第二章:砕かれる音
商業タワー『オリオン』は、新京都の中層区を象徴する巨大なガラスと鋼鉄の塔だ。最新のファッションブランド、五つ星のレストラン、そして最上階には、都市を一望できる展望デッキ。週末ともなれば、完璧な幸福を享受する市民たちで溢れかえる、繁栄のモニュメント。
だが今、その場所は地獄へと変貌していた。
「こちら特務部隊アルファ。タワー内部に突入。生存者は……確認できず。繰り返す、生存者は確認できず」
アカリのヘルメットに内蔵された通信機が、先行した部隊員の絶望的な報告を拾う。彼女の視界に映し出されるのは、悪夢のような光景だった。
床も、壁も、そして天井までもが、無数の傷で覆われている。高級ブティックのショーウィンドウは粉々に砕け散り、マネキン人形が首のない姿で転がっていた。スプリンクラーから降り注ぐ水が、床に散らばったガラス片や商品を濡らし、まるで巨大な墓標のように静まり返った空間に、不気味な滴の音だけが響いていた。
そして、異様なのは、血の匂いが全くしないことだった。
これは、虐殺ではない。もっと別の、理解の範疇を超えた何かが起きたのだ。
「全隊員、汚染レベルに最大警戒。対象は、もはや人間ではないと認識せよ」
アカリは冷静に指示を飛ばしながら、慎重にタワーの中心部へと進んでいく。汚染源は、中央の吹き抜けにあるイベントスペース。そこで、何かが起こった。
角を曲がった瞬間、アカリの視界に「それ」が飛び込んできた。
かつて人間だったもの。
高級なスーツを着たビジネスマン、華やかなドレスをまとった女性、買い物途中の親子。彼らは皆、虚ろな目で宙を見つめ、まるで操り人形のように、ぎこちなく、同じ動きを繰り返していた。商品を棚から取り、床に落とす。拾い上げ、また落とす。意味のない、無限のループ。その瞳には、かつて宿っていたはずの知性も、感情も、何一つ残ってはいなかった。
「……これが、『破砕』」
部隊の若い隊員が、息を呑むのが聞こえた。
魂が、内側から砕かれた者たちの成れの果て。自我を失い、ただ生前の行動の残滓を繰り返すだけの、生ける屍。
その時、一体の汚染者が、ふと、アカリたちの方を向いた。
その顔には、何の表情も浮かんでいない。ただ、その首が、ありえない角度に、ぎぎぎ、と音を立てて曲がった。
「来るぞ!」
アカリが叫ぶのと、汚染者が床を蹴るのが、ほぼ同時だった。
速い。人間の身体能力を遥かに超えている。だが、アカリの『ギガウェア』は、その動きを瞬時に予測していた。
アカリは身をかがめ、突進してくる汚染者の腕を掴むと、流れるような動きで背後に回り込み、首の付け根にある神経接続ポートに、スタンロッドを叩き込んだ。高圧電流が走り、汚染者は痙攣しながらその場に崩れ落ちる。
完璧な、無力化。
だが、安堵したのも束の間、周囲の汚染者たちが、一斉にアカリたちへと顔を向けた。まるで、一つの巨大な群体生物のように。
「散開! 各個、対象を無力化せよ!」
壮絶な戦闘が始まった。汚染者たちは痛みを感じず、常識外れの力で襲いかかってくる。銃弾を何発受けても、腕が折れても、彼らは止まらない。公安部隊は、最新鋭の装備で応戦するが、その数の前に、じりじりと後退を余儀なくされていた。
「部長、現場のアカリです。汚染規模、予測を大幅に上回る。これは、自然発生ではない。中心に、汚染を拡散させている『プライマリ』が存在する」
アカリは、部隊員を守りながら的確に敵を処理し、冷静に状況を報告する。
彼女の分析によれば、この集団汚染は、一人の強力な『破砕者』が、周囲の人間の精神に干渉することで引き起こされている。その大元を叩かなければ、被害は無限に広がるだろう。
「プライマリの位置を特定。イベントスペース中央。これより、単独で対象の排除に向かいます」
「待て、速水! 危険すぎる!」
上官の制止を振り切り、アカリは汚染者の群れの中へと単身で突っ込んでいく。
彼女の動きは、もはや人間のそれではなかった。弾丸を紙一重で避け、壁を蹴って宙を舞い、最短距離で目標へと突き進む。彼女の視界は、無数の予測線と確率の数値で埋め尽くされていた。死角はない。誤差はない。完璧な戦闘アルゴリズム。
そして、彼女は見た。
イベントスペースの中央。噴水の前に、一人の男が立っていた。
他の汚染者たちとは、明らかに様子が違う。彼は暴れるでもなく、ただ静かに、天を仰いでいた。その顔には、恍惚とした笑みさえ浮かんでいる。
彼こそが、プライマリ。
「あなたで、終わりよ」
アカリは音もなく男の背後に着地し、その首にスタンロッドを突き立てようとした。
その瞬間。
男が、ゆっくりと振り返った。
その瞳は、虚ろではなかった。むしろ、狂信的なまでの、爛々とした光を宿していた。
「――ようこそ、砕かれた世界へ」
男の唇が動いたのと、アカリの脳内に、直接、声が響き渡ったのは同時だった。
それは、音ではなかった。
純粋な、悪意と絶望に満ちた、情報の濁流。
アカリの視界を埋め尽くしていた数値と予測線が、一瞬にしてノイズの嵐に変わる。完璧だったはずのシステムに、未知のウイルスが侵入し、鉄壁のファイアウォールが、ガラスのように砕け散っていく。
――お前は、人形だ。
――誰かの作ったプログラムの上で踊っているだけの、空っぽの器。
――その完璧さは、お前のものじゃない。
――その身体も、その思考も、その魂さえも。
違う。
アカリは、声にならない悲鳴を上げた。
だが、その声は、誰にも届かない。
彼女の精神を守っていた最後の壁が、粉々に砕け散った。
まるで、全身の骨が一本残らず折れてしまったかのような、凄まじい無力感。今まで自分が積み上げてきたもの、信じてきたもの、そのすべてが、砂の城のように崩れ落ちていく。
視界が、暗転した。
最後に聞こえたのは、自分の身体の内部から響く、甲高い、金属が断裂するような音だった。
公安局本部ビルに、衝撃の報が駆け巡ったのは、その数時間後のことだった。
『速水特務捜査官、プライマリとの接触により精神汚染。意識不明。彼女のギガウェアは、原因不明の機能不全を起こし、現在、沈黙している』
都市の「完璧」を象徴する光が、今、消えようとしていた。
そして、その砕かれた魂の欠片は、やがて、時代遅れの工房で静かに息づく、一人の無力な男の元へと、運命のように導かれていくことになる。
アカリ・J・速水が倒れてから、三日が過ぎた。
その間、公安局は持てる技術のすべてを注ぎ込み、彼女の修復を試みた。新京都で最も優れた医療施設である『メディセプト中央研究所』の無菌室に運び込まれた彼女の身体には、無数のケーブルとスキャナーが接続され、毎秒テラバイト単位のデータが解析されていく。
だが、結果は絶望的だった。
「どういうことだ、説明しろ! 物理的な損傷は一切ない、そう報告があったはずだ!」
観察室のガラス越しに、生命維持ポッドの中で眠るアカリを見つめながら、セキネ部長は怒声を上げた。彼の前には、研究所の最高責任者である白衣の男たちが、青い顔で並んでいる。
「申し訳ありません。ですが、事実です。彼女の義体――ギガウェアの自己修復機能は正常に作動し、戦闘による損耗は完全に回復しています。脳の量子スキャンにも、一切の異常は見られません。物理的には、彼女は完璧な健康状態です」
「では、なぜ目覚めない! なぜ、彼女の意識レベルはゼロのままだ!」
「それが……我々の理解を超えているのです。彼女は、まるで……魂だけが、肉体から抜け落ちてしまったかのような……」
魂。
その非科学的な言葉に、セキネは奥歯を噛み締めた。
この都市は、そんな曖昧なものを克服したはずではなかったのか。すべてを解析し、すべてを定義し、すべてを制御下に置いたはずではなかったのか。だが、現実はどうだ。最強の捜査官が、原因不明のまま、ただの美しい骸と化して横たわっている。
あらゆる専門家が、匙を投げた。
万策尽きた、と誰もが思ったその時、一人の情報解析官が、震える手で一枚のデータをセキネの前に差し出した。
「部長……ひとつだけ、可能性が」
「何だ?」
「公安のデータベースの、さらに深層……設立以前の、旧時代の資料アーカイブからです。おそらく、オカルトや都市伝説の類として分類されていたものかと」
ディスプレイに表示されたのは、古めかしいフォントで書かれた、一枚の記録。
【事案記録:No.G-034】
【対象:継実家】
【概要:古来より伝わる特殊技術『魂継ぎ』により、器物の精神感応領域に干渉し、その『記憶』を修復するとされる一族。科学的根拠、皆無。しかし、旧時代の権力者たちが、破損した重要祭器等の修復を依頼していた記録あり。備考:その技術は、人の魂にも影響を及ぼすという伝承も……】
「……馬鹿な」
セキネは吐き捨てた。オカルトだ。こんなものに、国家の命運を左右する捜査官の命を委ねられるわけがない。
だが。
彼はもう一度、ガラスの向こうの、人形のように動かないアカリの姿を見た。彼女の腕は、脚は、そして脳さえも、科学の粋を集めて作られた、人類の至宝だ。それを、このまま失うわけにはいかない。
たとえ、悪魔に魂を売ることになろうとも。
「……この工房の、場所を割り出せ。すぐにだ」
セキネの声は、乾いていた。
「正気ですか、部長!?」
「他に道があるか!」
その日、公安局の黒塗りの装甲車両が、サイレンも鳴らさずに、静かに都心部を発進した。目指すは、再開発の波から取り残された、古都の面影が残る下層区の一角。
忘れ去られた、最後の奇跡を求めて。
◆
工房の扉が、叩かれた。
それは、いつものような控えめなノックではなかった。重く、有無を言わせぬ、威圧的な音だった。
玲が訝しみながら扉を開けると、そこに立っていたのは、屈強な男たちだった。黒い戦闘服に身を包み、その腰には物々しい銃器が装備されている。玲の小さな工房の前に、場違いな装甲車両が何台も停まっているのが見えた。
玲は、一瞬で悟った。カタギではない。おそらくは、政府の人間。
「継実 玲君だね。我々は、公安局の者だ」
男たちの中から、上官らしい壮年の男――セキネが進み出て、言った。彼の鋭い目が、玲を値踏みするように、上から下まで見ている。
「公安……局? 僕に、何か……」
「君に、頼みたいことがある。いや――これは、命令だ」
有無を言わせぬ口調で、セキネは部下たちに合図を送る。すると、車両から、最新鋭の生命維持ポッドが運び出されてきた。ガラス越しに見える人影に、玲は息を呑んだ。
そこに横たわっていたのは、陶器の人形のように美しい、一人の女性だった。
「彼女は、アカリ・J・速水特務捜査官。我が国にとって、かけがえのない人材だ。だが、任務中に精神汚染を受け、今、意識がない。君の一族に伝わるという『魂継ぎ』の力で、彼女を救ってほしい」
玲は、言葉を失った。
魂継ぎ。その言葉を、こんな場所で聞くことになるとは。
彼は、ガラス越しに眠るアカリを見た。彼女の魂に、そっと意識を向ける。
いつもなら、モノに触れれば、その声が、記憶が、温かい波のように流れ込んでくる。だが、彼女からは、何も聴こえてこなかった。
声が、しない。
温もりも、悲しみも、喜びも、何一つ。
ただ、深く、冷たい、無限の静寂が広がっているだけ。まるで、宇宙空間に放り出されたかのような、絶対的な虚無。
この人の中は、空っぽだ。砕けて、何もかもが失われて、完全な「無」になっている。
玲は、恐怖に総毛立った。今まで感じたことのない、底なしの恐怖だった。
「……無理です」
かろうじて、それだけを絞り出すのが精一杯だった。
「僕にできるのは、ただの……ただの、繕い物だけですから。人の魂なんて、そんな大それたもの……!」
「だが、記録にはある。君たちの一族は、それができると」
「伝承です! おとぎ話だ! 僕には、茶碗やオルゴールを直すことしか……!」
玲は後ずさり、壁に背中をぶつけた。
セキネの目が、失望と、そして最後の希望が入り混じった、複雑な色を帯びる。彼は、玲の前に一歩踏み出し、深く、深く頭を下げた。
「……頼む」
それは、命令ではなく、一人の人間の、心の底からの懇願だった。
「彼女は、ただの兵器ではない。一人の、未来ある若者なんだ。このまま、彼女の時間を終わらせるわけにはいかない。どんな報酬でも払う。我々が、君のすべてを保証する。だから、どうか……!」
国家権力の中枢にいる男が、下層区の、名もなき青年に頭を下げている。異常な光景だった。
玲は、唇を噛み締めた。
工房の奥から、ナギが浮かんできて、玲の隣で静かにホバリングする。
『……玲。君が決めることだ』
どうする。
断れば、彼らは引き下がるだろうか。いや、おそらく、無理やりやらせようとするだろう。
だが、それ以上に。
玲はもう一度、ポッドの中のアカリを見た。
あの、絶対的な虚無。砕け散って、欠片さえも残っていない、魂の残骸。
そのあまりの悲痛さが、玲の心を、ちくりと刺した。
放っておけない。
たとえ、自分の手に負えなくても。たとえ、その結果、自分がどうなろうとも。
この、あまりにも深い絶望の中にいる誰かを、このままには、しておけない。
「……分かりました」
玲の声は、自分でも驚くほど、静かに響いた。
「保証も、報酬もいりません。ただ……僕のやり方で、やらせてください。工房の中には、僕と、彼女と、ナギ以外、誰も入れないでください。そして、何があっても、決して邪魔をしないでください」
セキネが、はっと顔を上げた。その目に、わずかな光が宿る。
「……分かった。約束しよう」
こうして、歴史上、誰も成し遂げたことのない、前代未聞の「治療」が、新京都の片隅にある、時代遅れの工房で、静かに始まろうとしていた。
工房の重い扉が、外界のすべてを遮断するように、ごとりと音を立てて閉ざされた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、室内には再び、玲と、ナギと、そしてポッドの中で眠るアカリだけの、濃密な静寂が戻ってきた。外では、公安局の人間たちが息を殺して待っているのだろう。成功しても、失敗しても、玲の日常が二度と元に戻らないことは、もはや確実だった。
「……始めるよ、ナギ」
「了解。対象の生命維持システム、及び君のバイタルサインのモニタリングを開始する。無茶だけはしないでくれよ、玲。君は、僕にとって唯一の……」
ナギの合成音声が、珍しく途切れた。玲は、その気遣いに小さく頷くと、作業台に向き直った。
彼は、いつもの道具を使わなかった。棚の奥深く、桐の箱に厳重に保管されていた、一揃いの古めかしい道具を取り出す。そして、小さな陶器の器に、代々伝わる特殊な生漆を注いだ。それは、星の光を溶かし込んだかのように、微細な粒子を含んで揺らめいている。
玲は覚悟を決めると、滅菌された小刀で、自らの左手の指先を、小さく、一筋だけ切り裂いた。
ぷくりと盛り上がった血の玉。それを、一滴、漆の器へと落とす。
その瞬間、漆は淡い光を放ち、まるで生命を宿したかのように脈動し始めた。
これが、『魂継ぎ』の神髄。自らの魂を触媒とし、他者の魂に干渉する秘術。これを、玲は「霊金漆」と呼んでいた。
準備は、整った。
玲は生命維持ポッドのカバーを開け、眠るアカリの前に立った。完璧な造形の顔。閉じられた瞼。規則正しく上下する胸。だが、彼女の魂は、この肉体にはいなかった。
彼は、アカリの右腕――美しい白磁のような、しかし冷たい金属でできた義手を、そっと両手で包み込むように取った。
そして、目を閉じる。
「――僕の魂よ、彼の岸へ渡れ」
古くから伝わる言霊を紡ぐ。意識を集中させ、自らの魂を、霊金漆を媒介にして、アカリの内側へと送り込んでいく。
次の瞬間、玲の世界は反転した。
工房の風景が掻き消え、彼は、果てしないモノクロームの砂漠に立っていた。
空も、大地も、すべてが色を失った灰色。足元に広がるのは、砂ではない。すべて、ガラスのように砕け散った、無数の「記憶」の破片だった。風が吹くたびに、破片同士が触れ合い、カラカラと、絶望的に乾いた音を立てる。
これが、アカリの精神世界。砕かれて、何もかもが失われた、魂の荒野。
「……ひどい」
玲は、そのあまりの荒涼さに、思わず呻いた。
彼は、このガラスの砂漠の中から、アカリの魂の「核」を見つけ出し、そして、この無数の破片を繋ぎ合わせなければならない。
玲は、足元の破片を一つ、拾い上げた。
途端に、激しいイメージが脳裏に流れ込む。――『訓練シミュレーション、九十九パーセントの成功率では意味がない。お前は百でなければならない』『友人は不要だ。情は、判断を鈍らせるノイズでしかない』『泣くな、アカリ。お前は、完璧な道具でなければならないのだから』――
痛い。苦しい。息が詰まる。完璧であるために、彼女が切り捨ててきた、あまりにも多くの感情。玲は、他人の記憶でありながら、自らの胸が張り裂けそうになるのを感じた。
「玲! 君の脳波に異常なシンクロを検知! 危険だ、深入りしすぎるな!」
どこか遠くで、ナギの必死の声が聞こえる。
だが、玲は歩みを止めなかった。一つ、また一つと、破片を拾い集めていく。彼女が押し殺してきた涙。誰にも見せなかった弱さ。そのすべてを、自分のことのように感じながら、玲は砂漠の中心へと進んでいく。
やがて、彼は見つけた。
砂漠の中央で、か細く、今にも消えそうに瞬いている、小さな光の玉。
アカリの、魂の核。彼女の、本当の「心」。
しかし、その周囲を、どす黒い「虚無」の靄が取り囲み、光を飲み込もうとしていた。『破砕』の残滓だ。
玲が光に近づこうとすると、虚無の靄が、まるで意思を持ったかのように、彼に襲いかかってきた。
――お前も、砕けてしまえ。
――無力な偽善者め。
――完璧でないものに、価値などない。
脳内に響く悪意の声に、玲の意識が遠のきそうになる。足元のガラスの砂漠が、彼を飲み込もうと、蟻地獄のように渦を巻き始めた。
「……違う!」
玲は叫んでいた。
「傷つくから、不完全だから、価値がないなんて、そんなことあるもんか! 壊れたからこそ、生まれる美しさが、強さが、あるんだ!」
彼は、自らの魂を盾にするように、虚無の靄を振り払う。そして、光の玉を、そっと両手で包み込んだ。
温かい。
泣きたくなるほど、優しい光だった。
「……始めよう」
玲は、現実世界の自分の指先に意識を戻す。霊金漆を指に取り、アカリの義手の表面に、線を引いていく。それは、彼が精神世界で見た、彼女の魂の亀裂の形そのものだった。
彼が指を動かすのと連動し、精神世界では、砕け散った記憶の破片が、金色の光の糸で結びつけられていく。
訓練の記憶と、涙の記憶が繋がる。孤独の記憶と、誰かを守りたかった記憶が繋がる。
灰色だった砂漠に、少しずつ、色が戻り始めた。
だが、作業は玲の生命力を凄まじい勢いで削っていく。全身から力が抜け、意識が朦朧としてきた。
「玲! バイタル、危険水域! それ以上は……!」
ナギの悲鳴が聞こえる。
あと、少し。あと、一番大きな亀裂を繋げば、終わる。
玲は、残ったすべての力を振り絞り、最後の線を、引いた。
――閃光。
強い光がすべてを飲み込み、玲の意識は、荒野から工房へと、弾き飛ばされるように戻ってきた。
「……はっ……はぁっ……!」
彼はその場に崩れ落ち、激しく肩で息をした。全身が鉛のように重く、指一本動かせない。
失敗、したのか……?
朦朧とする意識の中、玲は、アカリのほうを見た。
彼女は、まだ、眠っている。
だが。
ぴく、と、その白い指先が、わずかに動いた。
そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女の瞼が持ち上がっていく。
現れた黒い瞳は、もはや虚無の色をしていなかった。そこには、戸惑いと、混乱と、そして、確かな「生命」の光が宿っていた。
アカリは、しばらくの間、何も映していないかのように、工房の天井を見つめていた。やがて、その視線が、自らの右腕へと落ちる。
彼女は、息を呑んだ。
冷たい金属でできていたはずのその腕に、まるで、古い陶器を繕ったかのように、美しく、複雑な模様を描く、一本の、金色の継ぎ目が走っていた。
それは、痛々しい傷跡ではなかった。
夜空を流れる、一筋の流星のように、あまりにも、美しかった。