第一章:完璧な女、不完全な僕
夜通し降り続いた雨は、嘘のように上がっていた。
アスファルトに残った水たまりが、雲ひとつない合成空の青を反射している。玲が工房の扉を開けると、湿り気を含んだ夏の空気が、古い木の匂いに満ちた室内へと流れ込んできた。
「おはよう、玲。昨夜の収支報告だけど、案の定、赤字だよ。あの湯呑の修復にかかった材料費と君の稼働時間を考慮すると、受け取った依頼料では原価すら賄えていない。このままでは、今月中に工房の維持管理費がショートする確率、八十七パーセント」
工房の中央に浮かんでいた球体状のドローン――ナギが、合成音声とは思えないほど滑らかな、しかし感情の乗らない声で事実を告げる。レンズ部分の青い光が、ちかちかと点滅していた。
「おはよう、ナギ。分かってるよ。でも、仕方がなかったんだ」
玲は、棚から取り出した本物の陶器でできたマグカップに、インスタントではない、豆から挽いたコーヒーを淹れながら答えた。この工房にあるものの大半は、効率という言葉とは無縁の、時代遅れの品々ばかりだ。
「仕方がなかった、という感情論でインフラは維持できない。そもそも、君の『魂継ぎ』はビジネスモデルとして破綻している。富裕層向けの美術品修復に特化すれば、相応の対価が見込める。下層区の住民が持ち込むガラクタ同然の思い出の品に、君がこれほど時間をかける意味が理解できない」
「ガラクタじゃないよ。どれも、その人の生きた証だ」
「感傷だね。君のそういうところが、最大の欠点であり……」
ナギが何かを言いかけた時、工房の扉が控えめにノックされた。どうぞ、と玲が応じると、おずおずと顔を出したのは、十歳くらいの少年だった。着ている服は所々が擦り切れ、この都市の標準的な子供が身につけているような、教育用のウェアラブル端末も見当たらない。下層区の子だろうと、玲はすぐに見当をつけた。
「あの……これ、直せますか?」
少年が差し出したのは、古ぼけたブリキ製のオルゴールだった。蓋は歪み、塗装は剥げ、錆が浮いている。おそらく、もう何十年も前の製品だ。
「大事なものなんだね」
玲がそう言って受け取ると、少年はこくりと頷いた。
「母さんの、宝物だったんだ。僕が生まれる前から持ってたって。でも、この前の『調整』で……うちが取り壊される時に、瓦礫の下敷きに……」
『調整』とは、都市の再開発計画を指す公的な言葉だ。聞こえはいいが、実際には下層区の古い居住区を強制的に解体し、住民をさらに外縁の区域へと追い立てる非情な政策だった。
「音が出なくなっちゃった。ほんとは、すごく綺麗な曲が流れるんだ」
俯く少年の声は、震えていた。
玲はオルゴールの底にある、錆びついたゼンマイをそっと指で撫でる。
――聴こえる。赤ん坊をあやす、優しいハミング。子守唄。悲しいことがあった夜、このオルゴールの音色に耳を澄ませ、涙をこらえていた若い母親の姿。大丈夫、大丈夫。この子が育つまでは、私が守るから。強く、切ない祈りのような想いが、玲の心に流れ込んでくる。
「うん。大丈夫。きっと、またあの綺麗な曲が聴けるようにしてあげる。少し、時間をくれるかな」
玲が微笑むと、少年の顔がぱっと明るくなった。
「本当!? ありがとう、お兄ちゃん!」
少年は深々と頭を下げると、また来るね、と言って元気よく走り去っていった。
その背中を見送りながら、玲は手の中のオルゴールを愛おしそうに見つめる。
「……また、採算度外視の依頼を引き受けたわけだ。僕のシミュレーションによれば、君の破産確率は、ただいま九十パーセントに上昇した」
ナギが、呆れたように言った。
「それでも、いいんだ」
玲は静かに答える。
「だって、聴こえたんだから。守りたかった、誰かの心が」
玲にとって、それはどんな大金にも代えがたい報酬だった。
◆
同じ頃。新京都の中枢、霞が関地区に聳え立つ、公安局本部ビル。
その最上階にある戦略ブリーフィングルームの空気は、玲の工房とは対極の、氷のように冷たく、張り詰めたものだった。
「――以上が、昨夜発生した下層区D7における違法義体の密売組織、及び『破砕』汚染者一名の鎮圧報告となります」
巨大なホログラムディスプレイを背に、アカリ・J・速水は、淀みなく報告を終えた。
彼女の声は、磨き上げられたクリスタルのように硬質で、一切の感情の揺らぎを感じさせない。その立ち姿は、まるで精巧な彫刻作品のようだった。作戦服の上からでも分かる、無駄なく引き締まった身体のライン。陶磁器のように白い肌。そして、あらゆる光を反射せずに飲み込んでしまうかのような、静かで深い黒の瞳。
彼女自身が、この都市の理念を体現した完璧な芸術品だった。
「ご苦労、速水特務捜査官。今回も完璧なオペレーションだった」
上官であるセキネ部長が、満足げに頷く。
「当然の結果です。全ての変数は、私の予測シミュレーションの範囲内でしたので」
アカリは淡々と答えた。彼女の視界の隅には、常に膨大な情報が流れ続けている。メンバーの生体データ、周辺環境のリアルタイム解析、敵性対象の行動予測パターン。彼女の脳と直結した『ギガウェア』が、世界をすべて数値と確率に分解し、最適解を提示する。感情という非合理的なノイズは、そこには存在しない。
「うむ。君のその『完璧さ』こそが、我々の切り札だ。今後も、都市の秩序を脅かす『ノイズ』の除去に期待している」
「了解」
ブリーフィングが終わり、アカリは自らのオフィスへと戻る。途中、廊下ですれ違う局員たちが、畏敬と、わずかな恐怖が混じった視線を彼女に向けるのを、アカリは気にも留めない。他者の評価は、彼女のパフォーマンスには影響しない、無意味な情報だった。
オフィスに入り、彼女はメンテナンスポッドに身体を預ける。ナノマシンが彼女の義体を隅々までスキャンし、戦闘による微細な損耗を修復していく。目を閉じると、完全な静寂と暗闇が訪れる。これが、アカリにとって唯一の休息だった。
彼女は夢を見ない。夢もまた、脳が作り出す非合理的なノイズに過ぎないからだ。
ピコン、と静寂を破る電子音が響いた。
緊急出動要請。
アカリは瞬時に覚醒し、ポッドから立ち上がる。ディスプレイには、新たな事件の情報が表示されていた。
【事案発生:中層区B3、商業タワー『オリオン』にて、原因不明の集団精神汚染。初期対応チーム、通信途絶。現場に『破砕』汚染の兆候あり】
「……ノイズ発生。これより、除去を開始する」
アカリの黒い瞳が、任務遂行の冷たい光を宿す。
彼女は、これから自分が向かう現場で、自らの「完璧」を根底から揺るがすほどの、壮絶な絶望と出会うことになるとは、まだ予測できていなかった。
都市の秩序を守るための、いつも通りの、完璧な一日が始まるはずだった。