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夜が色なき昼へと転じ、壊れていたはずの鉄の檻は、壇上にてその役を果たしていた。
檻の主は、オスドウェル=ジュナ。先の玉座の主であった。鉄枷鉄鎖を帯び、窮屈な檻に篭められたその顔には王威はおろか、人にあるべき意志の光さえない。
その檻の傍らには、体躯に似合わぬ大剣を携えた老人の姿。サルディエ=ローデンウェリ。
ほどなく、老人の待ち人が現れる。ラティアルト=ジュナ。当代の王にして、リヴィニーシャの夫、ユファンの父。見間違いようもないはずのその顔に、しかし目を疑ったのは、あまりの形相のゆえ。
怒気も露わに問い詰めるラティアルトに、余裕たっぷりに応じるサルディエ。だが、どちらの声もリヴィニーシャの耳には届かなかった。
壇下で取り囲む神軍の鎧ずれの音も、その輪の外から投げかけられるラフダニ市民の罵声の数々も、一切の音がなかった。
二人の王族を除いて、その場の全ての者がマティランだった。白一色に染まるその光景に、怖気が走る。
ふと、老人が手を振る。
操り人形のように、神兵たちが先王に槍を突き立てる。ただの一槍さえ彼に傷を負わせることは叶わなかったが、募った不快はついに極まる。身動ぎひとつで、檻は爆ぜた。
解き放たれた獣に蹂躙されたことを理解できた者はどれほどあっただろうか。
神兵だったものが散らばり落ちるのを見れば、群衆は恐慌を来たした。自然、獣の注意はそちらに向く。
視界の端のサルディエが、ラティアルトに何事か語り掛ける。逡巡は短かった。今しも市民たちに襲い掛かろうとしているオスドウェルと一瞬で距離を詰めるや、抵抗らしい抵抗も許さず、組み敷いてしまう。
ラティアルトの技量とオスドウェルの暴力、均衡は僅かに後者が勝った。互いの骨が軋み、筋が今にも千切れ飛びそうな極致での均衡。天秤を保つのは、獣を解き放つまいとする想いひとつ。
悠然と。
老人は歩み寄り、群衆を背に嘲弄の顔で言葉を発するが、愕然とした表情でそれを受け取るラティアルトには返す言葉もない。
構わず、サルディエは手に持つ剣を獣の背に突き立てていた。幾本もの刺突にも動じなかった彼の背を、その剣は易々と刺し貫いた。
捕らえるラティアルトへの暴威が、目に見えて弱まっていく。確実に心臓を刺し貫かれて、オスドウェルは絶命した。
それでも、すぐに立ち上がることはラティアルトには出来なかった。触れている箇所から熱が失われていく感触の異様さに戦慄しつつも、オスドウェルの遺骸に張り付けられてしまったかのように、そのまま固まってしまう。
一方のサルディエは、それには構わずに市民たちに呼び掛けていたようだった。獣の猛威に一時は散り散りになりかけた彼らが、その声に呼び戻されてくる。戻ってきた彼らの表情には、幾許かの恐怖と警戒心、それに数倍する怒りの色が加えられていた。
それから、生き残った兵士たちに命じてラティアルトを立ち上がらせようとする。先のオスドウェルを見た彼らからすれば、ラティアルトも同質の存在である。容易に近づけるものではなかったろう。見かねて、先んじて立ち上がるラティアルト。
ーー見かねて!
リヴィニーシャは歯噛みする思いでそれを見詰めるしかなかった。オスドウェルを害されて、その場の総ては敵である。それを、見かねて、とは。ラティアルトの優しさの底のなさは、四年間連れ添った自分が一番よく知っている、という自負はあったはずだった。しかし、今にも自分を害そうとする相手に対して、どうして情けをかけられるのか。それは遥かに彼女の想像を超えていて、そしてそのような人為であるからこそ、途方もなく悔しかった。
サルディエの言葉に導かれるように、市民たちを見回すラティアルト。彼らの目は敵意に満ちて、彼の存在そのものを否定しているようだった。次いで兵士たちの顔を見る。彼と目を合わせると、一様に恐怖の色が浮かび上がってくる。すでに絶命したオスドウェルばかりは視線を与えられても何の反応も示さなかったが、脅迫めいた暗示性がそこにはあった。
向き直って交わす言葉は虚しい。恐らく、ラティアルトであれば老人の非道を正そうとしたに違いない。一笑に付し、サルディエはこう反論したのだろう。
――お前は生まれながらにして悪しき存在なのだ、と。
優しすぎるラティアルトであれば、それを否定する術はない。悪しからぬ存在など、この世にあろうはずもないというのに!
そして、ラティアルトは観念する。跪き、恭しく腕を開く。
教主の顔で市民たちに――否、教徒たちに語りかけ、たっぷりと視線を掻き集めて、サルディエは剣を天に翳す。
剣は、王家の宝剣であった。初代王ヴァスガルトがこれを以って竜を退治せしめ、そして大陸統一への道を切り開いた栄光の剣であったのだ。なるほどこの剣であればこそ、竜の血を受けし者をも害することが出来たのであろう。
今にも剣が振り下ろされようかというその時であっても王は、毅然として身じろぎもしない。そして剣は振り下ろされた。深々と胸を、心臓を貫いていく。
深々と、柄の手前まで剣が差し込まれる――先触れもなくラティアルトの開かれていた腕が閉じられたのは、まさにその時であった。それを老サルディエがすり抜けたのは奇跡といってよかっただろう。ただ一つ逃れ損ねた左手だけが、柄を握る形そのままに捕らえられた。
ラティアルトの右手が左手を、左手がその手首をしっかと掴んでいた。彼の膂力であれば、老人の細腕など一瞬で壊すことが出来ただろう。だが、彼は掴んだだけであった。そしてそのまま、息を引き取った。
そして光景は、崩れた。
形が欠け、次いで輪郭が失われて、ついに像が掻き消える。その様はまるで霧が払われるかのようであった。
そして、辺りは夜の闇の中に戻った。そこにはリヴィニーシャと彼女の騎馬、すこし離れてクロツがいるだけだった。
「……今の光景は……?」
言いつつ、クロツは近寄って馬の手綱を引き取った。握る力も意思もなく、問い掛けに応える声もない。
「……許せない……」
その声は小さく、ともすれば聞き流してしまいそうなほどであったが、しかしクロツの耳にはどうしてかはっきりと聞こえた。聞こえてしまった、といった方が彼の心情には近いだろうか。ぞくり、と背中に寒いものを感じて、改めてリヴィニーシャの背中を見詰めなおすが、彼女の表情は窺えない。
『…………』
彼女とは異なる誰かの声が聞こえたような気がした。その感覚が意識に上るより先。
馬が嘶き、立ち上がって身を翻そうとする。慌てて手綱を引き、落ち着けようとするが、収まる気配もない。そうするうちに、馬がこうも怯える理由が、クロツにも分かってきた。
大気の流れとは明らかに異なる何かが不可視の流れを形成しているのが、今はクロツにも感じられたのだ。それはラフダニの壁の内に向かって流れ込み、そしてそこで渦を巻いていた。流れを追うように吹いた豪風が、彼女の長い黒髪を、重たい外套を激しくたなびかせる。
馬の逃げ腰に引き摺られるように、クロツが後ずさる。
「――駄目、待って!!」
悲鳴のような絶叫。
それを掻き消す、閃光と轟音。
視界は、朱に染まった。
ラフダニは、今やただひとつの篝火だった。
があん、と地響きを立てて倒れたのは、どうやら東の城門のようである。後背の火に舐められながら命の残った市民たちが市街へと逃れ出るのが、離れたここからでもよく分かる。
逆にこちらは夜闇の只中にいるため、火の明るさに慣らされた彼らにすぐに二人を見つけ出すことは困難だろう。だが、それも時間の問題でしかない。遠目にも正気を期待出来そうにないことは明らかだ。万一見つかれば只では済まない。
「――妃殿下、ご無礼!」
何が起きたか、激しく呼吸を乱しつつも呆けたように感情なく街の火を眺めているリヴィニーシャ。
それを無理矢理馬上に押し上げるや、自らも鞍上に飛び上がってそのまま馬を走らせる。
一目散に、北へ。
走る。走る。
気がつけば、ラフダニの火もすっかり遠くなっていた。ここまでくれば安心だろうと見当をつけて、ようやくクロツは馬足を緩めた。
「…………置いて行ってくれても構わなかったのですよ」
ぽつり、とリヴィニーシャが洩らす。
「是非もありませぬ。私は妃殿下の衛士なのですから」
間髪入れずに返されたその答は、クロツの本心に他ならない。だが、その言葉に誰より驚いたのはクロツ自身であっただろう。魔女は忌むべき存在――その思いも、確かに彼の胸中にはあったのだから。言葉は、むしろ自身に向けて放たれたものであった。
「そう……」
それ以上、リヴィニーシャは何も続けなかった。クロツも何も問わない。問うべきことは無数にあれど、それを言葉にする術は、今の彼にはなかった。
馬はただ、暗闇の中を北へと走り続けた。




