NO.3 社交界の歓迎
ダンスの余韻はまだ広間に残っていた。
音楽が終わり、人々は再び立食の輪へ戻っていく。
カーライルは無言のままイリスの腰に手を当てていた。
イリスが少し困ったようにつぶやく。
「……少し近いです」
カーライルは短く答えた。
「そうか」
だが腕は離れない。
ローレンスが横で笑う。
「まだ機嫌悪いな」
カーライルは視線だけ向ける。
ローレンスは肩をすくめた。
「殿下と踊ったくらいでそれか」
「社交界は初めてか?」
カーライルは答えない。
ただグラスの並ぶテーブルへ視線を向けた。
広間の端にはいくつかの長いテーブルが置かれ、酒や軽食が並んでいる。
立食の夜会。
貴族たちは自由に酒を取り、会話を楽しんでいた。
アルフォンスが近くへ戻ってくる。
給仕がトレイを差し出した。
銀のトレイの上に、赤ワインのグラスが並んでいる。
アルフォンスはそのうちの1つを手に取った。
「さて」
軽くグラスを回す。
「踊ったあとは酒だ」
ローレンスも笑ってグラスを取る。
「同感」
カーライルも一つ手に取った。
イリスはその様子を見ていた。
赤い液体が灯りを反射する。
グラスがゆれる。
アルフォンスが持つグラスの中身。
ほんのわずかに――色が違う。
イリスの視線が止まる。
アルフォンスがグラスを口元へ持ち上げようとした。
その瞬間。
イリスの手が動いた。
アルフォンスの手首を掴む。
ワインがグラスの中で揺れている。
アルフォンスが驚いたように目を細めた。
「……?」
カーライルもすぐに気づいた。
「イリス?」
広間のざわめきが一瞬遠くなる。
イリスはアルフォンスの手を掴んだまま、静かに言った。
「殿下」
「そのワイン、飲まないほうがいいかもしれません」
アルフォンスの金の瞳が、ゆっくり細くなる。
周囲のざわめきはまだ続いている。
だがこの一角だけ、空気が変わっていた。
アルフォンスの手を、イリスはまだ掴んでいた。
グラスの中のワインが、わずかに揺れている。
「……理由は?」
声は落ち着いていた。
カーライルもイリスを見つめている。
イリスはグラスを見たまま言う。
「ほんの少し、色が少し違う気がして……」
アルフォンスが眉を上げる。
「色?」
ローレンスがグラスをじっくりと見つめる。
「……ああ」
小さく呟く。
「確かに」
カーライルがアルフォンスの手からグラスを取った。
ゆっくりと傾ける。
灯りの下で液体を見た。
わずかな沈み。
ほんのわずかな濁り。
カーライルの表情が変わる。
「殿下」
一瞬の間。
「お飲みにならなくて正解です」
アルフォンスは笑った。
「なるほど」
怒りはない。
むしろ少し楽しそうだった。
「毒か」
カーライルは短く答える。
「可能性は高いかと」
その瞬間だった。
エドガーが動いた。
一歩前へ出る。
はっきりとした声で、
「入口を封鎖しろ」
周囲にいた護衛がすぐ動き、扉の前へ立つ。
広間のざわめきが一気に大きくなった。
「どうした?」
「何があった?」
アルフォンスはグラスを持たない手を軽く上げる。
「騒ぐな」
声は大きくない。
だが広間は静まった。
アルフォンスはゆっくりと続ける。
「少し確認することがあるだけだ」
それから視線を動かす。
給仕を見た。
ワインを持ってきた男。
顔が青くなっていた。
ローレンスがそれを見て、小さく笑う。
「……あーあ」
カーライルも視線を向ける。
男は一歩後ろへ下がった。
逃げようとする。
その瞬間。
ローレンスが言った。
「逃げるぞ」
エドガーが即座に動いた。
護衛が男を取り押さえる。
トレイが床へ落ち、グラスが音を立てて転がった。
広間が騒然とする。
アルフォンスはゆっくりと息を吐いた。
そして言う。
「さて」
金の瞳が細くなる。
「誰を狙った?」
その問いは、静かだった。
だが広間の空気を一瞬で凍らせた。
給仕は護衛の腕に両肩を押さえられ、身動きは取れない。
広間の空気は、先ほどまでの華やかなざわめきとは明らかに違っていた。
低い声があちこちで重なる。
「毒だと?」
「王太子殿下を……?」
「まさか……」
誰も大声は出さないが、緊張は確実に広がっていた。
アルフォンスはその様子を、静かに見渡していた。
焦りはない。
怒りも見えない。
むしろ少しだけ面白そうにすら見える。
彼はゆっくりと息を吐いた。
「騒ぐほどのことでもない」
軽く言う。
「まだ誰も死んでいない」
その一言で、広間の空気がわずかに落ち着く。
カーライルは手に取ったグラスを見ていた。
赤い液体が、灯りを受けてゆらゆらと揺れる。
わずかな濁り。
普通なら気づかない程度の変化。
だが今は、それがはっきりと見えていた。
カーライルはゆっくりとグラスをテーブルに戻す。
視線を上げると、アルフォンスと目が合った。
アルフォンスは小さく頷く。
視線は床に押さえつけられている給仕へ移る。
「さて」
金の瞳がゆっくり細くなる。
「誰の指示だ」
穏やかな声。
だが空気は凍りついていた。
給仕は顔を伏せたまま震えていた。
唇がわずかに動く。
「……私は、何も……」
それ以上の言葉は出てこない。
エドガーが一歩前に出た。
「殿下」
「別室で事情を聞きます」
アルフォンスは軽く手を上げる。
「頼む」
護衛が給仕を立たせる。
男は抵抗しなかった。
力が抜けたように引きずられ、扉の向こうへ連れて行かれる。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
そのあと、広間に残った空気は妙に静かだった。
貴族たちは互いに顔を見合わせている。
先ほどまで流れていた音楽は途切れ、広間にはざわめきだけが残っている。
王太子のグラスに毒。
それだけで、社交の場は一瞬で別の顔になる。
貴族たちは小声で言葉を交わしながら距離を取り、侍従たちは慌ただしく動き回っていた。
取り押さえられた給仕はすでに連れ出され、残ったグラスは証拠として回収されている。
赤髪の王太子は、先ほどまでの軽さを消し、落ち着いた目で状況を見渡している。
そして視線をイリスに向けた。
「助かった」
軽い言い方だったが、冗談ではない。
イリスは静かに頭を下げた。
「恐れながら、偶然です」
アルフォンスは少しだけ笑う。
「偶然で毒を止められるなら、十分すごい」
その言葉に、周囲の貴族が小さくざわめく。
イリスはそれを感じながら、ゆっくり息を整える。
そのとき。
重い足音が近づいた。
黒髪の護衛騎士――エドガーだった。
「殿下」
膝をつき、簡潔に報告する。
「給仕は別室にて拘束しました。」
アルフォンスは腕を組んだ。
「吐いたか?」
「自分はただワインを運んだだけだと」
「誰からそれを受け取った」
「初めて見る男だったと言っています。男の特徴などを含め、詳い調査を進めます」
アルフォンスは小さく息を吐いた。
「なるほど」
いかにもありそうなやり方だ。
人を介し、知らないうちに実行犯に仕立て上げる。
そしてその奥にいる本命。
ローレンスが横から口を挟む。
「典型的だね」
壁にもたれたまま、肩をすくめる。
「なにも知らないまま捨て駒にされる」
アルフォンスが笑う。
「詳しいな」
「見たことあるだけだよ」
ローレンスは軽く答えた。
その視線が、ふとイリスに向く。
「それにしても」
少し首を傾ける。
「本当によく分かったね」
イリスは少しだけ視線を落とした。
「昔、似たことがあったので……」
それ以上は言わなかった。
だが意味は十分伝わる。
ヴァルツ家の夜会。
毒。
策略。
ローレンスが小さく息を漏らす。
「……なるほどね」
カーライルは黙っていた。
表情は変わらない。
だが、その沈黙の奥にある感情を、イリスだけが少し感じ取っていた。
怒り。
そして――わずかな後悔。
アルフォンスが言う。
「まあいい」
「とりあえず今日はここまでだ」
周囲を見回す。
「夜会は中断」
「詳しい調査を行う」
ざわめきが少し広がる。
王太子暗殺未遂。
それだけの事件だ。
カーライルはイリスを抱き寄せながら、静かに周囲を見渡していた。
まだ、終わっていない。




