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寝室に戻ったリヴィニーシャは、時々城下をお忍びで遊興する時のように、侍女の平服を借りて着替えを済ませていた。
多少寸法は違えど、さほどの違和感はない。
息苦しいコルセットを外し、化粧を落としてしまえば、元々市井の出のリヴィニーシャが平民の振りをするのは容易だった。
困ったのはユファンの衣服であったが、こちらは外遊びをする時の服に着替えさせた。どうせ汚れるものだからと捨てさせず繰り返し使わせていた為、だいぶくたびれている。それでも平民の装束としては随分上等になってしまうのだが、これは丈を詰めた外套で隠すことにした。
しばらくすると、扉が外から叩かれた。ハーラに招き入れられて、四人の男たちが一礼と共に入室する。
一人はよく見知った顔だ。薬科長のカクタス。ウォレイスの好々爺である。
立場上、彼にはリヴィニーシャもユファンも度々世話になっていた。彼の顔を見るなりユファンが落ち着かなくなるのは、また苦い薬を飲まされるとでも思ったのだろう。今日は違うとハーラがあやすのだが、ユファンは聞き容れずに顔を背けてしまう。
もう一人がクロツで、後の二人は初めて見る顔だ。クロツが手短に紹介する。
「レメドとオドネル。私の乳兄弟です」
クロツ自身はやや長身の金髪のマティランで、目鼻立ちのはっきりとした青年である。
同じくマティランのレメドは、細身ながらかなりの長身。
対してオドネルは、がっしりとした体躯のウォレイスだった。
参集に多少時間がかかったのは、カクタスが彼らを走らせて色々と物資を調達していた為だ。カクタス自身は膏薬や痛み止めなどを中心に薬全般を、レメドとオドネルには黒パンや干し肉、木の実など保存の利くものを中心に食糧を持たせていた。他にもそれぞれこれはと思うものを持ち寄ったようで、すっかり旅支度が出来上がっていた。
無論リヴィニーシャの側も、特にユファンの物を中心にハーラが手早く荷物を纏めていて、これはクロツが持つこととなった。
総勢七名となった王妃一行は、リヴィニーシャの衣裳部屋から通じる隠し通路を用い、たっぷり数刻ほども歩いてヴァドステン郊外の小さな森に出た。すでに日も落ちてしまっていたから、リヴィニーシャの案内で近くの猟師小屋へ赴く。
このような場に設けられた小屋だ。隠し通路の出口を保守し、このような有事に脱出の手引きをする使命を帯びた一種の役人の住処である。今夜はそこの夫婦のもてなしで過ごすこととする。
が、この一夜は実に長いものとなった。リヴィニーシャがラフダニに行くと言い出し、男たちが揃って反対し説得にかかったからである。
無理もあるまい。王妃リヴィニーシャといえば、民草より出でて民草に愛される善き女性の象徴である。その尊顔は王都ヴァドステンは元より、隣都市ラフダニでもすっかり知れ渡っている。夫の消息を確かめたいという気持ちは痛いほど理解が出来ても、面の割れている彼女をよりによって教団がまさに王家への反旗を翻したその本拠となる場所に、はいそうですか、と行かせられる道理はない。それが危険極まりない暴挙であることは明白であるからだ。
といって、リヴィニーシャがそれで引き下がることもまたない。
臣民が知っているのはきらびやかに着飾り巧みに化粧を施された王妃であって、ぼろを着たすっぴんの女ではないこと。また、動くならむしろ王妃不在の噂が立つ前の方が安全だと思われること。
この二点が彼女の行動が無謀でないことを証明する根拠であった。
万が一を懸念する従臣と大胆突破を唱える王妃は激しく論を戦わせたが、やがてカクタスが折れ、レメドとオドネルが諭され、残るはクロツだけとなった。早くも第一の忠臣を自負する彼だけは頑として折れる気配を見せなかったが、意外にあっさりと説き伏せられてしまった。
「私を守りきる自信がないというの?」
決め手は狙い済ましたこのずるい問い掛けであった。若く血気に逸るクロツにとって、否という答えはありえないのだから。
ともあれ、方針が決まれば、後は具体的な行動に関する合議のみである。ここでも多少の悶着はあったといえ、案外すんなりとことは済んだようである。
リヴィニーシャの説得に関して最初から匙を投げていたハーラは小屋の婦人と共に話の輪の外でユファンをあやしていたが、急場の疲労もあっただろう、リヴィニーシャらが話を終えた時にはもうすでにどちらも夢の中であった。
無礼な、と乱暴に起こそうとするクロツを苦笑しつつも押し留めると、小屋の主人が運び入れた藁の上に麻布を広げ、横になるとすぐに寝息を立て始める。王妃の意外な豪胆さに驚き呆れつつも、彼らはそれに倣い、夜を越した。
翌朝、まだ朝靄も晴れない時分に、小屋の主人から借り受けた二頭の馬が、それぞれ北と南に駆け出していった。
南へ向かうのはリヴィニーシャとクロツ。精確には街道を避けて南東の方角へと走り、大きく迂回して東からラフダニに入る予定である。
直進すれば往復でも馬なら一日半の行程であるが、二人駆けの上に迂回路を採るから、食糧は大事をとって四日分を用意している。わざわざクロツに手綱を任せなくとも、リヴィニーシャ自身乗馬の心得は充分にあるのだが、しかし一般に照らせば、馬を乗りこなす女性というのはこの時代ではそれなりの出自の者でなければならないから、それでは王妃の存在を自ら喧伝して回るようなものである。
自ら馬を駆って行こうとしたリヴィニーシャも、ここは臣の意見を容れたという訳であった。
臣の意見を容れた、といえば今リヴィニーシャの胸には教団の聖像が下げられている。出立の直前、オドネルが渡してきたものだ。彼は一行の中では唯一ナバニール教徒であったのだが、教団の暴挙が本当であればウォレイスである自分の信仰に意味はない、と言い添えて。
「私には女神の御心というものは分からぬが、しかし心変わりをしたとすればナバニールではなく、その名を傘に借りて謀略を巡らす人間どもの方だ。女の気持ちは男には難しく思われるかも知れぬが、しかしこのような時にお主のような誠実な信仰者が祈りを止めて彼女を心細くさせるものではない。
これはありがたく借り受けるが、しかし必ずお主の手に返す。受け取ってくれるな?」
オドネルは応えず、僅かに逡巡を窺わせただけであった。が、それが後ろ向きなものとは思われなかったので、リヴィニーシャは無理に答えを引き出すようなことはせずに留めた。
他方、北へ向かったのはレメドだ。
ヴァドステンやその隣都市の動静を窺わせる為である。間に合うようであれば事前に教団の謀略を制したいところであるが、貴族諸衆は呆れるほどに足並みが揃わず、逆に教団は謀士サルディエのあれだけの大胆な行動からすれば、周到な準備がなされていると見える。
どこまで教団の手が伸びているか判然としないのだから、下手に動けば寝首を掻かれる恐れすらある中、一介の従者たる彼にそこまで期待する訳にはいくまい。
猟師小屋に夫婦と共に残ったのは、ユファンとハーラ、カクタス、オドネルの四名だった。ハーラとカクタスは離乳期を迎えたユファンの世話役であるし、そもそも戦力に数えるものではない。オドネルは無論彼らの護衛であるが、他方ウォレイスだからという理由もある。肌の色という最も顕著な外見的特徴で教団が敵味方を分けた以上、安全を期すための当然の配慮ではあるが、しかしその点に関しては誰一人言及することはなかった。
いや、出来なかった、と言うべきだっただろうか。
平原を迂回して街道に出ると、クロツとリヴィニーシャを乗せた騎馬は西進してラフダニの東門間近まで歩を進めた。
猟師小屋を離れた同日の夜半のことである。
もうすっかり夜も更けてしまっていたから、門は閉ざされてしまっていて、朝の開門までは市壁の外で夜を明かさねばならない。
丸一日馬上で過ごした為二人ともだいぶ疲弊していて、クロツは馬から降りるやエスコートも忘れすぐに野営の準備にとりかかろうとした。
自分で降りられるリヴィニーシャもそんな不敬に気付きもしない。
が、降りようとして、彼女は動きを止めた。
「いかがなさいましたか?」
「風向きが変わった。……血の臭いがする」
言うなり、馬首を巡らせるや市壁に沿って北へと走り出す。馬を取られた形のクロツが慌ててその後を追うが、人の足で馬に敵うはずもない。
あっという間に彼女の姿は夜の闇に紛れた。
それでもその行方を追って全力で駆けていくと、クロツは大きく吸った息にむせ返って呼吸を乱してしまった。何事か、と意識が反射の原因を探ろうとするや、何かに蹴躓いて転倒してしまう。転がった先は、土の感触というにはもう少し硬くも柔らかくも感じられた。
「――!?」
呼吸が乱れたのと転倒したのと、双方の原因はたちどころに明らかになった。
リヴィニーシャが向かったのは街の北側。先だってヴァドステンから赴いたヴィセル公の軍が結集し、そして崩壊した場所だ。
当時のままに打ち捨てられていた戦死体の数々。それらは早くも腐敗を始めたらしく、凄まじい死臭は、まさに彼らの怨嗟の声であるかのように生者の訪れを拒んでいた。
その臭気と凄まじい光景にあてられて、クロツは嘔吐を留めることが出来なかった。自分が吐き出したものの臭気など、場の臭気に簡単に紛れてしまう。呼吸を一つ繰り返す度に意識が一歩遠のくかのようだ。が、しかしここで呑気に気絶していられる余裕はない。
袖口で鼻と口を被い、周囲を見渡す。
と、雲間から気紛れに射しこんだ月光が、遠くに佇む騎馬の影を照らし出した。遥かにリヴィニーシャらしき騎乗者が鞍から降りようとするところで、月は再び姿を隠してしまったが、これ幸いとばかりクロツは向かう方を定めた。
戦場跡の放つ臭気は尋常ではない。馬が落ち着きをなくすのも無理からぬことだったろう。それに慣れぬ程度には平和であったのだから。
リヴィニーシャとて動揺しているのは同じだった。しかし、理由はそれではない。
北門を通り過ぎ、戦場から少し離れた辺り。死体も疎らになり、風上に抜けたようで臭気も薄まったようだ。首を撫でてやると、馬は低く嘶いて応えてくれた。
落ち着いたのを見て、鞍から降りる。逃げる素振りはないが、この馬とその背に積まれた荷は彼女らの生命線であるから、手綱は手放さずにおく。
ふと振り返ると、案の定クロツが追いかけて来ているのが見えた。
僅かに浮かぶ逡巡。彼に知られてよいものか。
理性は、知られるべきではないと訴える。しかし、それにも増して強く、知るべきだ、と訴えかけるのは彼女の衝動そのものであった。
内側から押し破ったように変形し壊れた大きな鉄の檻と、彼女の足元に黒々と広がる乾いた血だまりの跡。確信めいたものをすでにリヴィニーシャは得ていた。
『ねぇねぇ知りたい? 知りたいよね、そうだよね?』
耳元の囁きを聞き流し続けるのにも疲れた。何を代償にするつもりか、知れたことではない。
クロツに悟られぬように。そう頼んだところで聞きもしないだろう。こちらの都合など気にした試しがない。
それでも。
「ええ、知りたいわ」
『そうだよね、思った通りだ』
場違いな、跳ねるような嬉声。
瞬間。
光が血溜りを覆うように、いや、地を這うように広がって辺りを包み込んだ。彼女を追って近付いてきたクロツの足元をも光は奔ってゆき、そしてそれは閃光となって立ち昇った。




