第六章:反撃の狼煙(のろし)
旧第7研究所の崩壊から、五日が過ぎた。
玲とアカリは、公安局本部の特別医療棟にいた。玲は、精神的な消耗を回復するためのメディカル・スリープから、つい先ほど目覚めたばかり。アカリは、背中に負った熱傷と打撲の治療を終え、真新しい制服に身を包んでいた。
病室の窓からは、完璧な青空が広がる、いつもの新京都の風景が見えた。あの地下での死闘が、まるで嘘だったかのように、都市は、何事もなかったかのように、完璧な日常を繰り返している。
「……身体の調子はどうだ」
アカリが、ベッドに腰掛けたままの玲に、静かに尋ねた。
「うん、もう大丈夫。君こそ、背中の傷は……」
「問題ない。私の義体は、君と違って、スペアが効く」
彼女は、ぶっきらぼうにそう言ったが、その声には、以前のような棘はなかった。むしろ、どこか、冗談を言っているような、穏やかな響きさえあった。
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
あの崩落の中、アカリが玲をかばい、強く抱きしめた、あの瞬間の記憶が、お互いの脳裏に蘇る。あれ以来、二人は、どうにも、互いの顔をまともに見ることができなかった。
その空気を破ったのは、病室の扉を開けて入ってきた、セキネ部長だった。
「目が覚めたか、継実君。そして、アカリ君、今回もご苦労だった」
セキネは、疲れた顔をしていたが、その目は、二人への、確かな信頼に満ちていた。
「君たちが持ち帰ったデータは、我々の専門チームが、総力を挙げて解析している。ナギ君の言う通り、それは、十年前に死亡したとされる、Mシステムの主任研究員――ハル・ミナトという青年の、オリジナルの魂のデータで、間違いないようだ」
ハル・ミナト。
それが、ゼロの、元の名だった。
「我々は、これを、『オリジン・コード』と名付けた。ゼロを無力化するための、我々の、唯一の希望だ。だが……」
セキネは、そこで、言葉を切った。
「問題は、これを、どう使うかだ。奴は、今や、ネットワークのあらゆる場所に偏在する、神のような存在だ。物理的に、このデータを撃ち込めるような相手ではない」
「……一つ、方法があります」
静かに聞いていたアカリが、口を開いた。
「私たちが、もう一度、VR空間にダイブします。そして、ゼロの意識の、中枢へと、直接、この『オリジン・コード』を送り込むのです」
「危険すぎる! 奴は、君たちの侵入を、今度こそ、全力で阻んでくるだろう。それに、どうやって、奴の中枢を見つけ出す?」
「見つけ出せます」
アカリは、自らの右腕に走る、金の継ぎ目に、そっと触れた。
「この腕が、覚えています。ゼロの魂の『色』を。玲の力を借りれば、ネットワークという広大な海の中からでも、奴の居場所を、見つけ出せるはずです」
それは、あまりにも、大胆で、無謀な作戦だった。
だが、セキネは、アカリの、そして、その隣で、静かに、しかし力強く頷く玲の顔を見て、やがて、大きく、息を吐いた。
「……分かった。君たちに、すべてを賭けよう。準備が整い次第、作戦を開始する」
その日の午後。玲とアカリは、ナギと共に、公安局の最深部にある、機密ラボにいた。
「オリジン・コードを、ただ、ぶつけるだけじゃ、ダメだ」
玲は、ディスプレイに表示された、美しい光の螺旋――ハル・ミナトの魂のデータを見ながら、言った。
「ゼロの魂は、強力な、絶望の鎧に覆われている。無理やりこじ開けようとすれば、彼の魂そのものが、完全に、消滅してしまうかもしれない」
「では、どうするんだい?」
ナギの問いに、玲は、答える。
「……歌を、作るんだ」
「歌?」
「うん。この、ハルさんの魂のデータを、楽譜にするんだ。彼が、本当は、どんなに優しくて、どんなに、世界を愛していたか。その想いを、メロディーにする。そして、僕の『魂継ぎ』の力で、その歌を、ゼロの魂に、直接、届けるんだ。戦うんじゃない。思い出させるんだ。君は、本当は、こんなにも、美しい魂を持っていたんだよ、って」
それは、技術者でも、軍人でもない、修復師である玲だからこそ、辿り着ける、あまりにも、優しすぎる作戦だった。
アカリは、その作戦を、黙って聞いていた。そして、静かに、頷いた。
「……分かった。ならば、私が、君とその『歌』を、ゼロの心臓部まで、送り届ける。どんな妨害があろうと、必ず」
その時だった。
ラボ全体が、突如、激しい揺れに見舞われた。
『緊急警報! 緊急警報! 新京都の全域で、大規模な、精神汚染が、発生!』
壁のモニターが、一斉に、都市の監視映像を映し出す。
だが、その光景は、玲たちが今まで見てきた『破砕』とは、明らかに、異なっていた。
人々は、暴徒化していない。ただ、街中の、すべての人間が、ぴたり、と、動きを止めている。そして、天を仰いでいた。
都市の空を覆う、合成空が、いつもの完璧な青色から、深く、沈んだ、鉛色へと、変わっていた。
そして、その空から、静かな、静かな、雨のようなメロディーが、降り注いでいた。
それは、聞く者の、生きる気力、そのすべてを、根こそぎ奪っていくような、あまりにも、物悲しい、絶望の旋律。
『――聞こえるかい』
都市の、すべてのスピーカーから、ゼロの声が、直接、響き渡った。
『――これが、我が鎮魂歌。これが、真の救済。痛みも、苦しみも、喜びさえもない、完全なる調和。完全なる『無』。さあ、すべての不完全なる者たちよ。我が腕の中で、永遠の眠りにつきなさい』
ゼロが、動いたのだ。
玲たちが、最後の希望を手にしたことを知り、彼は、もはや、隠れることをやめた。
都市、そのもの。そこに生きる、数千万の魂、そのすべてを、道連れにするために。
モニターの向こうで、人々が、糸の切れた人形のように、一人、また一人と、その場に、崩れ落ちていく。
玲とアカリは、その、あまりにも、静かで、美しい、終末の光景を、息を呑んで、見つめていた。
残された時間は、もう、ない。
二人の、都市の魂を賭けた、最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
「……行くぞ、玲」
アカリの声は、極限の緊張の中にあって、凪いだ海のように、静かだった。
「うん」
玲も、短く、しかし、力強く応える。
もはや、迷っている時間はない。一秒、また一秒と、都市の魂が、死へと近づいていく。
二人は、ラボに設置された、最新鋭のダイブ装置へと、同時に、その身を滑り込ませた。
セキネや、他の局員たちが、固唾を飲んで見守っている。だが、その声は、もう、二人には届かない。
彼らの意識は、最後の戦場へと、解き放たれた。
光。
音。
匂い。
そのすべてが、なかった。
玲とアカリが降り立ったのは、果てしない、白一色の空間だった。どこまでも見渡せる、地平線のない、無。
だが、それは、空っぽなのではない。むしろ、逆だった。あまりにも、完璧に、すべてが「無」という情報で、満たされている。
天と地の区別もなく、ただ、静寂だけが、支配する世界。
ゼロの、魂の深層。完全なる調和を求める、彼の理想が作り上げた、巨大な、白亜の聖堂。
『――還りなさい』
どこからともなく、声が響く。それは、男の声でも、女の声でもない。ただ、ひたすらに、安らかな、眠りを誘う声。
『――争いは、終わったのです』
『――苦しみも、悲しみも、ここにはない』
『――さあ、すべてを捨てて、我らと、一つに……』
声と共に、白い空間のあちこちから、フードを被った、のっぺらぼうの人影が、無数に、滲み出してくる。それは、ゼロの鎮魂歌によって「救済」された、人々の魂の成れの果て。彼らは、敵意も、悪意も持たない。ただ、玲とアカリを、その安寧なる「無」の中へと、手招きしていた。
その手招きは、抗いがたい、甘美な誘惑だった。
もう、戦わなくていい。苦しまなくていい。楽になれる。
玲の意識が、その誘惑に、ふらり、と、引き寄せられそうになる。
「目を覚ませ、玲!」
アカリの、鋼のような意志が、玲の魂を、現実に引き戻した。
彼女は、玲の前に立ち、右腕を、高々と掲げる。
「――お前たちの安物な安らぎなど、我々には、不要だ!」
金の継ぎ目が、閃光を放った。
黄金の光が、津波のように、二人を中心として、四方八方へと広がっていく。
白い人影たちは、その聖なる光に触れた途端、まるで、朝霧が日に溶けるように、静かに、霧散していった。
アカリが作り出した、黄金の光の聖域。それは、ゼロの哲学に対する、明確な「否」。
不完全であること。傷つくこと。それでも、生きようと、もがくこと。そのすべてを、肯定する光だった。
『……邪魔、だ』
初めて、ゼロの声に、明確な「感情」が混じった。
苛立ち。
白い空間の、遥か彼方。その中心に、巨大な、黒い塔が出現した。天まで届くかのような、漆黒の塔。あれが、ゼロの意識の、中枢。
『我が、大いなる調和を乱す、不協和音め』
黒い塔から、凄まじい、絶望の波動が、放たれる。それは、先ほどまでの、甘い誘惑などではなかった。純粋な、魂を圧し潰すための、暴力的なまでの、精神的な重圧。
アカリが展開した、黄金の聖域が、その圧力に、みしみしと、軋みを上げる。
「くっ……!」
アカリの口から、苦悶の声が漏れる。彼女の額に、玉のような汗が浮かんでいた。
「アカリ!」
「問題、ない……! だが、長くは、もたない! 行け、玲! あの塔の、中心へ! 私が、こじ開ける!」
アカリは、絶叫すると、防御していた黄金の光を、一本の、巨大な、光の槍へと収束させた。
そして、それを、黒い塔へと、放つ。
「私の完璧を、なめるなァッ!」
黄金の光の槍が、黒い塔の、堅固な外壁に、突き刺さった。
塔全体が、激しく、揺れる。壁面に、蜘蛛の巣のような、亀裂が走った。
ほんの、一瞬だけ、塔の内部へと続く、道が、開いた。
「行けえええええええッ!」
アカリの、血を吐くような、叫び声。
玲は、その一瞬を、逃さなかった。
彼は、アカリが作ってくれた、その光の道を、一人の、信じてくれるパートナーの想いを、その背中に受けて、ただ、ひたすらに、走った。
目指すは、闇の中心。
たった一つの、歌を、届けるために。
たった一人の、泣いている、魂を、救うために。
黒い塔の内部は、迷宮だった。
無限に続くかのような、ねじれた回廊。上下の感覚さえも、曖昧になる、歪んだ空間。壁も、床も、すべてが、ゼロの絶望を映し出すかのように、脈動する、黒い水晶でできていた。
玲は、ただ、走った。
アカリが、外で、命を懸けて、この道を守ってくれている。一秒たりとも、無駄にはできない。
彼の魂のコンパスが、この迷宮の、たった一つの、中心点を、指し示していた。
やがて、彼は、開けた場所に辿り着いた。
そこは、塔の、最上階。玉座の間だった。
部屋の中央に、黒い水晶でできた、巨大な玉座が鎮座している。
そして、そこに、一人の青年が、座っていた。
黒い、シンプルな衣服に身を包み、その顔には、何の表情も浮かんでいない。ただ、その瞳だけが、宇宙の深淵を思わせるような、絶対的な虚無の色をしていた。
ゼロ。
いや――ハル・ミナト。
『……来たか。不純物』
ハルの声は、感情の乗らない、平坦なものだった。
『我が、完璧なる静寂を乱す、最後の、不協和音よ』
「君は、ゼロじゃない。ハル・ミナトだ」
玲は、息を切らしながらも、まっすぐに、彼を見つめて、言った。
『その名は、捨てた。あれは、不完全だった、過去の私だ。私は、あの愚かな過ちを超え、完全なる調和と、一つになった』
「違う! 君は、ただ、悲しみに、飲み込まれてしまっただけだ! 孤独に、耐えきれなくなってしまっただけじゃないか!」
玲の叫びに、ハルの、虚無の瞳が、わずかに、揺らいだ。
『……黙れ』
凄まじい、精神的な圧力が、玲を襲う。だが、玲は、もう、怯まなかった。
彼は、そっと、目を閉じた。
そして、彼が、この数日間、ナギと共に、作り上げてきた、あの「歌」を、自らの魂、そのすべてを懸けて、奏で始めた。
それは、音のない、歌だった。
玲の魂から、直接、ハルの魂へと、届けられる、記憶のメロディー。
それは、ハルが、まだ、ハルだった頃の、記憶。
――初めて、補助輪なしで、自転車に乗れた日の、高揚感。
――友達と、他愛ないことで笑い合った、放課後の教室。
――雨上がりの、虹の美しさに、ただ、感動した、幼い日の心。
――そして、誰かの孤独を、本気で、救いたいと願った、あの、純粋で、青い、理想の輝き。
一つ一つの、不完全で、ちっぽけで、しかし、かけがえのない、美しい記憶。
それが、優しい旋律となって、ハルの、絶望の鎧に、染み込んでいく。
『……やめろ』
ハルの顔が、初めて、苦痛に歪んだ。
『その、ガラクタのような思い出を、見せるな。それは、私が、捨てた、弱さだ』
黒い玉座から、無数の、茨のような触手が伸び、玲を、貫こうとする。
だが、玲は、歌うのを、やめなかった。
彼は、最後の、フレーズを、奏でる。
それは、アリスガワ博士から、聞いた、記憶。
――ハルが、生まれた日。彼女が、初めて、その小さな手を、握りしめた時の、温もり。
「君は、一人じゃなかった。ずっと、君を愛している人が、いたんだよ」
その瞬間。
ハルの、虚無の瞳から、一筋、黒い涙が、こぼれ落ちた。
絶望の鎧に、亀裂が、入った。
『……ああ……あああああああああああああああっ!』
ハルが、絶叫する。彼の身体から、黒いオーラが、嵐のように、吹き荒れる。塔全体が、崩壊を始めたかのように、激しく、揺れた。
黒い茨が、玲の、すぐ、目の前まで迫っていた。
もう、ダメか。
そう思った、その時。
玲の背後の空間が、裂けた。
そして、そこから、黄金の光をまとった、アカリが、現れた。
彼女は、自らが放った光の道を、逆流し、玲の元へと、辿り着いたのだ。
「……間に合った、ようだな」
ボロボロになりながらも、彼女は、不敵に、笑った。
そして、玲の隣に立つと、ハルを、まっすぐに見据える。
「ハル・ミナト。君の気持ちは、分かる。完璧でありたいと願い、そして、その完璧さに、絶望した。……私も、同じだったから」
彼女は、自らの右腕を、ハルへと、差し出した。
金の継ぎ目が、優しい光を放っている。
「だが、見てみろ。私は、この傷のおかげで、前よりも、ずっと、強くなれた。不完全さは、弱さじゃない。誰かと、繋がり、支え合うための、可能性だ」
アカリの言葉が、そして、玲の歌が、ハルの、固く閉ざされた魂の扉を、こじ開けていく。
黒いオーラが、少しずつ、その色を、薄れさせていく。
ハルの瞳に、虚無ではない、人間の、苦悩の色が、戻ってきた。
『……ぼくは……どうすれば……』
「一緒に、帰ろう」
玲が、彼に、手を差し伸べた。
「君の居場所は、こんな、寂しい場所じゃないはずだ」
ハルが、おそるおそる、その手を、取ろうとした、その瞬間。
彼の背後の、空間が、さらに、深く、黒く、歪んだ。
そして、そこから、真の『絶望』が、その姿を、現した。
それは、Mシステムの深淵に潜んでいた、『虚無』そのもの。ゼロを生み出した、元凶。
それは、もはや、特定の形を持たない、ただ、すべてを飲み込み、すべてを無に帰す、巨大な、黒い、混沌の渦だった。
『――我が器ヲ、返セ』
混沌の渦が、ハルを、再び、飲み込もうとする。
「させるか!」
アカリが、最後の力を振り絞り、金の光の壁を展開する。
だが、相手は、あまりにも、強大すぎた。光の壁が、いとも容易く、砕け散っていく。
もはや、これまでか。
誰もが、そう思った、その時。
「――まだだ」
声がした。
ハルの声だった。
彼は、玲とアカリの前に、立ちはだかっていた。その瞳には、もう、迷いはなかった。
「……ありがとう、二人とも。君たちのおかげで、僕は、思い出した。僕が、本当に、したかったことを」
彼は、優しく、微笑んだ。
そして、自らの胸に、そっと、手を当てる。
「僕の過ちは、僕自身で、終わらせる。……さよならだ、僕の、愛した世界」
ハルの身体が、まばゆい、白い光に、変わっていく。
彼は、自らの魂、そのすべてを、暴走する『虚無』を、この空間ごと、封印するための、最後の、鍵とするつもりだった。
「ダメだ、ハル君!」
玲が、叫ぶ。
だが、もう、遅かった。
白い光が、すべてを、飲み込んでいく。
「……君たちに、出会えて、よかった」
最後に、そう、聞こえた気がした。