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決死の相で飛び込んできた伝令兵は、一報を告げるや騎馬諸共昏倒し、どのような手を尽くしても目を覚まそうとしない。伝令を受け取った門衛は、彼の異常な困惑振りを添えて、王宮にその報を届けた。
その端的な報は、烈しく王宮を揺さぶった。困惑は感染し、増幅してゆく。ようようリヴィニーシャの下にそれが届けられた時には、冷静であるのが異常とばかり、皆一様に浮き足立っていた。ひどい者は、王家から遠ざかれば安全だとでも思ったか、取るものも取らず、何処へともつかぬまま逃げ出そうとする有様である。
先ずは城内の混乱を収めねばならない。
急ぎ謁見の間にリヴィニーシャが足を運ぶと、すでに広間に参集していた貴族たちはまとまりなく推論を交わしていて、彼女の登場に気付く者もないようだった。
――大将軍たるヴィセル公率いる王軍が壊滅とはどういうことか?
――サルディエがいかに謀略に長けていようと、神軍に王軍を破るだけの兵力の所有は許されていないはずではなかったのか?
――軍中に内通者がいたのでは?
――いや、むしろ宮廷内にいるのではないか?
「静まりなさい!!」
見かねて、きざはしの上からリヴィニーシャが一喝する。春雷の如く轟いたその鋭利な怒声に、烏合の衆が一斉にこちらを向く。
……が。
――ラフダニ伯がおらぬぞ。監視役のはずが、サルディエめに取り込まれて偽りの報告を上げていたのではないか?
――だが、このヴァドステンに近接するラフダニで、王軍に勝るほどの大軍を秘匿しきれるものか?
――謀術に長けたサルディエのこと、何か詐略を用いたのであろう?
――詐略で人が消せるものか。外法を用いたのでもあるまいし。
こちらを向いたのも一瞬のこと、彼らは空の玉座とその傍らに立つリヴィニーシャを一瞥すると、すぐに囁き合いを再開させてしまった。
「……リヴィニーシャ様?」
あまりの激憤にわなわなと肩を震わせるリヴィニーシャに、気遣わしげに声をかけてきたのはハーラであった。
情けないことに、王妃付きの侍女たちさえもがこの混乱の中で姿をくらませてしまって、残ったのはこのハーラだけだった。あまりの人望のなさには苦笑するほかないが、それでも彼女と、彼女にしっかり抱きかかえられた幼いユファンの四つの瞳だけは、不安げに、しかしまっすぐにこちらに向けられていたのだった。
沸騰した頭に冷水を被せられたように、思考は冴え、すぐに普段の冷静さを取り戻した。このままではいけない。しかし、ここで日和見どもを相手にしても埒が明かない。推論になど意味はないのだ。
それに、あの敬意のかけらもない目。後ろ盾のない今、なまじこちらに意識が向くのも危うい。
ともかく、今は事実を把握しなければ。
「伝令だ。薬科に参るぞ」
事実を一端なりとももたらしたのは伝令兵である。彼は一昼夜飲まず食わずで駆け通した疲労から、たった一言だけを告げるなり昏倒し、目覚める気配がないということであった。
だが、死んだという訳ではない。ならば叩き起こすまでのこと。
彼には同情を禁じえないが、そうしなければ事実は明らかにならないのだ。
リヴィニーシャはユファンを引き取るや、ハーラ一人を伴って広間を後にし、西の方、薬科の房へと向かった。薬科とは薬師の詰め所である。当然、昏倒した伝令兵も、そこに運び込まれていた。
大理石の廊下を足早にゆく彼女らの軽やかな靴音が、彼女ら自身に先行するように響いてゆく。と、それに呼応するかのように、重々しい靴音が向こうから響いてきた。あちらは足早などというものではない。慌ててハーラがリヴィニーシャの前に出る。
「妃殿下の御前です、控えなさい!」
向こうから駆けて来たのは、年若い一人の衛士であった。彼はハーラの言葉に従わず、道を遮るようにしてリヴィニーシャの前に跪いた。
「畏れながら、妃殿下に申し上げたき儀がございます!」
リヴィニーシャが足を止めるのも確かめず、衛士は性急に言上してきた。が、そのまま言葉を続けようとする彼に、ハーラが言を重ねる。
「無礼者、控えよと申しました!」
「火急のことにございます、無礼はお許し願いたい!!」
ハーラの叱責に面を上げ、睨み上げるような眼差しで語調激しく衛士が言い返す。堪らず怯んだハーラは、その圧力に抗しきれずにリヴィニーシャの方を向いてきた。
「許す。手短に話せ」
「ありがたく。――実は先ほど伝令の意識が戻りまして、ラフダニで起きたことの詳細を聞き出しましてございます。ですが……」
「どうした、何を躊躇うことがある」
「は。内容が内容だけに俄かには信じがたいのでございますが…………無礼は承知の上、聞き出したまま申し上げまする。
ヴィセル公率いる王軍が到着した折、すでに陛下は逆臣サルディエによって弑逆されていたとのこと。ご遺体はあろうことか門前に打ち捨てられてあったというのでございます。
陛下を弑しただけでは飽き足らず、サルディエめは王軍に向け毒言を吐き、人心を惑わせました。――野蛮なウォレイスによる支配は終わった。蛮愚の象徴たるラティアルトはここに滅び、今より我ら敬虔なるマティランにより、女神の御世が始まるのだ、と」
只ならぬ嫌悪に顔を顰めながら、淡々と衛士は報告した。信じられぬとばかり、目を大きく見開いた形で硬直するリヴィニーシャ。
「民を割る気か? 肌の色になど何の意味が……あれはいったい何を考えている?」
痛い、と言いたげにユファンが身を捩る。我知らず力を込めてしまっていたようだった。
傍らから両手を差し伸べて、ユファンを預かろうかとハーラが目で訴えかけた。が、首を横に振ってそれを拒むと、抱いたままの我が子の頭を撫で、そのまま抱きすくめる。
「大丈夫よユファン。大丈夫だから……」
子をあやす声さえ、硬くなっているのが自分でもよく分かった。自分が今どのような表情をしているのか、想像するだに情けなくなってくる。
目の前が暗い。
抱きすくめた我が子の温もりだけが、かろうじて今のリヴィニーシャの正気を繋ぎ止めていた。
「それで、どうなったと? ヴィセル公の育てた軍がそのような言葉に惑わされたと言うのではあるまいな?」
愚問であった。王軍壊滅――結果だけはすでに知らされていたのだから。しかし何故? 愚問と知っていても、聞かずにはいられなかった。
「しばらくは何も起こらなかったとのことにございます。が、じきに軍勢のいずこかで小競り合いが起こり、それが瞬く間に全軍に広がったと。後は何が起こったか分からぬまま、ともかくことの次第を伝える為に馬を奔らせたということでありました。
僭越ながら、私めが思いまするに、疑心暗鬼が軍を滅ぼしたのではないかと」
「疑心暗鬼……、か。確かにな、それもあるやも知れん」
沈痛な面持ちで、リヴィニーシャが返す。
ウォレイス、マティランとはそれぞれ黒い肌、白い肌のことを指す言葉である。加えていえば、その混血を指すフラルトゥという言葉もある。元来それは、ただ肌の色を言い分ける以上の意味を持たなかった。
王座でさえ、肌の色を選ぶことはなかったのだ。
そう、今この時までは。
災厄という未曾有の凶事が、外見的特徴を超えて人類そのものの強い団結をもたらしたということもあっただろう。それからの長い時間、殆ど省みられることのなかったこれらの言葉は時と共に風化し、その意味を曖昧にしていた。ラティアルトやユファンのように漆黒の肌を持つ者をウォレイス、ヴィセル公やハーラのように血管が透けて見えるほどの白さを持つ者をマティランと呼ぶのは分かる。ではリヴィニーシャはといえば、陶のように白い肌と評されてはいるものの、実際にはマティランと呼ぶかフラルトゥと呼ぶかは意見の分かれるところである。
フラルトゥなど、元来は混血を指す言葉でありながら、現実にはウォレイス、マティラン以外の者という捉え方をされていて、果ては異邦人も妖精種も一緒くたの適当さ加減である。
そのような具合であるから、自然、そもそも自分がいずれに属するかさえ意識していない者が大半を占めることになる。しかし、物事には二つの視点がある。
主観ともう一つ。客観である。
サルディエによって突然強く人種意識を喚起された兵たちは、自分がいずれに属するかを先ず考えたことであろう。
そして次に、周りが自分をどう見ているか、と。
ウォレイスであればマティランが、マティランであればウォレイスがそれぞれの敵となる。
不幸なのはフラルトゥであろう。戦場にあって、敵と味方以外に存在するものはない。中立が許されるのは戦場の外のことでしかないのだから。
サルディエの言葉に従うなら、女神に祝福されたマティランに属するべきであろう。しかしそれでは王家に弓引くことになる。市井から徴用されている兵士たちの王家への忠誠などどれほどのものでもなかろうが、しかし彼らをここまで鍛え上げたヴィセル公への忠節や王軍としての矜持はあったし、果たしてサルディエの企みに乗って先があるのかという打算的な疑問もあろう。
実をいってしまえばマティランかウォレイスかと憂悶している時点でサルディエの術中に落ちてしまっているのだが、この状況下でそれに気付く余裕など彼らにあろうはずもない。
そのような緊張に堪えられず、誰かが騒乱の幕を切って落としてしまえば、後は泥沼の同士討ちである。被害の多寡ではない。こうなってしまった時点で、王軍という組織はもう消滅してしまっているのだから。
「…………このことを知っているのは?」
「私の他には、薬科長のカクタス様のみでございます。伝令は深く矢傷を負っていた為、残念ながら……」
「そうか。それではお主に……と、そういえば名を聞いていなかったな。何と申す?」
「バーイー子爵家が一子、クロツと申します」
「クロツか。よし、では早急に薬科へと戻りカクタスを連れて参れ。それと、信に足る兵を数名だ。皆に人目を引かぬ平服に着替えて私の寝所に集まるよう伝えてくれ。無論お主もだ。――意味が分かるな?」
「この城を、お捨てになると?」
「そうだ。サルディエがそれだけの行動を起こしたというなら、事はラフダニだけのことでは収まるまい。今や教会は人のあるところ全てに配され、教団の情報網は王宮のそれよりも遥かに密だ。間を置かず、大陸全土で同じことが起こるだろう。或いはもう先触れが始まっているやも知れぬ。
そうなった時、悲しいがこのヴァドステンには王太子殿下の味方となる者が余りにも少ない。王家の後ろ盾は、今や完全に敵に回ったナバニール教団そのものであったのだからな。まずはここを離れねば先はない」
「私はマティランです。王太子殿下を教団に売り渡すやも知れませぬぞ?」
「そうだな。まあ、その時は王家の命運が尽きたというだけのことだ。お主を信じる、と言いたいところだが、残念なことに私は今の今までお主にもバーイー家にも重きを置いたことがない。王家に背いたとて、恨みはすまいよ」
沈黙。
ユファンが退屈げに母の黒髪を弄んでいる他は、誰も動こうとはしなかった。そうかと思うと、先触れもなく唐突にクロツが立ち上がる。だが、リヴィニーシャは全く驚きもせず、まして警戒の色など微塵も見せなかった。
「バーイー家は代々史家の端くれとして王家の禄を頂いてきた故、私はラティアルト陛下の平穏な御世がどれだけの犠牲の上に成り立つ、得がたいものであったかをよく知っております。私自身、衛士として陛下のお側に仕えさせて頂き、優しくお言葉を頂戴する機会に恵まれたこともございました。その私が妃殿下や幼い王太子殿下を教団や謀臣どもに売り渡したとなれば、誰より私自身がそれを許さないでしょう。
これよりこのクロツ、改めて妃殿下と王太子殿下に忠誠を誓いまする。何なりとご命じ下さいませ」
些か興奮げに、右の拳を胸に当てて誓いを立ててくる。それでなくともすでにリヴィニーシャは、彼を信に足るとの判断を済ませていたのだ。薄く微笑んで応える。
「礼を言う。褒賞を約したいところだが、空手形を切るのは好きではない。許せ」
「構いませぬ」
「そうか。では、まずは皆を集めてくれ。全てはそれからだ」
「御意に」
一礼し身を翻すと、来たときと同じように靴音高くクロツは走り去っていった。それからようやく、リヴィニーシャは傍らでずっともの言いたげな表情をしていた乳母ハーラを省みる。
「私は軽率だと思う?」
「リヴィニーシャさまはあの男を信用なさるのですか? お城を捨てなさるって、そんな……!
確かに陛下がお城を離れてから、お城の雰囲気ががらっと変わってしまったのは分かります。けれど、学のない私には何がどうなっているのかさっぱりで……」
リヴィニーシャに水を向けられると、まさに堰を切ったようにハーラは言葉を吐き出した。だが、穏やかにそれを見守るリヴィニーシャの眼差しに気付くと、弁えるべき自らの分を思い出し、慌てて口を噤む。
「ハーラ、そんなに一度に聞かれると困ってしまうわ。……クロツのことは、信用出来るかと言われれば、確かにそれは難しいのだけれど、でも少なくとも悪い人だとは思わなかったから。もし彼が貴族たちを連れて私を捕らえに来たとしたら、それは私に人を見る目がなかったというだけのこと。大丈夫、そんなことはないから。あなたがそんな顔をしていると、ユファンも不安がってしまう」
いつの間にか、ユファンは母の肩に顔を預けてすっかり寝入ってしまっていた。それすら視界に入らないくらい余裕をなくしていたのか、それを見て少しハーラの表情は和らいだようだった。
「この城を捨てるというのは、ちょっと違うかも知れない。
あなたと同じように私も今何が起こっているのか分からない。陛下が逝ってしまわれただなんて、信じられないもの。だから、まずはラフダニに行ってみようと思う。自分の目で見て確かめたいから。
あなたはどうする? これは私のわがままだから、無理強いをするつもりはないのだけれど」
「お供いたします。ダメと言われても聞けません」
「ありがとう、あなたならそう言ってくれると思ったわ。……ずるいわね、私は」
「おやめ下さい、そんな風にご自分を悪く仰るのは。リヴィニーシャ様は私よりずっと強いお方です。けれど今のリヴィニーシャ様は目を離したら消えてしまいそうで。だからお供します。必ず」
ハーラがそう強く断言すると、返す言葉もないとばかり、リヴィニーシャは嬉しげに微笑んだ。だが、そこにハーラはどうしても儚げな翳りを見出してしまう。かような悲報を届けられては、それも仕方ないのだろうかと、せめて気付かない振りをしてハーラは微笑みを返した。




