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金継ぎのアルケミスト   作者: Gにゃん
-虚ろなる神々の器-
9/12

序章:静かなる侵食

 ハル・ミナトが、その魂と引き換えに、世界を救ってから、半年が過ぎた。

 新京都は、あのサイバーテロ事件が嘘だったかのように、かつての輝きを取り戻していた。いや、むしろ、一度、都市全体の時間が止まったかのような、あの奇妙な共通体験を経て、人々は、以前よりも、少しだけ、他人に優しくなったような気さえした。

 カラン、と、工房のドアベルが、軽やかな音を立てる。

「はい、いらっしゃいませ」

 カウンターの奥から、顔を出したのは玲だった。半年という月日は、彼から、かつての自信なさげな雰囲気を拭い去り、穏やかで、しかし、芯の通った職人の顔つきへと変えていた。

 訪れたのは、一人の老人だった。彼は、大切そうに、古びた懐中時計を差し出した。

「これの、修理をお願いしたい。……妻との、唯一の思い出の品でな」

「承知いたしました。大切に、繕わせていただきます」

 玲が、にこやかに応じる。その横から、すっと、アカリが顔を出した。

「お預かり証です。完成まで、およそ三週間ほどいただきますが、よろしいでしょうか?」

 彼女の応対は、かつての公安時代を思わせる、無駄のない、的確なものだった。だが、その声には、冷たさではなく、客を安心させる、不思議な温かみが宿っている。

 彼女は、今や、この工房の、もう一人の「主人」だった。事務、経理、そして、玲の護衛兼、精神的支柱。そのすべてを、完璧にこなしている。

 老人が、満足げに帰っていくのを見送ると、アカリは、ふう、と息をついた。

「……また、採算度外視の依頼を受けたな」

「聞こえてたの?」

「君の考えは、手に取るように分かる。この半年で、そうなった」

 アカリは、そう言うと、玲の淹れたコーヒーを、当たり前のように、一口すする。その光景は、もはや、二人の日常だった。

 玲は、預かった懐中時計に、そっと触れる。

 聴こえる。半世紀分の、温かい記憶。愛、喜び、そして、穏やかな別れの悲しみ。

 彼は、その記憶を、大切に、丁寧に、修復していく。

 ゼロの悲劇は、終わった。世界は、元に戻った。

 この、穏やかで、幸せな日常が、ずっと、続いていく。

 誰もが、そう、信じていた。

 異変の最初の兆候は、本当に、些細なものだった。

 その日、工房を訪れたのは、一人の音楽家だった。有名なオーケストラの、首席バイオリニストだという。

 彼が、依頼してきたのは、一本の、古い指揮棒だった。尊敬する師の、形見だという。

「これを、見ていても、もう、何も感じないのです」

 男は、うつろな目で、そう言った。

「かつては、これを見るだけで、胸が熱くなり、音楽への情熱が、無限に湧き上がってきた。だが、今は……ただの、木の棒にしか、見えない。私の音楽も、最近では、正確なだけで、魂が、心が、抜け落ちていると、酷評されています」

 その言葉に、玲は、胸の奥が、ちくり、と痛むのを感じた。

「……拝見します」

 玲は、その指揮棒を、手に取った。

 そして、その魂に、触れた。

 聴こえる。師と共に過ごした、何年もの、濃密な記憶。音楽の喜び。厳しい叱責。そして、受け継がれた、確かな情熱。

 だが。

 その、温かい記憶の、さらに、奥。

 玲は、今まで感じたことのない、異質な「何か」に、触れた。

 それは、声ではなかった。感情でも、記憶でもない。

 しん、と、魂の芯が凍るような、絶対的な「無音」。

 まるで、美しい絵画に、ぽつりと落ちた、黒いインクの染み。それは、暴れるでもなく、叫ぶでもなく、ただ、静かに、じわりじわりと、周囲の記憶の「色」を、吸い尽くし、すべてを、意味のない、灰色のグラデーションへと、変えていっている。

 それは、ゼロが抱えていた、人間的な苦悩の絶望とは、まったく違う。もっと、根源的で、無機質で、ただ、在るだけで、魂を「虚無」へと還していく、恐ろしいほどの、静かなる侵食。

「……っ!」

 玲は、反射的に、指揮棒から手を離した。その顔から、血の気が引いている。

「玲! どうした、顔色が悪いぞ!」

 彼の異変に、即座に気づいたアカリが、駆け寄る。彼女の右腕の金の継ぎ目が、玲が感じ取った「虚無」に反応するかのように、警告を発するように、微かに、ちりちりと、静電気のような熱を帯びていた。

「……アカリ」

 玲は、震える声で、言った。

「今、聴こえたのは、『破砕』じゃない。もっと、別の……もっと、冷たい、何かだ。ハル君が、命を懸けて、封印したはずの、あの……」

 ゼロの悲劇は、終わった。

 だが、彼が、その身に取り込んでしまった、深淵の『虚無』。その、ほんの僅かな欠片が、彼の最後の解放の瞬間に、この世界に、飛び散ってしまっていたとしたら?

 それは、新たな「病」として、気づかれぬまま、静かに、人々の魂を、蝕み始めているのかもしれない。

 玲は、目の前の、うつろな目をした音楽家を見つめた。そして、その向こうに広がる、この、不完全で、愛おしい、日常を見渡す。

 彼の隣には、同じ、険しい表情で、金の腕に手を置く、信頼できるパートナーがいる。

「……僕らの、本当の仕事は」

 玲は、覚悟を決めた目で、アカリを見つめた。

「これから、なのかもしれないな」



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