NO.9 作戦実行
王城の控室は、夜会のざわめきから少し離れた場所にあった。
厚い扉の向こうから、音楽がかすかに聞こえてくる。
弦楽器の音。
貴族たちの笑い声。
グラスが触れ合う澄んだ音。
華やかな夜会は、すでに始まっていた。
だが、この部屋の中だけは静かだった。
カーライルは窓際に立っていた。
腕を組み、外を見ている。
表情はいつも通り冷静だ。
だが、その空気はどこか張り詰めていた。
その背中に、イリスが静かに声をかける。
「カーライル」
カーライルは振り返らない。
代わりに、低く言った。
「……また、君を1人にしてしまう」
短い言葉だった。
だがその声には、はっきりとした感情が混ざっている。
イリスは少しだけ目を細めた。
前の夜会。
毒入りワイン。
危うく命を落としかけた事件。
そして――
自分が、また危険の中へ入ろうとしていること。
カーライルは続ける。
「今回は囮だ」
「狙われているのは君なんだぞ」
セレーナの目的。
毒入りワイン。
そして今回の夜会。
イリスは小さく息を吐いた。
それから言う。
「でも」
カーライルがわずかに振り向く。
イリスは微笑んだ。
「すぐ近くにいるでしょう?」
カーライルの瞳がわずかに揺れる。
その言葉は、信頼だった。
沈黙が落ちる。
カーライルはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくり息を吐く。
「……当然だ」
短い言葉。
だがそれだけで十分だった。
イリスは少し笑う。
「守ってくださいね」
カーライルは視線を戻した。
「言われるまでもない」
控室の外では、音楽が変わっていた。
夜会は最高潮に向かっている。
イリスはドレスの裾を整えた。
そして言う。
「では」
静かな声。
「始めましょう」
カーライルは扉へ向かった。
扉が開く。
中から光と音楽が流れ込んできた。
王城の大広間。
華やかな夜会。
そして――
罠が、静かに動き始めていた。
王城の大広間は、光に満ちていた。
高い天井から幾つものシャンデリアが吊るされ、無数の灯りが大理石の床を照らしている。
音楽が流れていた。
弦楽器の柔らかな旋律。
グラスの触れ合う音。
低く交わされる貴族たちの会話。
王城夜会。
社交界でも、最も華やかな場の一つだった。
その入口で、空気がわずかに変わる。
扉が開いた。
入ってきたのは、リヒター公爵――カーライル。
濃紺の礼装。
落ち着いた足取り。
その存在だけで、周囲の視線が自然と集まる。
そしてその隣には、一人の女性。
銀の髪。
夜のように深い青のドレス。
灯りを受けて、その布が静かに揺れる。
イリスだった。
貴族たちのざわめきが広がる。
「……あれが」
「リヒター公爵夫人」
「例の……」
声は小さい。
だが視線は隠せない。
王太子暗殺未遂。
毒入りワイン。
そしてそれを止めた、公爵夫人。
噂はすでに社交界を巡っていた。
「殿下を救った方だ」
「でも彼女はヴァルツの……」
言葉が途切れる。
視線はイリスへ集まっていた。
イリスはそれを感じながら、静かに歩く。
腕にはカーライルの腕。
その歩幅に合わせて進む。
カーライルは何も言わない。
だが視線は広間を見ていた。
警戒している。
人の動き。
視線。
距離。
すべてを確認しているようだった。
そのときだった。
広間の奥。
視線を感じた。
イリスがふと顔を上げる。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
黒髪。
整った顔立ち。
少し背の高い体。
派手なドレス。
セレーナだった。
彼女は人混みの中に立っている。
そして。
ゆっくりと微笑んだ。
だが。
その目は笑っていない。
イリスの背筋に、わずかな緊張が走る。
カーライルも気づいたらしい。
小さく言う。
「……いたな」
イリスは視線を戻した。
「はい」
短い返事。
そのとき。
別の場所でも視線が動いていた。
広間の柱の近く。
そこに立つ一人の男。
シュレインだった。
彼はグラスを持ちながら、会場を眺めている。
その視線が一瞬だけ動いた。
セレーナ。
そして――
イリス。
ほんの一瞬。
セレーナとシュレインの目が合う。
何も言わない。
だが。
わずかな合図のようにも見えた。
イリスはそれを見ていた。
小さく息を吐く。
そしてカーライルを見上げた。
「……行きます」
カーライルが視線を落とす。
「もうか」
イリスは小さく笑った。
「ええ」
それから静かに続ける。
「今がチャンスです」
そして。
少しだけ声を落とした。
「守ってくださいね」
カーライルは数秒、何も言わなかった。
やがて低く言う。
「……当然だ」
イリスは頷いた。
そして、カーライルの腕から離れる。
ドレスの裾が揺れる。
そのまま、広間の外へ向かって歩き出した。
その背中を、いくつもの視線が追っていた。
そして。
その中の一つは――
セレーナだった。
イリスの姿が人混みに消える。
青いドレスが、広間の出口の方へゆっくりと遠ざかっていった。
カーライルはその背中を見ていた。
視線は静かだ。
そのときだった。
「カーライル様」
柔らかな声が横から落ちた。
カーライルが振り向く。
そこに立っていたのは、セレーナだった。
近くで見ると、やはり整った顔立ちをしている。
黒い髪。
強い瞳。
華やかなドレスが灯りを受けて揺れていた。
セレーナは優雅に礼をする。
「お久しぶりです」
カーライルは短く頷く。
「……セレーナ」
その声は淡々としていた。
だが目は笑っていない。
セレーナはそれを気にした様子もなく、微笑む。
「夜会でお会いするのは久しぶりですね」
「そうか」
短い返事。
会話はそれだけだった。
だがセレーナは動じない。
むしろ、少し距離を詰める。
周囲の貴族を会話に巻き込みカーライルが逃げづらいようにしている。
「公爵」
「リヒター様」
貴族たちが話しかけてくる。
カーライルは視線を一度だけ広間の出口へ向けた。
イリスの姿は、もう見えない。
***
セレーナはその時を待っていた。
イリスがカーライルのもとを離れ一人になる瞬間を。
自分が怪しまれていることは知っている。
ならば。
自分ではない誰かを使えばいい。
あのシュレインとか言う男。
イリスを愛していると言っていた。
そういう男ほど使いやすい駒はない。
舞台を用意するだけで後は勝手に動いてくれる。
セレーナはシュレインをこの王城夜会に同行させた。
もちろん、内密に。
彼はイリスと二人きりになるチャンスを欲しがっていた。
セレーナは、イリスがカーライルの側を離れるのを見ると、すかさず合図した。
セレーナ自身が、カーライルを足止めして、その隙にシュレインが彼女を攫う手はずであった。
足止めは成功。
この隙に彼らは用意した馬車に乗り込み、どこか遠くに行ったはずだ。
勝利の余裕に、思わず口角があがった。
セレーナはワインを、ゆっくりと回し口へ流し込んだ。
***
カーライルは再び出口を見る。
静かな声で言った。
「遅いな」
いつの間にか側にいたローレンスが肩をすくめる。
「そうかな?」
カーライルは答えない。
そのとき。
セレーナが言った。
「そういえば」
視線をカーライルへ向ける。
「奥様は?」
カーライルは短く答える。
「席を外した」
セレーナは少し驚いた顔をする。
「そうですか」
それから小さく笑う。
「少し心配ですね」
その言葉。
ほんの一瞬だけ。
カーライルの目が細くなった。
沈黙。
ローレンスが横で小さく呟く。
「……お、よかったじゃん」
カーライルが視線を向ける。
ローレンスは笑っていた。
「行ってきたら?」
カーライルは一瞬だけ考える。
そして言った。
「探してくる」
その瞬間。
セレーナがすぐに言った。
「私も」
カーライルが振り向く。
セレーナは少し困ったように笑う。
「奥様が一人でいらっしゃるなら」
「少し心配ですもの」
ローレンスがその様子を見ていた。
面白そうに。
カーライルは数秒だけセレーナを見た。
それから短く言う。
「……好きにしろ」
カーライルが歩き出す。
広間を出る。
ローレンスもその後ろについてきた。
セレーナも、ゆっくり歩き出す。
王城の廊下は静かだった。
音楽が遠くなる。
カーライルの足音だけが響いた。
***
王城の廊下は静かだった。
広間の音楽は遠く、扉を隔ててくぐもって聞こえてくる。
弦楽器の旋律。 人々のざわめき。
だがここには、ほとんど人の気配がない。
イリスはゆっくりと歩いていた。
ドレスの裾が、床をかすかに擦る。
足音は小さい。
それでも、この静かな廊下でははっきりと響いていた。
曲がり角を一つ曲がる。
さらに奥へ進む。
そこは、夜会の客があまり通らない場所だった。
イリスは一度だけ立ち止まる。
その瞬間だった。
「イリス様」
低い声が背後から落ちた。
イリスが振り向く。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
シュレイン。
夜会の礼装を着ている。
その瞳は、まっすぐイリスを見ていた。
イリスは何も言わない。
シュレインは一歩近づいた。
「やっと」
小さく笑う。
「二人きりですね」
廊下の空気がわずかに重くなる。
ただ静かにシュレインを見ている。
シュレインはさらに近づいた。
そして。
手を伸ばす。
イリスの手首を掴んだ。
力は強くない。
だが、はっきりとした動きだった。
「ずっと」
シュレインが言う。
「会いたかった」
距離が近い。
廊下には二人しかいない。
広間の音楽が遠くで流れている。
静かな空間。
まるで、夜会から切り離された場所のようだった。
シュレインはイリスの手を引く。
そして。
ひらけた場所に移動する。
イリスは抵抗しない。
そのとき。
遠くから足音が聞こえた。
複数の足音。
廊下の角を曲がる影。
カーライルたちだった。
そして――
視界に入った光景。
そこにいたのは。
イリス。
そしてシュレイン。
その男はイリスの手を強く握っていた。
カーライルの足が止まる。
空気が、静かに凍りついた。




