序
音も色もない光景の中。
厳かに。
落ち着いた物腰で跪き、青年は恭しく腕を開いた。
正対する老人は、それを見るや鷹揚に頷き、声高に何事か喚き散らしている。
応えるのは、ぐるりと舞台を取り囲む群衆の壁。一様に凶暴な表情を浮かべて蠢く、常軌を逸した熱狂。
絡みつく不快な熱は、衰える様子もなかった。
それでも、やがて。
熱の引き始めを見て取ってだろう、老人は腕の一振りでそれを鎮めた。そうして一同の注視の中、彼は傍らの長剣を取るや高々と振り上げ、まるで天に捧げるかの如くに掲げる。
青年は瞑目して身動ぎもしない。
剣は、青年の胸を深々と、刺し貫いてく。
じわり。じわりと。
ーーと。
光景は、前触れもなく崩れた。
形を無くし、輪郭を失い、まるで霧が吹き払われるかのように消え去ってゆく。
残ったのは、女。
年若い女が一人、そこに立っていた。
彼女はただただ立ち尽くしていた。視線は虚ろに、青年のいた辺りを捉えている。
薄曇りの下、無数の躯を晒した荒涼とした地平は、そのまま彼女の心象を現したかのようだった。
その心の空洞を、ただ一つの言葉が木霊し、埋め尽くす。
何故?
過分の幸福に酔ってしまった?
誅されるに足る理由があった?
どうしようもなかった?
違う。違う、違う!
幾つもの自問と反問が空洞を埋めてゆく。空洞が満たされ、更に密度を増し、そしてそれらは静かに赤熱してゆく。その熱を、確かに彼女自身が感じていた。
不安はあった。危惧もあった。平穏に慣れ、知らず知らず気を緩めてしまっていた。
明らかな油断。それが彼を殺した。
私が彼を殺したのだ。私が……いや。私と、あの男が。
視線が、僅かに横に流れる。そこにはもう何もない。しかし彼女は確かに見ていた。浅ましい野心に塗れた一人の老人の影を。
震える。
激情が、身体を揺さぶる。
柔らかくたなびく黒髪も、陶のような白い肌も、彼女の美しさの全ては、今や毒を孕んだ鋭い棘であった。固く握られた拳から、鮮やかな紅血が散る花弁の如く、一滴、また一滴と滴り落ちていく。
「……許せない……」
感情が零れた。
一滴とて零してはならないと律してきた感情が、今は抑えようもなく溢れていた。
『そうだよね、許せないよね』
いけない、と思った時にはすでに手遅れ。
傍らの愛くるしい怪物は、楽しげに笑い、溢れた感情に浴し悦を浮かべていた。
街壁は竈に。
中の一切は薪に。
魔女の竈は一夜燃え続け、ラフダニは灰に帰したという。




