第三章:金の疵痕(きずあと)
静寂。
工房の中を支配していたのは、インクを水に落としたような、濃密な静寂だった。
疲労の底に沈んでいた玲の意識を、現実へと引き戻したのは、凛とした、しかし微かな震えを帯びた声だった。
「……何をした」
声の主は、アカリ・J・速水。
彼女は、生命維持ポッドからゆっくりと身を起こし、自分の右腕を、信じられないものでも見るかのように見つめていた。その表情に、生還した喜びの色はない。あるのは、深い混乱と、自らの聖域を侵されたかのような、鋭い戸惑いだった。
「私の身体に……何をしたの」
もう一度、彼女は問うた。その黒い瞳が、床に倒れ込むように座り込んでいる玲を、まっすぐに見据える。
玲は、かすれる声で答えようとした。あれは、君の魂の――
だが、その言葉が音になる前に、工房の扉が凄まじい勢いで開け放たれた。
「アカリ君!」
飛び込んできたのは、セキネ部長と、武装した公安局員たちだった。彼らは、ポッドから身を起こしているアカリの姿を認めると、一様に安堵と驚愕の表情を浮かべた。
「目が覚めたのか! よかった……本当によかった……!」
セキネが駆け寄ろうとするが、アカリはそれを、左手で制した。
「部長。状況の説明を求めます。私は、どうなったのですか」
彼女の声は、いつも通りの冷静さを取り繕ってはいたが、その視線は、決して自分の右腕から外れることはなかった。金の継ぎ目が、工房の裸電球の光を浴びて、妖しく、そしてあまりにも美しく煌めいていた。
数日後。アカリは、公安局本部の無機質なカウンセリングルームにいた。
彼女の身体は、三日前よりもさらに徹底的に検査された。その結果は、信じがたいものだった。
精神汚染『破砕』の痕跡は、完全に消滅している。脳の活動も、義体のパフォーマンスも、すべてが正常値。いや、むしろ、以前よりも反応速度や情報処理能力が、ごく僅かに向上しているというデータまで出ている。
ただ、一点を除いて。
彼女の右腕に走る、金の線。
最新の超微細構造スキャナーでさえ、その物質を特定できなかった。「有機金属と生体エネルギーの複合体」という、理解不能な解析結果が出ただけだ。それは、彼女の義体の神経回路と、完璧に融合していた。もはや、切り離すことはできない。それは、彼女の身体の一部となっていた。
「……というわけだ、アカリ君」
向かいに座ったセキネが、重々しく口を開いた。
「君は、奇跡的に生還した。だが、君の身体には、我々の科学では解析不能な『未知のコンポーネント』が追加されている。それが、君のシステムに、ひいては国家の防衛システムに、どのような影響を及ぼすか、誰にも予測できない」
「……」
アカリは、黙って言葉の続きを待った。彼女は、次に何が告げられるかを、とうに理解していた。
「結論を言う。君を、本日付で、特務部隊の任務から外す。無期限の自宅待機だ」
宣告。
それは、アカリにとって、死刑宣告にも等しい言葉だった。物心ついた時から、彼女は「完璧な兵士」であるために生きてきた。任務こそが、彼女の存在意義そのものだった。それを、奪われる。
彼女は、机の下で、強く、強く拳を握りしめた。
「ですが、それでは納得がいかないだろう。君のような有能な人材を、遊ばせておくわけにもいかない。そこで、君に新しい任務を与える」
セキネは、一枚の辞令をテーブルの上に置いた。
【特務監視対象:継実 玲 の監視、及び護衛任務を命ずる】
「彼の能力は、君が身をもって証明した通り、我々の常識を遥かに超えている。それは、希望にもなれば、凶器にもなりうる。彼の身柄を確保し、その能力を解析、管理下に置くことは、最優先の国家機密事項だ」
「……私が、彼の、お守りをしろと?」
アカリの声に、初めて、棘のような感情が混じった。
「そうだ。彼を誰よりも近くで監視できるのは、彼に命を救われた君だけだ。これは、君にしかできない、重要な任務だ。……分かってくれるな?」
それは、問いかけの形をした、拒否権のない命令だった。
アカリは、数秒間、目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開けると、その瞳から、すべての感情が消え失せていた。
「――了解」
その日の午後、玲の工房の扉が、再びノックされた。
玲が扉を開けると、そこに立っていたのは、アカリだった。
公安の制服ではなく、動きやすさを重視した、しかし一切の無駄がない、黒い私服に身を包んでいる。その手には、最低限の荷物しか入っていないであろう、小さなボストンバッグが一つだけ。
数日前の虚ろな人形のような姿とは違う。そこにいるのは、玲が最初に映像で見た、あの鋼鉄の百合。だが、その完璧な佇まいの中に、どこか、危ういほどの緊張感が漂っていた。
「……どうして、ここに?」
玲が戸惑いながら尋ねる。
「辞令だ」
アカリは、短く答えた。
「本日付で、私は特務監視対象、継実 玲の護衛、及び監視官に着任した。対象の安全を確保し、その全行動を記録するため、これより、この工房に常駐する」
「じょ、常駐って……!?」
「何だ、不満か? 君の『治療』によって、私はキャリアも、居場所も、すべてを失った。その責任の一端くらい、取ってもらうのが筋だと思うが」
アカリの言葉は、冷たかった。だが、その奥に、行き場のない怒りや、戸惑いが渦巻いているのを、玲は感じ取った。
「……そういうわけじゃないけど……でも、ここは狭いし、君が住むような場所じゃ……」
「問題ない。私は、どんな環境にも最適化できる」
アカリはそう言うと、玲の返事も待たずに工房の中へ足を踏み入れた。そして、骨董品や修復途中のガラクタが散乱する室内を、値踏みするように見渡す。
漆の匂い。古い木の床。アナログな道具の数々。
効率も、合理性も、完璧さも、何一つない世界。
彼女が今まで生きてきた世界とは、あまりにもかけ離れた場所。
こうして、時代遅れの工房で、不完全なモノを愛する心優しい青年と、完璧を失った、心を閉ざした元エリート捜査官の、奇妙で、ぎこちない共同生活が、静かに幕を開けた。
アカリが工房に住み着いて、三日が過ぎた。
その三日間は、玲にとって、穏やかではあったが、どこか息の詰まるような時間だった。
アカリは、驚くほど静かだった。彼女は工房の隅に、公安から持ち込んだ最低限の生活モジュールを設置すると、一日の大半をそこで過ごした。瞑想しているのか、何かのデータを分析しているのか、玲には分からない。ただ、彼女の存在そのものが、この古い工房の空気を、常に張り詰めさせていた。
食事は、レーションと呼ばれる高カロリーの栄養バーで済ませ、決まった時間に寸分の狂いもなく身体能力維持のためのトレーニングをこなす。彼女の生活は、まるで精密な機械のようだった。
時折、彼女の視線が、玲の仕事に向けられているのを感じることがあった。玲が、例の少年から預かったブリキのオルゴールを、丹念に分解し、錆びついた部品を一つ一つ磨いている時。あるいは、依頼品の欠けた皿の縁を、漆で繕っている時。
アカリは、何も言わない。だが、その視線には、「非効率」「無意味」「理解不能」という言葉が、ありありと浮かんでいるようだった。
「ねえ、玲」
ある日の午後、ナギが玲にだけ聞こえる通信で話しかけてきた。
『あの人、ずっと君のことを見てるけど、平気なのかい? 僕のプライバシー保護プログラムが、警報を鳴らし続けているんだけど』
「大丈夫だよ。それが、彼女の任務なんだから」
玲は、苦笑しながら答える。
その日の夕食時だった。玲が、質素ではあるが温かいスープとパンをテーブルに並べていると、アカリがすっと彼の前に立った。
「提案がある」
彼女は、抑揚のない声で言った。
「君の作業効率は、著しく低い。原因は、整理整頓の欠如と、非効率な動線にある。私が、この工房のレイアウトを最適化する。それにより、作業時間を平均で三十二パーセント短縮できるというシミュレーション結果が出た」
「え……」
「また、君の食生活は栄養バランスが偏っている。これも、長期的な集中力の低下を招く。明日から、君の食事も私が管理する」
「いや、でも……」
「これは、君の『能力』を最高の状態で維持管理するための、監視官としての判断だ。拒否は認めない」
玲は、何も言い返せなかった。アカリの言うことは、おそらく、すべて正しいのだろう。だが、玲にとって、この非効率で、無駄だらけの時間は、壊れたモノの魂と対話するための、必要な儀式でもあった。
その夜、玲はアカリが作った、味も素っ気もない、しかし栄養バランスだけは完璧なレーションを、黙って口に運んだ。
テーブルの向かいで、アカリは自分の右腕に走る金の継ぎ目を、静かに見つめていた。その瞳に宿る色が、玲には読み取れなかった。
奇妙な共同生活が始まって一週間が過ぎた頃、転機は突然訪れた。
工房の通信端末に、セキネ部長からの暗号化された着信が入ったのだ。
ディスプレイに映し出されたセキネの顔は、険しかった。
『……新たな『破砕』の可能性がある。だが、今回は、少し様子が違う』
セキネが転送してきたのは、一人の青年のプロフィールだった。
名は、ジン・タカサゴ。十八歳。プロのVRゲーマー。没入型対戦ゲーム『アヴァロン・ブレイク』のトップランカーで、明日から始まる世界大会の、優勝候補と目されていた青年だ。
『彼は、昨夜、自宅のダイブ装置の中で意識を失った。身体に外傷はない。だが、意識が戻らない。症状が、君――アカリ君のケースと酷似している』
「……」
アカリは、黙って画面を見つめていた。
『まだ、『破砕』と断定されたわけではない。公にすれば、大会は中止、経済的損失も計り知れない。そこで、君たちに、非公式に調査を依頼したい。継実君、君の目で、彼が本当に『砕かれて』いるのか、確かめてほしい』
「僕が……ですか?」
「そうだ。そしてアカリ君、君は彼の護衛兼、捜査のサポートだ。君の経験が必要になる」
それは、玲にとっては、あまりに重い依頼だった。だが、アカリは、セキネの言葉が終わるか終わらないかのうちに、答えていた。
「――了解。直ちに、現場に向かいます」
その声には、以前の任務遂行時と同じ、揺るぎない響きが戻っていた。
ジン・タカサゴの自宅は、中層区にある、セキュリティの万全な高層マンションの一室だった。
部屋の中は、物が散乱し、異様な熱気に満ちていた。壁一面に設置された巨大なディスプレイ。床に転がる、エナジードリンクの空き缶。そして、部屋の中央に鎮座する、最新鋭のフルダイブ式VR装置。
青年は、その中で、静かに眠っていた。
「警察だ。事情を聞かせてもらう」
アカリは、部屋にいた彼のチームマネージャーに、冷たく言い放つ。その間に、玲は、部屋の中をゆっくりと見回した。
アカリが、床に残された痕跡や、セキュリティログの解析を始めるのを横目に、玲は、あるものに引き寄せられていた。
床に落ちていた、VRヘッドセットだ。片方のレンズに、微かな亀裂が走っている。
「そんなもので、何が分かる」
アカリが、玲の行動に気づき、訝しげな声を上げた。
「分からない。でも……聴こえるかもしれないから」
玲は、そっとヘッドセットに触れた。
その瞬間。
凄まじい情報量が、津波のように玲の意識へと流れ込んできた。
――閃光。爆音。歓声。対戦相手のアバターを撃破する、コンマ一秒の世界。指が、思考が、神経が、焼き切れそうなほど加速していく。勝たなければ。負けられない。完璧なプレイを。誰にも追いつけない、神の領域へ。もっと速く。もっと正確に。もっと、もっと、もっと――!
『――君は、まだ、完璧じゃない』
脳内に響く、冷たい声。それは、ゲームのAIの声か、それとも、彼自身の心の声か。
その声に、青年の集中が、ぷつり、と切れた。
その一瞬の隙を、対戦相手は見逃さない。放たれた光弾が、彼の機体を貫く。
モニターに表示される、『YOU LOSE』の無慈悲な文字。
ああ。
あああああああああああああああ!
青年の精神が、そのプレッシャーに耐えきれず、内側から、ガラスのように砕け散るイメージ。
「……うっ……!」
玲は、ヘッドセットから手を離し、よろめいた。
「おい、どうした!」
アカリが、鋭く駆け寄る。
「……聴こえた」
玲は、ぜいぜいと息をしながら、言った。
「彼は……負けたんだ。たった一度。でも、彼にとって、その一度の敗北は、世界の終わりと同じだった。完璧じゃなくなった自分を、許せなかったんだ……」
ア-カリは、玲の言葉に、目を見張った。
彼女が、論理的な捜査やデータ解析で、決して辿り着くことのできない情報。事件の核心。
被害者の、魂の叫び。
それを、この男は、ただ、壊れたモノに触れただけで、読み取ってしまった。
アカリは、初めて、玲の能力を、そして、目の前のこの無力に見える男を、全く新しい目で見ていた。
同時に、彼女は、自らの右腕に走る、金の継ぎ目が、ずくり、と微かに熱を帯びるのを感じていた。
それは、気のせいではなかった。
玲が感じ取った青年の絶望に、彼女の身体に残る『破砕』の傷跡が、共鳴しているかのようだった。
「……共鳴?」
アカリは、自分の腕に起きた微かな変化に、内心の動揺を押し殺して玲に問い返した。
「君の腕の継ぎ目が、熱を帯びた、と言ったのか」
「あ……うん。ほんの少しだけだけど」
玲は、まだ荒い息を整えながら頷いた。
「彼が感じた絶望……完璧でなくなった瞬間の、あの魂が砕ける感覚。それに、君の中に残っている『破砕』の傷が、反応したのかもしれない」
玲の言葉は、仮説に過ぎなかった。だが、アカリには、それが真実だと直感的に理解できた。
彼女のこの腕は、もはやただの義体ではない。玲の『魂継ぎ』によって、物理的な機能以上の、未知の感覚器官へと変質しているのかもしれない。
アカリは、初めて、自分の腕に刻まれたこの金の疵痕を、忌むべき「欠陥」としてではなく、一つの「機能」として認識した。
「……なるほどな」
突然、部屋の入り口から、低い声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、長身で、鋭い目つきをした男だった。年の頃は三十代半ば。高価そうなスーツを着こなし、その佇まいには、そこらのチンピラとは違う、知的な獰猛さが漂っている。
「あんたたちが、公安から来たっていう、専門家か」
「あなたは?」
アカリが、警戒を露わに問いかける。
「俺は、コウガミ。ジン坊の、チームオーナー兼プロデューサーだ」
男――コウガミは、部屋の中をゆっくりと見回すと、ふ、と嘲るような笑みを浮かべた。
「魂が砕けただの、絶望に共鳴しただの、随分とオカルティックな話だな。だが、面白い。続けろよ」
「あなたに話す義務はない」
アカリが冷たく言い放つが、コウガミは意に介さない。
「義務ねぇ……。じゃあ、取引といこうか。あんたたちが、この一件を『破砕』だの何だのと公にせず、ジンの坊を『静かに』元に戻してくれるなら、俺も、あんたたちに協力してやる。あいつが負けたっていう、例の対戦相手の情報を、くれてやってもいい」
「!」
アカリの目が、鋭く光った。ジンの最後の対戦相手。それは、公安のデータベースにもアクセス制限がかかっていた、最重要情報だった。
「どうやら、話が通じる相手らしいな」
コウガミは、満足げに頷くと、携帯端末を操作し、一枚のデータをアカリに転送した。
そこに表示されていたのは、一人のアバターの画像だった。黒い霧のようなオーラをまとい、その顔は深いフードで隠されている。
プレイヤーネームは、『ゼロ』。
アカリは、その名前に息を呑んだ。
『オリオン』タワーで、自分を『破砕』した、あのプライマリが名乗っていたのと同じ名前。
「……まさか」
「そうだ。こいつが、今の『アヴァロン・ブレイク』の頂点に君臨する、謎の最強プレイヤーだ。誰も、その正体を知らない。こいつは、ただ勝つだけじゃない。対戦相手の心を、文字通り『折る』んだ。こいつと戦って、再起不能になったトップランカーは、ジンが初めてじゃない」
コウガミは、忌々しげに吐き捨てた。
「ジンは、こいつに勝つために、すべてを懸けていた。だが、負けた。そして、壊れた。……あんたたちの言う『破砕』が、特定の条件下で意図的に引き起こせるものだとしたら、どうだ? この『ゼロ』って野郎が、その鍵を握っているとは、思わないか?」
コウガミの情報は、事件の様相を一変させた。
これは、単発の精神汚染ではない。
『ゼロ』と名乗る謎のプレイヤーが、VR空間を舞台に、意図的に『破砕』を引き起こしているテロ行為である可能性が高い。
「……玲」
アカリは、隣にいる玲に、静かに声をかけた。
「君にしか、できないことがある」
「え……?」
「ジン君の精神世界に、もう一度、ダイブしてほしい。そして、彼を『破砕』した、『ゼロ』の痕跡を追うんだ。そこに、必ず、敵の正体に繋がる手がかりがあるはずだ」
それは、あまりにも危険な提案だった。玲が、どれほどの生命力を消耗するか、アカリ自身が一番よく分かっているはずだった。
だが、玲は、アカリの真剣な目を見て、静かに頷いた。
「……分かった。やってみる」
彼もまた、このまま、青年の魂を絶望の中に置き去りにはしておけなかった。そして、何よりも、隣に立つアカリの、その信頼に、応えたいと思った。
その夜。
玲とアカリは、再び、ジンの部屋にいた。
コウガミの協力のもと、玲は、ジンの使っていたフルダイブ装置に身を横たえる。
「玲、無理はするな。危険を感じたら、すぐに離脱しろ」
アカリの声が、いつもより、わずかに優しく聞こえた。
「大丈夫。君が、いるから」
玲は、そう言って、微笑んだ。
アカリは、その言葉に、一瞬、目を伏せた。
玲が、VRヘッドセットを装着する。
彼の意識は、現実世界から、データと光の奔流の中へと、深く、深く、沈んでいった。
目指すは、一人の青年が砕け散った、絶望の戦場。
そして、その闇の奥に潜む、謎の存在『ゼロ』の影。
アカリは、現実世界で、玲のバイタルサインを見守りながら、自らの右腕に走る金の継ぎ目を、強く握りしめた。
それは、まるで、見えない糸で繋がったパートナーの命綱を、固く握りしめているかのようだった。
玲の意識は、光のトンネルを凄まじい速度で落下していく。
肉体を置き去りにする、独特の浮遊感。だが、以前にアカリの精神世界へ入った時とは、明らかに感覚が違った。あの時は、静かで、どこか有機的な感触があった。しかし、今は違う。すべてが、無機質で、幾何学的で、膨大な情報量が肌を焼くような、デジタルな奔流だった。
やがて、落下は終わり、玲は、音もなく、ある場所に「存在」していた。
そこは、戦場だった。
天を突くほどの超高層ビルは、そのほとんどが半壊し、鉄骨を無残に晒している。空は、紫色のデジタルノイズが走り、時折、巨大な広告映像が砂嵐のように明滅しては消える。地面には、破壊された戦闘メカの残骸が転がり、そこかしこで青白い炎が揺らめいていた。
VRゲーム『アヴァロン・ブレイク』。ジンが最後に見た、世界の風景。
玲は、実体を持たない、幽霊のような存在として、この記憶の世界を漂っていた。
――来た。
玲のすぐそばを、一体の戦闘メカが、目にも留まらぬ速さで駆け抜けていく。白銀の、流麗なフォルム。ジンのアバターだ。その動きは、玲が今まで見てきたどんなアスリートよりも、鋭く、そして美しい。まさに、人機一体。
だが、その動きには、鬼気迫るほどの悲壮感が漂っていた。
追い詰められている。
玲は、ジンの視点を借りるように、その敵を見た。
黒いメカ。ジンの機体よりも一回り大きく、重厚な装甲に身を包んでいる。だが、何よりも異様なのは、その姿が、まるで輪郭のぼやけた「影」のように、常に揺らめいていることだった。機体の周囲には、黒い霧のような、デジタルノイズのオーラが渦巻いている。
『ゼロ』。
その存在感は、圧倒的だった。ジンの完璧な攻撃は、すべて、ゼロの分厚い装甲にいなされ、逆に、ゼロが放つ重い一撃は、確実にジンの機体を削っていく。
強い。だが、それだけではない。
ゼロの戦い方は、酷薄だった。わざと急所を外し、ジンの機体の脚部や腕部を破壊し、嬲るように、少しずつ、彼の心を削っていく。勝利ではなく、相手の完全な屈服を目的とした、悪意に満ちた戦い方。
そして、ついに、その瞬間が訪れた。
ジンの渾身の一撃が、ゼロの懐に飛び込む。だが、それは、罠だった。ゼロは、その一撃を、自らの左腕を犠牲にして受け止め、がら空きになったジンの胴体へと、零距離で黒いエネルギー砲を撃ち込んだ。
勝敗は、決した。
ジンのアバターが、まばゆい光と共に爆散する。
だが、玲が見ていたのは、そこではなかった。
ゼロが、最後の一撃を放つ、その刹那。彼の機体から、物理的な砲弾とは別に、もう一つ、何か――黒く、鋭利な、氷の欠片のような「データ」が放たれ、ジンの魂の核へと突き刺さるのを、玲は、確かに「感じて」いた。
あれが、『破砕』の引き金。魂を殺す、呪いの弾丸。
「見つけた……!」
玲は、その黒いデータの欠片の残滓を、自らの魂で捕らえようと、意識を伸ばした。そのデータの出所を辿れば、ゼロの正体に繋がるかもしれない。
だが、玲がそれに触れようとした瞬間、世界が、軋みを上げて悲鳴を上げた。
『――異物ヲ、検知』
『――排除スル』
ゼロが残した、自動防衛システムか。あるいは、この記憶の世界そのものが、玲という「バグ」を拒絶しているのか。
戦場の風景が、ぐにゃりと歪む。地面が、玲を捕らえようとする檻のように隆起し、空からは、黒いデータの雨が降り注ぐ。
「くっ……!」
玲は、為す術もなかった。彼は、このデジタルの世界では、あまりにも無力だった。ハッカーでもなければ、戦士でもない。黒い奔流に、彼の意識が飲み込まれ、千々に引き裂かれそうになった、その時――
一筋の、金色の光が、天から差し込んだ。
それは、まるで暗闇を切り裂く、聖なる剣のようだった。玲を取り囲んでいた黒いデータの奔流が、金色の光に触れた途端、悲鳴を上げるように霧散していく。
玲は、その光がどこから来るのかを知っていた。
現実世界。工房。彼の手を握り、彼をこの世界に繋ぎ止めている、パートナー。
現実世界の工房では、ナギが甲高い警告音を発していた。
「危険! 玲の意識データ、汚染率九十パーセント超! このままでは、精神が崩壊する!」
「……私が、やる」
その声に、アカリは迷いなく答えた。彼女は、ダイブ装置に眠る玲の肩に、自らの右手を、そっと置いた。金の継ぎ目が刻まれた、その腕に。
そして、すべての意識を、そこに集中させる。
完璧であれ、と自分に言い聞かせ続けた、その精神力を。寸分の狂いもない、その意思の力を。
金の疵痕へと、注ぎ込んでいく。
「行け……!」
アカリの腕の金の継ぎ目が、まばゆい光を放った。その光は、彼女の腕から、玲の身体を通り、そして、見えないケーブルを伝って、デジタルの世界へと流れ込んでいく。
VR世界にいる玲には、それが、自らを守る、黄金の城壁のように見えた。
無秩序で、悪意に満ちた黒いノイズを、完璧に整理された、秩序の光が駆逐していく。
「……アカリ!」
守られている、と玲は確信した。今なら、いける。
彼は、アカリが作ってくれた、わずかな時間の中で、黒いデータの残滓へと、最後の一片へと手を伸ばす。
指先が、それに触れた。
瞬間、玲は、そのデータの断片を、自らの魂に焼き付けるように記録し、現実世界へと、意識を強制的に引き戻した。
「……はあっ、はあっ……!」
VRヘッドセットを乱暴に外すと、玲は、激しく咳き込みながら身を起こした。
「玲! 無事か!」
目の前には、心配そうに自分を覗き込む、アカリの顔があった。彼女の右腕からは、まだ、金の光の残滓が、ほのかに立ち上っている。
玲は、消耗しきってはいたが、その目は、確かな達成感に輝いていた。
彼は、アカリの腕を取り、その手を、自分の胸に当てた。
「……捕まえたよ」
玲は、息を切らしながら、言った。
「ゼロの、呪いの欠片だ。これがあれば……きっと、奴に辿り着ける」
アカリは、玲の言葉に、そして、彼に手を握られたままの、自らの腕に刻まれた金の継ぎ目に、静かに視線を落とした。
それはもはや、屈辱的な欠陥の証ではなかった。
絶望的なデジタルの闇の中、パートナーの魂を守り抜いた、確かな、絆の証だった。
玲が掴んだ「呪いの欠片」は、ナギの解析によれば、極小のデータパッケージだった。
『……これは、驚いた』
ナギの合成音声に、初めて、純粋な驚愕の色が混じっていた。
『このコード、自己増殖と自己崩壊を繰り返す、まるで生物のような構造をしている。標的の精神的な脆弱性を突き、絶望感や無力感を無限に増幅させる……悪意だけで作られた、芸術的なまでの魂破壊プログラムだ』
「特定はできるのか?」
アカリの問いに、ナギは少しの間を置いて答えた。
『発信源の特定は不可能だ。何重にも暗号化され、痕跡は完全に消去されている。だが……このコードの片隅に、あまりにも微細な、製作者の署名のようなものが残されている。これが、玲の言う「欠片」の正体だ。今はまだ、ただのノイズの羅列にしか見えない。でも、もっと多くの「欠片」を集めることができれば、あるいは……』
敵の正体に繋がる、初めての、そして唯一の手がかり。
アカリは、決意を固めた。
「……玲。もう一度だけ、彼の魂を繕えるか」
「うん。今なら」
玲は、力強く頷いた。
「『呪い』の正体が分かったから。今度は、もう、迷わない」
彼は、再びジンに向き直ると、静かに目を閉じた。
二度目の『魂継ぎ』は、一度目とは全く違っていた。彼の意識は、もはや荒野を彷徨うことはない。彼は、ジンの魂に残る、黒い氷の棘を、正確に見つけ出していた。
玲は、自らの魂の光で、その棘を、優しく、丁寧に溶かしていく。それは、無理やり引き抜くのではない。傷ついた魂が、自らそれを受け入れ、そして、癒していくのを、すぐ隣で、ただ、手助けするだけ。
やがて、最後の棘が、陽光に溶ける雪のように、すうっと消えていった。
ジンの瞼が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと開かれたその目には、もう、あの虚無の色はなかった。
「……あれ……おれは……」
「気がついたか、ジン坊」
傍で見ていたコウガミが、安堵の息を吐きながら、彼の肩を叩いた。
「……負けたのか、おれ……」
「ああ、負けた。完敗だ」
ジンの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。それは、魂が砕けた絶望の涙ではなかった。己の未熟さを噛み締める、悔し涙だった。彼は、まだ、戦える。彼の魂は、まだ、ここに在る。
玲とアカリは、静かに部屋を後にした。もう、自分たちの役目は終わった。
帰り道。新京都の夜景が、眼下に広がっていた。
二人の間に、会話はなかった。だが、その沈黙は、もはや気まずいものではなかった。それは、言葉を必要としない、深い信頼感に満たされた、穏やかな沈黙だった。
「……悪くなかった」
不意に、アカリが、呟くように言った。
「え?」
「君のVR世界での立ち回りだ。素人にしては、悪くなかった、と言ったんだ」
それは、彼女なりの、最大限の賛辞だった。
「君こそ。あの光がなかったら、僕は、戻ってこられなかった」
「……あれは、私の判断だ。監視対象の危機を、見過ごすわけにはいかない」
アカリは、そう言って、そっぽを向いた。だが、玲には、彼女の耳が、ほんの少しだけ、赤くなっているのが見えた。
彼は、思わず、ふっと笑みをこぼした。
工房に帰り着いたのは、深夜だった。
玲は、いつものように、豆から挽いたコーヒーを、二つ、淹れた。そして、その一つを、黙ってアカリの前に差し出す。
アカリは、一瞬、戸惑ったような顔をしたが、やがて、そのカップを、静かに受け取った。
彼女が、レーション以外のものを口にするのを、玲は初めて見た。
「……苦いな」
「でも、温かいだろ?」
「……ああ」
アカリは、小さく頷くと、自分の右腕に視線を落とした。金の継ぎ目が、工房の穏やかな光を受けて、優しく輝いている。
「……この傷も」
彼女は、言った。
「悪くない、かもしれないな」
その声は、まだ硬かったが、どこか、吹っ切れたような響きを持っていた。
ゼロの謎。暗躍する信奉者たち。そして、アカリの腕に秘められた、未知の力。
解決したことよりも、分からないことの方が、まだ遥かに多い。
だが、玲は、不思議と、不安ではなかった。
隣で、不器用そうにコーヒーを飲む、孤独な元エースがいる。そして、その腕には、自分と彼女とを繋ぐ、金の絆が、確かに輝いているのだから。
完璧ではない、二人の、不完全な戦いが、今、確かに始まろうとしていた。