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断罪された悪役令嬢は、公爵様の独占欲から逃れられない   作者: 春野スミレ


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NO.4 事件の余波

 夜会は中止となった。


 音楽は止まり、広間に満ちていた華やかな空気はゆっくりと静まっていく。


 だが、人はまだ完全には散っていなかった。

 帰り支度をしながら、貴族たちは小声で言葉を交わしている。


「王太子殿下のグラスに毒だそうだ」

「止めたのはリヒター夫人らしい」

「ヴァルツ家の娘だろう?」


 囁きは波のように広間を巡っていた。

 誰も大声では話さない。


 だが視線は自然と、イリスへ向けられていた。


 好奇心。

 警戒。

 そして、疑るような目。


 以前、社交界で浴びていたような露骨な嫌悪とは違う。


 それでも、決して穏やかな空気ではなかった。


 イリスはそれを感じながら、静かに息を整える。

 

 今夜の出来事は隠しようがない。

 王太子のグラスに毒。

 それを止めたのが、公爵夫人。


 噂にならないはずがなかった。

 カーライルは広間を見渡す。

 視線は冷静だ。


 だが胸の奥には別の感情があった。


 さきほどの光景が、頭から離れない。

 アルフォンスがグラスを持ち上げた瞬間。

 イリスは迷わず手を伸ばした。


 躊躇はなかった。

 まるで、そういう場に慣れているかのように。


 カーライルの眉がわずかに動いた。

 隣に立つイリスに視線を落とす。


 落ち着いた横顔。

 周囲の視線にも動じていない。

 その様子が、かえって胸に引っかかった。


「……イリス」


 小さく呼ぶと、イリスが顔を上げた。


 カーライルは、結局それ以上続けなかった。

 イリスは不思議そうな顔をしていた。


 広間の奥では兵士たちが動いている。

 証拠のグラスが回収され、侍従たちが慌ただしく片付けを始めていた。


 そのとき、低い声がかかった。


「カーライル」


 赤い髪の王太子は、先ほどと変わらぬ落ち着いた足取りでこちらへ歩いてきた。


 隣には黒髪の護衛騎士――エドガーの姿がある。


 アルフォンスはカーライルの前で足を止める。


「実行役から得た、ワインを渡した男の特徴だ」

「この捜査、協力してもらう」


 そう言って一束の資料を手渡した。

 カーライルは静かに言う。


「承知しました」


 アルフォンスは一度頷く。

 そしてふと、イリスを見る。

 金の瞳がわずかに細くなった。


「優秀な夫人もいるしな」


 軽い口調だが、冗談ではない。


「期待している」


 周囲の空気がわずかに揺れる。

 イリスは静かに頭を下げた。


「恐れ入ります、殿下」


 アルフォンスは小さく笑う。


 夜会は終わっている。

 それでも、人々はまだ残っていた。


 この事件の余波を、誰もが肌で感じていた。


 アルフォンスは、その様子を一度だけ見渡すと言った。


「私は一度戻る」


 隣に立つエドガーへ視線を向ける。


「警備は任せた」


「は」


 短い返事。

 それからアルフォンスはカーライルを見る。


「では、頼んだぞ」


 カーライルは軽く頭を下げた。


「承知しました」


 アルフォンスは満足そうに頷き、踵を返した。


 王太子が去ると、周囲の空気も少しずつ緩む。


 広間には再びざわめきが戻り始めた。

 そのときだった。


「面白かったね」


 軽い声が横から聞こえた。

 ローレンスだった。


 いつの間にかすぐ近くに立っている。

 カーライルが視線を向ける。


「何がだ」


 ローレンスは肩をすくめた。


「今夜のことさ」


 そう言いながら、視線をイリスへ向ける。


「君だよ」


 その言い方は軽い。

 だが、瞳はどこか楽しそうだった。


「毒に気づく貴婦人なんて」

「普通はいない」


 くすりと笑う。


「なかなか見られるものじゃないよね」


 カーライルの眉がわずかに寄る。

 ローレンスはそれに気づいて、さらに笑った。


「そんな顔するなよ」

「褒めてるんだ」


 カーライルは短く言う。


「余計だ」


 ローレンスは肩をすくめた。


「怖いな」


 だがその口調にはまったく怯えた様子がない。

 むしろ楽しんでいるようだった。

 それからもう一度イリスを見る。


「じゃあ、またね」


 そう言って、ひらりと手を振り去っていった。


 カーライルはそれを黙って見送る。

 ローレンスは数歩歩いたところで、思い出したように振り返った。


「カーライル」


 カーライルが視線だけ向ける。

 ローレンスは少しだけ笑った。


「調査、頑張れよ」


 からかうような口調ではない。

 むしろ面白がっている声だった。

 カーライルは短く答える。


「言われるまでもない」


 ローレンスはそれ以上何も言わず、ゆっくりと広間の奥へ消えていった。

 その背中を見送りながら、イリスは小さく息を吐く。


 広間の人影は、さらに減っていた。

 侍従たちが静かに片付けを始め、灯りだけが広い空間を照らしている。


 先ほどまでの華やかな夜会は、もうほとんど跡形もなかった。


 カーライルは広間を見渡していたが、やがて視線を戻し、イリスを見る。

 そして静かに言った。


「帰ろう」


 イリスは広間を見渡す。

 まだ数人の貴族が残っているが、社交の場としての空気はもうない。


 事件の余波だけが残っていた。

 イリスは小さく頷く。


「はい」


 二人は並んで歩き出す。


 広間の扉が開く。

 冷たい夜の空気が流れ込んできた。


***


 夜会会場の奥。

 人のいなくなった小さな控え室で、男が一人、床に膝をついていた。

 

 額には汗がにじんでいる。

 目の前に立つ人物の顔を、まともに見ることができない。


「……申し訳ありません」


 声は震えていた。


「失敗しました」


 しばらく沈黙が落ちる。

 怒鳴り声は飛んでこない。

 叩かれる気配もない。

 それが、かえって恐ろしい。


 やがて、ゆっくりと椅子が軋む音がした。

 女が脚を組み替える。

 黒い髪が、灯りの下で静かに揺れた。


 セレーナだった。

 深い色のドレスをまとい、背筋を伸ばして椅子に座っている。


 派手な装い。

 だが、その姿には妙な迫力があった。

 彼女はテーブルの上のグラスを手に取り、赤いワインをゆっくりと回した。


「そう」


 声は落ち着いている。

 怒りはまったく感じられない。


 男は思わず顔を上げた。

 その反応を見て、セレーナは小さく笑う。


「そんな顔をしないで」

「別に怒っていないわ」


 グラスを軽く傾ける。

 赤い液体がゆっくりと揺れる。


「失敗くらい、あるものよ」


 男の肩から、力が少し抜ける。

 だが、次の言葉で再び凍りついた。


「ただ」

 

 セレーナはグラスをテーブルに戻した。


「次は失敗しないで」


 静かな声だった。

 それだけで十分だった。

 男は慌てて頭を下げる。


「……はい」


 セレーナはもう男を見ていなかった。

 視線は窓の外へ向けられている。


 夜会の客たちが、次々と屋敷を後にしていく。

 馬車の灯りが、夜の庭をゆっくりと流れていった。


 その中に、一台。

 公爵家の紋章がついた馬車がある。

 セレーナの唇が、わずかに歪む。


「ヴァルツの娘」


 小さく呟く。


「戻ってきたのね」


 その声には、嫌悪が混じっていた。

 かつて社交界の中心にいた家の娘。

 断罪され、消えたはずの存在。


 それが今――

 公爵夫人として、この社交界に戻ってきている。


 セレーナは窓の外を見つめたまま、ゆっくりと笑った。


「面白いじゃない」


 その笑みは、決して友好的なものではなかった。

 むしろ、獲物を見つけた獣のように静かだった。

 社交界の夜は、まだ終わっていない。

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