第五章:Mシステムの亡霊
玲たちが持ち帰った「Mシステム」というキーワードは、セキネを深く沈黙させた。
公安局のデータベースをもってしても、そのプロジェクトの全容を掴むことはできなかった。あまりにも高度な機密指定。そして、意図的に分散、あるいは破壊されたかのような、情報の欠落。分かったのは、それが十年前に凍結された、国家主導の脳科学プロジェクトであったという事実だけ。
「……これ以上は、我々の権限では追えない。だが、一つだけ、手掛かりがある」
数日後、セキネは、重々しく言った。
「プロジェクトの最高責任者だった、天才科学者。ドクター・アリスガワ。彼女だけが、Mシステムのすべてを知っているはずだ」
「その人物は、今どこに?」
アカリの問いに、セキネは苦い顔で答えた。
「プロジェクトが凍結された後、彼女は、すべてを捨てて表舞台から姿を消した。今は、都市の喧騒から離れた、旧沿岸部の居住区で、世捨て人のような暮らしを送っている、と聞く」
玲とアカリが乗った、一台の民間仕様の車両は、新京都のきらびやかな中心部を離れ、旧沿岸部へと向かっていた。
窓の外の風景は、進むにつれて、その色を失っていく。空を覆っていたホログラムの広告は消え、灰色で、継ぎはぎだらけの本物の空が姿を現す。ガラスとクロームでできた摩天楼は、風化したコンクリートの低層住宅へと変わっていった。
ここは、都市のアップデートから、取り残された場所。
まるで、玲の工房が、そのまま街になったかのような、どこか懐かしく、そして物悲しい空気が漂っていた。
「……不思議な場所だな」
アカリが、ぽつりと呟いた。
「ここにも、人は住んでいる。ギガウェアを装着している者も、ほとんどいない」
「完璧じゃなくても、生きていける。そういう人たちも、いるってことだよ」
玲は、静かに答えた。
やがて、車は、目的地の前に停まった。
海を見下ろす、小高い丘の上に立つ、一軒の古い洋館。かつては美しかったであろうその建物は、今は、潮風に晒され、壁の至る所に蔦が絡まっている。
二人が車を降りると、磯の香りが、ふわりと鼻をかすめた。
玲とアカリは、視線を交わし、覚悟を決めると、その洋館の、重い木の扉をノックした。
長い沈黙の後、ぎい、と、錆びついた蝶番の音を立てて、扉が、わずかに開いた。
隙間から覗いたのは、白衣を着た、初老の女性だった。
その顔には、深い疲労と、諦観が刻まれている。だが、その瞳の奥には、かつて天才と呼ばれた知性の光が、消し炭のように、まだ、燻っていた。
「……公安の犬か。十年経っても、まだ、あのシステムの亡霊を追っているのかね」
女性――ドクター・アリスガワは、吐き捨てるように言った。
「お前たちに、話すことなど、何もない。帰りなさい」
そう言って、彼女が扉を閉めようとした、その時。
アリスガワの視線が、アカリの右腕に、釘付けになった。
服の袖から、わずかに覗いていた、金の継ぎ目に。
「……その腕は……」
アリスガワの声が、震えていた。その表情は、驚愕と、そして、まるで長年待ち続けた何かに出会ったかのような、複雑な色を帯びていた。
「まさか……。君は……『彼』の……?」
彼女は、扉を、ゆっくりと、大きく開いた。
「……入りなさい。すべての始まりと、そして、終わりの話を、してあげよう」
洋館の中に、玲とアカリを招き入れたアリスガワの瞳には、深い悲しみと、そして、玲にはまだ理解できない、ある種の「覚悟」が宿っているように見えた。
ドクター・アリスガワは、二人を、書物と古い機材が山のように積まれた、薄暗い書斎へと通した。彼女は、埃をかぶった椅子に腰を下ろすと、まるで古い記録映像を再生するかのように、静かに語り始めた。
「Mシステム……。あれは、人類の夢だった。言語や文化の壁を超え、人々の意識を直接繋ぎ、真の相互理解を実現する……。私たちは、本気でそう信じていた」
彼女の目は、遠い過去を見ていた。
「プロジェクトには、私を含め、国中から最高の頭脳が集められた。その中でも、一人の、ずば抜けた天才がいた。私の、一番弟子だった青年よ。彼は、誰よりも純粋で、誰よりも、人の孤独を憎んでいた」
アリスガワの語るその青年は、玲やアカリが追う、冷酷なテロリスト『ゼロ』のイメージとは、かけ離れていた。彼は、Mシステムを使えば、孤独に苦しむ人々を、その魂の根本から救えると信じていたのだという。
「彼は、研究の最終段階で、自らを被験者として、システムの深淵へとダイブした。人類史上、最も深く、魂の根源に触れる旅だった。だが……そこで、事故は起きた」
アリスガワの声が、苦痛に歪む。
「彼の意識が、システムの最深部にあった、正体不明の『何か』に接触した。それは、宇宙の始まりから存在していた、純粋な情報の虚無だったのか、あるいは、システムに繋がれた、無数の被験者たちの、無意識の絶望が凝り固まったものだったのか……。今となっては、誰にも分からない。分かっているのは、ただ一つ。彼の魂は、その『虚無』に飲み込まれ、そして、根源から『反転』してしまったということ」
彼女の一番弟子は、帰ってこなかった。代わりに、システムの中から生まれたのは、あらゆる理想を嘲笑い、不完全な魂の救済として「破砕」を振りまく、虚無の使者。
それが、『ゼロ』の誕生だった。
「……彼の暴走を恐れた上層部は、プロジェクトのすべてを封印した。Mシステムの中枢サーバーは、今も、都市の地下深くにある、旧第7研究所に、物理的に隔離されている。そこには、彼が『ゼロ』になる前の……彼の、オリジナルの魂のデータが、まだ、眠っているはず」
アリスガワは、そこで、初めて、アカリの目を、そして、彼女の腕の金の継ぎ目を、まっすぐに見た。
「その腕は……玲君、君の力は、おそらく、Mシステムの理論の、その先にあるものだ。だから、あの子の呪いに干渉できた。もし、君たちの力と、彼の『オリジナルデータ』があれば……あるいは、ゼロを止められるかもしれない。いいえ、彼を……元の彼に、戻してやれるかもしれない」
それは、師として、そして、母親のように彼を愛した一人の女の、十年来の、悲痛な願いだった。
アリスガワから、封印された研究所の座標と、旧式のセキュリティデータを受け取った玲とアカリは、その足で、都市の地下へと向かった。
旧第7研究所は、新京都の華やかなインフラ網から完全に切り離された、巨大な地下空洞の底に、墓標のように、静まり返っていた。
「……ここが」
分厚い防爆扉の前に立ち、玲は息を呑んだ。空気は冷たく、湿っている。まるで、古代遺跡のようだ。
「セキュリティは、旧式だが、今も生きている。電源も、最低限のものが、自家発電で供給されているようだ。私が、電子ロックを解除する。君は、周囲の『声』に警戒してくれ。ここには、良い記憶は、眠っていないはずだ」
アカリは、そう言うと、携帯端末を防爆扉のコンソールに接続し、凄まじい速度でコーディングを始めた。数分後、重いロックが解除される音が、空洞に響き渡る。
二人は、暗く、冷たい、研究所の内部へと、足を踏み入れた。
内部は、死の世界だった。
非常灯の赤い光が、長い廊下を、不気味に照らし出している。壁には、正体不明の液体が染み付いた跡。床には、散乱したままの研究資料。そして、何よりも、玲の肌を刺すのは、この空間全体に満ちている、濃密な「思念の残滓」。
苦痛、絶望、狂気。十年前に、ここで起きた大事故の記憶が、壁や床に、染み付いている。
「……頭が、痛い……」
玲は、こめかみを押さえた。普通の人間には感じられない、魂の悲鳴が、彼の精神を直接、削ってくる。
「しっかりしろ、玲!」
アカリが、彼の腕を掴む。そして、彼女は、自らの右腕を、玲の前にかざした。金の継ぎ目が、淡い光を放ち、玲を包むように、穏やかな防御フィールドを展開する。
「私の『光』で、ノイズを中和する。私から、離れるな」
金の光に守られ、玲の痛みは、和らいだ。これが、彼女の新しい力。そして、二人の新しい戦い方。
その時だった。
廊下の天井から、カシャ、という、無機質な作動音がした。
見上げると、そこには、埃をかぶった、旧式の監視ドローンが、その赤いセンサーを、二人に向けていた。
『……侵入者ヲ、確認。排除スル』
ドローンの下部から、銃口が突き出る。
「伏せろ!」
アカリが叫ぶのと、銃弾が放たれるのは、同時だった。二人は、物陰に身を隠す。けたたましい銃声が、静寂を切り裂いた。
「旧式だが、数は多いぞ!」
廊下の四方八方から、次々と、監視ドローンが姿を現す。赤いセンサーライトが、無数に、二人を捉えていた。
アカリは、腰のホルスターから、公安局の制式拳銃を引き抜いた。
「玲、私が、道を作る。君は、サーバー室の方向を探れ!」
「うん!」
アカリが、物陰から飛び出し、正確無比な射撃で、ドローンを次々と撃ち落としていく。その援護を受けながら、玲は、意識を集中させた。
アリスガワが言っていた、ゼロの「オリジナルデータ」。その魂の痕跡を、この絶望の迷宮の中から、探し出す。
玲の魂のコンパスが、施設の、さらに奥深くを、指し示していた。
「……あっちだ!」
二人は、銃弾と、魂の悲鳴が渦巻く、死の研究所の深淵へと、突き進んでいった。
アカリの正確な射撃が、最後のドローンのセンサーを撃ち抜いた。甲高い断末魔のような音を立てて、機械の残骸が床に落ちる。
束の間の静寂。だが、玲の背筋を走る悪寒は、一向に消えなかった。むしろ、施設の奥へ進むほど、そのプレッシャーは増していく。まるで、水圧が強まる深海に、ゆっくりと沈んでいくかのように。
「どうした? 敵の反応はもうないはずだ」
銃口を構えたまま、アカリが玲に尋ねる。
「物理的な敵はね。でも……この先は、もっと、まずい。十年分の絶望が、澱のように溜まってる」
二人が辿り着いたのは、巨大なドーム状の空間だった。かつて、Mシステムの被験者たちが、集団でVR空間へダイブしていたメインルームだろう。壁際には、何十台もの、旧式のダイブ装置が、まるで墓石のように、整然と並んでいる。
そして、その部屋の中央には、天へと続くかのような、巨大な円筒形のサーバーラックが鎮座していた。あれが、Mシステムの中枢サーバー。彼らの目的地だ。
だが、そこへ至る道は、玲の目には、無数の「地雷」で埋め尽くされているように見えた。
「アカリ、止まって」
玲は、一歩踏み出そうとしたアカリの腕を掴んだ。
「そこから先、足元に気をつけて。僕が言う通りに、歩いて」
「……何があるというんだ」
「声がする。恐怖の、声が。十年前に、ここで死んでいった人たちの、魂の断末魔が、シミみたいに残ってるんだ。あれに触れたら、僕らも、飲まれる」
アカリは、玲の言葉に、一瞬、眉をひそめた。だが、彼女は、何も言わずに頷いた。この異常な空間では、自分の常識よりも、この男の、常識外れの感覚を信じるべきだと、彼女は、既に学んでいた。
「……右に、一歩。……そう。次は、左斜め前に、二歩。……そこは、ダメだ。誰かが、狂って、自分の頭をかきむしった場所だ。絶望が、まだ、渦を巻いてる」
玲は、まるで、見えない迷路を進むように、アカリを導いていく。アカリは、彼の指示に、寸分の狂いもなく従った。一歩、また一歩と、サーバーへと近づいていく。
その時だった。
アカリのすぐ左隣の空間が、ぐにゃり、と陽炎のように歪んだ。
そして、そこに、忽然と、泣き叫ぶ子供の幻影が現れた。
『ママ、怖いよ! 頭の中に入ってくる!』
「!?」
アカリは、咄嗟に銃を構える。だが、玲が叫んだ。
「撃つな! ただの記憶の残滓だ! 触れなければ、害は……」
玲の言葉が終わる前に、子供の幻影が、アカリに、その小さな手を伸ばしてきた。
その指先が、アカリの腕に触れた瞬間、彼女の脳内に、凄まじい恐怖と混乱が流れ込んできた。視界が、ノイズの嵐に覆われる。目の前にいるはずの玲の姿が、ぐにゃりと歪み、恐ろしい『破砕者』の姿へと変わって見えた。
「……っ!」
トラウマが、蘇る。オリオンタワーでの、あの絶望的な感覚。
だが、今のアカリは、あの時の彼女ではなかった。
「――私の魂に、馴れ馴れしく触るな!」
彼女は、自らの右腕を、幻影と自分との間に突き入れた。金の継ぎ目が、強い意志に応えるように、まばゆい光を放つ。黄金の光の壁が、幻影を、そして、彼女の脳内に流れ込んできた恐怖の情報を、焼き切るように、浄化していく。
幻影は、断末魔のような無音の叫びを上げて、霧散した。
「……はぁ……はぁ……」
アカリは、肩で息をしながら、膝に手をついた。
「大丈夫か、アカリ!」
「問題、ない。だが……厄介だな。この調子では、サーバーに辿り着く前に、こちらの精神が持たない」
アカリがそう言った、まさにその時。
サーバーラックの、分厚い隔壁扉の前。その空間が、今までとは比較にならないほど、深く、大きく、歪んだ。
じりじり、という、静電気のような音と共に、黒い人影が、滲み出すように現れる。
それは、特定の個人の幻影ではなかった。
この研究所で死んでいった、何十人もの、苦痛、絶望、怒り、悲しみ。そのすべての負の思念が、十年という歳月をかけて、凝り固まって生まれた、集合的な「亡霊」。
『……カ……エ……セ……』
ノイズの混じった、複数の声が、重なり合って、響く。
『……ワレワレノ……イシキヲ……カエセ……』
その亡霊は、銃では倒せない。物理的な干渉が、一切通用しない。純粋な、魂への攻撃。
アカリは、玲を背後にかばい、右腕の光を、最大まで高めた。黄金の防御フィールドが、辛うじて、亡霊が放つ絶望の波動を防いでいる。だが、それも、時間の問題だった。フィールドの表面が、少しずつ、黒いノイズに侵食されていく。
「玲! 何か、方法はないのか!」
「……あるよ。一つだけ」
玲は、アカリの背後から、一歩、前へ出た。そして、恐怖に震えながらも、その亡霊を、まっすぐに見据えた。
「喧嘩は、できないけど……。話を聞くことなら、僕にも、できる」
玲は、アカリの防御フィールドの中から、その亡霊へと、そっと、手を伸ばした。
「……辛かったね。苦しかったね。もう、大丈夫だよ」
彼は、戦うのではなく、破壊するのでもなく、ただ、その巨大な悲しみの塊を、赤子をあやすように、受け入れようとしていた。
玲の指先が、黒い亡霊に、触れた。
瞬間、十年分の絶望が、彼の魂へと、濁流のように流れ込んできた。
だが、玲は、それに飲まれなかった。彼は、ただ、その濁流の、一番奥にある、一番最初の、悲しみの源泉を探し続けた。
――見つけた。
一人の、理想に燃えた、純粋な青年の姿。彼が、システムの虚無に飲み込まれ、その魂が「反転」してしまった、最初の、たった一つの、悲劇。
玲は、その悲劇を、ただ、見つめた。そして、心の中で、静かに、語りかけた。
大丈夫。君のことは、僕が、きっと――。
すると、あれほど激しく荒れ狂っていた黒い亡霊が、まるで、嵐が過ぎ去ったかのように、すうっと、その輪郭を薄れさせていった。
そして、跡形もなく、消えた。
直後。
二人の目の前にあった、サーバー室の、分厚い隔壁扉が、カチリ、と、小さな音を立てて、ロックを解除した。
玲とアカリは、消耗しきった身体で、顔を見合わせる。
そして、ゴクリと、唾を飲んだ。
この扉の向こうに、すべての始まりが、眠っている。
隔壁の向こうは、静寂と、冷気と、そして、膨大な情報の匂いが支配する空間だった。
部屋の中央に、巨大な円筒形のサーバーラックが、何本も、天を突くように林立している。その表面には、青白い光が、まるで呼吸をするかのように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。ここが、Mシステムの中枢。十年前に、時を止められた、巨大な電子の墓標。
「……すごい」
玲は、その荘厳な光景に、思わず息を呑んだ。
「ナギ、聞こえるか? サーバーにアクセスできるか?」
アカリが、手元の端末で通信を試みる。
『……ああ、なんとかね。ここのセキュリティは、独立した閉鎖系ネットワークだ。外部からのアクセスは不可能だが、この端末からなら、直接、内部データに干渉できる』
ナギの声が、イヤホンから聞こえてくる。
『だが、気をつけろ。メインサーバーは、今も、強力な防壁に守られている。無理にこじ開けようとすれば、データが自己消去される危険性がある』
「では、どうする?」
『君たちの出番だ、玲。アリスガワ博士が言っていた、ゼロの『オリジナルデータ』。それは、おそらく、物理的なデータではない。このサーバーの中に、魂の残滓として、今も、眠っているはずだ。君の力で、それを見つけ出し、同調するんだ』
玲は、ゴクリと唾を飲んだ。
この、情報の海の中から、たった一つの、魂の欠片を探し出す。それは、砂漠で、特定の砂粒を見つけ出すような、途方もない作業に思えた。
だが、やるしかない。
玲は、一番手前にあったサーバーラックに、そっと、手を触れた。
瞬間。
彼の意識は、再び、光の奔流に飲み込まれた。
だが、今度は、VR空間ではない。もっと、純粋で、もっと、根源的な、情報の海。無数の人間の、思考、記憶、感情が、光の川となって、彼の周囲を流れていく。
――楽しい。
――悲しい。
――愛している。
――憎い。
――怖い。
――嬉しい。
膨大な感情の渦に、玲の自我が、溶けてしまいそうになる。
「しっかりしろ、玲!」
アカリの声が、現実世界から、彼を繋ぎ止める錨のように響く。
そうだ。僕が探しているのは、こんな、混沌とした感情じゃない。
もっと、純粋で、もっと、悲しい、たった一つの、始まりの心。
玲は、意識を集中させる。情報の奔流の中から、一つの、細い、か細い光の糸を手繰り寄せていく。
それは、Mシステムを開発した、あの青年の記憶だった。
――孤独な子供たちを、救いたい。
――言葉では伝わらない、本当の心を、繋ぎ合わせたい。
――世界から、争いをなくしたい。
純粋すぎるほどの、理想。そして、その理想に、少しずつ、現実の壁が立ちはだかる絶望。期待、裏切り、焦り、そして……。
システムの深淵で、『虚無』に触れてしまった、あの瞬間。
彼の純粋な魂が、悲鳴を上げて、砕け散り、そして、真逆に『反転』してしまった、あの、たった一つの、悲劇の瞬間。
「……見つけた」
玲は、その記憶の核に、辿り着いた。
だが、その核は、ゼロが残した、強力な呪いのデータによって、厳重に封印されていた。まるで、黒い茨の牢獄のように。
玲が、それに触れようとした、その時。
『――誰だ』
玲の脳内に、直接、声が響いた。
それは、ゼロの声だった。冷たく、感情がなく、しかし、絶対的な知性を感じさせる声。
『――我が聖域を侵す、不純物は』
サーバー全体が、ごおお、と、地鳴りのような音を立てて、振動を始めた。青白い光が、警報を示す、赤い光へと変わっていく。
「ナギ! 何が起きた!」
アカリが叫ぶ。
『まずい! ゼロが、このサーバーに、カウンター侵入を仕掛けてきた! 奴は、玲の魂を逆探知して、この場所に気づいたんだ!』
「何ですって!?」
『このままでは、玲の意識が、奴に捕らわれる! それだけじゃない、この研究所全体が、奴の支配下に置かれるぞ!』
VR空間で、玲の意識は、黒い茨の牢獄に、囚われようとしていた。
ゼロの、圧倒的な精神力が、玲の魂を、押し潰しにかかる。
――消えろ。不完全な、偽善者。
――お前のその力も、所詮は、旧時代の遺物。
――真の救済は、完全なる『無』のみに、存在する。
「く……っ!」
玲は、必死に抵抗する。だが、相手は、あまりにも強大すぎた。
その時。
玲の魂の奥深くで、一つの、温かい光が、灯った。
それは、アカリの腕に刻まれた、金の継ぎ目の光。そして、その光と共鳴するように、玲が今まで修復してきた、たくさんのモノたちの、感謝の記憶。
――ありがとう、お兄ちゃん。
――おかげで、また、孫と遊べるよ。
――この音色、また聴きたかったんだ。
たくさんの、温かい声が、玲の魂を、支える。
「……僕は、無力なんかじゃない!」
玲は、叫んだ。
「僕の力は、戦うためのものじゃない! 壊すためのものじゃない! 繋ぐための、力だ!」
玲の魂が、黄金の光を放った。その光は、ゼロが作り出した、黒い茨の牢獄を、内側から、焼き切っていく。
そして、玲は、封印されていた、青年の、オリジナルの魂のデータに、その手を、伸ばした。
「――今だ、アカリ!」
玲の絶叫が、現実世界に響く。
アカリは、その一瞬を、逃さなかった。
彼女は、玲に言われた通り、サーバーラックの、特定のパネルに、自らの右腕を、深く、突き刺した。
金の継ぎ目が、雷鳴のような光を放つ。
彼女の、完璧な意志の力と、玲が解放した、オリジナルの魂のデータが、融合し、一本の、黄金の槍となって、サーバーの中を駆け巡る。
それは、ゼロの呪いを浄化し、システムを、本来あるべき姿へと「修復」するための、光の弾丸。
サーバー全体が、絶叫するような、甲高い音を立てる。
そして。
すべての光が消え、完全な静寂が、訪れた。
「……終わった、のか?」
アカリが、荒い息をつきながら、呟く。
『……ああ』
ナギが、静かに答えた。
『ゼロによる、カウンター侵入は、完全に遮断された。そして……見てみろ』
メインディスプレイに、一つのファイルが表示されていた。
【Project_M_CoreData_Ver.0.0_Restored】
「……これが」
「ゼロの……ううん。あの青年の、元の魂……」
玲が、ふらつきながら、ダイブ装置から身を起こす。
彼らは、ついに、手に入れたのだ。
ゼロを止めるための、唯一の、そして、最後の希望を。
だが、その時だった。
研究所全体が、激しく、揺れた。
天井から、パラパラと、コンクリートの破片が落ちてくる。
『まずい! ゼロの野郎、サーバーの制御を奪えないと知るや、この研究所の、自爆シークエンスを、遠隔で起動させやがった!』
「何ですって!?」
『あと、五分だ! 五分で、ここ一帯は、完全に、吹き飛ぶぞ!』
二人の顔に、緊張が走る。
絶望の淵から、ようやく掴んだ希望。それを、こんな場所で、失うわけにはいかない。
「玲、データを確保しろ! 私が、脱出路を切り開く!」
アカリは、玲に叫ぶと、出口へと、走り出した。
彼女たちの、最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
けたたましい警報音が、廃墟と化した研究所に鳴り響く。
赤色の非常灯が、狂ったように点滅を繰り返し、二人の焦りを煽っていた。
「ナギ! データのダウンロードは、まだか!」
アカリは、崩れ落ちてくる瓦礫を避けながら、必死に叫んだ。
『やってる! やってるさ! だが、データ量が、あまりにも膨大すぎる! 完全に転送するには、どうやっても、あと三分はかかる!』
「三分……!」
その時間は、絶望的に長かった。天井の亀裂は、見る見るうちに広がり、いつ、この空間そのものが崩落しても、おかしくない。
「玲! 君は、先に外へ!」
アカリが、玲の腕を掴む。
「僕のことはいい! 君だけでも……!」
「嫌だ!」
玲は、その手を、強く振り払った。
「君を、一人で残していくなんて、できるわけないだろ! 僕らは、二人で、一つなんだ!」
その瞳には、もはや、以前のような、か弱さや、怯えの色はなかった。そこにあるのは、パートナーを、何があっても守り抜くという、鋼のような意志だった。
アカリは、その目に、一瞬、息を呑んだ。そして、ふ、と、その口元に、この極限の状況には、あまりにも不釣り合いな、穏やかな笑みが浮かんだ。
「……そうか。そうだったな。すまない、私が、間違っていた」
彼女は、玲の隣に立つと、崩れ落ちてくる天井を、見据えた。
「ならば、二人で、時間を稼ぐぞ」
「うん!」
アカリは、右腕の金の継ぎ目を、強く輝かせた。黄金の防御フィールドが、二人の頭上に、ドーム状に展開される。
ガガガガガッ!
巨大なコンクリートの塊が、フィールドに激突し、凄まじい音を立てて砕け散る。フィールドが、大きく、軋むように歪んだ。
「くっ……!」
アカリの顔に、苦痛の色が浮かぶ。いくら彼女の精神力が強くとも、この規模の崩落を、長時間防ぎきれるわけではない。
「アカリ!」
玲は、アカリの背中に、そっと、自らの手を当てた。
そして、彼の魂の光を、彼女へと、注ぎ込んでいく。
温かい、金の光が、玲からアカリへと流れ込み、弱まりかけていた防御フィールドの輝きを、再び、力強く蘇らせる。
「……これは」
「僕の力は、戦うためのものじゃない。でも、守るためになら、使える。君が、盾なら、僕は、その盾を支える、柄になる」
二人の魂が、一つに、共鳴する。
玲が、アカリを支え、アカリが、二人を、世界から守る。
完璧な、連携。
だが、それでも、崩壊の勢いは、止まらない。フィールドは、激しい衝撃を受けるたびに、悲鳴を上げるように、明滅を繰り返す。
『ダウンロード、完了まで、あと、一分!』
ナギの、必死の声が響く。
その時だった。
二人が立っていた床が、ぐらり、と、大きく傾いた。
「きゃっ!」
バランスを崩した玲の身体が、大きく、よろめく。
その瞬間、アカリの防御フィールドに、一瞬だけ、致命的な隙が生まれた。
その隙を、見逃すはずもなかった。天井から、巨大な鉄骨が、まるで、ギロチンの刃のように、玲の頭上へと、迫っていた。
「玲!」
アカリが、絶叫する。
もう、間に合わない。
玲もまた、死を、覚悟した。
だが。
その鉄骨が、玲に届く、数センチ手前で、ぴたり、と、静止した。
まるで、見えない何かに、阻まれたかのように。
「……え?」
玲は、目の前で起きた、信じられない光景に、目を丸くした。
鉄骨は、宙に浮いたまま、ぴくりとも動かない。
そして、その周囲の空間が、わずかに、陽炎のように、歪んでいる。
玲は、その歪みの正体を、知っていた。
以前、この研究所で、彼らを襲った、あの、記憶の残滓。
だが、今、彼らの周りに集まってきている「声」は、敵意に満ちたものではなかった。
『……イ……ケ……』
『……コノ……ヒカリヲ……タヤスナ……』
十年前に、ここで無念の死を遂げた、被験者たちの魂。その亡霊たちが、自らの最後の力を振り絞り、玲とアカリを、守っていた。
玲の『魂継ぎ』が、彼らの絶望を、癒した。その返礼として、今、彼らが、玲たちの、未来を繋ごうとしていた。
「……ありがとう」
玲の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
『ダウンロード、完了! 転送成功!』
ナギの、歓喜の声が、響き渡った。
「行くぞ、玲!」
アカリが、玲の手を、強く、握りしめる。
二人は、亡霊たちが作ってくれた、わずかな時間を、全速力で、駆け抜けた。
背後で、研究所が、すべてを飲み込む、巨大な閃光と共に、崩壊していく。
凄まじい爆風が、二人を襲う。
だが、その衝撃が、彼らに届くことは、なかった。
アカリが、玲を、強く、強く、抱きしめていたから。
彼女の背中が、すべての衝撃を、受け止めていた。
どれくらいの時間が、経っただろうか。
玲が、恐る恐る目を開けると、そこには、満天の星空が、広がっていた。
彼らは、研究所の崩落と共に、地上へと、吹き飛ばされていたのだ。
「……アカリ……?」
腕の中で、アカリが、うめくように、身じろぎした。
彼女の背中は、戦闘服が焼け焦げ、痛々しい傷を負っていた。だが、その瞳には、確かな、生命の光が宿っている。
「……無事か、玲」
「うん……君は……」
「問題、ない。この程度の傷、私にとっては、ただの……」
アカリは、そこで、言葉を切った。そして、自嘲するように、ふ、と笑う。
「……いや。正直、かなり、痛いな」
彼女は、初めて、痛みを、弱さと認めずに、口にした。
玲は、そんな彼女の姿に、何も言えず、ただ、強く、彼女を抱きしめ返した。
遠くで、サイレンの音が聞こえる。セキネたちが、こちらに向かっているのだろう。
二人は、ボロボロの身体で、寄り添いながら、夜空を見上げていた。
手の中には、確かに、反撃の切り札がある。
だが、それ以上に、もっと、大切なものを、この絶望の底で、見つけたような気がした。
ゼロとの戦いは、まだ、終わらない。
むしろ、これからが、本番だ。
だが、二人には、もう、何の迷いもなかった。
不完全な魂が、寄り添い合い、互いの傷を照らし合う時、そこには、どんな完璧な力にも勝る、無限の強さが生まれるのだから。
夜空に、ひときわ大きく輝く星が、まるで、二人の未来を祝福するかのように、瞬いていた。