NO.2 王太子の夜会
広間では、相変わらず音楽が流れていた。
高い天井から下がるシャンデリアの光が、グラスの縁や宝石に反射して、淡く揺れている。
人々の笑い声。
低く交わされる会話。
グラスの触れ合う澄んだ音。
社交界らしい、華やかな夜だった。
イリスはカーライルと腕を組んだまま、ゆっくりと広間を歩いていた。
すれ違う貴族たちが礼をする。
「リヒター公爵」
「公爵夫人」
カーライルは短く頷き、イリスも優雅に会釈を返す。
いくつかの挨拶を交わしながら回っていく。
祝福の言葉。
世間話。
どれも表面上は穏やかなものばかりだ。
それでも、視線は感じる。
好奇心。
探るような観察。
ヴァルツ家の娘が、公爵夫人として社交界に立っている。
その事実は、まだ多くの人間にとって興味深いものなのだろう。
カーライルはそれを気にした様子もなく、淡々と応じていた。
イリスもそれに合わせて言葉を返す。
やがて一通りの挨拶を終えたころ、カーライルが小さく言った。
「もう戻るか」
イリスは少し考えてから、首を振る。
「もう少しだけ」
カーライルは短く息を吐いた。
「……無理はするな」
「はい」
そう答えて、二人は再び歩き出す。
広間の中央を通り過ぎようとした、そのときだった。
「カーライル」
軽い声が横から落ちる。
振り向くと、ローレンスが立っていた。
柱に寄りかかるようにして、グラスを片手に持っている。
金色の髪が光を受けて柔らかく揺れていた。
相変わらず気だるそうな笑みを浮かべている。
カーライルの視線がわずかに細くなる。
「……またお前か」
ローレンスは肩をすくめた。
「相変わらず怖い顔してるな」
くすっと笑う。
「せっかくの夜会なんだから、もう少し機嫌よくしてもいいんじゃないか?」
カーライルは短く言う。
「黙れ」
「はいはい」
ローレンスはまったく気にした様子もない。
それからイリスへ視線を向けた。
その視線は遠慮がない。
まるで観察するように、まっすぐ見ている。
「夜会どう?」
「疲れてない?」
イリスは少し考えてから答える。
「……まだ、これからでしょうか」
ローレンスは楽しそうに笑った。
「なるほど」
「社交界の答えだ」
カーライルが低く言う。
「からかうな」
「からかってない」
ローレンスはそう言いながら、広間を見渡した。
貴族たちの視線。
遠くから聞こえる笑い声。
音楽に合わせて踊る人々。
「今日は人多いな」
「まあ当然だけど」
カーライルは無言だった。
ローレンスは続ける。
「王太子来るらしいし」
その言葉に、イリスは少しだけ驚いた。
「王太子殿下が?」
「うん」
ローレンスはグラスを揺らす。
「正式な夜会にはあんまり出てこないけど」
「今日は来るみたいだ」
カーライルは短く言った。
「聞いている」
「だろうな」
ローレンスは軽く笑う。
そのときだった。
広間の入口付近が、ふっと静まった。
ざわめきが変わる。
人々が一斉に振り向いた。
貴族たちが自然と道を開けていく。
ローレンスが小さく笑う。
「ほら」
「来た」
グラスを軽く傾ける。
「今日いちばん面倒な男」
イリスは入口を見た。
広間の扉の向こうから歩いてくる男。
燃えるような赤い髪。
光を受けて輝く金の瞳。
堂々とした歩き方。
そして、その後ろには――
黒髪の騎士が控えている。
背筋の伸びた姿勢。
鋭い視線。
王太子直属の護衛だ。
人々が一斉に頭を下げる。
「王太子殿下」
アルフォンスだった。
広間の入口から現れた男は、まるで視線を集めることを当然のように歩いていた。
燃えるような赤い髪。
シャンデリアの光を受けて、その色はさらに鮮やかに見える。
金の瞳がゆっくりと広間を見渡した。
その歩き方には迷いがない。
自分がこの場の中心になることを、最初から知っているかのようだった。
王太子、アルフォンス。
貴族たちが次々と頭を下げていく。
「殿下」
「王太子殿下」
ざわめきが波のように広がる。
アルフォンスは軽く手を上げた。
「よい」
短い言葉。
それだけで人々は顔を上げる。
偉ぶる様子はない。
だが、この場の誰もが彼に従うことを当然のように受け入れていた。
その後ろに、騎士が一歩遅れて歩いている。
黒髪。
日に焼けた肌。
広間を鋭く見渡す黒い瞳。
背筋の伸びた姿勢は、訓練された騎士そのものだった。
王太子護衛騎士、エドガー。
その視線は絶えず動いている。
入口。
窓。
給仕の動き。
貴族たちの配置。
危険がないか、一つひとつ確かめるように。
その様子を、ローレンスが横で静かに眺めていた。
グラスを軽く揺らしながら、面白そうに。
何も言わない。
ただ様子を見ている。
やがてアルフォンスの視線がこちらへ向いた。
最初から気づいていたらしい。
まっすぐ歩いてくる。
貴族たちが自然と道を開けた。
数歩の距離で足を止める。
金の瞳がカーライルを捉えた。
そして、にやりと笑う。
「久しいな、リヒター」
カーライルはわずかに頭を下げる。
「殿下」
アルフォンスは腕を組んだ。
「相変わらず堅いな」
「少しは気楽に話せ」
カーライルは淡々と答える。
「この場では難しいでしょう」
アルフォンスは肩をすくめた。
「まあいい」
そして視線が横に動く。
イリスを見る。
その金の瞳が、わずかに興味を帯びた。
銀色の髪。
深い青のドレス。
落ち着いた所作。
アルフォンスは少しだけ目を細める。
「君が公爵夫人か」
イリスは一歩下がり、丁寧に礼をした。
「イリス・リヒターでございます、殿下」
アルフォンスはしばらくその姿を見ていた。
観察するような視線。
やがて小さく頷く。
「なるほど」
「確かに目立つな」
その言葉に、カーライルの眉がわずかに動く。
ほんの少しだけ、不機嫌そうな顔になる。
アルフォンスは気づいているらしく、楽しそうに笑った。
「広間の視線、ほとんど君たちに向いていた」
「気づいているだろう?」
カーライルは短く答える。
「社交界ですから」
声は落ち着いている。
だが、わずかに不満が滲んでいた。
アルフォンスは面白そうに言う。
「違う」
「理由は分かりやすい」
イリスを見る。
「公爵夫人が綺麗だからだ」
ローレンスが横で小さく笑った。
グラスを口元に運びながら、三人の様子を楽しそうに眺めている。
カーライルは何も言わない。
ただ視線を少し逸らした。
アルフォンスはグラスを軽く回しながら、ふと広間を見渡した。
音楽が流れている。
中央ではすでに何組かが踊り始めていた。
アルフォンスは顎を少し上げる。
「せっかくだ」
「踊らないのか」
カーライルは答えない。
代わりに、イリスへ視線を向ける。
短い視線。
カーライルが手を差し出す。
「踊れるか」
イリスは小さく頷いた。
「ええ」
その手を取る。
二人は広間の中央へ歩き出した。
その瞬間。
周囲の視線がゆっくり集まり始める。
「リヒター公爵だ」
「奥方と踊るのか」
「ヴァルツの娘……」
「いや……綺麗だな」
ざわめきは小さい。
だが確実に広がっていた。
イリスのドレスが灯りを受けて揺れる。
深い青。
カーライルの瞳と同じ色。
カーライルの手がイリスの腰を支えるように、静かに触れる。
音楽に合わせて、ゆっくりと動き出す。
イリスはカーライルを見上げる。
「視線が多いですね」
カーライルは一度、周囲を見渡した。
男たちの視線。
好奇心。
そして明らかな興味。
そのすべてを確認してから、低く言う。
「ああ……」
声は静かだった。
だが少し硬い。
「……あまり見せたくない」
「君のことを」
イリスは瞬きをする。
腕に込められる力が、ほんの少し強くなる。
まるで周囲から隠すように。
イリスは小さく笑う。
ただ視線だけが、周囲の男たちを牽制していた。
***
広間の端。
ローレンスが壁にもたれてその様子を見ていた。
腕を組み、楽しそうに目を細めている。
「へぇ」
小さく呟く。
「あのカーライルがね」
アルフォンスもまた、その様子を見ていた。
冷静な男。
感情を見せない男。
だが今は違う。
周囲を警戒する視線。
イリスを囲う腕。
その様子を見て、アルフォンスは小さく笑った。
音楽が終わると、カーライルは静かに手を離した。
その瞬間だった。
アルフォンスが歩み寄る。
「では次は私だ」
とても自然な誘い。
カーライルの眉がわずかに動く。
アルフォンスはイリスへ手を差し出す。
「一曲どうだ、公爵夫人」
イリスはカーライルを見る。
カーライルは無言。
だが表情は明らかに面白くなさそうだった。
イリスは少し戸惑った。
王太子の誘い。
断る理由はない。
カーライルを見上げる。
彼は短く言う。
「……行け」
イリスは小さく頷き、アルフォンスの手を取った。
再び中央へ。
ざわめきが広がる。
「王太子と踊るのか」
「公爵夫人が」
「さすがに目立つな」
アルフォンスは軽く笑った。
「久しぶりの社交界はどうだ」
イリスは少し考える。
「以前とは違います」
「ですが……」
視線を上げる。
「嫌ではありません」
アルフォンスは興味深そうに目を細めた。
「なるほど」
その瞬間、アルフォンスの手がイリスの腰へ回る。
ぐっと体を引き寄せた。
距離が一気に近くなる。
社交界のダンスでは珍しくない。
が――さっきまでカーライルの腕に支えられていた距離より、わずかに近い気がした。
イリスは一瞬だけ驚いた。
アルフォンスは気にした様子もなく、音楽に合わせて軽やかに歩き出す。
「やはり上手いな」
二人の足取りは滑らかだった。
曲に合わせてイリスが回ると、ドレスが美しい曲線を描いて広がる。
アルフォンスは笑った。
「ヴァルツ家の夜会でよく踊っていたと聞く」
イリスは小し恥ずかしそうに言う。
「昔の話です」
アルフォンスは楽しそうだった。
その様子を、カーライルは見ていた。
アルフォンスの手がイリスの腰を引き寄せる。
距離が近い。
――近すぎる。
一般的なダンスの距離感。
頭では分かっている。
それでも。
カーライルの視線が鋭くなる。
ローレンスが横で呟いた。
「怖い顔してるな」
カーライルは答えない。
ただ中央を見ている。
ローレンスは楽しそうに笑う。
「安心しろよ」
「殿下は人の妻には手を出さない」
少し間を空けて。
「たぶんな」
カーライルは初めてローレンスを睨んだ。
ローレンスは肩をすくめる。
「冗談だって」
だが目は完全に面白がっていた。
音楽が終わって、アルフォンスがイリスの手を離す。
「楽しかった」
軽く言う。
イリスは礼をする。
「ありがとうございました、殿下」
そしてカーライルの方へ戻った。
カーライルは無言でイリスの手を取った。
そのまま自分の側へ引き寄せる。
完全に独占欲が出ていた。
イリスが小さく見上げると、カーライルは少し拗ねたような口調で言う。
「……近い」
イリスが瞬きをして、少し笑う。
「ただのダンスです」
カーライルは答える。
「分かっている」
ほんの少しだけ間。
そして静かに続ける。
「気に入らないだけだ」
ローレンスが横で吹き出す。
「はは、独占欲強すぎだろ」
カーライルは無視する。
腕だけが、ほんの少し強くなった。




