった。




