第一章:色を失う街
玲が、あの指揮棒に潜む「虚無の染み」に触れてから、一月が過ぎた。
その間にも、工房には、同様の依頼が、ぽつり、ぽつりと、しかし、確実に、舞い込んでくるようになった。
「この絵を見ても、もう、何も感じないんです」
そう言って、自分の最高傑作だったはずの絵画を、虚ろな目で持ち込んできた、若き画家。
「この万年筆で、何千もの詩を書いてきた。だが、今は、一行も、言葉が浮かんでこない」
そう言って、力なく笑った、老詩人。
「このラブレターを、何度も、何度も読み返して、勇気をもらっていたのに……。今では、ただの、文字の羅列にしか、見えなくて」
そう言って、涙さえも浮かべられない、若い女性。
彼らは皆、一様に、魂の「色」を失っていた。情熱、愛情、悲しみ、喜び。そういった、人間を、人間たらしめている、凸凹とした感情の起伏が、まるで、ヤスリで削られたかのように、平坦になってしまっている。
玲は、依頼を受けるたびに、彼らの魂に触れ、その奥に潜む「虚無の染み」と対峙した。それは、彼の魂を、じわりと蝕む、危険な作業だった。だが、アカリが、常に彼の傍にいて、彼女の金の腕が放つ「秩序の光」で、玲の魂が汚染されるのを、防いでくれていた。
玲は、依頼品を、一つ一つ、丁寧に修復していく。
だが、それは、対症療法でしかなかった。壊れたモノは直せても、一度、虚無に触れてしまった持ち主の魂が、完全に元に戻ることはない。彼らは、感謝はするものの、その瞳に、かつての輝きが戻ることはなかった。
「……これは、もう、僕たちだけの問題じゃない」
ある夜、工房の帳簿――それは、玲が修復した魂の、カルテでもあった――を眺めながら、アカリが、重々しく言った。
「この一月で、同様の症状を訴えてきたのは、七人。全員、職業も、年齢も、居住区もバラバラだ。共通点はない。だが、この増加率は、異常だ。これは、静かな、しかし、確実に広がりつつある、魂の疫病よ」
彼女は、その病を、**「フェード(虚ろ化)」**と名付けた。
「セキネ部長に、報告すべきだ。これは、公安が、動くべき案件だ」
「……うん。僕も、そう思う」
玲は、静かに頷いた。
翌日、二人は、公安局本部の、セキネの執務室にいた。
玲たちが持ち込んだ、数々の「フェード」の症例報告に、セキネは、険しい顔で、腕を組んだ。
「……『虚無の欠片』。ハル・ミナトが、最後に残した、呪いの遺産、か」
セキネは、深く、息を吐いた。
「分かった。直ちに、特別捜査チームを立ち上げる。君たちには、引き続き、そのチームの中核として、協力してもらう。まずは、被害者たちの、詳細なプロファイリングからだ。何か、必ず、共通点があるはずだ」
その日から、玲とアカリの、新たな戦いが始まった。
二人は、公安局の一室に、専用のオペレーションルームを与えられた。玲は、持ち込まれる依頼品から、魂の情報を読み取り、ナギが、それをデータ化していく。アカリは、その膨大な情報と、公安のデータベースを照合し、被害者たちの、共通項を、洗い出していく。
作業は、困難を極めた。
被害者たちは、本当に、何の繋がりも、持たないように見えた。
だが、アカリは、諦めなかった。彼女の、完璧なまでの情報処理能力と、執念が、やがて、一つの、細い、しかし、確かな糸を、手繰り寄せる。
「……見つけた」
捜査を開始して、一週間が過ぎた日の、深夜だった。
アカリが、呟くように、言った。その目は、ディスプレイに表示された、ある情報に、釘付けになっている。
「玲、見てくれ。被害者七名の、ここ半年の、購買履歴と、行動記録だ」
「……これが、どうかしたの?」
「一見、バラバラだ。だが、一つだけ、奇妙な共通点がある。彼らは全員、ここ数ヶ月のうちに、身体のどこかしらのパーツを、新しい『ギガウェア』に交換している」
「義体の、交換……? でも、それは、この都市では、よくあることじゃ……」
「問題は、そのメーカーだ」
アカリは、ディスプレイ上の、一つの企業ロゴを、指し示した。
青い地球を、銀色の翼が包み込むような、そのロゴ。
新京都の、あらゆる場所に、その広告が溢れている、巨大サイバネティクス企業。
「ジェネシス・ダイナミクス社」
「被害者全員が、ジェネシス社製の、最新義体を、装着している。それも、医療用や、戦闘用ではない。一般労働者向けの、廉価版量産モデル、『シリーズ・エイト』だ」
アカリの声に、緊張が走る。
「ジェネシス社は、『完璧な効率』を謳い文句に、都市の労働市場を、ほぼ独占している、巨大企業だ。彼らにとって、余計な感情や、情熱を持たず、ただ、黙々と、効率的に働き続ける労働者は、まさに、理想の『製品』じゃないか?」
玲は、息を呑んだ。
もし、そうだとしたら。
ジェネシス社は、意図的に、「虚無の欠片」を、自社の製品に、混入させている?
魂を、虚ろにさせ、従順な労働人形を作り出すために?
それは、あまりにも、冒涜的で、悪魔的な、所業だった。
だが、もし、それが事実なら、相手は、ゼロという、一人の、狂った天才ではない。
都市の経済そのものを、裏で操る、巨大な、組織悪。
玲とアカリは、顔を見合わせた。
彼らが、これから、足を踏み入れようとしている闇が、以前とは、比較にならないほど、深く、そして、巨大であることを、二人は、静かに、覚悟していた。
アカリが指し示した、その企業ロゴ。
玲でさえ、毎日のように目にする、新京都の象徴の一つ。ジェネシス・ダイナミクス社。
その名が、自分たちの追う、巨大な悪の正体である可能性。その事実は、玲の背筋を、冷たいもので濡らした。
「……すぐに、部長に報告する」
アカリは、即座に行動を開始した。彼女が、セキネに、これまでの経緯と、導き出された仮説を報告すると、通信機の向こうで、セキネが、深く、長い溜息をつくのが分かった。
『……ジェネシス社を、敵に回す、ということか』
その声は、重く、苦渋に満ちていた。
『……それは、この都市の経済そのものと、戦争を始めるに等しい。今の、状況証拠だけでは、我々は、動けない。いや、動かせない。下手に手を出せば、こちらが、社会的な信用を失墜させられるだけだ』
「では、このまま、被害者が増えるのを、指をくわえて見ていろと?」
アカリの声に、鋭い棘が混じる。
『……もちろん、そんなつもりはない。だが、相手は、あまりにも、巨大すぎる。確実な、動かぬ証拠が必要だ。アカリ君、君に、正式な捜査権限を与える。だが、強制捜査は、許可できない。あくまで、任意の、内偵調査として、ジェネシス社の周辺を探ってくれ。……いいな、絶対に、無理はするな。奴らは、我々が、嗅ぎ回っていることに、すぐに、気づくはずだ』
セキネの懸念は、すぐに、現実のものとなった。
アカリは、公安局の権限を使い、「シリーズ・エイト」の品質管理データ及び、製造ラインのログの提出を、ジェネシス社に、公式に要請した。名目は、「原因不明の不具合報告が、少数、ユーザーから上がっているため」という、当たり障りのないものだ。
数日後。ジェネシス社から、返答があった。
アカリは、同社の法務部門の責任者と、オンラインで、面会することになった。
モニターに映し出されたのは、にこやかな、しかし、全く目の笑っていない、一人の男だった。
『――公安局の皆様には、日頃より、都市の安全維持にご尽力いただき、感謝しております。私、ジェネイス・ダイナミクス法務部長の、タチバナと申します』
タチバナと名乗った男は、完璧な、しかし、心のこもっていない、挨拶をした。
アカリが、単刀直入に、データの提出を求めると、男は、困ったように、眉を下げて見せた。
『いやあ、お恥ずかしい。我が社の製品に、不具合の可能性、ですか。しかし、我が社の品質管理は、完璧です。何かの、間違いでは?』
「間違いかどうかを、我々が、判断します。速やかに、データを」
『もちろん、協力は、惜しみません。ですが、ご存知の通り、我が社の製造データは、最高レベルの、企業秘密でして。ええ、ええ、もちろん、公安の皆様を、疑っているわけでは、決して。ですが、万が一ということも、ありますので……』
タチバナは、言葉を濁しながら、結局、アカリが要求したデータの、ほんの一部、それも、当たり障りのない、どうでもいい部分だけを、開示した。それは、協力という名目の、完璧な「拒絶」だった。
その、どこまでも、丁寧で、どこまでも、不誠実な対応に、アカリは、目に見えない、巨大な壁の存在を、感じずにはいられなかった。
「……ダメだ。ラチがあかない」
その夜、工房に戻ったアカリは、吐き捨てるように、言った。
「奴らは、すべてを、分かっている。その上で、我々を、あざ笑っているんだ。公的な手段では、奴らの牙城を、崩すことはできない」
アカリは、悔しそうに、テーブルを拳で叩いた。
玲は、そんな彼女の姿を、黙って見ていた。そして、静かに、オペレーションルームに表示されている、被害者たちのリストに、目を向けた。
画家、詩人、音楽家、そして、無名の労働者たち。
「……この人たち」
玲が、ぽつりと、呟いた。
「みんな、すごく、真面目だったんじゃないかな。一生懸命、働いて、何かを、生み出して、この都市を、支えようとして……。そういう、ひたむきな人たちばかりを、狙っているように、見える」
ジェネシス社は、ただ、従順な労働者を、作っているだけではない。
彼らは、人の、夢や、情熱や、創造性といった、非効率だが、人間にとって、最も、大切な輝きを、選択的に、「消して」いるのだ。
その、あまりにも、冷たい事実に、玲は、静かな、しかし、燃えるような、怒りを感じていた。
「……そうか」
玲の言葉を聞いて、アカリが、ふと、顔を上げた。その目には、いつかの、任務を遂行する時の、鋭い光が、戻っていた。
「……正攻法が、ダメなら」
彼女は、言った。
「別の道を、探すまでだ」
アカリは、立ち上がると、通信端末を、操作し始めた。
「アカリ?」
「公的な手段で、開かない扉があるのなら、裏から、こじ開けるしかない。それには、その道の、『専門家』の力が必要だ」
ディスプレイに、彼女が、ある人物の連絡先を、表示させる。
それは、玲も、よく知る、名前だった。
元eスポーツチームオーナー、コウガミ。
「……あの男に、連絡を取ってみよう。彼なら、アンダーグラウンドの、どんな鍵穴でも開けられるような、『鍵屋』に、心当たりがあるかもしれない」
アカリの口元に、獰猛な、しかし、どこか、楽しげな、笑みが浮かんでいた。
公式な捜査は、行き詰まった。
だが、二人の、本当の戦いは、ここから、始まる。