幸運な惨事 〜王子様はもういない〜
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ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります。
大変遺憾なことに、第一王子に目をつけられてしまった。
学園の敷地内の外れにある、秘密の納屋で、アガット・シモンは今日もひとりでランチボックスを抱えていた。食堂を利用しない生徒用に、学園が前日に予約を受けて準備しているものだ。
アガットは、無意識に深いため息を吐いた。
いつの間にか、秋も深くなっていた。納屋の外には傷んだザクロの木が生えている。その実がぼとりと落ちる瞬間を、薄汚れてぼやけた窓から見てしまったアガットは、まるで自分の学園生活のようだ、と思った。
アガットは、入学前にはあんなに楽しみにしていた学園生活が憂鬱でたまらなかった。
この国の貴族の子女は、十五歳になると王都の学園に入学し、十七歳までの三年間、共に学ぶことが慣習になっている。義務や強制ではないが、よほどの事情がないかぎり、十五歳になった貴族子女たちは学園に通うことになる。男爵家に生まれたアガットとて例外ではなかった。田舎の小さな領地から王都に出てきたアガットは、新生活に胸をときめかせていたのだ。シモン男爵家はタウンハウスを持っていないので、学生寮での生活となる。領地では、同じ年ごろの女の子と遊ぶ機会のなかったアガットは、同性の友人ができるかもしれない、と楽しみにしていた。
それなのに、考えなしの第一王子のせいでアガットの新生活への期待は、落ちて腐ったザクロの実ようにぐしゃぐしゃのぺしゃんこになってしまった。
きっかけは、食堂での注文の仕方がわからず戸惑っていた際に、同じ新入生でおそらく高位貴族であろう男子生徒が親切に教えてくれたことだった。礼は言ったものの、そのときには自分のことだけで精いっぱいで余裕がなかったために、十分な言葉を伝えられなかった。なので後日、その男子生徒を見かけた際に、改めて挨拶をし、丁寧に礼を言った。その男子生徒が、第一王子の側近候補だったことが不幸の始まりだった。アガットが件の男子生徒に話しかける様子を見た第一王子が、アガットに気さくに声をかけてきたのだ。
「見かけない顔だ。どこのご令嬢か」
輝く金色の髪に、濃い青の瞳。絵画のように美しい顔立ちのその人物が第一王子だと気づいたアガットは、ヒュッと喉を空気が抜けたような心地になり、血の気が引いた。
「第一王子殿下にお声がけいただき、光栄にございます。シモン男爵家の娘、アガットと申します」
相手は王族である。失礼があってはいけない、と緊張しつつ、覚束ないながらも挨拶をすると、「ああ、入学に際して領地から出てきたのだな」と、第一王子は納得したようだった。
「同じ学園に通っているのだ。また、話す機会があるだろう」
第一王子は言った。アガットはそれを社交辞令と受け取り、それで終わったものだと思っていた。
しかし、翌日、昼の休憩時間に、件の側近候補の男子生徒とさらに女子生徒をひとり連れ、第一王子がアガットの教室までやってきて言ったのだ。
「昼食を一緒にどうだろう。せっかく知り合ったのだから、交友を深めようではないか」
男爵家に生まれたアガットは、王族からの誘いの断り方を知らなかった。確かに挨拶はしたが、第一王子と知り合いになったとは思ってはいなかった。なにを言っても不敬になるのではないかと考えてしまい、身体が震える。第一王子は、自分の誘いをアガットが断るとは思ってもいないようで、その美しい顔に自信の表情を浮かべている。実際、アガットに断る術はなかった。第一王子の側近候補の彼に助けを求めるように視線をやると、その彼も、アガットが断るなどとは微塵も思ってもいないような善良そうな表情で微笑んでいた。困ったアガットが視線をうろうろと彷徨わせていると、第一王子が連れていた美しい女子生徒と目が合った。第一王子の婚約者である、ソレーヌ・ダヴィッド。公爵家のご令嬢である。彼女は無表情ではあったが、アガットと目が合うと、どこか困ったような空気を漂わせ、そして、静かに口を開いた。
「殿下、このように突然では彼女もお困りでしょう。すでに、どなたかご友人と昼食の約束をなさっているのではなくて?」
このとき、アガットには、ソレーヌに後光が差して見えた。ソレーヌが、救済をもたらす聖女のように思えたのだ。
第一王子はソレーヌをうるさそうに一瞥し、しかし、彼女の言うことももっともだと考えたのか、「そうなのか?」とアガットに問うた。
「はい。せっかくお誘いいただきましたが、申し訳ありません」
アガットは震える声で謝罪の言葉を口にした。
「いい。仕方あるまい。急に思い立った私もよくなかった」
第一王子のその言葉にほっとしていると、「アガット。明日は昼食を共にしよう」と言われる。再度の断れない誘いと、名前を親しげに呼び捨てにされたことにより、アガットが言い知れぬ気持ちの悪さに身を震わせたのと同時に、ソレーヌもその身を微かに強張らせたのがわかった。
「殿下、彼女は男爵家のご令嬢です。急に王族である殿下と交友を深めるよりは、まずは、このクラスでのご友人関係を尊重して差し上げませんと……」
「私だって、アガットの友人だ!」
ソレーヌの言葉を遮るようにして、第一王子は強い口調で言った。第一王子の友人になった覚えのないアガットは混乱し、しかし、否定もできずくらくらとめまいを覚える。
「王族だ男爵だなどと、おまえは、そうやって身分でひとを差別をするような人間だったのか。がっかりだな」
アガットを庇おうとしてくれたのであろうソレーヌに、第一王子はひどい言葉を投げかけた。アガットは、違う、と言いたかったが、言葉が喉につっかえて出てこない。
「差別など、決して。わたくしはただ……」
ソレーヌの反論を、
「もうよい」
第一王子は一言で終わらせると、
「では、明日。またここへ迎えに来るとしよう」
決定事項のようにそう言った。
「承知いたしました」
アガットは、泣きそうに震える声を必死で抑えながら言った。それ以外の言葉を思いつかなかった。
その日は、友人と約束があると嘘をついてしまった手前、食堂に行くことはできず、ランチボックスの予約もしていなかったので、昼の休憩時間をパウダールームの個室にこもって過ごすことにした。アガットは、じっと、ただ時間が過ぎるのを待った。アガットには、まだ友人らしい友人はいなかった。自分を庇ってくれたソレーヌに申し訳ないという気持ちと感謝の念を心の中で呪文のように唱えながら、アガットは自分は一体なにをしているのだろう、と、ぼんやりと考え、少しだけ泣いた。あんなに悪目立ちをしてしまったのだ。もう、学園で友人をつくることは難しいのかもしれない。
次の日の第一王子との昼食は、生きた心地がしなかった。せっかくの食堂のおいしそうな料理も、味がまったくしない。自分の食事のマナーが正しいのかどうかもわからなくなっている。混乱するアガットは、ソレーヌを見る。目が合ったソレーヌはアガットを安心させるように微かにうなずいた。その仕草を見たアガットは少し落ち着きを取り戻し、ソレーヌの食べ方を懸命に真似て食事を乗り切った。
昼食をとるあいだ、第一王子がずっとなにかを話していて、自分もそれに答えていたはずなのに、会話の内容を全く思い出せない。ただ、苦しいという思いだけがずっとあった。
第一王子が、教室にアガットを訪ねてきて以来、アガットはクラス内で遠巻きにされていた。アガットのクラスは、子爵家や男爵家のような下位貴族の子女が多くいるクラスである。そんなクラスに突然、王族がやってきてアガットを名指ししたのだ。関わり合いになりたくない、または、親しくして大丈夫なのだろうか、まだ様子を見よう、そういう雰囲気が漂っていた。しかし、皆、話しかけると普通に答えてはくれるし、連絡事項もきちんと伝えてくれる。悪目立ちはしていたが、いじめられたり露骨に無視をされたりということはなかったので、それだけは救いだった。
その後も、第一王子はときどきアガットを昼食に誘った。断り切れなかったときは仕方なく一緒に食事をしたが、友人と中庭で食べるので、などという理由で、ランチボックスの予約をすることをアガットが覚えてからは、その頻度は少なくなった。パウダールームの個室でランチを食べながら、アガットは嘘をつくことを覚えた自分を悲しく思った。
昼食よりも地獄だったのが、ダンスの授業だ。
ダンスの授業は、クラスなどの垣根を越え、一学年合同で大きなホールで行われる。教師は何人かついており、生徒のレベルごとにグループ分けがされていた。しかし、そのグループを無視して、第一王子がアガットのダンスの練習相手を買って出たのである。不得手な自分の相手など申し訳ない、と断ったのだが、「なに。これも勉強だ」と、アガットが嫌がっているとは思ってもいない様子で、第一王子はあたりまえのようにアガット腰を引き寄せるように手を回した。背中を毛虫が這ったのでは、と思うくらいゾワッとし、アガットは気がついた。わたし、このひとのことを嫌いなんだわ。
そんなアガットの思いとは裏腹に、第一王子はダンスの授業のたびに、わがままとも言えるような態度で、アガットの練習相手を他に譲らなかった。教師に訴えようにも、自分が第一王子を嫌っていることが露見したら、と思うとなにも言えない。田舎の男爵家など、簡単に潰されてしまうかもしれないのだ。側近候補の彼は第一王子の様子を微笑ましそうに見るだけで、その行動を諌めようともしない。ソレーヌは、アガットを気にしてくれているようで、幾度か第一王子に苦言を呈してくれていたが、第一王子がその言葉を聞くことはなかった。それどころか、ソレーヌにひどい言葉を投げかけることが増えた。アガットは、ソレーヌに感謝の言葉を伝えたかったが、アガットの知る限り、ソレーヌはいつも第一王子と一緒にいるため、ふたりきりになれる機会はなかった。
アガットには、どうして第一王子がこんなに自分に執着するのかわからなかった。ただ、あの日、側近候補の彼に礼の言葉を伝えただけだったのに。
苦しくつらい日々ではあったが、女子寮での生活は意外と快適だった。なぜなら、女子寮には第一王子がいないからだ。アガットは寮での生活に、つかの間の安息を見出していた。寮に入るのは、王都にタウンハウスを持たない貴族子女が多いため、自然と下位貴族の集まりになる。それも過ごしやすい理由だった。
そんな寮でも、親しい友人をつくることはできなかったが、知人レベルで話をする相手はできた。学園よりも密な場所ではあるため、同学年の子や先輩が、「いつも大変ね」と、軽く声をかけてくれることがあったのだ。どう答えても不敬になりそうで悩んだが、「いつも大変ね」という言葉には主語がなく、誰がどういう理由でどう大変なのかということはなにも伝えてはいないことに気づいたアガットは、「ええ。でも気にかけてくださる方もいらっしゃるので、なんとか過ごせております」と、主語のない曖昧な返事をすることにした。そうすると、少し心が軽くなったように感じた。
ある夜、寮の談話室に置いてある本を読もうと、アガットは本棚の前をうろうろしていた。
「かわいいから、きっと気に入られてしまったのよね」
そのとき、同じように談話室で本を選んでいた顔見知りの先輩が、気の毒そうに言ったのだ。誰が誰に、とは言わなかったが、アガットには第一王子と自分のことだとわかった。しかし、それとは別に気になることがあった。
「……かわいいって、まさか、わたしがですか?」
思わず、いつもはしないような自分を粒立てた返事をしてしまう。
「ええ、とってもかわいいわ。お人形さんみたい」
先輩は、微笑んでそう言ってくれる。嫌味や冗談を言っているようにも見えない。
「そ、そんなあ……」
「どうして、そんな絶望したみたいな反応なの?」
先輩はおかしそうに笑って、目当ての本が見つかったようで談話室を出て行った。
嘘みたいな話だが、ここへきて、アガットは自分がかわいいということを初めて知ったのである。
領地にいたときには自分や他者の美醜に無頓着であったため気がつかなかったが、アガットはどうやら、とてもかわいい顔立ちをしているらしい。領地にいたときも、両親や使用人、領民たちから、かわいいかわいいと言われてはいた。しかし、それは身内だからそう思ってくれているのだと思っていたのだ。どうやら、身内でもなんでもない他人から見てもアガットはかわいいということらしかった。
しかし、そんなことにいまさら気づいてもどうしようもない。持って生まれた容姿は、どうにもならない。だが、第一王子に執着される理由が、おそらくアガットがかわいいからだということがわかったのは収穫だった。それならば、この顔をどうにかしてしまえばいいのでは。いっそ顔に傷でもつけてしまおうか、と思い悩んだが、第一王子のせいで自分が痛い思いをするなんて嫌だわ、と思ってやめた。
こんな目に遭うなら、かわいい顔なんていらなかった。世の人々が聞いたらあきれそうなことをアガットは思ったが、いいえ、違うわ、と思い直す。アガットの顔がかわいいことは決して悪いことではない。ただ、あんな第一王子と同じ時世に生まれてしまった、アガットの運が悪かっただけだ。
そんなふうに日々をやり過ごし、夏の終わりを風が知らせにきたころ。アガットは自分だけの秘密の場所を見つけた。
それは、午後の授業が終わったあと、アガットを探して女子寮周辺をうろついているらしい目立つ金色の髪を避け、裏庭の奥の奥へと進んで行ったときのこと。茂みの奥に古い石段を見つけたのだ。好奇心にかられて石段を上ると、そこには小さな納屋のような建物があった。現在は使われていない様子のその納屋は、扉の鍵が壊れており、簡単に中に入ることができた。
埃っぽい室内には、鉢植え代わりにしていたものだろうか、大きな壺がいくつか伏せて置いてあった。そして、庭を飾るための小さな石像も何体か置いてある。動物や小人を象ったそれらは、不気味に見えなくもないが、アガットは気にならなかった。
伏せた壺の底をハンカチできれいに拭いて、そこに座ってみた。なかなかいい感じである。アガットは、久しぶりに楽しい気持ちになった。
素敵な場所を見つけた。もう、パウダールームの個室でランチを食べる必要はないのだ。
それ以来、昼の休憩時間、アガットはこっそりとランチボックスを持って裏庭の奥の奥の石段を上った。息苦しい学園生活だったが、秘密の納屋では安息の時間を過ごすことができた。
いつの間にか、秋も深くなっていた。納屋の外には傷んだザクロの木が生えている。その実がぼとりと落ちる瞬間を、薄汚れてぼやけた窓から見てしまったアガットは、まるで自分の学園生活のようだ、と思った。
そのとき、外で草を踏み分けるような音が聞こえた。誰か来たのかもしれない。勝手に納屋に入っていたことを叱られるだろうか。そう思ったアガットは立ち上がり、膝の上に置いていたランチボックスを、いままで座っていた壺の底に置いた。そっと扉を開けて外の様子を窺おうとしたその瞬間、強引に扉が開かれ、男子生徒に押し入られた。
「探したぞ、アガット。こんなところにいたのだな」
あんなに避けていた金色の髪。第一王子だった。見つかってしまったのだ。アガットは恐怖に声も出ない。
「これはよい。ふたりきりではないか。よい場所を見つけたな、アガット」
第一王子はうれしそうに言った。
「友人と昼食をとっていたのではないのか?」
「ええ。ですが、友人は用があるとのことで先に戻りました」
アガットは息をするように嘘をついた。
「そうか。しかし、おかげで共に過ごす時間ができる」
アガットが自分から逃げてここにいるという発想はないらしい第一王子は、アガットの稚拙な嘘に納得したようだった。
「おひとりなのですか? ソレーヌ様は? 側近候補の方はどうされました?」
絞り出したアガットの問いに、
「撒いてきたんだ。いつもいつも、あの二人に張りつかれてはかなわない」
第一王子は苦笑いを浮かべてそう言った。
「ここを見つけたのは偶然だが、アガット、そなたがいた。これは運命だ」
第一王子はひとりで盛り上がっている。
「アガット」
熱を含んだようなねっとりとした声で名前を呼ばれ、怖気が走る。
「私の気持ちはわかっているのだろう」
強引に肩を抱き寄せられ、アガットの息は止まる。
「お戯れを。殿下にはソレーヌ様がいらっしゃるではありませんか」
アガットはやっとのことでそう言い、第一王子から離れようとするが、
「あいつは、父が決めた婚約者というだけだ。私が真実愛しているのは、アガット、そなただ」
第一王子はアガットの肩を離してはくれない。
「お戯れを」
アガットからはもう、その言葉しか出てこなかった。
「なあ、アガット。そうやって、いつまで私を焦らすつもりだ。そなたはかわいいが、時折、憎らしくなる」
第一王子がアガットの顎をつかみ、自分の顔を近づけてきた。第一王子には、アガットが彼をどう思っているのかなど、関係がないようだった。王族であり美しく生まれた彼は、こうやってあたりまえのようにすべてを手に入れてきたのかもしれない。
「素直になれ、アガット。私に身をまかせるのだ」
このままでは口づけをされる。第一王子の半開きの唇を見てそう思ったアガットは、考える間もなく、咄嗟に自分の全体重をかけるようにして第一王子を突き倒した。
アガットのその行動を予測できなかったのか、バランスを崩した王子は後ろに倒れ、アガットもその上に倒れてしまった。石像同士のぶつかるひどい音がした。
「も、申し訳ありません! 驚いてしまって……」
そう言いながら素早く立ち上がったアガットだが、第一王子は目を閉じて身体を横たえたまま、動かない。見ると、うさぎの石像の耳の部分に血のようなものがついている。
「殿下?」
アガットが呼びかけるが、第一王子は反応しない。ごくりと唾を飲み込んで、アガットは第一王子の鼻に自分の手を近づけてみた。息をしていない。
そのとき、アガットの胸に広がったのは、歓喜だった。抑圧から解き放たれた、言い知れぬよろこびだった。
アガットは、ぐるりと周囲を見渡した。埃の積もった床に二人分の足跡がついている。アガットは、靴底で床を擦って足跡をぐしゃぐしゃとかき回した。自分の制服を確認する。乱れはない。第一王子の上に倒れ込んだおかげで、埃もついていないようだ。アガットは、壺の底に置いていたランチボックスを持ち、忘れものや落としたものがないか確認する。そして、靴の爪先で王子の脇腹をぐにぐにとつついてみた。やはり動かない。
現国王の子は、第一王子の下に王子がふたり、王女がひとり。無意識に頭の中でアガットは確認してしまっていた。あんな第一王子がひとりいなくなっても、国に大きな影響はないだろう。
アガットは、そのまま納屋をあとにした。
石段を下り、茂みを抜けて進み、裏庭に出る。そのとき、ソレーヌとすれ違った。
「ごきげんよう、アガット様」
「ごきげんよう、ソレーヌ様」
ふたりは挨拶を交わし合う。
「第一王子殿下を見かけませんでしたか? 探しているの」
ソレーヌは、休憩時間の終わりが近づいているのに戻って来ない第一王子を探しに来たようだった。
「いいえ。お見かけしておりません」
「そう。困ったわ。もうすぐ授業が始まるのに」
そう呟いて、ソレーヌはアガットに、またね、と微笑んだ。
「ソレーヌ様」
このまま別れるのが最善だとわかっていながら、アガットは、思わずソレーヌを呼び止めてしまう。
「ソレーヌ様、いつも、ありがとうございます。わたしのことを気にかけてくださって、ありがとうございます。感謝してもしきれません。本当に、いつもわたしはソレーヌ様に救われております」
ソレーヌは、「いいの」と一言、静かに言った。
「あなたとわたくしは、同じだから」
そう言い残して、今度こそ、またね、と行ってしまった。
アガットは、いまになって心臓がこれまでにないくらいに脈打っているのを感じていた。胸だけでなく、頭にも心臓があるみたいにどくどくと聞こえる。
ソレーヌは、第一王子を見つけてしまうだろうか。ぐるぐると考えながら、アガットは教室に戻り、うわの空で午後の授業を受けた。
しかし翌日、第一王子が行方不明だということで、学園が急遽、休校となった。昨日の午後、結局、ソレーヌは第一王子を見つけられず、側近候補の彼と二人で学園へ届け出たそうだ。そしてやはり、午後の授業に第一王子は姿を現さなかったらしい。
昨夜から雨が降っており、外が薄暗いことも影響したのか、アガットは、不安で落ち着かない時間を過ごした。
「アガットさん、なにか知らないの?」
同じクラスでもある寮生に談話室に連れていかれ、好奇心を丸出しにして聞かれたが、
「昨日は、第一王子殿下とはお会いしていなくて。なにも知らないの」
そう答えるに止めた。なんでもないふうを装えただろうか、と、どきどきしていると、
「そうなの。またパウダールームでお昼を食べていたの?」
「知っていたの?」
思わず聞き返してしまう。
「知っていたわ。クラスのほとんどのひとが知っているのではないかしら。でも、誰も殿下には教えていないはずだから、大丈夫よ」
殿下となんて話す機会もないしね、と彼女はなんでもないようにそう言って、「でも、行方不明だなんて、なんだか怖いわね」と、窓の外を見た。
「ええ、怖いわね」
アガットは同意を示しながら、自分が知らないところで皆から守られていたことを知った。
「ありがとう」
小さくそう言うと、彼女は、うふふ、と照れたように笑った。
翌日も、学園は休校とのことだった。第一王子の遺体は、昨日のうちに学園の敷地内で見つかったらしい。その関係で休みが長引いているとのことだった。
彼は、裏庭の奥の奥の石段の下に倒れていたという。どこから情報を仕入れたのか、寮の先輩が談話室に皆を集めてこっそりと教えてくれた。
「どうやら事故だっていう話よ」
皆が集まっているのでこっそりもなにもないのだが。
「そんなところに石段があったのね」
「知らなかったわ。あの辺りには行かないもの」
「でも、事故だっていうなら安心したわ。ならず者がいたわけじゃないのね」
「まあ、安心だなんて、あなた。殿下が亡くなっているのに不敬よ」
「そうだけど……」
寮生たちは口々におしゃべりをしていた。
どういうこと。アガットはわけがわからなかった。
アガットが第一王子を放置したのは、納屋の中だ。それなのに、第一王子は石段の下に倒れていたという。アガットはその状況になるための仮説を考えていた。
第一王子が息を吹き返し、納屋を出たところでふらついて石段から落ちた。
第一王子の遺体を誰かが運んで、石段から落とした、または、石段の下に寝かせた。
第一王子が息を吹き返し、納屋から出たところで誰かに会い、石段から突き落とされた。
そこまで考えて、アガットは考えるのをやめた。
「大丈夫? 顔が真っ青よ」
ぼんやりとしていると、同じクラスの彼女が声をかけてくれた。
「大丈夫。知っている方が亡くなったと聞いて、驚いてしまって」
「そうよね。しかも第一王子殿下だもの。こんなこと滅多にないわよ」
「ええ、本当」
相槌を打ちながら、アガットは得体の知れない不安を感じていた。アガットがいくら考えないようにしても、頭の中からは、第一王子が息を吹き返し納屋から出たところで誰かに会い石段から突き落とされたという可能性が、消えてはくれなかった。
第一王子の葬儀が終わるまで、学園は休校が続いた。
王城の大ホールで行われた葬儀には学園の生徒たちが全員参列し、第一王子の棺が王城から運び出される様子を神妙な面持ちで見送った。
側近候補だった彼に声をかけられたのでお悔やみの言葉を伝えると、彼は泣きはらした真っ赤な目で、礼の言葉をくれた。彼は、こんなにも第一王子の死を悲しんでいる。自分は、第一王子の死にあんなにも歓喜したというのに。アガットは、そのことに罪悪感を覚えた。
しかし、その罪悪感よりも、第一王子がもうこの世にいないという安心感のほうが、どうしても強いのだった。
学園での授業が再開され、アガットは肩の力を抜いて学園生活を送っていた。同じクラスの皆とも気楽に話せるようになり、アガットの胸には、学園生活への期待が再びふくらんでいく。
第一王子の死後、初めてのダンスの授業で、アガットは気づく。いままで第一王子に邪魔をされていたため、練習相手になってくれる人物がいないのだ。教師に事情を話そうと思っていると、
「殿下はもういらっしゃらないものね。わたくしがお相手いたします」
ソレーヌがそう申し出てくれた。
「え、ですが……」
恐縮するアガットに、
「大丈夫。わたくし、男性パートを踊れるわ。ずっと、妹の練習相手をしていたのよ」
やわらかく微笑んでくれた彼女は、第一王子の死後、よく笑顔を見せるようになったように思う。
「よろしくお願いいたします」
「ええ」
アガットの手をそっと取り、ソレーヌはアガットの背中に手をまわした。第一王子に同じようにされたときと違い、ちっとも嫌ではなかった。それどころか、安心感すら覚える。
足元を見ながら、アガットはステップを間違えないよう必死だ。
「大丈夫よ」
ソレーヌが、くすくすと笑いながら言った。
「本当ですか? ちゃんと踊れていますか?」
「ええ。もう大丈夫。あなたも、わたくしも」
「え?」
会話が微妙に噛み合わないような気がして、不思議に思ったアガットは足元ばかりを見ていた視線上げる。ソレーヌは淑女らしからぬ、よろこびを隠しきれないという表情で、満面の笑みを浮かべていた。
「あなたは、わたくしに感謝していると言ってくれたわね。だけど、わたくしのほうこそ、あなたには感謝しているの」
ソレーヌはアガットの耳に口を寄せて、ささやいた。
「機会をつくってくれたもの。本当にありがとう」
アガットは言葉が出ず、ソレーヌの美しい笑顔を見た。
「わたくしね、嫌だったのよ。あのひと」
その一言で、アガットは察した。第一王子を殺したのは、きっと。
「ずっと、ずうっと、嫌だったの」
「ええ」
「だけど、もういない。わたくしたち、運がよかったのね」
その言葉に、アガットはうなずいた。
「秘密です。ふたりだけの」
アガットは言った。
「ええ、そうね。ふたりだけの秘密」
ソレーヌは、にこっと憂いなく笑った。アガットもつられて笑顔になる。
第一王子はもういない。アガットとソレーヌの本当の学園生活は、これから始まるのだ。
ふたりは、にこにこと笑い合いながら、踊り続けた。ダンスがこんなにも楽しいものだったなんて、アガットは初めて知った。
了
ありがとうございました。




