終章:金継ぎのアルケミスト
白い光が、ゆっくりと、潮が引くように、消えていく。
玲が、最初に感じたのは、温もりだった。
自分の背中を支える、誰かの、確かな温もり。そして、聞こえてくるのは、規則正しく、そして、力強い、心臓の鼓動。
彼が、ゆっくりと目を開けると、そこは、見慣れた、公安局の機密ラボだった。ダイブ装置の中で、彼は、アカリに、強く、抱きしめられていた。
目の前の巨大なメインモニターには、都市のあらゆる場所が映し出されている。
鉛色だった空は、いつのまにか、澄み切った青色を取り戻していた。
路上に、糸が切れたように倒れていた人々が、一人、また一人と、まるで、長い夢から覚めたかのように、ゆっくりと、身を起こしている。
ゼロの鎮魂歌は、完全に、止んでいた。
『……ゼロの、高エネルギー反応、完全に消失。……ネットワーク、正常化していきます』
セキнеの、震える声が、ラボに響き渡った。
局員たちが、わっと、歓声を上げる。
終わったのだ。ひとまず、は。
◆
それから、季節は一度、巡った。
新京都の片隅にある、あの、時代遅れの工房は、今も、変わらずに、そこにあった。
工房の、古い木の看板。そこに、真新しい、金の文字で、こう、書き加えられていた。
――『継実修復工房。モノと、ココロの、繕い処』
カラン、と、ドアベルが鳴る。
「はい、いらっしゃいませ」
穏やかな声で、客を迎えたのは、玲だった。彼の表情には、以前のような、自信なさげな影はなく、職人としての、静かな誇りが宿っている。
工房を訪れたのは、若い女性だった。彼女は、おずおずと、一つの包みを、カウンターの上に置いた。
「あの……噂を、聞きまして。ここでは、どんなものでも、直していただける、と」
包みの中から現れたのは、鳥の形を模した、美しい、ガラスのブローチだった。だが、その翼の片方が、無残に、欠けてしまっている。
「これは、母の、形見で……。先日、事故に遭って、私の、この腕の、身代わりになって、壊れてしまって……」
女性の視線の先には、最新式の、しかし、まだ、どこか、ぎこちない動きの義手があった。
「……承知いたしました。大切に、繕わせていただきます」
玲は、そのブローチを、そっと、手に取った。
そして、いつものように、目を閉じ、そのモノに宿る魂の「声」を、聴こうとした。
事故の瞬間の、恐怖。娘を想う、母親の、温かい、守護の記憶。それは、確かに、聴こえた。
だが。
その記憶の、さらに奥深く。玲は、今まで感じたことのない、異質な「何か」に、触れた。
それは、声ではなかった。感情でも、記憶でもない。
しん、と、魂の芯が凍るような、絶対的な「無音」。
まるで、インクを水に落としたように、温かい記憶の片隅を、黒く、侵食している、冷たい「染み」。
それは、ゼロが抱えていた、人間的な苦悩の絶望とは、まったく違う。もっと、根源的で、無機質で、ただ、在るだけで、周囲の魂の色を、意味を、吸い尽くしていくかのような、恐ろしいほどの、「虚無」の欠片。
「……っ!」
玲は、思わず、ブローチから手を離した。その顔から、血の気が引いている。
「玲? どうした」
彼の異変に、即座に気づいたアカリが、駆け寄る。彼女の右腕の金の継ぎ目が、玲が感じ取った「虚無」に反応するかのように、警告を発するように、微かに、ちりちりと、熱を帯びていた。
「……アカリ」
玲は、震える声で、言った。
「今、聴こえたのは、『破砕』じゃない。もっと、別の……もっと、冷たい、何かだ。ハル君が、命を懸けて、封印したはずの、あの……」
ゼロの悲劇は、終わった。
だが、彼が、その身に取り込んでしまった、深淵の『虚無』。その、ほんの僅かな欠片が、彼の最後の解放の瞬間に、この世界に、飛び散ってしまっていたとしたら?
それは、新たな「病」として、気づかれぬまま、静かに、人々の魂を、蝕み始めているのかもしれない。
玲は、目の前の、壊れたブローチを見つめた。そして、その向こうに広がる、この、不完全で、愛おしい、日常を見渡す。
彼の隣には、同じ、険しい表情で、金の腕に手を置く、信頼できるパートナーがいる。
「……僕らの、本当の仕事は」
玲は、覚悟を決めた目で、アカリを見つめた。
「これから、なのかもしれないな」