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金継ぎのアルケミスト   作者: Gにゃん
-砕かれた魂の在処-
7/12

第六章:反撃の狼煙(のろし)


 旧第7研究所の崩壊から、五日が過ぎた。

 玲とアカリは、公安局本部の特別医療棟にいた。玲は、精神的な消耗を回復するためのメディカル・スリープから、つい先ほど目覚めたばかり。アカリは、背中に負った熱傷と打撲の治療を終え、真新しい制服に身を包んでいた。

 病室の窓からは、完璧な青空が広がる、いつもの新京都の風景が見えた。あの地下での死闘が、まるで嘘だったかのように、都市は、何事もなかったかのように、完璧な日常を繰り返している。

「……身体の調子はどうだ」

 アカリが、ベッドに腰掛けたままの玲に、静かに尋ねた。

「うん、もう大丈夫。君こそ、背中の傷は……」

「問題ない。私の義体は、君と違って、スペアが効く」

 彼女は、ぶっきらぼうにそう言ったが、その声には、以前のような棘はなかった。むしろ、どこか、冗談を言っているような、穏やかな響きさえあった。

 二人の間に、気まずい沈黙が流れる。

 あの崩落の中、アカリが玲をかばい、強く抱きしめた、あの瞬間の記憶が、お互いの脳裏に蘇る。あれ以来、二人は、どうにも、互いの顔をまともに見ることができなかった。

 その空気を破ったのは、病室の扉を開けて入ってきた、セキネ部長だった。

「目が覚めたか、継実君。そして、アカリ君、今回もご苦労だった」

 セキネは、疲れた顔をしていたが、その目は、二人への、確かな信頼に満ちていた。

「君たちが持ち帰ったデータは、我々の専門チームが、総力を挙げて解析している。ナギ君の言う通り、それは、十年前に死亡したとされる、Mシステムの主任研究員――ハル・ミナトという青年の、オリジナルの魂のデータで、間違いないようだ」

 ハル・ミナト。

 それが、ゼロの、元の名だった。

「我々は、これを、『オリジン・コード』と名付けた。ゼロを無力化するための、我々の、唯一の希望だ。だが……」

 セキネは、そこで、言葉を切った。

「問題は、これを、どう使うかだ。奴は、今や、ネットワークのあらゆる場所に偏在する、神のような存在だ。物理的に、このデータを撃ち込めるような相手ではない」

「……一つ、方法があります」

 静かに聞いていたアカリが、口を開いた。

「私たちが、もう一度、VR空間にダイブします。そして、ゼロの意識の、中枢へと、直接、この『オリジン・コード』を送り込むのです」

「危険すぎる! 奴は、君たちの侵入を、今度こそ、全力で阻んでくるだろう。それに、どうやって、奴の中枢を見つけ出す?」

「見つけ出せます」

 アカリは、自らの右腕に走る、金の継ぎ目に、そっと触れた。

「この腕が、覚えています。ゼロの魂の『色』を。玲の力を借りれば、ネットワークという広大な海の中からでも、奴の居場所を、見つけ出せるはずです」

 それは、あまりにも、大胆で、無謀な作戦だった。

 だが、セキネは、アカリの、そして、その隣で、静かに、しかし力強く頷く玲の顔を見て、やがて、大きく、息を吐いた。

「……分かった。君たちに、すべてを賭けよう。準備が整い次第、作戦を開始する」

 その日の午後。玲とアカリは、ナギと共に、公安局の最深部にある、機密ラボにいた。

「オリジン・コードを、ただ、ぶつけるだけじゃ、ダメだ」

 玲は、ディスプレイに表示された、美しい光の螺旋――ハル・ミナトの魂のデータを見ながら、言った。

「ゼロの魂は、強力な、絶望の鎧に覆われている。無理やりこじ開けようとすれば、彼の魂そのものが、完全に、消滅してしまうかもしれない」

「では、どうするんだい?」

 ナギの問いに、玲は、答える。

「……歌を、作るんだ」

「歌?」

「うん。この、ハルさんの魂のデータを、楽譜にするんだ。彼が、本当は、どんなに優しくて、どんなに、世界を愛していたか。その想いを、メロディーにする。そして、僕の『魂継ぎ』の力で、その歌を、ゼロの魂に、直接、届けるんだ。戦うんじゃない。思い出させるんだ。君は、本当は、こんなにも、美しい魂を持っていたんだよ、って」

それは、技術者でも、軍人でもない、修復師である玲だからこそ、辿り着ける、あまりにも、優しすぎる作戦だった。

アカリは、その作戦を、黙って聞いていた。そして、静かに、頷いた。

「……分かった。ならば、私が、君とその『歌』を、ゼロの心臓部まで、送り届ける。どんな妨害があろうと、必ず」

 その時だった。

 ラボ全体が、突如、激しい揺れに見舞われた。

『緊急警報! 緊急警報! 新京都の全域で、大規模な、精神汚染が、発生!』

 壁のモニターが、一斉に、都市の監視映像を映し出す。

 だが、その光景は、玲たちが今まで見てきた『破砕』とは、明らかに、異なっていた。

 人々は、暴徒化していない。ただ、街中の、すべての人間が、ぴたり、と、動きを止めている。そして、天を仰いでいた。

 都市の空を覆う、合成空シンセティック・スカイが、いつもの完璧な青色から、深く、沈んだ、鉛色へと、変わっていた。

 そして、その空から、静かな、静かな、雨のようなメロディーが、降り注いでいた。

 それは、聞く者の、生きる気力、そのすべてを、根こそぎ奪っていくような、あまりにも、物悲しい、絶望の旋律。

『――聞こえるかい』

 都市の、すべてのスピーカーから、ゼロの声が、直接、響き渡った。

『――これが、我が鎮魂歌レクイエム。これが、真の救済。痛みも、苦しみも、喜びさえもない、完全なる調和。完全なる『無』。さあ、すべての不完全なる者たちよ。我が腕の中で、永遠の眠りにつきなさい』

 ゼロが、動いたのだ。

 玲たちが、最後の希望を手にしたことを知り、彼は、もはや、隠れることをやめた。

 都市、そのもの。そこに生きる、数千万の魂、そのすべてを、道連れにするために。

 モニターの向こうで、人々が、糸の切れた人形のように、一人、また一人と、その場に、崩れ落ちていく。

 玲とアカリは、その、あまりにも、静かで、美しい、終末の光景を、息を呑んで、見つめていた。

 残された時間は、もう、ない。

 二人の、都市の魂を賭けた、最後の戦いが、今、始まろうとしていた。

「……行くぞ、玲」

アカリの声は、極限の緊張の中にあって、凪いだ海のように、静かだった。

「うん」

玲も、短く、しかし、力強く応える。

もはや、迷っている時間はない。一秒、また一秒と、都市の魂が、死へと近づいていく。

二人は、ラボに設置された、最新鋭のダイブ装置へと、同時に、その身を滑り込ませた。

セキネや、他の局員たちが、固唾を飲んで見守っている。だが、その声は、もう、二人には届かない。

彼らの意識は、最後の戦場へと、解き放たれた。

光。

音。

匂い。

そのすべてが、なかった。

玲とアカリが降り立ったのは、果てしない、白一色の空間だった。どこまでも見渡せる、地平線のない、無。

だが、それは、空っぽなのではない。むしろ、逆だった。あまりにも、完璧に、すべてが「無」という情報で、満たされている。

天と地の区別もなく、ただ、静寂だけが、支配する世界。

ゼロの、魂の深層。完全なる調和を求める、彼の理想が作り上げた、巨大な、白亜の聖堂。

『――還りなさい』

どこからともなく、声が響く。それは、男の声でも、女の声でもない。ただ、ひたすらに、安らかな、眠りを誘う声。

『――争いは、終わったのです』

『――苦しみも、悲しみも、ここにはない』

『――さあ、すべてを捨てて、我らと、一つに……』

声と共に、白い空間のあちこちから、フードを被った、のっぺらぼうの人影が、無数に、滲み出してくる。それは、ゼロの鎮魂歌によって「救済」された、人々の魂の成れの果て。彼らは、敵意も、悪意も持たない。ただ、玲とアカリを、その安寧なる「無」の中へと、手招きしていた。

その手招きは、抗いがたい、甘美な誘惑だった。

もう、戦わなくていい。苦しまなくていい。楽になれる。

玲の意識が、その誘惑に、ふらり、と、引き寄せられそうになる。

「目を覚ませ、玲!」

アカリの、鋼のような意志が、玲の魂を、現実に引き戻した。

彼女は、玲の前に立ち、右腕を、高々と掲げる。

「――お前たちの安物チープな安らぎなど、我々には、不要だ!」

金の継ぎ目が、閃光を放った。

黄金の光が、津波のように、二人を中心として、四方八方へと広がっていく。

白い人影たちは、その聖なる光に触れた途端、まるで、朝霧が日に溶けるように、静かに、霧散していった。

アカリが作り出した、黄金の光の聖域サンクチュアリ。それは、ゼロの哲学に対する、明確な「ノー」。

不完全であること。傷つくこと。それでも、生きようと、もがくこと。そのすべてを、肯定する光だった。

『……邪魔、だ』

初めて、ゼロの声に、明確な「感情」が混じった。

苛立ち。

白い空間の、遥か彼方。その中心に、巨大な、黒い塔が出現した。天まで届くかのような、漆黒の塔。あれが、ゼロの意識の、中枢。

『我が、大いなる調和を乱す、不協和音め』

黒い塔から、凄まじい、絶望の波動が、放たれる。それは、先ほどまでの、甘い誘惑などではなかった。純粋な、魂を圧し潰すための、暴力的なまでの、精神的な重圧。

アカリが展開した、黄金の聖域が、その圧力に、みしみしと、軋みを上げる。

「くっ……!」

アカリの口から、苦悶の声が漏れる。彼女の額に、玉のような汗が浮かんでいた。

「アカリ!」

「問題、ない……! だが、長くは、もたない! 行け、玲! あの塔の、中心へ! 私が、こじ開ける!」

アカリは、絶叫すると、防御していた黄金の光を、一本の、巨大な、光の槍へと収束させた。

そして、それを、黒い塔へと、放つ。

「私の完璧すべてを、なめるなァッ!」

黄金の光の槍が、黒い塔の、堅固な外壁に、突き刺さった。

塔全体が、激しく、揺れる。壁面に、蜘蛛の巣のような、亀裂が走った。

ほんの、一瞬だけ、塔の内部へと続く、道が、開いた。

「行けえええええええッ!」

アカリの、血を吐くような、叫び声。

玲は、その一瞬を、逃さなかった。

彼は、アカリが作ってくれた、その光の道を、一人の、信じてくれるパートナーの想いを、その背中に受けて、ただ、ひたすらに、走った。

目指すは、闇の中心。

たった一つの、歌を、届けるために。

たった一人の、泣いている、魂を、救うために。

黒い塔の内部は、迷宮だった。

無限に続くかのような、ねじれた回廊。上下の感覚さえも、曖昧になる、歪んだ空間。壁も、床も、すべてが、ゼロの絶望を映し出すかのように、脈動する、黒い水晶でできていた。

玲は、ただ、走った。

アカリが、外で、命を懸けて、この道を守ってくれている。一秒たりとも、無駄にはできない。

彼の魂のコンパスが、この迷宮の、たった一つの、中心点を、指し示していた。

やがて、彼は、開けた場所に辿り着いた。

そこは、塔の、最上階。玉座の間だった。

部屋の中央に、黒い水晶でできた、巨大な玉座が鎮座している。

そして、そこに、一人の青年が、座っていた。

黒い、シンプルな衣服に身を包み、その顔には、何の表情も浮かんでいない。ただ、その瞳だけが、宇宙の深淵を思わせるような、絶対的な虚無の色をしていた。

ゼロ。

いや――ハル・ミナト。

『……来たか。不純物ノイズ

ハルの声は、感情の乗らない、平坦なものだった。

『我が、完璧なる静寂を乱す、最後の、不協和音よ』

「君は、ゼロじゃない。ハル・ミナトだ」

玲は、息を切らしながらも、まっすぐに、彼を見つめて、言った。

『その名は、捨てた。あれは、不完全だった、過去の私だ。私は、あの愚かな過ちを超え、完全なる調和と、一つになった』

「違う! 君は、ただ、悲しみに、飲み込まれてしまっただけだ! 孤独に、耐えきれなくなってしまっただけじゃないか!」

玲の叫びに、ハルの、虚無の瞳が、わずかに、揺らいだ。

『……黙れ』

凄まじい、精神的な圧力が、玲を襲う。だが、玲は、もう、怯まなかった。

彼は、そっと、目を閉じた。

そして、彼が、この数日間、ナギと共に、作り上げてきた、あの「歌」を、自らの魂、そのすべてを懸けて、奏で始めた。

それは、音のない、歌だった。

玲の魂から、直接、ハルの魂へと、届けられる、記憶のメロディー。

それは、ハルが、まだ、ハルだった頃の、記憶。

――初めて、補助輪なしで、自転車に乗れた日の、高揚感。

――友達と、他愛ないことで笑い合った、放課後の教室。

――雨上がりの、虹の美しさに、ただ、感動した、幼い日の心。

――そして、誰かの孤独を、本気で、救いたいと願った、あの、純粋で、青い、理想の輝き。

一つ一つの、不完全で、ちっぽけで、しかし、かけがえのない、美しい記憶。

それが、優しい旋律となって、ハルの、絶望の鎧に、染み込んでいく。

『……やめろ』

ハルの顔が、初めて、苦痛に歪んだ。

『その、ガラクタのような思い出を、見せるな。それは、私が、捨てた、弱さだ』

黒い玉座から、無数の、茨のような触手が伸び、玲を、貫こうとする。

だが、玲は、歌うのを、やめなかった。

彼は、最後の、フレーズを、奏でる。

それは、アリスガワ博士から、聞いた、記憶。

――ハルが、生まれた日。彼女が、初めて、その小さな手を、握りしめた時の、温もり。

「君は、一人じゃなかった。ずっと、君を愛している人が、いたんだよ」

その瞬間。

ハルの、虚無の瞳から、一筋、黒い涙が、こぼれ落ちた。

絶望の鎧に、亀裂が、入った。

『……ああ……あああああああああああああああっ!』

ハルが、絶叫する。彼の身体から、黒いオーラが、嵐のように、吹き荒れる。塔全体が、崩壊を始めたかのように、激しく、揺れた。

黒い茨が、玲の、すぐ、目の前まで迫っていた。

もう、ダメか。

そう思った、その時。

玲の背後の空間が、裂けた。

そして、そこから、黄金の光をまとった、アカリが、現れた。

彼女は、自らが放った光の道を、逆流し、玲の元へと、辿り着いたのだ。

「……間に合った、ようだな」

ボロボロになりながらも、彼女は、不敵に、笑った。

そして、玲の隣に立つと、ハルを、まっすぐに見据える。

「ハル・ミナト。君の気持ちは、分かる。完璧でありたいと願い、そして、その完璧さに、絶望した。……私も、同じだったから」

彼女は、自らの右腕を、ハルへと、差し出した。

金の継ぎ目が、優しい光を放っている。

「だが、見てみろ。私は、この傷のおかげで、前よりも、ずっと、強くなれた。不完全さは、弱さじゃない。誰かと、繋がり、支え合うための、可能性だ」

アカリの言葉が、そして、玲の歌が、ハルの、固く閉ざされた魂の扉を、こじ開けていく。

黒いオーラが、少しずつ、その色を、薄れさせていく。

ハルの瞳に、虚無ではない、人間の、苦悩の色が、戻ってきた。

『……ぼくは……どうすれば……』

「一緒に、帰ろう」

玲が、彼に、手を差し伸べた。

「君の居場所は、こんな、寂しい場所じゃないはずだ」

ハルが、おそるおそる、その手を、取ろうとした、その瞬間。

彼の背後の、空間が、さらに、深く、黒く、歪んだ。

そして、そこから、真の『絶望』が、その姿を、現した。

それは、Mシステムの深淵に潜んでいた、『虚無』そのもの。ゼロを生み出した、元凶。

それは、もはや、特定の形を持たない、ただ、すべてを飲み込み、すべてを無に帰す、巨大な、黒い、混沌の渦だった。

『――我が器ヲ、返セ』

混沌の渦が、ハルを、再び、飲み込もうとする。

「させるか!」

アカリが、最後の力を振り絞り、金の光の壁を展開する。

だが、相手は、あまりにも、強大すぎた。光の壁が、いとも容易く、砕け散っていく。

もはや、これまでか。

誰もが、そう思った、その時。

「――まだだ」

声がした。

ハルの声だった。

彼は、玲とアカリの前に、立ちはだかっていた。その瞳には、もう、迷いはなかった。

「……ありがとう、二人とも。君たちのおかげで、僕は、思い出した。僕が、本当に、したかったことを」

彼は、優しく、微笑んだ。

そして、自らの胸に、そっと、手を当てる。

「僕の過ちは、僕自身で、終わらせる。……さよならだ、僕の、愛した世界」

ハルの身体が、まばゆい、白い光に、変わっていく。

彼は、自らの魂、そのすべてを、暴走する『虚無』を、この空間ごと、封印するための、最後の、鍵とするつもりだった。

「ダメだ、ハル君!」

玲が、叫ぶ。

だが、もう、遅かった。

白い光が、すべてを、飲み込んでいく。

「……君たちに、出会えて、よかった」

最後に、そう、聞こえた気がした。


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